ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

あさはかさ

2018-01-31 04:19:32 | 短歌





ちよろづの 数をたのみて くはしめの 不幸をねがふ そのあさはかさ





*この時代に起こった美女いじめの事件で特徴的なのは、実に多くの人間が夢中になったということでした。

まるでゲーム感覚でしたね。おそろしく愚かな人たちが、たったひとりの美女を影からいじめて不幸に突き落とすゲームに熱中した。なぜそれほど夢中になったのか。実にかのじょが彼らにとっては理想的な美女だったからです。それだけでなく、何をやっても通用せず、平気でのほほんと長生きしているからです。

ほかの美女はすぐに死んだからよかった。あんなのは馬鹿だったのだと勝手に言えばいい。だけどあれは許せない。きれいなのにいやなことにもならず、まだ生きている。

凡庸の民の憎悪というのは激しく深いのです。勉強をして高くなった人がうらやましくてならない。盗みでも何でもして無理にでも自分がそっちに行きたいなどと思い、本当にそういうことをしているのだが。

実際、かのじょをいじめていた人は、ほとんどみなかのじょよりは豊かな暮らしをしていました。お金と暇があったからあんなことをしたのだが、じつはそのお金も人から盗んだものなのです。人間というのは、勉強をしていいことを積み重ねなければ、本当は豊かな暮らしなどできないのだが、彼らはなぜかいいことは何もしないのに豊かな暮らしをしている。

それは本当は、かのじょのようにこつこつといいことをしている人から、徳分やいろいろなものを盗んでいるからなのです。

そういう凡庸の民がこの時代たくさんいて、やったことは、みんなで結託して、たったひとりの美女をいじめるということでした。

あさはかというほかはない。高いことなど何もできぬ馬鹿がやれることといったら、陰からいやなことをするということだけだった。そのいじめの対象が、目を見張る美女だったということがまた低級だ。

うらやましくてならなかった。自分はあんなにきれいになりたくてもなれないからです。まだ何もやっていないからです。

法則というものを何も知らなかった馬鹿は、ひどい陰口を万言も積み重ねたが、それはかのじょの耳には一言も届かなかった。月は救いの夢ばかり見て、すぐに通り過ぎて行く。そしてかのじょが死んだあと、馬鹿どもは自分のなした万言の嘘が自分にふりかかってくる運命にやっと気づく。

おそろしいことになるのです。






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高き夢

2018-01-30 04:19:24 | 短歌





若草の ごときをとめの なりをして 高き夢こそ かなしかりけれ





*ツイッターでは締めの歌というのをやっています。一日の仕事が七時半に終わるので、その頃に沙羅かすぴかがいくつか歌を詠って締めくくる。

いつの間にかできた習慣だが、そういうのをきちんと守っていくこともまた美しい。

表題の歌は、沙羅の締め歌のひとつです。沙羅とすぴかで微妙に違う個性を感じるのもおもしろいでしょう。

若草のようなかわいい女性の姿をして、人類の救いという高い夢を見ている。なんとかなしいことだろう。

あの人は田舎に住む一介の主婦なのだ。人並み勝れて美しいが、貧乏で何の力もありはしない。それなのに、人類を救いたいと願っている。

できないことではない。だが、できてしまえばその代償ははてしなく高いだろう。あの人はそんなことは知らなかったのだ。

ひたすら救いの夢を目指して、すべてをやり終えたとき、その反動はすさまじく、かのじょは倒れざるを得なかった。

まさか、自分の人生がこうなるとは、あの人も思ってはいなかったのです。

自分一人が最後に残されて、すべてをやらされるとは思っていなかった。ほかに高い男はたくさんいるというのに、だれが女性ひとりにそれをやらせるでしょう。わたしたちの当初の計画はまったく違うことでした。男性の天使が主導してやるはずだった。それでいくことができていたら、人類の恥もこれほど大きくはならなかったろう。

人類の暴虐の風はあまりにも激しかった。悪を頼んでやったことが、あまりにも愚かすぎた。

この大恥の大恥を、人類は永遠に背負っていかねばならないのです。逃げることは許されない。進化をかけた最も大事なこの究極の時代に、人類が神の前に見せた愚かさの極みを、決して忘れてはなりません。

