ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

やまとをのこ

2017-01-31 04:22:35 | 短歌






しきしまの やまとをのこの すたれるを いかにせむとぞ 説くものもなし







*これも最近の作ですから、記憶の端に残っている人もいるかもしれませんね。いや、ちょっときつい歌ですから、さっそうと通り過ぎて、ないことにしてしまった人もいるかもしれません。

馬鹿な男の人というのは、都合の悪いことには一切目をつぶるようなところがあります。

「敷島の」は「大和」や「日本」にかかる枕詞です。よく使われるので知っている人も多いでしょう。

この日本の国の、男らしさというものが廃れてしまって久しいが、それをどうにかしようと説くものさえいない。嘆かわしいことだ。

なんとなく、誰かの大きなため息が聞こえてきそうだ。

わたしたちの中には、とても男らしいものがたくさんいますよ。それはそれは、わたしでさえたじたじとなるようなすごい男がいます。馬鹿な男は、進化した男というものが、どういうものかを、まるで知らない。

勇猛という言葉が、飼いネズミのようにかわいく聞こえる男がいるのです。実質、進化した男が本気でやれば、それはとてつもなく大きなことができる。

痛いことを味わうのがいやで逃げる男は、裏からずるをして、まっとうな男を殺して、自分の方が賢くて強いのだということにしたいのだが、それがいつまでも通用するほど、男は甘くはない。

知恵も、狡猾さも、悪ができる肝の太さも、格が違いすぎるというものが、この世界にはいるのです。

そういう男を怒らせたら、馬鹿な男は、ひとたまりもありません。

そして、そういう男が今、みんな、怒っているのです。

馬鹿な男が、卑怯なことをやりつくして、女ばかりをいじめて殺し、女性を絶滅させたあげく、人類史をまるごと馬鹿にしてしまったのに、責任をとる段になると、自分は何もできない馬鹿だからと言って、逃げたからです。

豪勢に羽振が良かったときは、自分は神にも匹敵するほど強いのだと、彼らは言っていたのですよ。誰も自分にかないはしないと。

その言の責任はしっかりとってもらいましょう。







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ものさしは

2017-01-30 04:23:47 | その他







長すぎる ものさしはただ 身を測る     夢詩香







*おもしろい句ですが、これには原作があります。かのじょがミクシィをやっていたころに、ふざけて歌った歌です。記憶では確かこういうものでした。





長すぎて 自分以外に 測るもの なくなっちゃった ものさしが寝る






当時のかのじょの感慨がこもっていましたね。自分が何かにつけ突出しすぎていて、どこにもいるところがないという感じだったのです。友達はみな、自分より小さかった。学ぶことができる人間は、ほとんどいなかった。

奇跡的に出会えた同族は、大変なことになっていた。しっかり、そのときのかのじょには、自分以外に頼るものがいなかったのです。

かのじょの本名は、直線が美しいと書きます。この名前が似合わないと思っていた人は多いでしょうが、本人は気に入っていました。まさに自分はそんな感じだったからです。きっと、だれか本当に自分をわかってくれている人が、影から何かをしてくれて、自分につけてくれたのに違いないと思っていました。

本当にかのじょは、ものさしのようにまっすぐで美しかった。これ以外に生きられない自分の生き方そのものが、自分の師だった。

わたしたちがこの世で生きる時につけられる名前というものにも、かなり意味があります。菅原道真の「道真(みちざね)」は「道の真」と書きます。吉田松陰の諱である「矩方(のりかた)」は、矩形の「矩」に方形の「方」だ。これらの名前は、わたしたちからすれば、まさにそれぞれにぴったりの名前なのです。イエスのアラム語名「イェーシュア」には、「神の救い」という意味がある。

「賢司」は「賢きを司る」と書く。まさにそのとおりの人なのです。

名前には、その人生での使命が秘められているということが、あるのです。

そして、この時代に生き残った天使の名前を考えてごらんなさい。みな名前に「一」の字がはいっている。そして、気付きませんか。真っ直ぐな美しいものというのは、まさに「一」という字ではありませんか。

