ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

まだ咲かぬ

2024-02-28 03:48:07 | 短歌





まだ咲かぬ 花を待ちつつ 春あさき 野をひとりゆく 朝のしづけさ




*今週は3首ほど詠めました。ぎりぎりでね。日曜が来ても1首も詠めなかったときは、古い作品から掘り起こしてこなければと思っていましたが、月曜日になんとかそれらしいのができたので、そのうちのひとつをあげましょう。

花といえば普通桜のことですが、ここでの花はそれではなく、オランダミミナグサのことです。よく野道の隅になど咲く、なんということはない小さな花ですが、かのじょがとても好きでした。

写真の花は、まだ冷たい風に、閉じたままですが、春が深まってくれば、白くてとてもかわいい花を咲かせます。写真にとると、鮮やかな命を見せてくれて、とても美しい。野の隅に咲く何気ない花が、すばらしい命の光を見せてくれる。そんな小さな驚きを、かのじょは大事にしていた。

季節の神の約束の下で、必ずやってくる春を信じて、花はつぼみの中で小さな白い花を作り続けている。春は自然に来るのではない。花は自然に咲くのではない。あたたかな魂が、美しい約束を守るために、見えないところで常に努力しているのです。

すべての存在が、愛に濡れて、美しいおのれの真実を表現しようと、すばらしい努力をしている。この世界はそういう美しい自分自身たちの絶え間ない努力によってできているのです。

まだ咲かない花を待ちながら、春あさい野をひとりゆく、朝の静けさ。

冷たい風の中にも、かすかに季節の変化を感じて、季節の神のあたたかな愛を感じながら、ひとり散歩道を歩く時、美しい幸福が胸に満ちてきます。

わたしたちは愛されている。様々な愛に囲まれている。なんと恵まれていることだろう。

そう思うとき、わたしたちもまた、愛で、すべての幸福のために、美しい自分を表現していかなければと、思うのです。




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かぎろひの

2024-02-21 04:10:38 | 短歌





かぎろひの 春深まりて 散りそめし 梅を惜しみて しばしたたずむ




*今週はいくつか詠めましたが、相変わらず下手ですね。どうしてもうまく詠めません。馬鹿の妨害は深く進行しているようだ。感性の中枢を痛く押さえつけられていて、イメージが高く飛びません。言葉の幅も狭い。こんな状況でやるのはかなりきついのですが、今週もやってみましょう。

「かぎろひの」は「春」にかかる枕詞ですね。知っているでしょうがいちいち押さえるのがここでのやり方です。

春が深まってきて、梅が散り始めてきたのが惜しくて、しばし立ってながめていたことですよ。

毎朝の散歩道の途中に、小さな梅の木があるのですが、その横を通るたび、梅の花の美しさにしばし見とれて立ち止まってしまいます。その美しさから、何か詠めないかと苦心して詠んだのが表題の作です。

昨日は春を思わせる温かさでした。梅の花びらの散っている散歩道にしばし立ち尽くして、ほれぼれと梅を眺めていた。なんと美しいのだろう。この花を咲かせるために、梅は毎年どんな努力をしているのだろう。本当に美しいものの陰には、絶え間ない魂の努力があるのです。

ありがとうと、思わず言ってしまう。今年も咲いてくれてありがとう。神様が守ってくださる、季節の約束に従って、梅は毎年必ず咲いてくれる。それがどんなに不思議な奇跡なものか、わたしたちはほとんどわかっていない。

美しい梅の花を見て、動く魂の感動を、もっと美しく詠んでみたいのですが、今はもどかしい。なかなかきれいに詠めません。だがなんとか努力していきましょう。冬の冷たい風に耐えて、真っ先に咲いてくれる梅の花のように。

