ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

芥子と月

2016-12-31 04:22:49 | 







会ひたきも 散るが悲しき 芥子と月     夢詩香







*大晦日ですから、それなりに季節にあった句を詠もうとは思ってはみるのですが、なにせわたしの心はあちこちに飛ぶ。季節などおかまいなしです。

あの人のことを、ひなげしにたとえたのは、わたしの友達の一人ですが、わたしもだいたいそれには賛成です。確かに、あの人はひなげしのようにはかなげなところがある。本音を言えば、わたしとしてはほんの少しそれに条件をつけたいのだが。

あの人はひなげしが好きでした。かわいらしいのに、あでやかではなく、引き締まっている。そこがどこか男の子っぽいのが、あの人は好きだったのです。なんとなく、自分に近いものを、やはり感じていたのでしょう。

だがひなげしの方は、自分をかのじょの比喩に使われることは、ちょっとつらいと思うかもしれません。美しいものは、いつもそういうものだ。自分の美しさが、よくわからないのです。自己存在というものは、自分とは違う人の美しさは、よくわかるものなのだが、自分の美しさというのは、あまりよくわからないのです。

ひなげしとかのじょの違いは、ひなげしは昼咲いて夕には散るが、かのじょは夜の間にも月のように光ってくれることです。

この世界の、最も苦しい矛盾の時代にも、きりりと自分を通して、生き抜いてくれたのです。

ひなげしは、そういうかのじょの、夜にも光る花を見たい。だが、自分は、夜になる前に散ってしまうのだ。それは、ひなげしは悲しいだろう。

日向にも咲いている空の月のかすかな白さを見上げて、ため息をつく。あの人の夜の姿はどんなに美しいだろうかと。

そういうひなげしの心は美しい。

美しさというものは、自分の中にある本質の愛の発露だ。だれも妨げることのできない真実の愛の言葉を発する、切ない痛みだ。

永遠の未来の中に、ひなげしと月の邂逅はあるかもしれないが、それは神に預けておきましょう。

どうにもならないことに、小さな愛を塗る花の姿の、あまりにも奥ゆかしいかわいらしさを、わたしはしばらく見ていたい。








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ゆふづつ

2016-12-30 04:20:05 | 短歌







ゆふづつの ひかるといきの かたる音の 胸に落つるは はたとせを待て





*これは、かのじょがフェイスブックのノートに書き記してあった歌です。2012年の作です。

ゆふづつとは、宵の明星のこと。すなわちヴィーナスに比喩した自分のことです。美の女神を自分の譬えに用いることなど、不遜に聞こえるかもしれませんが、かのじょはボッティチェリが描いたヴィーナスの顔が、なんとなく自分の顔に似ていたので、それを採用したにすぎません。

あの宵の明星の光る吐息のように、わたしが語る言葉が、あなたがたにわかるのは、20年後のことだろう。

あの人はたくさんの言葉を残してくれましたが、書けば書くほど人に誤解されるだろうことはわかっていました。人間というものは、美女のいうことは無理にでも曲解するものだからです。絶対に、まっすぐには伝わらない。

だからどんなに誠を尽くしても、自分の真意が人に理解してもらえるのは、死後のことだろう。それもだいぶ経ってのことだろうと、あの人はこのとき、思っていたのです。

理解されたらいいが、もしかしたらそれも難しいかもしれないと考えていた。それほど、人間というものは、美しい女性というものに対して、歪んだ気持ちを持つものなのです。

愛してしまうからいやだ。馬鹿にして、嫌なものにして、糞にしてしまいたい。

だが、果たして美女が糞になってしまうと、ひどく残念がるのだ。しかし、糞にならなければ、もっと憎む。

この激しい矛盾が吹きすさぶ世界の中を、自分の誠を通してまっすぐに生きるのは、本当に苦しかったのです。誰も味方はいなかった。夫でさえ、自分を守ってはくれなかった。一人で戦わねばならなかった。

