ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

鳴き終へて

2022-08-03 07:48:56 | 





鳴き終へて 道にころがる 死せる蝉     夢詩香





*俳句が続きます。これはほんのさっき詠んだものです。朝の散歩をしていると、道の隅に蝉の亡骸が転がっていたので、何かの気持ちに導かれて、詠んでみました。

まだ夏は盛りですが、早いものはもうひと夏の自分の使命を終えている。そんなことにもかすかな季節の移り変わりを感じますね。時は進んでゆく。焦るように鳴き騒いでいる蝉の声が愛おしい。

彼らは神が定めてくださった生き方をまじめになぞっているのです。毎年の約束のように蝉が夏を盛り上げてくれる。人間もまた、その声に導かれるように、自分の生き方を考え始める。

掌に乗るほどの小さな命。七日しか生きられないという命を、この蝉はどう生きたろう。鳴いて鳴いて、呼び合って睦みあい、命を次についで使命を終える。その中に蝉の魂は何を感じていたのだろうか。

神はすべての命に、美しい生き方を教えて下さる。その中に、喜びがあり、悲しみがあり、すばらしい愛がある。生きとし生けるものは命の中で自分を感じ、少しずつ情感を肥やしていく。

小さな蝉も、生きることで何かを感じていたはずなのです。その魂の小さな感性を思うとき、命に対する限りない情愛がわいてきます。

人間もまた命の中で、すばらしい生き方をしていかねばならないと思うのです。




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しじみてふ

2021-09-28 15:04:58 | 





はかなきと 身をな語りそ しじみてふ     夢詩香




*わたしは、蝶々という生き物は、神の愛の証ではないかと考えます。

蝶は、その生き方そのものが、まるで魂の進化の直喩であるかのようなすがたをしているからです。

卵から芋虫へ、芋虫からさなぎへ、さなぎから蝶へ。

その変容の様は、みごとに人間の魂の進化に歩調を合わせている。

人間が自分の魂の進化を感じるとき、まるで蝶が羽化するかのようだと、表現することができる。蝶という生き物がいるからこそ、人間は魂の成長の姿を深く知ることができるのです。

まさしく蝶々は、神が人間に魂の進化の道筋を教えるために創られたのだとしか、思えないのです。

はるかな昔から、蝶はその生き方を繰り返してきた。神の言うとおりの生を素直に生きてきた。

その生きざまを見せることで、神は人間に魂の成長の仕方を教えるのです。

それが蝶という生き物の一つの使命であり、あらゆる魂への神の愛の証なのではないか。

たかがはかない虫だと、自分を語ってはいけない、シジミチョウよ。あなたは神が創った自分を素直に生きることで、すべての魂のためにとても大事なことを教えているのだから。





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蝉は鳴く

2021-09-07 07:35:42 | 





いづれ去る ものにはあれど 蝉は鳴く     夢詩香





*これも朝の散歩の折に思いつきました。

九月に入って間もないが、もう蝉の声が聞こえなくなりましたね。

目をやれば道の隅などに、命を終えた蝉が転がっている。

毎年見る光景だが、見るたびに深い感慨を覚えます。

夏の盛りには焦るほどに鳴き騒いでいた蝉が、すべての使命を終えて静かに眠っている。

たった七日の命にすべてをかけて、彼らは命の勝負をするのだ。

そんなに騒いでもいずれは死ぬものなのにと、達観を気取ったりしない。

次の世代に命をつないで、永遠に蝉の歌は続いていく。蝉の使命は、夏を盛り立てることです。

神の定めた生き方を、彼らは純粋に守っていくのです。




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虹を見る

2019-07-11 04:41:12 | 





雨あがり 蛙かはゆく 虹を見る    夢詩香





*これは、インスタグラムで、ある画家さんの絵を見たときに思いついた句です。絵の中では、アジサイの花にとまったアマガエルが、美しい虹を見上げていました。それをそのまま詠んだという感じですね。