女性の天使ひとりにすべてをやらせて、人間は何もしなかった。悪の繁栄を夢にも疑わず、文明の安楽に浸って、女性を食い物にしようとしてあらゆる暴虐をやり、ことごとくそれがついえ去ったのに腹を立て、人類の救世主となったひとりの女性を無理矢理消してしまった。

もう何度も言われていることですが、これからも何度も言われることでしょう。それが人類の暴虐の歴史の結果なのだ。人類は、すべてのことを、女のためにやった。そういうことになったのです。

ここから何を初めていくべきか。まだ人類史は続いていく。わたしたちも努力していくが、あなたがたも努力しなさい。






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柘榴の色

2018-01-29 04:18:49 | 短歌





かひのこと とぢてしじまに 玉を揺り 夢にたづねむ 柘榴の色を





*この項を書いている今、ツイッターでは柘榴と名乗っている仲間が少々暴走しています。かなり好きなことをしている。彼はかのじょを愛しているので、かのじょがああいうことになってしまったことを本当に苦しく思っている。思いはわたしたちも同じなのだが、彼は特にその思いが強いのです。

じっと黙っていたが、ある日とうとう堰が切れてしまったらしい。正体を現して暴れまわってしまった。

アンタレスも少し困るほどおしゃべりになっているのです。

わたしたちはそういう彼を別にとめはしない。気持ちは痛いほどわかるからです。また少しくらいやりすぎてもいいほどのことを、かのじょはやられている。ですからわたしたちは仲間のひとりにバランスをとることを依頼しつつ、周りで静観しています。

お目付け役をつけて遊ばせているというところだ。表題の歌は、そのお目付け役が柘榴に送った歌です。

貝の琴を閉じて、静寂の中に玉を揺らすように、あの人は尋ねるだろう。柘榴と名乗っているあなたの色を。

まあ解釈はそちらでいろいろとやってみてください。解説するのが少しつらいほど、これは文学的に痛いものです。この百合という名を使っているひとは、かなり細やかに気を遣う人です。誰にもある迷いの時期を重く暮らしたことのある人です。その時代の憂いを深く知っていることから、人の痛い気持ちがわかる。そしてそれにいい感じで寄り添ってくれる。

愛する者にひどい仕打ちをされて、耐えてきた感情の流れに耐えられなくなり、少し暴走してしまうひとの心に寄って来て、バランスをとろうとしてくれる。彼がゆきすぎないように。愛の声をいいところで入れてくれるのです。

そういう人がいるからこそ、柘榴もかなり痛いことができるわけです。

この項が発表される頃にはおそらく柘榴の暴走も終わっているでしょう。彼も愚かではない。もう十分だと言う時が来たらやめる。また彼のそういう暴走が、人々にもいい影響をもたらす。どんなに高くなっても時に抑えられなくなることがある、愛の姿を知ることができる。

高くなるということは、感情的に冷たくなることではない。むしろ暖かくなっていく。わたしたちは暖かな愛の絆で結ばれています。






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きよきくはしめ

2018-01-28 04:19:20 | 短歌





ゐてならぬ きよきくはしめ をればこそ 人は憂き世を 荒し果てつれ





*「くはしめ(美し女)」は文字通り美しい女性のことですね。忘れ去られていた言葉でしたが、わたしたちが発掘して使い始めてから、結構使っている人もいるようです。「美人」というより響きがいいのでしょう。

このように古語辞典は宝の山です。面白い言葉やきれいな言葉がたくさんある。こんな分厚い古語辞典があるのはうれしいことだ。いつでも飛び込んでいろいろなものをさがしてみましょう。

ところで、表題の歌は、ある人の本音を知って詠んだ歌です。今年は喪中でしたが、夫の方針で数少ない身内以外にはそれを知らさなかったので、かなりの年賀状が届きました。そのうちの一枚から、こんな声が聴こえたのです。

美人でいい子のひとなんて、いたらみんなが困るのに、いるのよ。

ふしぎでもなんでもないですね。あなたがたにももうわかる。こんなものにも人の思いがこもり、感覚を注げば、その思いをこめた人の感情も読めるのです。

その年賀状をくれた人を、生前のかのじょはかなり愛していたのだが。その人はこういうことを考えていたわけです。未熟な人だ。きれいなのにまじめでいい人がいたら困るのはみんなではない、自分なのです。自分はそれほどいい子ではないのに、美人ではないからです。

