ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

いつはりの

2022-05-26 07:41:23 | 短歌





いつはりの かほをわが身に とどめ置き うそをまことと なすすべをこふ




*馬鹿の妨害はおさまるどころか、ますますひどくなってきています。歌を詠もうにも、アタマの大事なところを厳重にふさがれていて、言葉の感性が開きません。全然歌が詠めない。苦しいですね。

その中で表題の作は、久しぶりに詠めたものです。前に似たようなのを作った覚えがありますから、本調子とはいかないまでも、なんとかなったという感じです。

偽物の顔を、自分にとどめ置いて、その嘘を本当にするすべを請う。要するに、嘘で作った美人の顔が惜しくてたまらず、それを捨てることができなくて、その自分を保ったまま、嘘を本当にできないものかと、虫のいいことを考えている。そういう馬鹿な人たちがいるという歌です。

人間、霊的側からずるをして操作すれば、自分を美人にすることなど簡単にできるのです。他人からきれいな顔を盗んで自分に張り付ければいい。そうすれば難しい勉強などせずとも、すぐに美人になることができる。美人になればいい男が引っかかって、人生楽をすることができるんだと、馬鹿な人たちはそんなことばかり考えて、他人の美人を盗み続けてきたのです。

でもそればかりやってきて、とうとう崩壊を迎えたのがこの時代です。偽物の美人というものがいるのだと、こちら側の人間にばれてしまった。こころとかたちが違う、詐欺みたいな人間がたくさんいることに、人間が気づいた。

本来かたちというものは、こころをそのまま表すものですから、かたちのきれいな人はこころもきれいなはずなのですが、偽物はそうではない。かたちはきれいなのに、こころはそれで人をだまして自分だけ得しようなんて、汚いことを考えている。それは愛ではない。愛ではないものが愛のふりをして実にきれいに自分を装っているのが、あまりに汚らしい。

馬鹿な人たちは、自分がそういう偽物であるということに気づいて、自分がつらいのだ。本当の自分に戻ろうとすれば、いやらしいこころそのままのかたちになって、自分の本性がばれてしまう。それがつらくて、偽物の美人顔をとどめ置き、それを本当にできないかと迷う。

でも嘘は嘘です。どんなにあがいても本当にはならない。

馬鹿な人たちは、偽物の美人顔に溺れこみ、本当の自分から逃げ続け、とうとう自分自身を失い、人間を落ちるしかないのです。




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鉛の肺

2022-05-19 08:50:15 | 短歌





乾ききる 砂をグラスに ついで飲む 鉛の肺に 降り積もる虚無





*相変わらず妨害があって歌が詠めませんので、10年前のかのじょの作品からいただいてきました。

10年前といえば、かのじょの中から彼が出てきて、この多重人格活動の先触れをやっていたころですね。かのじょは彼の突然の登場に驚きながらも、何とかついてきてくれていた。まだ自分の人生を降りなければならないとは気づいていなかったが、わたしたちの活動に、大部分自分を譲ってくれていました。

それは半面、かのじょが疲れ切っていたことを表す現象でもあるのですが。裏から現れてきた彼の強さにあらがえる力が、もうかのじょにはなかったのです。

表題の作品は、そういうかのじょの疲れを表しているように思いますね。かのじょは愛に恵まれず、砂を飲むような毎日を過ごしていた。世間の誤解と無理解にもまれて、自分の魂が疲れ切っていくのに、もはや何もできない自分がいる。

このままではかのじょは死んでしまう。魂が疲れ切って、人生をやっていくことができずに、倒れてしまう。この存在が倒れたら、人類の救済が倒れてしまう。そう思った彼は、強引にかのじょの人生を奪って、この人生の主役に躍り出たのでした。

こんなことは、本当は絶対にやってはいけないことなのですよ。だがやらざるを得なかったところに、わたしたちの苦しさがある。

絶望的な状況を何とかするために、愛の法則を破って彼がしてくれたことに、わたしは感謝します。そしてわたしとしてなんでもやって、彼を助けていきたいと願う。それが愛です。

