ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

ましら

2017-09-30 04:20:15 | 短歌





愚弄てふ 汚き棒を ふりまはし わが世きはめし ましらなるかな





*これを書いている今日は9月6日です。どうやら、別にやっていたブログがばれたようなので、これをあげてみました。馬鹿な人が何とかして調べたみたいですね。実に、人間の馬鹿男というのは、目障りなこぶをつぶすためには、最大限の最大限の努力をするのです。

徹底的にやる。せん滅作戦という感じですね。どこまでもどこまでも、やりすぎるほどにやれば、痛い奴を殺せると思っている。

近寄りがたい美人も手に入ると思っているのです。

だがそううまくはいかない。馬鹿というのにも限界がある。やりすぎて、その限界の壁を超えれば、やってもやっても何にもならないということになってくるのです。

表題の歌は添島揺之の作ですが、まあ訳さなくても意味はわかるでしょうが、一応やっておきましょう。

愚弄という汚い棒を振り回し、我が世の栄えを極めた、猿どもであることよ。

まあ要するに、影からいろんな汚いことをし、人を馬鹿にしまくって、自分の方はほめまくり、いいことにして、自分の人生を盛大に極めた、馬鹿みたいなやつがいたということです。

あなたがたも、かのじょをいじめていた奴らが、影でどんなことを言っていたか知っているでしょう。かのじょの作品については、どんな小さなところもついて馬鹿にし、徹底的にこきおろしていたが、どこにでもいそうな小さな馬鹿が書いた作品は、舌もとろけるような誉め言葉を言っていた。

馬鹿がやっているのはそういうことです。

ほんとうのいい才能にはケチをつけまくってだめにし、自分たちが安心できる馬鹿がやっている活動は、ほめまくるのです。それで、自分たちの方が絶対にいいということにしたいのです。

馬鹿は勉強などあまりしていませんから、まだ才能と言えるようなことは伸びていません。歌も詠めないし、小説などもうまく書けない。それを、霊的技術でなんとかして、それなりのことをさせ、そういう作品ばかりほめる。

人間が、本当の自分の才能で作ったよい作品には、目も向けないどころではない。敵意をむき出しにして、徹底的につぶすのです。

それでなければ、自分たちがいいことにはならないからです。

こわいですね。






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月のおもひ

2017-09-29 04:20:01 | 短歌





あらたへを まとひつつゆく 白飴の 月のおもひを われとひめやも





*「めやも」は推量の助動詞「む」の已然形「め」に、係助詞「や」がついた反語推量に、詠嘆を現す終助詞「も」がついた形です。こういうと難しく聞こえるかもしれないが、何、恐れることはありません。本気でやってみれば、案外簡単に身についてきますよ。

古語辞典では「~だろうか、いや~ではない」という感じに訳すと書いてある。つまりは、「われとひめやも」とは「わたしは問うだろうか、いや問いはしないとも」という感じになりますね。ひとつひとつ手繰っていけば簡単だ。勉強というのは、真面目にやっていけば、誰にでもできてくるのです。

人間が勉強をやめてしまうのは、たいていは、途中で、人に負けていると感じてしまうからですよ。それは人によって差がありますから、勉強が先に進む人と遅れる人はいる。遅れてしまった人が、それをいやだと感じて馬鹿にしてしまうからつらいことになるのです。

それはそれとして、表題の歌を訳してみましょう。「あらたへ」は粗末な布のことです。なあここでは、粗末な衣服というくらいの意味で使っています。

そまつな服をまといながらゆく、白飴のように甘いあの人のその思いを、わたしは問うだろうか。いや決して問いはしないとも。

なぜ問わないのか。もちろんとっくにわかっているからです。それがどんなに不可能と思える道でも、行く人だということはわかっている。無謀なことだとわかっていても、あの人をとめることは愚かなことだ。ほかにやるべきことは違うことなのだ。

まっすぐに思い込み、必死で人々を助けようとしている人の思いを、止められるわけがない。たとえその人々が、どんなことをしているかということがわかっていても。

あの愛を、できるだけ美しい形で全うさせてやりたい。あの人の心を知っている人なら、そう思うに決まっているのです。

問うということは、反対するという意味もある。そんなことをしても無駄だと、かのじょに言うことも意味します。

われわれは決してそういうことはしない。無駄なことなどありはしないのだ。たとえ努力が一切無駄に終わったとしても、決して無駄ではない。

自分が死ぬことによって、必ず何かが始まるはずだからです。






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けふのかなしみ

2017-09-28 04:20:13 | 短歌





夕映えの をかにたたずみ 見る月を かすかにも染む けふのかなしみ





*いつもツイッターから持って来ては何なのでね、今日のはさっき詠んだばかりのものです。夕暮れ時に詠んだので、夕映え、という言葉を呼び水にして後は引っ張り出してきました。このように、最初の五文字が決まれば、大根を引き抜くように、歌ができることもあります。