梅の香を 風にたどりて なつかしき 君がいほりを たづねこしかな








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いつはりの

2024-02-14 03:09:48 | 短歌





いつはりの 花を愛でては 野の隅の まことの花を 見ぬあほうかな





*今週もなかなか詠めませんでしたが、ぎりぎりでこんなのが詠めました。あまりうまくはありませんが、これしかないので今週はこれでいきましょう。それにしても長いスランプだ。歌が詠めないのはなかなかにつらい。頭を絞っても、いい言葉が浮かんでこないのです。

今、世の中をにぎわしているスーパースターがいますね。名前を言うのが嫌なので言いませんが、彼は世界中の人気者になっている。残念ながら見事な偽物です。馬鹿の霊集団が、不正な霊的技術を駆使しまくって偽造した、偽物のスターなのです。

あんな人間を作るのは簡単なのですよ。他人から顔も肉体も盗んで、美麗でたくましい肉体を作り、大勢の人間から徳分を盗みまくって、その人間に全部くっつければいい。技能などは、裏から他の霊がやれば簡単に偽造できる。

馬鹿者は、ああいう黄金の大スターになりたかったらしいですね。すばらしい人生だ。痛いことをやってみんなにほめられまくる。金もがぽがぽ入ってくる。そしておもしろいほど人が寄ってくる。世間はあの大スターに夢中だ。毎日のようにテレビに出てくる。阿呆が、あんなものが、いいものだと思い込んでいる。騙されているとも知らずに。

本当の大スターというのはですね、今の時代、徳分を大幅に盗まれて、あまり注目を浴びずに、世間の隅で、地道にやってたりするんですよ。わたしはいい例を知っている。前世で世間のためによいことをして、徳分を積んだ人がいるのですが、おもしろい才能を持っているのに、なかなか芽が出ないで、不遇をかこっているのです。

わたしは彼の活動を注目しているのですがね、世間はなかなか彼の才能を認めてくれない。いい男なのに、なかなか開運しない。

ああいう、悪魔のような偽物の大スターが、徳分を全部盗んでいくからです。今は、そういう時代なのだ。嘘ばかりが繁栄している。

苦しいですね。だが何とかしていきましょう。いつか必ず、真実が嘘に打ち勝つ時が来る。

本当の人間が、世に出てくる時が来る。






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幻を

2024-02-07 03:33:27 | 短歌





幻を 捨ててまことの われを知る 人は見むかな とこしへの春




*今週はぎりぎりで一首詠めました。相変わらずスランプは続いています。脳みそをタコ糸でぎりぎり縛られているようで、なかなか言葉を自由に操ることができず、これなども何かぎくしゃくしていますが、今週はこれしかないのでこれを取り上げましょう。

幻の幸福を捨てて、本当の自分を知る人は、永遠の春を見るだろう。

なんだか解説も不要なくらい明らかな事実ですね。嘘で作った幻の幸福を捨てて、解脱をして本当の自分を知れば、そこから永遠の天国が始まるのです。本当の自分というものが、あまりにも美しいものだからです。愛で、みんなのために、美しいことを何でもやっていきたいと思っている。そんな美しい自分であることが、まことに幸せだ。その幸せは永遠に続くのです。

自分は自分であったのだ。この素晴らしい自分を使い、自分は何でも自由にやることができる。その自由を、愛のために使う。そのなんと幸福なことか。すべての幸せのために、自分を投げて働いていく、この自分のなんと美しいことか。

自分とは愛なのです。愛に生きることが、自分としての自然でまっすぐな生き方なのだ。それがわかったとき、人の魂は永遠の天国に入ることができる。

すばらしい自分自身。人間とは、神が創ってくださったすばらしい芸術だ。ありとあらゆることをすることができる。愛に目覚めたとき、人は人間の真の使命を知る。すべての幸福のために、すばらしいことをしていくのだと。

なんだか同じことばかり繰り返しているような文章ですね。歌が、それそのものですべて言ってしまっているからでしょう。写真は去年の桜です。永遠の春ということばに導かれて、採用しました。





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