そのままその人にさしあげようと思ったのですが、絵を説明しただけの感があって、やめました。まだまだスランプから抜け切れていません。どうしても、発想が高く飛ばない。

気に入った芸術作品に差し上げるなら、もっと気の利いた言い回しができないとと思うのです。

それでいろいろと考えてみるわけです。こんなのはどうでしょう。


あまがえる あれは何ぞと 虹を見る    夢詩香


あ、なんかよくなりましたね。これならさしあげてもよいような気がしてきました。でも、今一つ何かが欲しいような気もします。

絵の中では蛙はアジサイの花のてっぺんにいました。


あまがえる 花をのぼりて 虹を見る    夢詩香


うーん、どうでしょう。さっきのほうがいいような気がしますね。でも考えているうちに、なんだか、さしあげたくなってきました。スランプ中はスランプなりに、努力してみると、いい感じになってくるようだ。

絵を見ながら、発想をかきたててみましょう。


はなのうへ ちさきかはづの にじをみる    夢詩香


ちょっと、まんなかの7が重くなりましたか。難しいですね。もうひとつ考えてみましょう。


はなのうへ かはづなにぞと 虹を見る    夢詩香


あ、これでいきましょう。絶妙に状況が説明できている。俳句というのはいいですね。たった17文字でいい仕事ができます。

短歌はまだ不調ですが、俳句の方でスランプをなんとかしていきましょうかね。





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冬のてふ

2017-12-18 04:20:09 | 





冬のてふ かすかにも聞く 神の声     夢詩香





*もうここではめったに俳句をやらなくなってしまいましたね。どうしても、ツイッターの方でおもしろい歌ができるものですから。だがたまには俳句もとりあげないといけません。新作はできていないのですが、わたしの在庫のノートにもまだたくさん句があります。

この項を発表する頃にはもう12月になっていますから、もう蝶など見ないでしょうが、これを書いているのは11月の下旬です。つい最近まで小さなシジミチョウが飛んでいました。陽だまりの花畑などに小さなかけらのような蝶が安らいでいた。もうそろそろ秋が終わるのだということに気付いているのかどうか。少し傷んだ翅を閉じて、花の近くに静かに止まっていた。

こんな小さなものにも生がある。蝶は、寒さがきたせいでしょう、あまりよく動けない自分を感じてすこし憂えているかのようだった。

虫はいつの間に消えていくものでしょう。気づけばいなくなっている。一段と冷たくなった風に震えながら、去年のセーターなど出して重ね着し始めるころには、もうだれもいない。

毎年わかっていることだが、繰り返し経験するたびに、不思議に思います。春がくればまたあの美しい蝶と出会える。とこしえの硬いちぎりのようにそれは繰り返される。何のために神はそのようなことをやってくださるのか。

わたしたちの幸せのためなら、どんなこともやってくださるのだ。

たったひとひらの蝶にさえ、神の声は届いている。切なくもやさしい声で、もうそろそろ終わるぞと。心配はない。何もかもをやってやるから、安心して死ぬがよい。

蝶は冬の風に溶けるようにいなくなったが、その命と魂は消えたわけではない。冬を耐え忍ぶことを繰り返し教えるために、神はずっと見えない愛の中に抱いて下さる。

なぜそのようなことができるのだろう。

季節がめぐるたびに思う。






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死せる蝉

2017-09-25 04:20:10 | 





たましひは どこにゆきしか 死せる蝉     夢詩香





*歌ばかりでは何なので、たまには俳句にいきましょう。これもこのブログを始めた時に、わたしがたくさん詠んだ句の中の一つです。

今これを書いているのは9月2日ですから、まだ夏のうちだ。道を歩いているとクマゼミやアブラゼミの死骸に時々出会います。ですがこれを発表するのは9月の下旬ですね。それまでにうまく蝉の亡骸の写真が撮れるといいのだが。

なければ何かで代用しましょう。

この活動は、みんなで一つの媒体を利用しているので、みんな事前にたくさん原稿を書いて蓄えているのですよ。それで、順次発表しているのです。今はケバルライが長編小説を書き終わったところです。推敲も終わっています。あと何らかの事務的なことが片付いたら、また誰かがこの媒体を使って、新たに何らかの活動を始めるでしょう。

それはそれとして。表題の句にいきましょうか。

夏の盛りには、うるさすぎて静寂にも聞こえるほど騒いでいた蝉も、短い命が終われば、紙のように軽い死骸となって落ちています。そんな死骸を見ると、時々感慨を覚えますね。すばらしい形だからです。

