ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

おのれの光

2023-02-22 07:11:49 | 短歌





ゆきくれて 意地に固めし 闇路ゆく 人は知らずか おのれの光




*今週は2首ほど詠めました。相変わらずスランプは続いていて、あまりうまく決まりませんが、ふたつのうちでできがいいほうをとりあげましょう。

「ゆきくる(行き暮る)」は、行く間に日が暮れるという意味の古語ですね。

行く間に日が暮れて、意地に凝り固まって闇路をゆく人は、知らないのだろうか、おのれの中にある光を。

間違った道を行く人は、自分が間違っているということを認めたくないばかりに、意地やプライドにこだわって、迷いの闇の中からなかなかでてこないものです。小さな自分のプライドを捨てて、自分というものをよく見てみれば、自分の中に闇を抜けられる光があることに気づくのだが。

簡単なことだ。自分を抑えて人に頭を下げていけば、明日につながる道が見つかるものなのだ。

でも、自分は間違っていないのだと意地を張る人は、なかなかそれができない。小さなプライドにひっかかって、ありとあらゆる馬鹿をやりながら、深い闇を迷っていく。その中で、どんどん自分が腐ってゆく。

そんな自分がつらいのなら、馬鹿をやめて、一切の過ちを認め、自分を折ってみなに謝り、すべてをやり直していった方が、ずっといいのだが。

自分というものに目覚めれば、自分の光が発動し、良いことをなんでもやってゆける、すばらしい自分になるのだが。

どうすればその道に入っていけるかも、わかっているはずなのだが。

馬鹿は意地に固まって、なかなか振り返ろうとしない。いつまでもいつまでも迷っている。苦しみの鎖で自分を縛りながら、なんでこんなにつらいのかと、呪詛の声をあげてばかりいる。

いい加減にやめましょう。救いの道はすぐそこにあるのに、いつまでもそれに背を向けているのは馬鹿ですよ。意地を張るのをやめて、本当の自分を振り返りましょう。

そうすれば、闇は一瞬のうちに吹き払われ、美しい自分の光が、本当の世界を照らしだすのです。




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たまをくづしし

2023-02-15 08:11:37 | 短歌





みつかひの かほをまねては おのが身の たまをくづしし 人ぞうたてき




*今週は一つも歌が詠めませんでした。きついスランプですね。ひねろうとしても感性のアンテナがまるで立ち上がらず、言葉が浮かんでこないのです。なので表題の歌は一年前の作です。こういう時、積み重ねが生きる。詠める時にたくさん詠んでおいてよかったという思いです。

「みつかひ」とは天使のことですね。「たま」はここでは霊魂のことです。

天使の顔を真似しては、自分の霊魂を壊してしまった、そんな人ほど愚かなものはないなあ。

ツイッターの方で、大火がずっと叫んでいたことですが、天使の顔や髪形を真似して、美貌を盗んで自分に取り入れると、自分の霊魂が壊れてしまうんですよ。なぜって美貌を盗むことは、徳分を盗むことと同じだからです。天使の徳分なんて盗んだら、完璧に人間の限界を超えて、霊魂が壊れてしまうのです。

蛙が牛一頭を食えば、完璧に自分が壊れてしまうでしょう。それと同じです。馬鹿は軽い気持ちで天使の美貌を盗んで、自分の霊魂を壊してしまうのです。

このことを、大火はもう3~4年も、根気強く言い続けてきましたね。でも馬鹿というのは一切聞かなかった。未だに天使の真似をやめない。壊れてしまった霊魂をひきずって、盗んだ美貌をひけらかしては、美しいでしょうと言いたげに笑っている。

正直、これはもうだめだと、匙を投げてしまっているのが、今の状態だ。馬鹿には、霊魂が壊れるということが、どんなに大変なことか、まるでわかってないのです。それは人間を落ちるということだ。永遠に人間に戻れない。そして神が約束してくださっていた、美しい人間の未来を、すべて失うということなのだ。

馬鹿が、天使が美しいからと言って、その美貌を盗んでかぶり、天使になりたがる。あんなきれいなものになれば、なんだって自分の思い通りにできると、思っているのだ。そういう醜いエゴが黒々と目の中に見えているのに、顔だけは天使にそっくりなのだ。それは天使などではない。あまりにも馬鹿らしいお化けの類ですよ。