かのじょは今眠っているが、その顔はとても安らかです。もう苦しんではいない。忘れてしまったからでしょう。苦しいことも、何もかも。

あなたがたに今、かのじょの言葉が理解できているかどうかを、わたしは今は判断しません。だが、20年経って、あの人の真心があなたがたに理解できたとしても、もうあの人は、何も覚えていないのだ。こんな歌を詠んだことさえも。

果たして、悲しいのはどちらなのか。

愛というものは、時にとても難しいパズルのようだ。食い違う。だがなぜそうなるかと言えば、結局は、愛するものを憎んでしまう心が、間違っているからです。







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てふのひそみ

2016-12-29 04:46:43 | 短歌






月影と てふのひそみで 香を練り 芥子のつぼみの 形にまろめり






*「練り香」というものがあります。沈香や白檀や丁子など各種の香料を粉末にし、それを蜂蜜などで練って、小さく丸めたものです。香炉などで燃やすと、とてもよい香りがする。

香料の種類や調合の割合などで、いろいろと楽しめるものでしょう。

そういう香道の奥ゆかしい仕事を材料に、作者は歌をひねってみたらしい。

月の光と、蝶々のひそみを粉にして、蜂蜜などで練り、芥子のつぼみの形に丸めてみたと。「ひそみ」とは「潜み」ではなく、「顰」です。顔をしかめるという意味です。知っていると思いますが、一応。

「顰に倣う」という言葉がありますが、それは中国の故事に由来しています。美女西施が病を得て、苦し気に顔をしかめている様子が美しいので、醜女がそれを真似てみたところ、あまりに見苦しいことになって、みんな逃げてしまったというのです。

ここまで言うと、作者の意図もわかりますね。

あまり解説すると、きついでしょうか。

蝶の顰とはもちろん、美女の苦し気な顔のことです。誰かということは言わなくてもわかるでしょう。あの人はいつも悲しそうだった。なぜなら、愛しても絶対に伝わらないということが、わかっていたから。それでも愛さねばならないという使命を、微笑みとともに背負うというものが、真の女性というものです。

伝わらなくても、すべてをやらねばならない。その決意が目に見える時、それは女性でありながら、まるで男性の聖者のように清らかに美しく見えるのです。

何も知らない女が、そんな女性の表情を、軽々しく形だけ真似てしまえば、愚かなことになる。

そういう教えを、芥子のつぼみのような形の香にして、君たちにあげよう。

それが作者の意図でしょう。美しいですね。








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しろかねの

2016-12-28 04:22:15 | 







しろかねの 月はどなたが 解きし鳥     夢詩香







*太陽が照ることを、当然だというよりも、月が照ることを、当然だということのほうが、苦しいことのような気がする。そういう感じはありませんか。

太陽がなくては生きていけないから、とんでもなく必要だから、それはあってしかるべきと考えても苦しくはない。では月はどうだろう。

月がなくても、たぶん、生命活動に、それほど大きな影響はないかもしれない。少なくとも、太陽を失うほどの大きな喪失ではないだろう。だのに、月はある。

なぜ月はあるのだろう。なぜ神は、この地球世界に、月という衛星をくれたのだろう。

ほかの天体と比べても、地球型の惑星で、地球ほど大きな衛星を持っている星はありません。あれは、ほんとうに、大きな愛で、誰かが地球に下さったとしか思えない。
ではそれは一体、何のためなのか。

星の運行により、暗闇も生じる世界を、月の光で照らすためか。それもあるだろう。月があるだけで、暗闇を生きるものの恐怖は少なくなる。だがそれだけではない。

妻を持つ男は、それだけで情感が膨らみ、生きることがうれしくなる。夜にひっそりと添うてくれる月は、それがあるだけで、人間の心が豊かに膨らんでくる。

もののあはれというものは、太陽よりも、月に育てられるものだ。

小さいもの、弱いものに対する情愛が、きめ細やかになってくるのは、月の光があまりにやさしいからだ。なんと美しいものなのだろう。愛さずにいられない。

太陽が生き物の命を保証するものなら、月は、人間の中にある愛を、神が信じているという証拠なのだ。

あれは、神が、地球に生きる魂たちのために、空に解き放った美しい鳥なのです。

人間が、愛するために、月は必要なのです。







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絹の棺

2016-12-27 04:20:49 | 短歌







たわやめは 絹の棺を とをも縫い ため息ごとの 心を捨つる






*「とを」は「十」です。「トー」という発音も、古語では「とほ(遠)」と書いたり「たう(唐)」と書いたり「たふ(塔)」と書いたりしますね。「とう(頭)」もある。今ではよくわかりませんが、昔は発音が微妙に違ったのです。