こんな造形を、人間が真似してみようと思えばきっと一つ作るのに大変な苦労をすることでしょう。だがそんなきれいですばらしいものが、惜しげもなくあちこちに落ちているのだ。

機能的でバランスのいい顔も、薄い妖精のような翅もすばらしい。人間はこんなものを見て、いろいろな想像をかきたてられます。

この生き物は、ほんの少し前まで、うるさいほどの声で鳴いていたのだ。一体それをやっていたのはだれだろう。今は動かないこの死骸の中にいたものは、どこにいったのだろう。

そんな感慨を、去りゆく夏を惜しむような気持で詠んでみたものです。去っていたものはどこに行ったのか。消えていったものはどこに行ったのか。

遠い昔から人間は疑問を持ってきた。目に見える形がとつぜん動かなくなり死んでしまう。それはなぜなのか。骸は形は変わらないが、何かが完全に欠けたような感じがする。

それを、魂と名付けたのです。形ではない、本当の自分という感じで。

永遠に答えのない問だと思っていたが、もうそろそろその答えは分かって来る。人間も、もうそれがわかってもいい段階に入ったからです。

勉強していきましょう。教えてくれる存在の声が、人間にも聞こえるようになった。蝉の魂はどこに行ったのか。

問えば誰かが答えてくれるでしょう。






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とかげのはら

2017-06-21 04:22:44 | 





つかまへし とかげのはらの やはらかさ    夢詩香






*たまには俳句をやりましょう。これもずいぶん前の作品ですが。俳句を詠み始めてからすぐの作品ですから、最近の作と比べると、なんだかすんなりとして単純な感じがしますね。

わたしも、詠みなれてくると、少し上達するようです。

とかげやかなへびという生き物は、蛇ほどに怖くなく、小さいので、かのじょも好きでした。道を歩いている時、とかげやかなへびがどこから出てきたりすると、目を輝かせて追いかけていたものでした。

まるで子供のようにかわいらしい。あの人は元からこういう傾向がありましたが、この人生ではかわいらしい女性になってしまったので、これに拍車がかかりました。美しい女性というものはいろいろなことに耐えねばならないものだが、男としての自分に無理をかけてでも耐え忍んでいるうちに、何か、どこかが変に壊れてしまったらしい。

ずいぶんと女性っぽくなってしまった。

霊魂の進化というものは、不思議なものです。進化というより、変容と言ったほうがいいのかもしれない。人間の女性として、今のこの時代を耐えるということは、おそらくこの人には激しく自分を超えることだったのだ。

とかげなど小さな生き物を見ると、人はどうしても捕まえてみたくなるものですね。実際あの人も何度か捕まえたことがあった。だがそのたびに、すぐに放してやっていた。手で触れて、その柔らかさを教えてもらったら、もうそれだけでいい。神の庭に帰って、自由に生きるといい。そう言って逃げていくとかげを見ながら目を細めて笑っている顔は、愛らしかった。

愛など糞だという人ばかりがいる世界で、物欲しげな人間の、金物のような視線に傷つきながら、あの人はどんどん自分を変えていったのだ。女性というものはそういうものかもしれない。相手が阿呆でも何でも、自分の方を変えてやろうとする。

馬鹿な人間は、とかげのはらの柔らかさなどに触れると、生き物の弱点を見つけたような気がして、つぶしてやりたいという暗い衝動を覚えるときもあるものだが。そうやって自分の強さを実行して、ありもしない幻の権力に酔おうとするときもあるものだが。

いずれそれはとても汚いものになる。

人の弱さばかりを探して、馬鹿にして、嫌なものにして、食うてしまおうとするから何もかもを失うのだということに気付いた時には、もう何もない。

あの人が逃がしたとかげはたぶん、今もその子孫が生きているだろう。神の庭で、愛の光を浴びながら生きているだろう。そしてまた、誰かに会いにきてくれるだろう。誰もに、その命のやわらかさを教えてくれるだろう。

とかげをつかまえて、そのやわらかさを知ったら、すぐに放してやりなさい。







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かたつぶり

2017-04-21 04:25:15 | 






みをはぢて とぢしなりしや かたつぶり     夢詩香






*汚れた百合ほど汚いものはない、と言ったのはルナールだと思いますが、それは清らかに美しいものが汚されたというものほど、痛々しくつらいものはないということでしょう。