そういう馬鹿は、もうあきらめるしかなさそうです。落ちるものはもう落ちるしかない。悲しいことですがね。

自分のことだけ考えて、馬鹿なことばかりやっている馬鹿は、愛にも我慢の限界があることを知らねばならない。





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てふの子の

2023-02-08 08:25:28 | 短歌





てふの子の ごとくおのれを 脱ぎ捨てて まことのわれの 楽しさを知る




*相変わらず感性の妨害は続いていて、歌が詠みにくいのですが、今週は2首ほど詠めました。あまりいいできではありませんが、そのうちのひとつを取り上げましょう。

「てふの子」とは芋虫のことですね。古語には芋虫にあたる良い言葉が見当たらないので、「てふの子」としてみました。そうするとなんだか詩的でこころよい。

蝶々の子である芋虫のように、古い自分を脱ぎ捨てれば、本当の自分というものの、楽しさを知ることができる。

古い自分とは、無知無明の闇に迷うて、自分に嘘をついて生きている自分のことです。そういう自分を、芋虫が自分の皮を脱ぎ捨てるように脱ぎ捨てれば、本当の自分が出てきて、それを生きることがどんなに楽しく、幸せであるかがわかる。

本当の自分とは、まことによいものなのです。すばらしいことができる、すばらしいものなのだ。その自分の真実に気づくとき、人間は自分が自分であることの、永遠の幸福を知ることができる。

まさしく、芋虫が蝶々に変わるように、魂に自由の翼が生えて、神の大空を自在に飛ぶことができるようになるのです。それがあまりにも楽しい。自分を生きることが、すばらしい幸福なのだ。

それにしても、蝶とは不思議な生き物だ。なぜこんな風に、劇的に変わる生き物を、神はお創りになったでしょう。まるで魂の進化の道筋を直喩しているかのような、すばらしい生き物。人間は蝶を観察し、その生き方を知ることで、人間自身の魂の未来をも知ることができる。要するに蝶とは、神がすべての魂にその進化の道筋を教えるための、美しいメッセージなのではないか。

神は、お創りになったすべての霊魂に、魂の進化の道筋を教えるために、蝶の生き方をお考えになったのではないか。

そう思うと、神がどんなにわたしたちを深く愛してくださったかがわかる。

すべては愛なのだと。すべての霊魂を愛に導くために、愛はすべてをやっているのだと。

蝶々という生き物は、あまりにも美しい、神の御心の手紙なのです。




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おのれの罪を

2023-02-01 09:15:30 | 短歌





馬鹿者は うそとまことを とりかへて おのれの罪を 消さむと欲す




*今週は一首しか詠めませんでした。それほどよいものではありませんが、これしかないので、これをとりあげましょう。

人間、自分のやったことを取り消すことなどできません。それなのに時々馬鹿な人たちは、自分のやったことがあまりに愚かすぎるので、どうしてもそれを取り消したくて、嘘と本当をすり替えるような、馬鹿な努力をすることがある。

そんなことをすれば余計に罪がかさんで、余計に自分が馬鹿になるのに、自分のやったことがあまりにつらすぎて、どうしてもそれをやめることができないのだ。いい加減わかっていることでしょうが、馬鹿ですね。

法則というものは、事実のみによって動きます。自分のやったことは、正確に自分に返ってくる。馬鹿な人たちはそれが怖くてたまらないのだ。自分たちのやったことがあまりにひどすぎるからだ。それがそのまま返ってきたらたまらない。どうにかして自分たちが悪くならないように、相手をはめて、相手が悪いのだということにしたいのだ。

何をやったのでしょう。彼らは大勢で固まって、女性一人を地獄に落とすために、あらゆる卑怯なことをやったのです。それはひどいことをやりすぎた。それがそのまま帰ってくれば、彼らは大勢に責められ、だれかを落とそうとした地獄に自分が落ちることになる。

法則というものを知らなかった馬鹿は、嫉妬と欲望に眼がくらんで、馬鹿なことをやりすぎた。そしてそれがあまりにきつい結果となって自分にふりかかってくる。地獄に落ちるだけでなく、やったことが永遠の汚名となって、自分の存在に刻まれるのです。

その罪を、どうにかして消したい。ないことにしたい。それが馬鹿の迷いです。そんなことはできるわけがない。さっさと自分の過ちを認めて、神にも人にも謝り、罪を償っていった方がいいのだが。

馬鹿はどうしてもつらい思いをするのが嫌で、嘘と本当をひっくり返そうとして、何度も馬鹿なことを繰り返すのです。




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