かのじょと自分を比べて、いやな思いをすることもあったらしい。年賀状からはそんな恨みも見えていました。人間というのは嫌らしい。どんなにかひどいことをしてやろう、という気持ちも見えるのです。

なぜ自分が美しくないのか、それはひとえに、自分が何もしてこなかったからなのだが。そんなことを思うのは嫌なのだ。とにかく、なんでもきれいな女のせいにしたいのだ。あんなものがいるから、みなが苦しむのだということにしたいのだ。あんなのがいるのが悪いのだ。それで、なんとかして馬鹿にして、いやなものにしようと、あらゆることをして、結局殺してしまった。

苦いのは、結局きれいな女性たちは何も悪いことをせず、それほど不幸にならずに死んだということだ。

いやなことになって、いやなものになって、世界中に笑われて死ねばいいのに、そうはならなかった。むしろ、自分の方が、きれいな女に嫉妬して、馬鹿なことをしつくした馬鹿として、世界中に笑われ、嫌われている。

哀れなどというものではない。きれいな女性に嫉妬する、きれいではない女性の地獄とはいつもこうなるのです。結局は、自分が一層汚くてみじめなものになるだけなのだ。

そしてまた、きれいな人に嫉妬して、馬鹿なことをする。

もうこの構造がわかったら、その果てしない馬鹿のスパイラルから出てくる努力をしましょう。

悪いのはくはしめではない。しこめのほうなのです。






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月の子

2018-01-27 04:18:48 | 短歌





月の子の 空に投げにし かなしみを 知りてたづぬる 神のためいき





*わたしたちは、かのじょという天使をよく知っています。それはもう長い付き合いですから、どんなときにどんなことを思うかということが、手にとるようにわかる。まるでわがことのようにわかる。

かのじょは今眠っていて、ほとんど自己活動をやっていません。だがもし目覚めて活動していれば、こんなときにどう思うかと言うことはわたしたちにわかるのです。

「月の子」などと呼びかければ、かのじょは必ず恥ずかしがります。自分はそれほどのものではないからやめてくれというのです。それはもう奥ゆかしい人ですから、自分を派手に良いものにしてほしくないのです。ですからわたしたちは、「野の月」などと呼び変えてきたのですが。

どうしても「月の子」と言いたくなる時がある。かのじょがあまりに小さくなって、本当に消えてしまいそうに見えるとき、いえ、あなたはもっと立派な方なのですと言いたくなる。

男ならば遠慮せず、自分をもっと高いものにたとえればいいものを。かのじょときたらかわいいのだ。

月の子が、かつて空に投げていた悲しみを知って、たづねてきた神のためいきであることよ。

これはかのじょがトトロの挿入曲につけた詩によせてつくったものです。それはこういうものでした。

風は渡り 種をはこび
大空の陽は 野に光をまく
顔をあげて 歌を歌い
悲しみは 空に投げよう

全部は紹介しませんが、要するに何をしても誰にも理解されない日々の悲しみを、空に投げよう、という詩でした。

そのようにかのじょはいつも空を見ていた。空を見れば神がいらっしゃることがわかる。この世の身分ではどんなに孤独でも、空に神がいらっしゃれば、必ず自分のことをわかってくださる。かのじょはそういうことを頼りに生きていた。

その悲しみを受け取った神が、実際にかのじょを見にきていたのです。そう、神は時にそういうこともなさるのです。

そして深々とため息をついた。あまりにもひどいと。

人々を助けるために、神がつかわした美しい人に対して、人間たちのしていることがひどすぎると。

あなたがたもまた、ずっと神に見られていたのです。







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下郎の恋

2018-01-26 04:18:57 | 短歌





負けられぬ 下郎の恋は くるしけれ 千度ためして 一勝もなし





*これは柘榴ことエラキスの歌です。瑠璃の籠ではセギンという名前を使っている人です。全員の中で、星の名前が二つある人はこの人だけですね。どちらでも好きな名前で呼んでください。