こういう細かいことが、けっこう好きです。古語辞典を繰りながら、いろいろと調べています。

たおやかな女性は、絹で棺を十枚も作り、ため息ごとに自分の心をそれに納めて、捨てる。

なぜため息をつくか。それは、男に、心が何も通じないからです。男というものは、頑なに馬鹿を信じ込んでいる。痛いことをすれば万事なんとかなると思っている。だが女は、そんなことをすれば人様を苦しめて、返ってつらいことになるということを、知っている。

だが、それを男に言っても、男は決して女のいうことになど耳を貸しはしないのだ。馬鹿のたわごとだと思って、馬鹿にする。だが、長い目で見ていると、男のやることは、一時期は功を奏してよいことになるかに見えるのだが、すぐに反発をかぶって、だめになってくるものなのです。

で、男はそれで落ち目になると、地道にがんばっていた女の元に転がり込んできて、やっかいになったりすることがあるものなのだ。

結局、苦労するのは女の方だということになるのだが、男はそんな女の気持ちなどわかるはずもなく、偉そうに亭主面をして、女のやっかいものになることの言い訳を、ぶちかましていたりするのです。

どこにも持っていきようのない思いを、女はひっそりと絹の棺に捨ててきたのだ。

まあそういう歌です。

わかる人はいるでしょう。

だがもうそろそろ、絹の棺も縫いあきた。女性たちは男に愛想をつかし始めている。緒が切れた堪忍袋が、そこら中に落ちている。

男の言い訳も通用しない。女につらいことを押し付けて、ずるで何もかもをやってきたことの限界が、とうとう見えてきたからです。

これ以上馬鹿をやっていると、男はもう完全に、女に相手にされなくなりますよ。







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夜半の雪

2016-12-26 04:21:28 | その他






夜半の雪 夢のかたへに 餅を置く     夢詩香






*ちょっときつい内容が続いたので、今日はやさしいものを選んでみました。クリスマスは過ぎましたが、楽しく過ごせましたか。

子供たちはプレゼントをもらえましたか。サンタクロースはいないなどと、高をくくってはいけませんよ。サンタは本当にいるのです。赤い服を着ていたり白いひげをはやしているわけではありませんが、あの人がいることを、心のどこかで知っているから、人は愛する人にプレゼントをしたくなるのです。

夜半に雪が降っている。子供たちは眠っている。その夢の傍らに、甘い餅のようなプレゼントを置いてやる。そういうことは、親の楽しみでもあります。

クリスマスが近くなると、おもちゃ屋さんがにぎわいますね。近頃流行りの、ぎすぎすとがったロボットの人形や、訳の分からないカードのセットなんかは、大人ならちょっと考えてしまうが、子供が喜ぶと思ったら、財布とにらめっこしながらも、買ってしまう人はいるでしょう。

ああいうガラクタのようなものに、夢中になれるのは子供の特権なのです。それでいいのですよ。そんなものが、子供の心に入って、息づいてくると、いつかとてもいいものが、心の中に育ってくるのです。

無駄だと思えるものも無駄ではない。この世界にあるものは、つまらないものでも痛いものでも、どこかに必ず、神が隠した不思議な意味がある。それを捕まえて、いろいろなことをして、遊んで、豊かに心を育てていくのが、人間存在の生きる楽しみでもあるのです。

人間には、人間の大きさに合った、生き方があるのです。それを十分に生かして、夢多い人生を生きていきましょう。







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愚者の衣

2016-12-25 04:21:13 | 短歌







盗人は 愚者の衣を 耶蘇に着せ 玉をよそほふ 后を呼べり






*今日はクリスマスですので、またイエスが続きます。作者が誰なのかは、もう気にしないでください。夢詩香の名前を書かないものは、わたしの作ではないとだけ、思っていてください。