それは、巨大なものさしのような、すばらしい「一」です。

何もかもがこれから始まるという意味なのです。

彼らのものさしが本当に測れるものは、すばらしく大きい未来なのです。






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さざんかの

2017-01-29 04:42:26 | 






さざんかの 紅は乱れて 土を塗る     夢詩香






*さざんかは冬に咲く花の代表ですね。白いのもありますが、目に痛いほど赤い花が目立つ。

きつい色が、寒い冬の中でますますきつく映える。まるで唐辛子のようだ。火を燃やしているわけではないのに、見ていると心のどこかが熱くなる。

そばによっても暖かくなるわけではないのに、そばによって温まりたくなる。

だが本当は、さざんかは人を温めてくれているのです。火を燃やすのとは別の方法で、人間の心に火を入れてくれるのです。

冬の最中に咲いてくれることで、冬の中にしおれていきそうな人間の心のどこかを、痛く支えてくれている。だから人間は、さざんかを見ると、なんだかもう少し、つらいことに耐えていこうという気持ちが起こってくるのです。そして本当に、耐えていける。

寒い冬は本当につらいが、つらいこともつらいとしないで、まずまず生きていきなさい。春は必ず来てくれる。世界が本当に温まってくるまでは、わたしがあなたの心に灯ってあげよう。

さざんかは散ると、根元を赤い花びらで埋めていく。その様が、地面に赤い色を塗りたくっているようで、なんだか熱い。いやなことが、それだけでどこかへ行くような気がする。

理屈はわからない。だけど人は、さざんかがくれる何かを知っているから、いつでもさざんかを庭に植えるのだ。

冬の乗り切り方を学ぶことは、必要です。忍耐という徳を身につけなければ、人は高くなれないからです。何事も、耐えることができなければ、人間は本当は進むことはできないのです。

紅の色で、心の闇を塗り、力をつけて、耐えていきなさい。







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こがねの餅

2017-01-28 04:23:57 | 短歌







子を産みて こがねの餅を 食はさむと 文をあきなふ をみなとなりき






*これは最近の作ですから、覚えておられる人もいるかもしれませんね。わたしたちの仲間のひとりが詠んだものです。昨日の歌とは作者が違います。同じような情感を歌ったものだが、微妙な違いを感じてくださればうれしい。

あなたは子供を産んで、その子においしいものを食べさせてやろうと、書店に勤める女性になった。

あなたがそれをしてくれたことで、女の人がどれだけ助かることだろう。

男は女性のしてくれることを、軽いものだと思いたがるが、それで助けられることは大きいということを、もうわからねばなりません。

かのじょは夫が失業したので、書店にパート勤めをしましたが、本来天使というものは、そういうことはしないものなのです。しなくてもいいものなのです。だがかのじょはそれをしてくれた。なぜと思いますか。

女性たちが、家族や皆を助けるために、一生懸命にやってくれていることを、もっと美しいものにしたかったからです。

家計を助けるために、パート勤めをしている女性はたくさんいる。それで助かっているものは多い。だのに世間は、そんな女性の心と働きを、絶対に正当に認めはしないのです。正社員よりは身分が劣るからと、軽く見ている。

だが、職場というものは、けっこうパートのおばちゃんに頼っているものだ。いらぬことしかできない若い男性の正社員よりも、痛いことがわかっているから、何気なく気の利いたことをしてくれる。それでいろんなことがうまくいく。

だが、女性たちですら、そういう仕事を軽く見る。たいしたことはないのだと思い込んでいる。

だが、かのじょは本当はそうではないのだと、あなたがたに教えたかったのです。天使ですら、それをやりたくなるほど、それは清らかでよい仕事なのだと、言いたいのです。

もうそろそろ、男性は、そういう女性たちの働きに、正当な評価を与えなければいけませんよ。そうでなければ、女性はもうそういうことをしてくれなくなります。

そうなれば、困るのは男の人の方です。







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月に桜

2017-01-27 04:27:47 | 短歌







冬去りて わづかにふるふ 山見れば 月に桜を 植ゑにもゆかむ






*読めば、もうなんとなくわかるかもしれませんね。この作風は、いつもわたしが歌を借る人のものです。名前は言えませんが、とてもやさしい人だ。

冬が去って、山が季節にうごめいて、わずかに震えるのを見れば、あの月に桜を植えにゆこう。

そうすれば、あの人の夢の中にも、桜が咲くだろう。

気の利いたことをしてくれる人なのです。人の心の微妙な痛みに気付いてくれて、そこによい薬を塗ってくれる。寂しさをみれば、それを補う花をくれる。悩みをみれば、それを助けてくれる滋養をくれる。

そんな小さなことが、人の生きる道をどんなに助けてくれるかということを、彼は知っている。

人は誰も、自分の生を、人に押し付けるわけにはいきません。自分は、自分が生きるしかないのです。それがどんなに難しい自分でも、自分以外にそれをやれるものはいない。

どんなに子が愛おしくても、その生を代わってやることはできない。そんなことをしようとすれば、返ってその子を殺してしまう。だからどんなに厳しくとも、親はその子にその子を生きさせる。それが本当の愛なのだ。

