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ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

苦しくは

2025-03-26 01:28:39 | 





苦しくは ないのかととふ すみれ草





*今週もまた俳句です。スレッズの彼も面白い仕事をしているのですが、今はなんだか、俳句の方をとってしまいます。

表題の句は、すみれの花が行っていることを、そのまま詠んだものですね。写真のすみれの花を見てください。そんなことを言っているでしょう。あなたは苦しくないのかと。

だれに呼び掛けているのか。写真を撮ったわたしたちにでしょうか。それともこの写真を見ている全部の人にでしょうか。わたしには後者の方に思えますね。このすみれの花は、すべての人間に、言いたいのです。

そんな生き方をして、苦しくはないのかと。

今の世の中、嘘で生きている人が余程たくさんいますから、すみれの花もそれを苦しんでいるのでしょう。

人間は、自分がつらくて、他のもっといい人間になりたくて、人のものを盗んで自分にくっつけ、本来の自分とは全然違うものになっている。

正直な自分をまっすぐに生きている人は、本当に少ない。

嘘の自分、嘘の人生を生きていると、根拠のないプライドがにょっきりと突き出して、たいそう魂が歪んで来る。

自分が、あまりにも醜い、馬鹿になってしまうのです。

自分をそんなものにして、苦しくはないのか。

すみれの花は、嘘に逃げる人間の暗い魂を、激しく憂えているのです。




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ちひさくも

2025-03-19 02:14:44 | 





ちひさくも 確かに青き きゅうり草




*今週も俳句でいきましょう。

今、スレッズとブルースカイで、仲間が歌と句を展開しているところなので、わたしは口をはさむすきがありません。なのでしばらくは、彼らの仕事を鑑賞する側に回りましょう。それもまたおもしろいことだ。

きゅうり草は、米粒のように小さな、かわいい花です。よく見ると、とてもきれいな青色をしていて、きっちりと、うるわしい自分の花を生きている。

どんな小さなものにも、自分と言うものがあり、自分の自分を生きている。鳥には鳥の自分があり、花には花の自分がある。その自分というものの、自分らしい色や形を美しく生きている。それが自分の生の幸福と言うものです。

自分と言うものをそのままにまっすぐに生きていると、愛があふれてきて、精いっぱいの自分にできることで、みなのために働きたくなる。その自分の美しさが、たまらなくいいのだ。

自己存在の醍醐味というものでしょう。

野道の隅の小さな花でさえ、まっすぐに自分の魂を生き、それそのもので、この世界の愛の物語に寄与しているのです。

何と美しいのでしょうか。




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とこしへに

2025-03-12 03:13:13 | 





とこしへに なづなはなづな 野に光る




*今週も俳句でいきましょう。

最近わたしたちは歳時記を買いました。わたしは形式に縛られるのが嫌で、しばし歳時記は無視していたのですが、仲間はいろいろと勉強してみたくなったようです。

歳時記を開いてみると、なずなは新年の季語らしい。七草のひとつだからでしょうか。

春に咲くものと思って、春の季語と思い込んでいました。勉強はしなくてはなりませんね。

しかし、わたしはわたしだ。彼とは違う。彼は歳時記も勉強して、伝統に沿った句も詠みたいようだが、わたしは自由にやりたい。

永遠に、なずながなずなであるように。

わたしたちにとって、なずなは自分自身の存在の痛さを歌うのに、とてもよい花です。

野原の隅に地味に咲いている小さな花。日をまっすぐに見て、誇らしげに咲いている。その姿が、自分と言う大きなテーマに響くのです。

空き地の隅や、道端に咲いている何気ない花にも、確かな自分と言うものがあり、独自の世界を持っている。

永遠に、わたしはわたしなのだ。わたしの場所で光っている。





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睡蓮の

2025-03-05 02:45:59 | 






睡蓮の 泥沼に咲く 清らかさ





*今週も俳句でいきましょう。

知っての通り、睡蓮と言うのは、水底の泥に根差して、それは清らかな美しい花を咲かせます。

そのように、人間もまた、馬鹿をやりすぎた自分の、罪の泥に根差し、美しい花を咲かせることができるのです。

解脱をして、本当の自分に目覚めれば、迷いの時代にやってきた、愚かなことが、すべて、新しい自分を育てるための、土壌になるのです。

ですから、どんな深い罪を犯してしまっても、汚泥の中に埋もれて、自分を見捨ててはいけません。

そこに新たな自分の種を植えて、睡蓮のように、清らかに生きていくのです。

そうすれば、いつかすばらしい花が咲く。

迷いの時代になした、暗い罪の数々も清められ、すばらしく美しい自分になることができるのです。




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