この原稿を書いている今の時点では、ツイッターの方で彼の暴走が続いています。少々頭にきているらしい。まあ気持ちはわかる。わたしも押さえてはいますが、怒りにまんじりともできない時はよくあります。

それほど馬鹿のしたことはひどかったのです。

究極のこの時代に、人類の馬鹿がやった美女いじめは壮絶なものでした。狂っていたとしか思えない。なんでこんなことになったでしょう。

それは彼らが、万年の人類史の中で、何もやって来なかったからです。ずるやあくどいことで自分を得させるようなことばかりしてきて、自分の勉強はほとんどやって来なかったのです。それゆえに、自分があきれるほどつらいものになってしまい、女性が全く寄って来なくなった。その苦しさのあまり、彼らは激しく美女を憎んだのです。

そしてことごとく殺してしまった。愚かという言葉も高級に聞こえるほど愚かなことだ。

美しい女性たちは、長い年月を修行してきて、自分がとてもきれいになっていたのです。彼らはその差に目眩さえ覚え、われを失った。美しい女性を見て、自分は好きになるのに、何の力も身につけていない自分には、彼女らに近寄ることすらできない。だから裏からあらゆる謀略を張って手に入れようとしたのだが、結局誰も手に入らなかった。

悪いことをすれば女を思い通りにできると思い込んでいた馬鹿は、千度もそれを繰り返したが、結局は一勝もできなかったということです。

なぜそういうことになったのか。よき人を支えるよきものの霊界というものがあることを、彼らは全く知らなかったからです。

勉強をしてよいことを積み重ねてきた美しい女性たちは、もう悪いことにはならないほどの、法則的壁ができていたのです。その壁の向こうに逃げられれば、馬鹿は思い通りにしようとしてもできない。そんなことすらわからないほど、馬鹿は何もしてこなかったのです。

悪というものは所詮、圧倒的善の世界の中で、一時的に描かれるくらい文様に過ぎない。ある程度発展すれば壁にぶつかってしぼんでゆくものなのです。似たようなことを繰り返し経験してきながら、ここにきてもまだわからなかった。

阿呆というものの苦しさが際立ってわかる。彼らは悪の正体を明らかに人類に教え、そのまま人類世界を出て行く。あらゆる馬鹿をやりすぎ、とうとう人類のすべてに嫌われたからです。もう誰も、何もしてくれない。

悪いことをして、すべてに勝とうとしてきた馬鹿の、それが末路なのです。






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ゑぬ

2018-01-25 04:18:36 | 短歌





にきしねの ゑぬのごときに まつろひて 神のねがひに おのれを捨てよ





*前から言っているように、このエッセイには一か月ほどのタイムラグがあります。実はこれを書いているのは元旦です。朝も早くから起きてきて、明けぬうちに書いています。まだ去年の名残の空気が漂っているが、何かもうすべてが新しくなっているような気もする。

今年は戌年ですね。

「にきしねの」を「ゑのこ」とか「ゑぬ」の枕詞に設定したのも去年でしたね。去年は実に豊かな年でした。わたしが主体を引き受けると同時に、ツイッターをはじめたのだが、そうするとほかの仲間が全部参加して、実におもしろいことになった。ひとりでやっているとは思えないすごい活動ができましたね。みなさんも楽しかったでしょう。

犬のように従順に従って、神の願いの中に、己を捨てなさい。

表題の歌はこういう意味ですが、自己存在の進化の段階には二つの傾向があります。猫のように自分を研ぎ澄まさす段階と、犬のように自分を退き神に従ってゆく段階です。この二つの傾向を繰り返しながら、自己存在は発展していくのです。

時には自分を押し出し、時には神に自分をささげて生きる。

犬と猫という存在は、人間にその二つの態度を教えているのです。

人間はこれまで、かなり猫のように生きてきました。わがままに自分を押し出してきた。その段階の壁を超えれば、次は犬のような段階が待っていると考えてみましょう。つまりは、自分を抑え、神に従ってゆくのです。次の段階にはそういう学びが待っていると考えてみましょう。