だが、その子の生を、少しでも楽にするために、助けてやることはできる。その子が腹を空かせてつらい時に、川でとってきた魚をやることくらいはできるのだ。

これくらいのことはしてやれるから、がんばれよと。

その愛が、麗しいことを産む。

あの人が今眠っていることは、わたしたちに小さな幸せを与えてくれています。どんなに愛を注いでもかまわない。どんなことをしてやっても、苦しくはない。

あなたの夢に、桜を植えてあげよう。そのためには、月に桜を植えにいくことまでも、してあげよう。あなたは自分を生きすぎて、倒れてしまった。もう何もできなくなるほどに。

そのあなたが目を覚まし、再び生きることができるようになるまで、わたしは何でもしてあげよう。

愛を注ぐことができることは幸せだが、それは半面悲しいことでもある。それほどのことをしなくてはならないほど、その人は冷えてしまったということなのだ。

目覚めてしまえば、もうあなたは、かつてのあなたではない。







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そにどりよ

2017-01-26 04:38:33 | 







そにどりよ 何を頼りて 水を睨む     夢詩香






*昨日「鴗(そび)」という言葉が出てきたので、詠んでみました。「そび」または「そにどり」というのは、カワセミの古名です。

カワセミよ、おまえは何を信じて水を睨むのか。

「睨む」は「ねむ」と読んでください。

カワセミは、英名をキングフィッシャーというほど、魚を獲るのが上手です。一度水に飛びこめば、必ず小さな魚をくわえて戻ってくる。一体なぜ、カワセミにはそんなことができるのでしょう。

カワセミはもう、自分がそれをできることを知っている。信じて疑わない。だからやっている。だが、なぜできるのかということを、考えることはまだできない。

真実の姿を言えば、あれは本当はカワセミ自身がやっているのではなく、神がおやりになっているのです。だからあそこまで見事にやることができるのです。

カワセミはそんなことは知らない。ただ単純に、自分がやっているものと信じ切っている。

この世界には、自分がやれていると思っていることでも、本当は違うものが、まだできない自分の代わりにやってくれているということがあるのですよ。

自己存在というものは、そういう助け合いを、自然にやるものなのです。

なぜそんなことをやるのか。もちろん、愛しているからです。カワセミの霊魂の代わりに、その活動をやってやることによって、神はカワセミに生きることを深く教えている。カワセミは何もわからないうちに、神の教えを刷り込まれているのです。

麗しいでしょう。

カワセミが、知らないうちに信じている自分は、神なのです。カワセミが単純に信じている自分の中には、神の雫がある。だからこそカワセミは美しい。知らぬうちに、神の流れを自分の中に呼び込んでいる。

まるで宝石のようだ。

あなたがたの中にも、神の雫はあるのですよ。それは愛の響きだ。それを感じることができるようになれば、あなたがたは神を、むさぼるように信じるようになるでしょう。








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孔子も

2017-01-25 04:57:22 | その他







埋火や 孔子も悩みし 泥の闇     夢詩香






*「孔子」はもちろん孔丘のことですが、ここでは「こうし」と読まずに「くじ」と読みます。そういう読み方もあるのです。

イエスのことは「耶蘇(やそ)」といい、釈尊のことは「釈迦(しゃか)」という。短い言葉には敏感になっていた方がいいですね。

助詞の「の」や「と」は「~のような(に)」との比喩に使えます。「泥の闇」とは「泥のような闇」ということ。「山と積み」とは「山のように積む」ということです。組み合わせ次第でおもしろい表現ができる。五文字の制限の中でそれをやるのは楽しい。

「虹と消え」は「虹のように消える」ということ、「玉と冷え」は「玉のように冷える」ということだ。いろいろとおもしろい表現を考えてみてください。「花の笑み」とは「花のような微笑み」ということ、「鴗(そび)の青」とは「かわせみのような青」ということです。練習して頭を柔らかくしておくと、とっさによい句が詠めたりしますよ。