愛がほとんど何もなくて、乾ききった砂を飲むような毎日を過ごしていた。鉛の肺に虚無が降り積もる。なんと悲しい歌でしょう。酸素のない風にさいなまれて氷の中を進んでいるようだ。かのじょはボロボロだったのです。

今は歌を詠うことがなかなかできませんが、できるならこのさみしい歌に明かりをともすような返歌をさしあげたいものだ。あなたを愛しているものがここにいますよと。



夢去りて 砂漠の砂を 飲む君の あばらの壺に 光を注ぐ



下手ですが、何とか詠めました。




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神はあり

2022-05-12 07:47:20 | 短歌





おほいなる うつろならむか あをぞらに 鳥鳴き渡る 神はありとぞ





*相変わらず歌が全く詠めません。脳みそを濡れた布でぎりぎりしばられているようで、歌を詠むアタマが全く働かないのです。感性の中枢を完全に封じられている。困りましたね。

なので表題の歌は、5年前に詠んだものです。あの頃は調子に乗ってみんなで乱作していましたから、いろんなのがある。積み重ねは大事ですね。こうしてつらい時の自分を助けてくれる。

あれは大いなる虚ろであろうか。青空に鳥が鳴きわたっている。神はいるのだと。

単純で力強い歌ですね。正確にはこれはわたしが詠んだ歌ではないのですが。この存在を共有している別の霊魂が詠んだものです。彼は大空に常に満ちている大きな神の存在を詠いたかったらしい。

確かに空を見ると、そこになつかしい何かがいるような気がする。あれは空っぽの空間ではないのだ。何らかの温かい意志がみなぎっている。そしていつも人間を見ている。その何かを、人間は神と名付けて、様々なことを語ってきたのでした。

神は人間の心が生み出した願望なのだとか、神はいない、すべては偶然の産物なのだとか、言う人もいますが、それは間違いですよ。神は存在しているのです。この人間存在の霊魂を創り、億年にわたって育て導いてきてくださった、すばらしい存在なのです。それを疑って奇妙な理屈で切り捨てようとするのは、神への侮辱というものです。

ほんの少し侮辱したからと言って、神は気になさらないと思ったら間違いますよ。神はいないなどという人からは、神は離れてゆくのです。そして人生に咲く花がしぼんでゆく。神が下さる美しいものが、貧しく小さくなってゆくのです。

神の存在を、理屈でつかもうとしてはいけません。神は圧倒的な実在です。神があるからこそ、この世界のすべてがある。人はその真実を認め、恭しく頭を下げねばなりません。

神を知り、神を愛し、神とともに生きていけば、人生に花が咲きます。それは美しい花です。人間存在の正直な努力を認めてくれる、すばらしい花なのです。




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きゅうりぐさ

2022-05-05 08:44:23 | 





野にひそむ 星と夢見る きゅうりぐさ     夢詩香




*歌が今まるで詠めませんので、俳句をやってみました。これもあまりよくありませんが、俳句だとなんとかなるようだ。頭の中の感性をそれほど酷使せずすらりと出てくる。

きゅうりぐさは春先から夏にかけて咲く米粒くらいの小さな青い花です。道端の草むらなどに、小さく光るその花を見つけると、少し心が躍りますね。あまりに小さいのに、しっかりとした花をつけている。こんな小さな花にも色があり美しいかたちがある。それが誇り高い魂のありかを示しているようで、なんだか頼もしい。

花を地上の星と例える詩はいくつもありますから、これも少し平凡な句のうちに入りますね。でもきゅうりぐさを見ると、どうしても空の小さな星を思い浮かべてしまう。迷いもなく空に輝く小さな星が、野に降りてきたら、こんな花になるのではないかと、そんな幻想を抱いてしまう。

空に何百億と輝く星々をまねしたのかと思うくらい、この世に星の数ほども咲く花々。その花それぞれが、美しい魂を有し、この世に愛を投げかけている。

星々もまたそうなのだ。空に光りながら、永遠の愛を宇宙に歌いかけている。その愛が空に満ちていることを、いつか地球人類も気づくだろう。

野に咲く一つの、目に見えないくらい小さな花にも、愛が隠れていることにも。

星も花も、美しい愛のかたちなのだ。だから花を星と幻想しても、それはあながち誤りではないのです。






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