ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

さなぎと

2023-11-29 04:31:36 | 短歌





いつはりの われをさなぎと 脱ぎ捨てて まことのわれの 高みをぞ知る




*今週は二首しか詠めませんでした。これも平凡な作ですが、これがましなのであげましょう。最近なかなか良いのが詠めません。馬鹿の妨害で感性の中枢にふたをされているからです。霊魂には感性の中枢という部分があって、そこを抑えられると、インスピレーションがわかなくなるのです。苦しいですが、これでやってゆくより仕方がありません。

嘘で作った自分を、さなぎのように脱ぎ捨てて、本当の自分の高みというものを知ることですよ。

事実をそのまま平板に語っているだけですね。感動というものがこもっていません。確かに、嘘の自分を脱ぎ捨てて本当の自分に目覚めれば、魂は高みに上り、そこで深い真実を知るものなのだが。

迷いの闇の中でだらけていた魂も、解脱を経験し、本当の自分の真価を知れば、すばらしい人になる。愛に目覚め、愛ですばらしいことをやってゆく、すごい人間になる。そのときのその人が味わう、魂の感動というものがあるのですが、残念ながらそれがあまりうまく表現されていません。

まるで魂に翼が生えて、いっぺんに空に昇ってしまったかのような、あるいは自分の中から輝く太陽が打ちあがったかのような、すばらしい感動を味わうのだが。

そんな魂の感動を、「高みをぞ知る」で言い表そうとしているのだが、弱いですね。もっといい言い回しはないものか。だが、頭の中をこねくり回しても、なかなかいい言葉が浮かんでこない。このスランプ、だいぶひどくなってきているようです。

馬鹿はこの妨害を一生続けていくつもりらしいです。困りましたね。だが、なんとかしていくより仕方がありません。弱いながらも、下手ながらも、あきらめずに詠んでいきましょう。




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泥のごとき

2023-11-22 04:31:29 | 短歌





泥のごとき 地獄の闇の 底をはひ 砂を食はねば 肝にしみぬか




*今週は4つほど詠めましたが、どれもあまりいいできではありませんでしたね。今一つパンチが効かないというか。一時は馬鹿の妨害も緩んできたかと思って喜んでいたのですが、このところまたきつく邪魔されているようです。なかなかにトンネルを抜けられませんね。

その中で表題の作はまだましな方ですか。何度いさめても決して自分を改めない馬鹿に、大火が絶望して、地獄に落ちねばわからないのかと叫んだのに呼応して、詠んでみました。

今の世の中、天使の美貌を盗んで自分をきれいにしている馬鹿な女があふれるほどたくさんいる。それをやれば自分の霊魂が壊れて、人間を落ち、地獄にまっしぐらなのだぞと、大火が何度いさめても、馬鹿な女は絶対にあれをやめてくれないのです。

どうしてもあれがやりたいのだ。天使の真似をすれば、すごくきれいになれるから。あれほどきれいになれば、みんなが自分に寄ってきて、いいことをしてくれるにちがいないと踏んで、馬鹿はみんながあれをやっている。

そんな根性が汚いのだぞ。人の美貌を盗んで自分をきれいにするなんてことは、汚い罪なのだぞ。それに自分は自分以外のものにはなれないのだ。ずるい手を使って天使のような美人に化けても、それはおろかな偽物になるだけだ。全然美しくない。

このようなことを、大火は何百度と言い聞かせているのですがね、馬鹿は聞きません。どうしても天使の真似がしたいのだ。あれをやれば信じられないほど自分がきれいになったように見えるから。

馬鹿ですね。もう絶望的だ。

天使の美貌に目がくらんで、そのまねばかりしている馬鹿女は、地獄に落ちて苦しむしかないようだ。そこまでいかないと、自分の馬鹿さ加減がわからないのでしょう。




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なにしらぬ

2023-11-15 03:57:39 | 短歌





なにしらぬ をさなのころの あやまちを 思ひてあふぐ 高き青空




*今週はあまりよいのが詠めませんでしたので、添島のブログから借りてきました。添島はこの多重人格活動の中を泳いでいる人格の一つです。なかなかに高く勉強している人間の魂です。