「埋火(うずみび)」は、火桶などの中の灰の中に埋もれた火の気配のことです。確かに燃えているらしいが、それらしいものは見えない。だが手をかざすと暖かい。

泥のような闇の中で、火桶を抱えながら、かすかな温かみを感じている。光は見えないが、確かにあるのだ。だが、闇の中を生きるのはなんと苦しいことだろう。

何も見えない暗い世界を、埋火のようなかすかな希望に胸をあたためながら生きねばならない。そのような苦悩を、あの孔子も感じていたに違いない。

何もかもが絶望的な世界を、それでも愛を信じて生きていかねばならない。決して腐ることのない玉を胸に秘め、すべてを愛に導くために、生きねばならない。

美しいが、激しく切ない。

荒野とは、人間の迷いの世界です。そこでは無明がいつも煙のように漂い、神の光をさえぎっている。その煙を出しているのは、人間の迷いの炎だ。それを消すために、孔子はあらゆる試みをしていた。

多くは失敗だった。だがあきらめずに信じて生き続けた。その人生の中では、彼の理想は実現しなかった。だが、彼が埋火のような希望を信じて生きつらぬいた伝説は今も生きている。

それが確かに、今もこの、煙漂う暗い世界を照らしている。







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たまゆら

2017-01-24 04:22:26 | 短歌






たまゆらの ゆふかげに咲く しらうめの 香にもしたがふ 甘き罪かな





*今日は美しいものをあげてみました。これは2013年のかのじょの作です。残念ながら白梅の写真がないので、ロウバイで代用です。

「たまゆら」とは「玉響」、少しの間、しばらくの間という意味です。

ほんの少しの間の夕暮れの薄明りの中に咲く白梅の、そのはかない香りにさえも頭を下げますから、どうかわたしの罪を甘く許してください。

この歌の前に、試練の天使の歌があり、それに答えた形で詠われたものです。かのじょがあまりに甘いことばかり言うので、その口を少し閉じなさいと、彼が怒った歌に答えたのです。

かのじょが最初に、彼の苦しみを思いやる歌を歌ったのです。だがそれに対して彼は怒ったのです。なぜなら、自分よりもずっとかのじょの方が傷ついて苦しんでいるからです。

あなたは今、自分がどんなにつらいことになっているか、まるでわかっていないのだ。それだから、わたしの苦しみのことなど思いやるのではない。馬鹿なことを言うと、その口を花にでも食わせてしまいますよと、彼は怒ったのです。

怒られてしまったかのじょが、あわてて彼に謝ったというのが冒頭の歌です。

かわいらしいですね。これが男性とは思えないでしょう。いくらこの世で女性に生まれてきたからと言って、男だったらここまでかわいくなれるでしょうか。男なら、たいていの場合は、ちょっと逆らいたくなるはずだ。

怒られると、この人はすぐにしゅんとなるのですよ。本当です。反発したくなる心が、普通の男よりとても小さいのです。あまりに素直でかわいらしいので、この歌の後で彼は、もういいですよ、あなたにはかないませんと詠っています。

詳しいやりとりを知りたい人は、本館で検索してみてください。

男のくせにと言ってはなんだが、この人は美しすぎるのだ。あまりにやさしい。女性ではないのに、女性のようにやさしい。一体なぜ、このような存在があり得るものだろう。

時々不思議に思います。だが、美しい歌を歌ってくれるのはうれしい。このようなかわいらしくも美しい歌は、かのじょでなくては詠えない。

ところでわたしなら、彼に怒られてしまったら、こう詠いますね。





しれごとを 食ひて散りゆく 花を見て 悔ゆる蠍は 見たこともなし     夢詩香





おもしろいでしょう。彼の答えを聞いてみたいものです。







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槿

2017-01-23 04:22:20 | 短歌







からべにの 槿をそしる 国民の 生え群がりて 国は眩めり







*これは試練の天使の作です。最近発表したものなので、覚えておられる人もいるでしょう。

「からべに」は「韓紅」、「からくれない」と読むのが普通ですが、語調を調えるために、「からべに」としました。「槿」は「むくげ」、韓国の国花です。朴槿恵大統領の「槿」でもありますね。「国民」は、「くにたみ」と読みましょう。読めると思いますが、一応。

槿の花の写真があればいいのですが、ないので、同じアオイの仲間のハイビスカスで代用です。

まあ解説する必要もないでしょうが、一応解説しておきましょう。

韓の国の美しい紅の色をしているという、槿の花のような美しい人を、そしる国民が、大勢草のように生え群がって、国が目眩を起こしてしまった。

作者の意図は明白です。槿はもちろん朴槿恵のこと。

大統領を引きずり落せという韓国民のデモは、すごいものでしたが、あれに参加した人間たちが、ものごとをわかっているかと言えば、そうではありませんよ。居丈高に理屈を言っているが、ほとんどの人間は、みんながやっているから自分もやらなければという感じでやっているのです。