本当は美しくあるべきものが、嫌なことをしてしまい、嫌なものになってしまった。そういう自分であることが苦しすぎる。人の苦しみの中には、そういう心がいつも、膿んだ傷のように存在しています。

人間は、絵の中にいる聖母は尊敬するが、実在の女性が、聖母のような美しい生き方をしようとすれば、激しく憎む。みなで邪魔をして引きずり落そうとする。それは、そういう生き方に失敗して、自分を汚してしまった自分が、たまらなく恥ずかしいからです。

ですから人は、清らかに咲いた百合の花を見ると、汚したくなるのだ。嫌だからです。嫌なのは百合の花ではない、自分です。汚れたことをしてしまった自分が、嫌なのです。

誰にも見られたくない心を、カタツムリのような殻の中に隠し、嫌な自分が自分である痛みを、どこかでごまかそうと、心は暗いところに流れていき、美しいものと見ては、ずるいやり方でいじめるようになる。そんなことをする自分が、また痛ましくつらくなり、一層激しく自分が嫌になり、その心を、また美しいものに振り向ける。

こういう心の負のスパイラルがあることは、ご存じでしょう。たくさんの未熟な男や女が、こんな心の沼に浸りこんで溺れている。苦しさのあまり、嫌なことばかりして、世間に馬鹿を振りまいている。人から盗んだ顔を着て、表面は馬鹿馬鹿しいほどきれいな、できた人間の芝居をしていながら、誰も見ていないところに行けば、みじめなところで延々と守っている、愚かな自分を満足させるために、天使のような生き方をしている人間を、不幸のどん底に落とすようなことばかりしているのだ。

世界中のみんなが、自分のように汚くなければ、馬鹿は我慢ができないのです。

馬鹿が必死になって美しい人を攻撃するのは、自分がたまらなく恥ずかしいからなのです。だから馬鹿は、カタツムリの中のような閉じた闇に閉じこもり、延々と毒を食い続ける。出て来なさいと言っても出て来はしない。暗闇から人をいじめる血の味に、酔うてしまうと、なかなか出て来れなくなる。阿呆の愉悦とは、自分よりいい人間が落ちて不幸になるときに、げらげらと笑って馬鹿にできる時が、しびれるほどいいということだ。

そんなことをすればするほど、自分がみじめに醜くなってくるというのに、やめられないのだ。愛を、あんなものは馬鹿だと言ってだめにすれば、自分の方が大変なことになるというのに。

もうそこから出て来なさい。いつまでもいると、当然のごとく、世界を破滅させたものとして、大きな罪の家を、カタツムリのように背負うことになる。

阿呆はもう、やめなさい。







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ほたるを

2017-04-16 04:28:59 | 






まぼろしの ほたるを見つつ 父を待つ     夢詩香






*短歌が続いたので、俳句に行きましょう。ほたるは夏の季語でしょうね。調べていませんが、相変わらず季節は全く無視しています。写真もほたるの写真などあるはずがないので、これで代用です。

親に対して、痛い感情を持っていない人はいないでしょうが、かのじょの父親は、大変矛盾を抱えた人でした。一言でいえば、偽物の男性だったのです。若い頃は結構男前で、頭もよかったが、年を取って来ると、妙に体が縮んできた。いやなことをしてしまったので、本当の自分が出てきたのです。

馬鹿なことをして、世間の反感を買ってしまい、痛いことになったのを何とかしようとしてみたが、何もならなかった。自分の人生が思うようにならなかったのを、彼は憂さ晴らしをすることさえできずに、孤独の中で闇につぶしていた。あの人は、そういう父親の心の世界を、近くから見ていた。

かのじょは父を愛していたが、その父は、決して自分を本当には愛しはしないだろうことを知っていた。父親は、頭はいい部類だったが、心はだいぶ未熟だった。人間の心の細やかな情愛がわかるほどに、勉強してはいない。いろいろなことがあって、生きていく気力が萎えている。自分の人生を他の霊魂に代わってもおうとしても、そういうものさえいないのだ。

実に、阿呆なのですよ。

こんな人に、愛してもらおうとするのは、幻のほたるを見ようとするようなものだ。本当はそんなものはありはしないのに、幻のように、それを父の背中や目の中に探そうとすることがある。だが、所詮それは無駄なことであるとわかっている。