この存在も、もう還暦を過ぎましたが、いまだに、子供のころの過ちを思い出しては、苦しみます。といってもそれはかのじょの子供のころの記憶なのですがね。おなじ媒体を利用しているわたしたちにも、それは自分自身のこととして感じるのです。

なんであんなことをしたのだろう。なんであんなことを言ったのだろう。子供のころというのは何も知りませんから、人の気持ちも考えず、自分のわがままを人に押し付けたりするものだ。中には道徳的にいけないことをして、子供だから許してもらえたというのもある。

子供のころというのは、魂がまだしっかりと座っていませんから、いらぬ馬鹿の霊に自分を動かされて、いやなことをしてしまうということもあるのです。

それでも、自分のしたことは消せない。何も知らなかったからと、ごまかすこともできない。子供ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、いまだに苦しむ。

でもそれをやりなおしていくことはできる。小さなころの過ちを、心の道標にして、二度とあんなことはすまいと心に誓い、清らかに生きていくことはできるのです。

何も知らなかった子供のころの過ちを思いながら、高い青空を仰ぐ。

空を見上げていると、高いところに心が吸い込まれていくようだ。あれらの過ちがあったからこそ、今自分はまっとうに生きていくことができるのかもしれない。




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人ならぬ

2023-11-08 04:28:43 | 短歌





人ならぬ ものと落ちしも 清き身と なりておのれを みづからつくる




*このところ、少し調子が出てきたように思います。馬鹿の妨害はまだあるのですがね、それも少し緩んできたようだ。彼らも少しはわかってきたのでしょう。下手な妨害をするよりは、愛に従い、解脱して自分をやり直したほうがずっと得なのだと。

それはそれとして、表題の作は、人間を落ちてしまったもののために詠んだものです。

この時代、馬鹿なことをやりすぎて、自分の霊魂を壊してしまい、人間を落ちてしまったものがたくさん出ました。X(旧ツイッター)のほうで、大火が口を酸っぱくしてやるなと言い続けているのに、馬鹿は天使の真似をして、人間を落ちてしまう。情けないくらい、そんな馬鹿がたくさんいるのです。

人間を落ちてしまったら、もう二度と人間に戻ることはできません。壊れた霊魂は元には戻らないのです。ですからそのものは、永遠に壊れた自分を抱えて生きていかねばなりません。

神が創ってくださった自分を壊してしまったら、もう神が用意してくださっていた人間の未来に赴くことはできません。彼らは人間とは全く別の道を進みます。それは厳しい道だ。将来自分が何になるのかを、自分で創造しなくてはならない。

ですがそれはできないことではない。至難の道ですが、解脱して自分の目覚め、みなの幸福のためにすばらしくよいことをしていけば、新たな自分を創ってゆくことができる。

自己存在というものの中には、決して壊れない黄金の愛の真実があるのです。自分の中に、すばらしい愛の塊があり、それは決して壊れない。その愛を頼りに、すばらしい自分をやっていけばいい。

導きはあります。霊魂が壊れたものでも、愛に目覚め、すべてをやり直していくと誓うものは、なんとかなる。

希望を見失わず、自分を創造していきましょう。それは今までだれ一人として進んだことのない、新たな道だ。






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アウシュビッツ

2023-11-01 04:34:45 | 短歌





殺戮と 侮辱の町に 日は注ぎ アウシュビッツの 幻を見る




*最近、イスラエルとパレスチナの問題にからんで、大火がきつい歌を詠んでくれるので、取り上げないわけにいきません。

アウシュビッツは、ポーランド南部の工業都市。第二次大戦中のドイツ占領下に、強制収容所があり、そこで400万人以上のユダヤ人が虐殺されたことで有名です。

ナチス・ドイツが行ったホロコーストの代名詞ともいわれる、恐ろしい名前です。

殺戮と侮辱の町とは、今イスラエルが空爆を行っているガザの町のことでしょう。そこに太陽の日が注ぎ、アウシュビッツの幻を見せる。

大火の言いたいことは明白ですね。解説をするのも無粋なくらいだ。

このままではガザは、アウシュビッツのような地獄になりますよ。どうにかして憎悪の連鎖を止めなければ。




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