仲間になっていなければ、自分が危ないからです。ほとんど、それくらいのことだ。

政治をよくしたいとか、国を守りたいとか、そんなことは何も考えていません。考えているのは自分のことだけ。

それが、馬鹿というものなのです。ほとんど何もわかっていないから、ああいうことができる。

朴槿恵は試練の天使の恋人のようなものですよ。普通ではないがんばりをしている。あの国を何とかするために、政治をがんばってくれている。難しい国だ。国民は、もてはやすときはもてはやすが、状況が危ういとなれば、豹変する。

あの国を導いてくれようとする政治家が、それほどたくさんいるとは思えない。馬鹿が簡単につぶしてしまえば、いずれ、よい政治家をすべて滅ぼしてしまいかねません。

わたしは、彼のような政治家ではありません。ただ、政治家に意見を言えるような立場には進出しますね。権限はないが、影響力は持ちたい。

そういうのを、「顧問」というそうです。

わたしは、人間世界で、文化と人間の精神を豊かに育てる活動をしたい。そのためにも、政治に影響力を持てるものが欲しい。まあ、そういうタイプの天使です。

こんなわたしからの意見を言わせてもらえば、はっきり言って、韓国は民主主義にするべきではありませんでしたね。身分制を残しておくべきでした。そういうものがあれば、馬鹿を言い含めることができる。

朴槿恵はがんばっていますが、風前の灯だ。大統領という身分は、本当は平民とほとんど同じですからね、嫉妬がもろに来る。

かの国の未来を、わたしなりに歌ってみましょうか。





くちばみを 縄とたがへて 身をしばり 枯れし槿を 泣く沢の蟹     夢詩香





「くちばみ」は、蝮のことです。後は自分で考えてください。







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月読の

2017-01-22 04:22:42 | 







月読の うれひきよめよ 忘れ草     夢詩香






*「月読(つくよみ)」は月の神のことを言いますが、月そのものを表すこともあります。

月にたとえられるあの人の思い出を消し、憂いを清めてくれたまえ、忘れ草よ。

忘れ草とは、忘るる草とも言い、持っていると憂いを忘れる草だそうです。具体的にはカンゾウのことらしいです。カンゾウは「甘草」で、甘味料や咳止めなどとして使われるそうですが、物事を忘れられるような薬効があるとは聞いたことはありません。

ちなみにカンゾウの花はなかったので、ちょうちょの写真で代用しました。いつものことですが、一応断りを入れるのがわたしです。

あの人はもう、たくさんのことを忘れています。その魂から、あなたがたに関する記憶を消されてしまったのです。

自己存在が生きていく中では、そういうことも時々必要なのです。あまりに苦しいことを経験してしまったとき、そのものが苦しみすぎないように、周りのものが忘れさせた方がいいと判断した場合は、忘れさせることが、わたしたちにはできるのです。

霊魂の記憶というものは、ある場所に蓄えられているのです。それが、そのもののためであるという清らかな目的であれば、そこに触れてある種の思い出を消すことを、神は許して下さるのです。

薬などは必要ないんですよ。そこがどこかを知っていればいい。あなたがたも、勉強が深くできてくれば、人の中のどこにそれがあるかを、教えてもらうことができます。だがそれは遠い遠い未来のことだ。それを知ればみな、すべての自分というものが愛おしくなってくるでしょう。

わたしたちはかのじょを深く愛している。だから忘れさせたのです。もはやかのじょには耐えられないほど、あなたがたのしたことが痛かったからです。

だが、あなたがたは、あの人のことを忘れられない。忘れたくても忘れられないでしょう。なぜならあなたがたには責任がある。永遠の時を賭してでも、なしていかねばならない課題が、あの人のために生じている。逃げることはできません。

記憶は時を経るにつれ鮮明になってくるでしょう。失ってしまった愛の真価を知るために、神が許して下さるまで、あらゆることをなしていかねばならない。

永遠を、三つ重ねたほど、遠い未来に、あなたがたは再びかのじょと会える時があるかもしれない。だがそのときは、お互いにもうそれとはわからないでしょう。もう、全く違うものになっているからです。

そのとき、かのじょの記憶は、あなたがたの中で、一つの内臓のように進化しているでしょう。もはやそれがなくては生きていけないほど、深く自分の中に潜み、自分の一部となっていることでしょう。






とこしへを 五つ重ねて 月を掘る     夢詩香







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