あまり解説の必要もない歌ですが、一応解説すると、人から位を盗んだ王は、滑稽な愚者の衣をイエスに着せて、それを王妃に見せてやろうと呼んだ。その王妃は豪華に宝石で着飾っていると。

まあ、今の世間ではよくある図です。ほんとうによい人間は馬鹿にされて、馬鹿なことしかできない馬鹿ばかりが、人から盗んだ上等な服を着て、世間を堂々と闊歩している。

テレビで最先端の流行の服を着て、歌を歌っている人は、ほとんどみな馬鹿です。他人からの盗みを豪華に着て、とんでもなくよいものになっている。だがそれがどんなに滑稽なことかを、まるでわかっていない。

他人からよいものを盗んで、すばらしく高価な服を着て、とてもよいものになったつもりで、できることは、テレビで学芸会レヴェルの芸を披露することくらいなのです。歌も芝居も、別に自分がやっているわけではない。妖精のような見えない愚者の霊が、代わりにやっているだけだ。

今の世間はこういうからくりでできているのです。

わたしたちはここにいて、世界を救うための活動をしていますが、この肉体存在に付された身分は、掃除夫の妻です。貧乏人の田舎者。おばさんじみた古いトレーナーと安いズボンを着ている。毎日うどんや茶漬けを食いながら、人類の運命を背負っているのです。

馬鹿はこれを知っていながら、平気でブランド物のきれいな服を着て、おいしい高級料理を食べているのです。そしてほとんど何もしない。毎日やってもせんない滑稽な仕事をしているだけだ。それはたぶん、あと20年もしたら、大声をあげて笑われるような馬鹿になるでしょう。

いいことはほとんど何もできないのに、スーパースターのような贅沢な生活をしていることが、おそろしく馬鹿らしい盗みをしていることの証明なのですよ。本当なら、社会に大きく尽くせる力を持った人でなければ、そんな暮らしはできないはずだからです。

金を持っているから、寄付をすればいいと、大枚の金を福祉団体に寄付したりする馬鹿もいますが、人から盗んだ金でそれをしても、何の意味もありません。馬鹿が儲けている金は、すべて、他人のところにいくはずだったものを、無理矢理自分のところに持って来ているものなのです。とても馬鹿馬鹿しい。

自分たちの恥ずかしい真実の姿を見ないようにしなければ、あなたがたは今生きてはいけないのです。







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耶蘇の夜

2016-12-24 04:21:50 | その他







たづねきて 留守と言はれし 耶蘇の夜     夢詩香






*今日はイヴですので、この句を選んでみました。耶蘇とはイエスのことです。知っていると思いますが、一応。

ウィリアム・ホルマン・ハントの絵に、「世の光」というのがあります。イエスがランプをもって、あるみすぼらしい家を訪ね、その戸を叩いている。だがその戸にはノブがない。内側から開けてくれなければ、イエスは中に入ることができないのです。

世を照らすことのできる、素晴らしい救いの教えを、イエスが持って来ても、人間が心を開いてくれなければ、だめだという意味らしい。

救い主はだれの家の戸もたたいてくれる。だが、戸をたたいて中に入れてくれと言っても、留守と言われれば、何も言えない。黙って言葉を飲み、夜の道をランプで照らしながら、帰っていくよりない。

この時代、あなたがたの経験したことも、これに似ていますね。あなたがたは、救いの種を持って来た天使を、断ってしまった。なぜならあなたがたは、救い主が鼻たれ小僧のような醜い姿で来るかもしれないことは考えていたが、まさか、たぐいまれな美女の姿をしてくるとは思っていなかったからです。

このように、神の試練は、人間の常識や推測を軽く超えてやってくるものです。人間の最も弱いところから、噴き出てくるものなのです。

あなたがたはかのじょを断ったことによって、人間の、最も弱く恥ずかしいところを、世界にさらしてしまったのです。かのじょは、あなたがたが決してそんなことにならないようにと、努力していたのに。