夕映えに染まる丘にたたずんで月を見上げている。その月をかすかにも、今日の悲しみが染めている。

一日の終わりというものは、その日あったこと思い返すときでもあります。いいことがあった日は、月もうきうきと楽しそうに見えるだろうが、悲しいことがあったときは、憂いにも満ちて見えるでしょう。

これは自分の主観によるもので、自分の見方によって月がそう見えるものなのか。それとも、悲しみに満ちた自分の視線を感じて、月が本当に悲しんでいるのか。

科学的には馬鹿げていると思われることでしょうがね、本当は、月も見るものの思いを感じているのですよ。そして微妙に表情を変えているのです。人間にはまだわからない不思議なところで、心というのは、大きなものとつながっているのです。

あなたが悲しみに沈んで月を見ている時、自分が悲しみに染まっているから月が悲しそうに見えるのではない。あなたの悲しみを感じて、月は悲しんでいるのです。本当ですよ。

月はあきれるほど遠いところにあるが、本当の世界ではすぐそばにいるのです。

感性が進化して来れば、いずれあなた方にも、月が言っていることがわかるようになるでしょう。そうなれば、

すべてが愛でつながっていることを、確かに感じることができるでしょう。






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入野

2017-09-27 04:20:14 | 短歌





さをしかの 入野のいほに 風を葺き たまゆらの世を 夢に見むとぞ





*「さをしかの(小牡鹿の)」は「入野(いりの)」にかかる枕詞です。地名にかかる枕詞は難しいですが、別に特定の場所と考えず、この地球のどこかという感じで使っています。

勿論、野生の鹿が入っていく野のような、すこし鄙びた寂しいところという感じの意で詠っています。古語辞典では、入野というところがどこかは知ることはできませんが、ウィキペディアなどで調べてみると、入野というところは全国にもたくさんありますね。要するに、鹿が入ってくるような田舎はどこにでもたくさんあるということなのでしょう。

鹿が入ってくるような入野というところに、庵があり、その屋根に風を葺いて、このしばし滞在する人生を、夢に見ようとしたのだ。

「とぞ」で終わるのは、そのあとに「せし」を省略しているのです。こういう切り方をすると、後を引いてかなりおもしろい。印象が深まります。

風を葺くというのは、どうしようもない馬鹿なことをしてという意味だ。風で屋根を葺いても何にもなりはしない。だが人間は、風で屋根を葺くようなことばかりしている。

手に届くはずのないものを手に入れようとして、風をつかむようなことばかりしているのです。

目に見えるものなら何でも手に入ると思ってしまうのが馬鹿だ。この世界には目に見えない大切なものがあり、それを馬鹿にしては大変なことになるということがわかっていない。子供じみたわがままで、月をくれろと言ってダダをこねる。そしていろんな馬鹿なことをする。

嫌なことでもずるいことでも何でもすれば、いいものは手に入ると思っている。実際、ある程度はそれで何とかできるところがあるが、いつでもそれは後で大変なことになって、自分に返ってくるのだ。

月はとることはできないのだと、親が何度言い聞かせてもわからない。できないことがあるということがわからない。

もうわかっているでしょうがね、いくら美人だと言っても、人が何万人も集まるような美女は、手を出してはいけません。それは人間ではないからです。

なぜそれだけの人間が集まるのか。それくらいの人間を救ったことがあるからです。それは人間にできることではない。

人間の美女だったら、いくら多くても、20人くらいにもてるのが精一杯ですよ。はっきり言って、あのもて方は異常だったでしょう。

今さら言ってもだめですが、これは異常だと感じたら、やめたほうがいいということは、とにかく学びなさい。






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本当の自分

2017-09-26 04:19:25 | 短歌





本当の 自分が好きじゃ ないやつは ほかのだれをも 愛しはしない





*これはみごとですね。口語ですらすらこういうのができてくるのがすばらしい。ここ最近は、というのは8月から9月にかけてのことですが、ツイッターはほとんど大火の歌集と化しています。ムジカの私撰歌集のタイトルが浮き上がっていますね。