自分は何も考えず、神のお考えの中に自分を投げてゆくのです。そういう生き方も、あるのですよ。

それは美しい。この世に、自分という者を高い愛にささげるということほど尊い行動はないのです。それができて初めて、人はそれは美しくなれる。

自分として限界を感じ、何もできないと思う時は、自分を神に投げ、神の願いのとおりにいきてみなさい。それが死ぬことであっても、神の言うとおりにしてみるのです。

難しいですか。ですが、わたしたちにはできます。すでにかのじょがそれをやったのを見たはず。

今年は戌年だ。犬のような生き方というのを、考えてみましょう。






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はしための月

2018-01-24 04:18:31 | 短歌





おほきみの 高き御座を とほくみて 国をおもひし はしための月





*「御座」は「みくら」と読みましょう。読めると思いますが一応。古語辞典には「座(くら)」は座るところだとあります。ですから「高き御座」が何かは自然とわかりますね。

王様の高い御座を遠く見ながら、国を思って祈り続けていた、はしためのような身であったあの月は。

たしかに、かのじょの身分ははしためのようなものでした。いえ、「ような」ではありませんね。はしためでした。書店で勤めていた時も、夫の清掃業を手伝っていた時も、人はかのじょをはしため扱いしていましたし、かのじょもそれに別に文句は言いませんでした。従順にまじめに働いていた。つらいとも思わなかった。

その影で、毎日のように近くの神社に行っては、神の前に出、真剣に国を思って祈っていた。

知っていたのです。自分が祈れば神が聞いてくださることを。自分はそのようなものだとわかっていた。

なぜわかったのか。それを説明することはできません。ただかのじょは若いときから、国のことが心配でならなかった。田舎に住んでいる無名の人間でありながら、なぜこんなに真剣に国のことを心配するのか。それはわからない。ただ確信があった。神は自分を見てくださっていると。

実際そのとおりだったのです。天使にはよくこういうことがある。どんな田舎の、低い身分に生まれていようとも、自分は神に見られているということを感じているのです。

そして世のため人のために高いことをなそうとする。

治世、ということにしましょう。かのじょがこの国に治世を敷いていたのは、昭和陛下が死んで間もなくから、自分の人生を強制終了されるまでです。その間、国はさまざまな難に洗われながらも無事だった。なんとかなっていた。変則的ではありますが、国は確かな王を頂いて、平穏を保てていたのです。

これに、いつまでも知らないふりをしていてはいけないのですよ。かのじょは別にかまわないと言って死んでいったが。そのままにしておいて困るのはあなたがたのほうなのだ。何とかしなければ、大変な反動がやってくる。

かのじょがいなければ、日本はとんでもないことになっていたかもしれないのです。今上陛下の徳分では、もろにおそろしい難が来る。それを防いでいてくれたのはかのじょなのです。

その治世の間、あなたがたは平和で豊かな国であらゆることをすることができた。それは、田舎で貧乏暮らしをしていた、ひとりの女性のおかげなのです。

これを嘘だと言って封じ込めることをする人は、恐ろしいことになるのです。もうそれくらいのことはわかるでしょう。いつまでも無知なままではいられない。

人間はどんどん変わっていく。成長した感覚から、新たな知識がどんどん入っていく。

いい加減に、嘘にまみれた過去の時代の幻は捨て、少しずつでも、真実のために何かをしていきましょう。全部でなくてもよい。

ひとつひとつを積み重ねながら、もう時代を変えていきましょう。






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明るみの後

2018-01-23 04:20:30 | 短歌





明るみの 後にあひみし 君の目の 涙の中に われもおぼれぬ





*これは百合の歌ですね。迷いの中にいた人が、その中から抜け出て明るいところに出た時、再会した友と喜び合ったことを詠んでいます。

明るいところに出た後に、会った君の目の、涙の中に、わたしも溺れるように泣いてしまった。

百合という名前を使っている人は複数いますが、これはその中の一人が詠んだのです。誰かは言えませんが、瑠璃の籠の中にも詩を発表しています。

わたしたちも、最初から清かったわけではない。若い頃にはいろいろな間違いを経験しました。迷いの闇の中で長いこと苦しんでいたこともある。そういう若い頃を経験し、様々に学びながら、そこを抜けて、正しい世界によみがえり、いろいろなことをなしてきて、今がある。