勉強をしていない人に、愛を求めるということは、難しいことなのです。あきらめたほうがいい。そして、自分から愛して、何とかしていった方がいいのです。

親の愛を頼ることを早々にあきらめた子供ほど、つらいものはありませんよ。

ただ、ただひとつ、暖かいものがあるとすれば、かのじょが結婚するとき、父親がその準備金として、いくらかのお金をくれたことでした。かのじょはそれはうれしかった。それほど多いお金ではなかったが、かのじょはそれで、結婚することができた。愛など期待していなかった父親から、たったそれだけのことをしてもらえただけで、かのじょにはそれが一生忘れられない暖かな思い出になったのです。

幻の中で、たった一匹だけ、本当の蛍が飛んでいたかのように。

霊魂が交代し、もうこの存在はかのじょではなくなってしまった。奇妙なことで、娘を失ってしまったことを、あの父親はどう思っていることでしょう。心を向けても、暗い闇ばかりが見える。阿呆になったことが嫌で、心を閉じているのです。

そういう親を愛そうと努力していたあの人の心を、あの父親がわかる日は、もうずっと未来のことでしょうね。







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盗人の

2017-04-08 04:42:49 | 






盗人の 蔵は異形の 蛹かな     澄






*これもわたしの句ではありません。獅子の作品です。また違う人です。

少しはやさしいものを選びたいとは思うのだが、どうしてもこういうのに目が行ってしまう。今はやさしい気分になれないということでしょう。

おもしろいつかみ方だ。蛹というのは、芋虫と蝶の中間にある姿です。中からいずれ蝶々が出てきて飛んで行ってしまう。では異形の蛹とはどういう意味でしょう。

盗人というものはみな、結構金持ちです。いろいろなところからいろいろなものを盗んできている。それだから、彼らの蔵にはそれはたくさんのものがあるのですよ。

この世界では、馬鹿が盗もうと思えば盗めないものは、あまりありません。他人から美しい顔を盗むこともできるし、かっこいいたくましい体や、人の業績も盗むことができます。現実世界の裏にある霊的世界から操作すれば、色んな技術を用いて、本来他人が生きるはずの人生さえ、盗むことができるのです。

馬鹿な人間は、自分では何もせずに、盗みだけにいそしんでいる。それで何でも持っているのです。人が苦労して稼いでやっと建てた家を、平気で軽い気持ちで盗んでいきます。人が刻苦勉励してやっと出せた疑問の答えを、平気で盗んできて、ちゃっかり自分の業績にしてしまいます。

そうやって馬鹿は、自分だけをうまくいいものにしてきたのです。

なんでそんなことができるかというと、何もわかっていないからです。人の苦労がわかるほどにまで、苦労などしたことがない。獣が野にあるキノコを何気なく食べるような気持ちで、他人の家にいいものを見つければ、何も考えずに持っていくのです。

長いことそんなことばかりしてきましたから、盗人の蔵というものは、ものすごく膨らんでいる。いろいろなものがたくさん詰まっている。だが、それがそろそろ、痛いことになってきている。

あまりに盗み方がひどいので、とうとうみんなが怒って、盗んだものを返せと言って盗人のところに押しかけてきているのですよ。それで、蔵の中から、まるで蝶々が飛んでいくように、ものがなくなりはじめているのです。

盗んだものが、飛ぶように、元の持ち主の元へ帰って行き始めているのです。

異形の蛹とはそういう様子を、彼なりのとらえ方で表現したのでしょう。まるで、妙な蛹の中から、一斉に万匹の蝶が羽化し始めているようだと。

蝶々は時期が満ちれば羽化して飛んで行くものですから、時期が満ちれば、盗人の蔵も開かれていくという意味にもなりますね。実際そのとおり。いつまでも盗人の理屈が通用するわけがない。みながこらえてくれていた何かが切れれば、一斉にたまっていたものが噴き出てくる。

今、盗人の財産はどんどん減っています。それでもう、まやかしの技がだんだん通用しなくなってくるのです。正体を見破られれば、馬鹿はもう終わりだ。

異形の蛹から飛んでいく蝶の群れを眺めながら、馬鹿どもの終末を観察していくとしますか。






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