わたしの影がかすれて消えていきそうだ。かろうじて命脈を保っていますが。

実際、大火さまの歌集を出してみようか、なんて意見がないわけではありませんよ。出したら結構売れるかもしれません。何せあれですから。彼がアツイのをツイートすると、ツイッターのヘッダー画像から、皆さんが吹きだす声が聞こえます。

それはともかく、表題の歌は真実です。実際本当に、自分が好きではない人は、ほかの人も好きにはなれない。嘔吐を感じるほど自分が嫌いですから、それが苦しくてたまらなくて、他の人が自分ではないというだけで憎むのです。それでとても嫌なことをする。

時に人間ではないということさえする。

逃げられるはずのない自分から逃げるために、架空の自分を作ろうとして、材料を他の人間から盗むこともやります。そんなことをやっては盗まれた人がとてもつらいことになるのだが、人の気持ちなど考えはしない。自分を楽にするためなら、人を苦しめても平気なのです。

愛しはしないのではなく、愛することもできないのだ。自分を馬鹿にしているからです。

本当の自分というものは、愛ですから、その自分を素直に認め、それを自分で正直にやっていきながら、勉強を積んでいくと、自然に人をも愛するようになるのだが、そんな勉強など全然しないのです。

勉強をして、どんどん美しくよくなっていく人間を妬み、馬鹿にしてばかりいる。いやらしいことをして人を苦しめて、自分の方が勝つことにしなければ、遅れをとってしまった自分が嫌になるほどつらい。

何度も言ってきたことだからわかりますね。馬鹿とか悪魔とかいうものは、人間の初期段階で勉強につまずいて、何もやらなくなり、悪いことをしてよい人間に勝とうとばかりしてきた者のことなのです。

そういう人は何もやっていませんから、人間の深い愛など何もわからないのです。無知無明のまま、馬鹿が勝つのだと頭から信じ込んで、暴力的にあらゆることをやってしまうのです。そして破滅に向かって全力疾走する。

いやなことばかりしていると、大変なことになるんだと、何度も教えてきたのだが、耳を貸さなかった。愛を馬鹿にしすぎて、とうとうすべての存在に嫌われた。

そういう人は、勉強をさぼり始めたころの自分に戻って、最初から何もかもをやり直さねばならないのです。






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死せる蝉

2017-09-25 04:20:10 | 





たましひは どこにゆきしか 死せる蝉     夢詩香





*歌ばかりでは何なので、たまには俳句にいきましょう。これもこのブログを始めた時に、わたしがたくさん詠んだ句の中の一つです。

今これを書いているのは9月2日ですから、まだ夏のうちだ。道を歩いているとクマゼミやアブラゼミの死骸に時々出会います。ですがこれを発表するのは9月の下旬ですね。それまでにうまく蝉の亡骸の写真が撮れるといいのだが。

なければ何かで代用しましょう。

この活動は、みんなで一つの媒体を利用しているので、みんな事前にたくさん原稿を書いて蓄えているのですよ。それで、順次発表しているのです。今はケバルライが長編小説を書き終わったところです。推敲も終わっています。あと何らかの事務的なことが片付いたら、また誰かがこの媒体を使って、新たに何らかの活動を始めるでしょう。

それはそれとして。表題の句にいきましょうか。

夏の盛りには、うるさすぎて静寂にも聞こえるほど騒いでいた蝉も、短い命が終われば、紙のように軽い死骸となって落ちています。そんな死骸を見ると、時々感慨を覚えますね。すばらしい形だからです。

こんな造形を、人間が真似してみようと思えばきっと一つ作るのに大変な苦労をすることでしょう。だがそんなきれいですばらしいものが、惜しげもなくあちこちに落ちているのだ。

機能的でバランスのいい顔も、薄い妖精のような翅もすばらしい。人間はこんなものを見て、いろいろな想像をかきたてられます。

この生き物は、ほんの少し前まで、うるさいほどの声で鳴いていたのだ。一体それをやっていたのはだれだろう。今は動かないこの死骸の中にいたものは、どこにいったのだろう。