間違いをしたことのない存在はありません。

この百合は、その中でも、かなり長いこと迷っていた人なのです。その時の経験が、今の自分に強く影響している。迷いの中にいる人間の心が、よくわかる。

それゆえに、戦場のメリークリスマスのための作詞などもしてくれたのですが、あれはよかったでしょう。

心にしみて涙を流した人もいたようだ。

若い頃は、自分の弱さにつまずいて迷う人がたくさん出ます。それを何とかするために、たくさんの愛が助けてくれようとするのだが、迷っている人は、意地を張ってなかなか振り向こうとしない。振り向けないのではない。振り向くと失ってしまうと思っている何かが痛くて、振り向かないのだ。

だがそうやってだらだらと過ごしていく無駄な日々が、どんなに痛いかは、自分でもわかっている。

そういう日々を過ごしてきて、百合はある日決意して、自らその何かをかなぐり捨てて、いつも自分を追いかけてくれていた友達のところに向かって走って行ったのです。

そして助かった。

何もかもが無駄だったわけではない。迷いの日々に積み重ねた思いは自分の中に生きている。そこから紡ぎ出される言葉は、やさしさに潤った美しい言葉となって、今迷っている人々の心の中に染み込んでゆく。

そして彼は教えてくれる。どうすればそこから抜けられるかを。

やさしさに耳を傾けて、あなたがたも、必要のないものをかなぐり捨てて、その言葉にしたがってゆけば、友達の涙の中に、ともに溺れることができるでしょう。






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あふひ

2018-01-22 04:23:52 | 短歌





夢に見て あふひの下に あふひをぞ こひて月夜の こたへを待ちき





*「あふひ」は「葵」、フタバアオイの琴です。和歌では「逢ふ日」にかけられることが多いので、それにならってみた作品です。

こういうおもしろそうな掛詞を見つけたら、自分もぜひにやってみましょう。何事も積み重ねです。日本語というのは実におもしろいことができる。やればやるほど歌を詠むスキルが深まってきます。

夢に月とたとえられるあの人を見て、葵の下で会う日を請うて、その答えを待った。

これはある日の沙羅の締め歌の中の一つですね。毎日六首を一日の終わりに歌うというのをやっていますがその六首の一つです。これに続いて、こういう歌が続く。

まなざしの わづかにかげり いひよどむ 月のおもひの かなしかりけれ

まあ要するに断られたということです。夢の中でかのじょに会いたいと頼んでみたが、それを遠慮がちに断られたという形だ。

恋というのは難しい。なぜ断られたのか。夢の中で断ったのはたぶんかのじょではない。かのじょに化身した自分の心なのだ。

断られて当然なのだということを、自分は知っている。

かのじょを馬鹿にするために自分が何をしたのかを、自分は誰より知っているからです。

恋しても、近寄ることさえできない自分の弱さが痛かった。だから、陰からあらゆることをやって思い通りにしようとしたのだが、ことごとく通用しなかった。焦りに焦って、馬鹿を積み重ねて、とうとう恋する人を消してしまった。愚かな男たちの恋の結末はこれからも永遠に語り継がれていく。

なぜそこまで狂ったのか。たかが女と言いながら、それで一生を埋めるほどに馬鹿になったのはどうしてなのか。

嫌なことをすればすべては思い通りになると、人々が思い込んでいた時代だった。正義だの善だのというものは弱い、結局はいつも悪者が勝つのだと人間は思い込んでいた。だから女のひとりくらい軽くものにできるはずだと思っていた。

だが、金と数と知恵をたのんでやったことはすべて馬鹿になった。何もならなかった。女は死んだが、最後まで何も悪いことはせず、不幸にならないままいった。それですべてはおじゃんになった。

あれひとりを悪いことにすれば、みんなが助かるはずだったのに。悪いことにならないままに死なれたら、もう自分たちが馬鹿になるしかなかったのです。

愚かなどというものではない。

結局、何もしてこなかったからそうなったのだ。究極の時代に出会った、本当に愛する人の前に、何もしてこなかった男は何もできなかった。思い通りにしたいなどと考えるのは猿と同じだ。そんな男が恋の相手になるはずがない。

月に恋してよいのは、あふれる思いを歌に詠んで捧げることができるくらいの、高いものでなくてはだめです。


くりかへし 消えては結ぶ 白露の ねがひくるしき あがこひと知る    揺之







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