たぐいまれな美女こそが、美女に弱い人間の心を知っているのです。ですから、それをやさしく受け止め、かのじょはそれをよいことにしてくれようとしていたのです。

それを、見事に、あなたがたは追い出してしまったのです。







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あるたいる

2016-12-23 04:21:21 | 







たたかへと 闇をさしけり あるたいる     夢詩香






*天使に星の名前をつけるということが始まってから、わたしたちの活動はだいぶやりやすくなりました。

特に、獅子の星はかなり衝撃的でしょう。あなたがたにとっては、最も怖い天使たちです。ゾスマがここに出てきただけでも、だいぶ馬鹿が滅んでしまった。彼は今ここにいませんが、まだ活動しています。あらゆる馬鹿を清めようと、いろいろなことをしています。

彼が何をやっているかは知っていますが、言いません。ある程度効果が上がってきたら、教えてあげることにしましょう。言っておきますが、怖いですよ。そして獅子の星は、彼だけではないのです。もっと怖い星もいる。

このように、獅子はとても怖いですが、もっと怖いのは、実は鷲です。

アルタイルはわし座の星です。瑠璃の籠でも初期のうちに名前がつきました。最初の頃はよく出てきたが、この頃はさっぱり出てこない。これがとてもきついと、わたしたちは感じている。

アルタイルはかのじょとよく性質が似ています。愚直なまでに正直で、清らかに動く。どんな妨害があっても、頑固なまでに自分をつらぬく。彼は男というものを、光の柱のように信じているのです。アルタイルという男らしい名前が、とても似合います。

だが、彼がかのじょと絶対に違うところは、かのじょは怒っても、ほとんど何もしないで去っていくだけだが、彼は怒ると何をするかわからないということです。

それが怖いのです。

あの人が、何もやっていないわけがない。わたしたちとの連絡を絶ってまで、何をやっているのか。さっぱりわからないのが、怖い。

あの人が本気で怒れば、太平洋の底の栓を抜くということすら、やりかねないのです。

あなたがたは、本当に困ったことをした。あの人が怒るのは、本当に久しぶりだ。前に怒ったのがいつだったのか、もう覚えていないほど。







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ころほひの

2016-12-22 04:22:43 | 






ころほひの かほをかぶりて わらふ雉     夢詩香







*「ころほひ」とは、「当代」とか「今のご時世」とかいう意味がある古語です。

要するに当節流行の顔をかぶって、雉のように派手な格好している人が笑っている、という意味です。

雉には失礼ですが、その姿が鶴に比べれば派手なので、使わせてもらいました。

テレビを見ると、似たような顔やスタイルをした美人が踊っていますね。流行ばかり追いかけていると、服も髪形もまた似たようなものになる。個性というものが全くないわけではないが、それが妙にしょぼいものになっている。

彼らの希望はただ一つなのだ。「他人」という、自分とは全く違う、よいものになりたいという。

その他人というもののすがたが、あれなのです。何もかも、人まねで作るから、ああなるのです。派手にとんがっているが、妙に画一的だ。

彼らは、個性的だということを尊重しながらも、他人と同じことをしていることに、安心を感じるらしい。みんなと同じことをしていれば、馬鹿にならないですむと、思うらしい。

だがそれも、目が覚めてみれば、むなしいことだ。

流行の美人の正体がわかれば、もうそれは美人ではない。

テレビの中の人はまだやっていますが、もうとっくに古い時代のものになっていることを認めたくなくて、無理にそれがいいのだということにしてやっている。なぜなら彼らは、ああいう方法しか知らないのです。今まであったものを研ぎ澄ませるか、馬鹿に発展させて、ヴァージョンアップさせるという方法しか知らないのです。

それではどんなにがんばっても、新しいものは創れない。

新しいものはいつも、それまでにあったものの殻をやぶって、出てくるものだ。それまでの価値観を全く覆す形で、来るものだ。

それは時に、古い時代の中では鬼子のように見える時もあるのです。自分を滅ぼしてかかる悪魔のようにさえ見える時があるのです。

なぜなら、それは全く違うものだからです。

新しい時代を産む子は、古い時代の人々に、最も憎まれるのです。絶対に、売れる芸能人のようにもてはやされることはない。






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