そんな感慨を、去りゆく夏を惜しむような気持で詠んでみたものです。去っていたものはどこに行ったのか。消えていったものはどこに行ったのか。

遠い昔から人間は疑問を持ってきた。目に見える形がとつぜん動かなくなり死んでしまう。それはなぜなのか。骸は形は変わらないが、何かが完全に欠けたような感じがする。

それを、魂と名付けたのです。形ではない、本当の自分という感じで。

永遠に答えのない問だと思っていたが、もうそろそろその答えは分かって来る。人間も、もうそれがわかってもいい段階に入ったからです。

勉強していきましょう。教えてくれる存在の声が、人間にも聞こえるようになった。蝉の魂はどこに行ったのか。

問えば誰かが答えてくれるでしょう。






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2017-09-24 04:22:32 | 短歌






空低く かかる月をぞ あなどりて 届くものとて 弓をしぼりぬ





*まあ、何度も詠まれているテーマですから、きついと思うでしょうが、また取り上げてみました。こういうことは違う表現で何度も詠うのがおもしろいのです。恋の歌も何万首もある。同じようなシチュエーションでも、人により時により表現が違うのがおもしろい。

「ぞ」は係助詞ですが、この場合は流れているので、結びの連体形はありません。こんな感じで、「ぞ」は単なる強調として、字数が足りないときになど多用しています。いつでも使えて便利だ。

空低くかかっている月を、近いから届くと思って侮って、弓を引き絞ってしまったということだ。

完了の助動詞「ぬ」が効いています。こうするとどうしようもないことをしてしまったという感が強くなる。きついですね。

月の年が若い頃は、時に黄昏時に、大地にすれすれのところにかかっていたりしますが、別にそれは大地に近いわけではない。高空にかかっている月と同じ距離で離れている。

だがそんなことなど知りもしない馬鹿は、月が落ちてきたと思って、達者なつもりで弓を絞るのです。そこはそれ、それなりに自分には弓の技が高いと思っている。実際弓でいろいろなものを射落としたことはある。

だが、なんでもそれでいけると奢るのが馬鹿なのだ。

どんな強弓でも、月になど届くわけがない。

美しすぎるものは、たとえそれが風一枚向こうの近くにいるとしても、空の月ほどに遠いことがあるのですよ。

物理的には近くても、心が遠すぎれば、何もできないのです。

永遠にも似た年月を、その人は神のため、世のため人のために、様々なよいことをしてきた。その美しさが、透明だが金剛石よりも硬い、愛の壁を作っているのです。

もう二度と同じ失敗をしないために、このことは深く覚えておきなさい。






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月夜

2017-09-23 04:22:15 | 短歌





こひそめて あひたきを知る 春の野に さわぐ心の 月夜なるかな





*恋というものは、切ないものですね。それは人を好きになることから始まるが、人はなぜ人を好きになるかわからない。その衝動が、自分の中に起こす苦悩が、甘くも苦くもあり、それに酔うていくここちが、たまらない。

相思うことができれば幸運だが、すれ違ったり、思うようにいかないことの方が多い。そのかなわぬことの苦しみが、また恋というのを狂おしくいいものにする。

実質、恋というのは苦しいのがいいのだ。甘いこともあるが、その甘い一時を、恋しい人と営むために、あらゆることをしてしまうのが、たまらなくよい。

人間はこういう恋をすることができるということを、幸福に思わねばなりませんよ。恋というのは、自己存在の若い時にだけできることだ。実質、霊魂が進化していけば、男も女も別のものになっていく。小さな頃のように、恋に酔うことはできなくなります。

それはそれで、互いに美しい愛が生まれてくるものだが。恋に酔える時は、存分に恋に酔った方がよい。もちろん、バランスはとらねばなりませんが。

恋しい思いを抱き始めて、、会いたいと思う気持ちを知って、春の野辺に、心が騒ぎつつ、月のようなあの人を見ている。

まあ表題の歌はそういう感じです。「月夜」は月のある夜のことではなく、月のことそのものを言い表します。つまりは、月になぞらえられるあの人のことを意味するのです。

こんな感じで、野原で花ばかり見ているあの人を見ていた人も多いでしょう。あの人は美しかったでしょう。形も整っていましたがね、実質、中にいる霊魂の姿がとても美しかったからです。霊魂が澄んで晴れている。あれは女性の特質なのです。

あなたがたはまだ若いから、女性の進化した姿というのを知りません。それはきれいなのですよ。あの人のように、そこに立っているだけで、空気が澄んでいるような気がするのです。それがとても美しい。あんな人を見たら、迷う男はすぐに恋に溺れてしまうでしょう。

人生が狂った人も多い。

女性の美しさというものを侮るからそうなる。進化したその美しさというものは、立派な男でも内心焦るほどのものなのです。

進化すれば恋などはしなくなるが、それに似た汗が流れる。かわいいと思い、愛でなんでもしたくなるのです。

そのように、あなたがたも、かのじょのためになんでもしてしまった。質はちがいますがね。

女性の恐ろしさというものが、身に染みてわかるでしょう。






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無き月影

2017-09-22 04:20:11 | 短歌





退けて よきとおもひし 白飴の 無き月影を こひてけるかな





*これはわたしの作です。

「てけり」は完了の助動詞「つ」の連用形「て」と過去の助動詞「けり」で、「~てしまった」という意味になります。おもしろい響きなので覚えておくと活用できます。

あんなものなどいらないと、退けていいと思っていた。その白飴の色がなくなった月の光を、こうてしまったのだった。

今さら。もうあの色はないというのに、まだあると思ってこうてしまったのだ。

古語で「てけり」というと、微妙に失敗をしてしまった悔しさが流れるような気がしますね。おもしろい感じに詠めます。いろいろと作品を作って、こなしておくとよいでしょう。難しいことはない。動詞を連用形にしてくっつけるだけです。なんでも、なかなか上達しないのは、自分には難しいと思い込んでしまうことですよ

自分の力が伸びなくて悩んでいる人は、どこかに、自分にはできないという枷を、自分にかけているのです。やり方を教えてあげても、なかなかやろうとしない。やってみれば簡単なのだが、どこか、自分には難しいと思い込んでいる節がある。

思い癖というものですよ。遠い昔に、難しいことをしようとして失敗したか、うまくできなかったという経験があるのです。そこでつまずいて、自分の中に、自分はできない、という思い癖がついてしまったのです。

ですから、やってみればできることでも、できないと思い込んでやらない人がいるのです。それで、できない自分がつらくて、できる人を妬んでいやなことをしたりするのだが、そういうことに関しては、じつにうまくやる。その気力を、いい方向に向ければいいと思うのだが。

要するに、自分の力を向けていく方向を間違えているのです。

あんなものいらないと、白飴の月を馬鹿にして消してしまったのは、月が美しいのを妬んだからなのだが。そんなことをしないで、真面目に自分の勉強をしていれば、自分がそれなりによくなって、他人の美しさを妬む気持ちも起こらないだろうに。

何もかもが駄目になってしまってから気付いたのでは遅い。

自分が間違っているということを教えられたり、自分の心の中でもどこかで気付いていたりしたら、そこをどうにかして、自分を改めていきましょう。

できない自分がつらくて、できる人の邪魔ばかりしているのは馬鹿ですよ。やればできる自分を、だれもが持っているのですから。






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凡庸

2017-09-21 04:21:19 | 短歌





凡庸の 川のみをこそ くだりきね けふくだされし 神のことわり





*「ことわり」は「断り」ですね。「理」ではない。通告とか、拒絶という意味です。

「こそ」~已然形の係り結びがあります。強調の意ですが、よく命令形と勘違いされる。ここはわかりやすいですが、たまに「こそ」が省略されていると、命令形として読まれている時があります。気をつけましょう。

凡庸の道ばかりを下ってきた。そして今日、神に通告が下された。

もう来なくていいと。

まあそういう感じです。凡庸というのは要するに、痛いことは何もせず、勉強から逃げてきたということです。凡人が楽だと言って、いいことや高いことは何もしてこなかったのです。

その凡人が、普通に善良で何も悪いことはしないのならいいのだが、そういうものに限って、努力して勉強している者に嫉妬する。ちゃんとまじめにやっている者は、それなりのいいことがあり、きれいになってくるものですから、それを妬むのです。

何にも努力しない自分を棚にあげておいて、あっちのせいにして、嫌なことをしていいものを盗み、自分をいいものにしてしまう。凡人という人種には、そういうものが多いのです。

反論はできないでしょう。もう実例を嫌というほど見てきたはずだ。

一見美しく、立派なことをした人間だと見えるものの中に、ほとんど何もしたことがない馬鹿がいるという人間を、たくさん見ましたね。

そういう凡庸な人間たちが、世界を滅ぼしたのです。何も努力しないで、自分だけをよくするために、神の愛をひっくり返し、全部自分の思い通りにしようとして、世界をだいなしにしたのです。

弱い人間、まだ何もわからない人間の振りをして逃げることはできない。あまりにもひどいことをしたことを、世界中の人間に見られてしまいましたから、もうごまかすことはできません。

そして、凡庸の闇にすだいて、高い努力を何もしてこなかった馬鹿は、とうとう神に断られるのです。もう愛するのはいやだと。

何にも努力しない人間は、そのままでいると、そういうことになるのですよ。いいことをして進んでいく人間を妬んで、邪魔ばかりする嫌なものになる。そして全部を駄目にしてしまい、皆に嫌われるのです。






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