ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

君の闇夜

2017-02-28 04:23:43 | 短歌






塵くずの ごとく珠玉を つかみ捨つる 君の闇夜を 月見捨つるな






*これも、かのじょの初期の作品です。字余りの語句がありますが、それが返ってよいと感じるのは、この歌があまりにかわいいからでしょう。真実はもっと厳しいのだが、それを何とかしてでも、おまえによいことをしてやりたいのだと、そういう心が見える。「つかみすつる」と「つきみすつるな」で音が重なっているのも面白い。こういうものがするするとできるのは、なかなかに修行が進んでいる証拠です。

塵くずのようなものだと思って、大切な珠玉をつかみ捨ててしまった。そういうあなたの闇をさまよう心を、どうか月よ、見捨てないで照らしておくれ。

これを読んでいた時、まさに時代は真っ暗闇だった。世界は平穏であるようでいて、かのじょにとっては逆風の嵐だった。人々は、なんでもない顔をして、大切な愛を捨てていく。それがどんなに痛いことになるか、わかっていないのだ。だがそれでも、何とかしてやりたい。真っ暗闇を、かすかにでも照らしてあげられる、月にもなってあげよう。

それで様々なことをしていたのだが。人々には、かのじょのこういう心はわからなかった。だから、闇夜を必死に照らそうとしてくれていた月を、ただ美しいのがいやだという理由だけで、集団で引きずり落して粉々に砕こうとしたのです。

月はその前に消えてしまった。神が、隠してしまったのです。おまえたちが永遠にこんなものはいらないというのなら、もう二度と渡しはしないと。

無理をしてでも、何とかしてやりたい。可能性がなきに等しくても、なんとかなる方法がありはしないか。そういうものを探して、必死に生きていた。そういうあの人の無理が、真ん中の六文字に出ているような気がする。

神が定めた運命をはみ出してでも、何とかできはしないものか。疲れ果てて倒れてしまうまで、あの人はそれを探していたのです。

だが人間は、珠玉を捨てるように、その月を捨ててしまった。なんでもないことを理由にして、すべて月が悪いのだということにして、自分を守ろうとした。そしてすべては馬鹿になる。

法則や決まりをそれはきちきちとまじめに守る方なのだが、愛の前には時に、その決まりに反抗してでも、愛する者のためにやってやりたいと思う。それが愛です。無きに等しい可能性を生み出そうとするとき、愛は決まりをはみ出す。だがそれが時に、本当に何かを産むことがある。

美しい歌ですね。これを読んで、あなたがたの心に何が生まれるでしょうか。はっきりとそれがわかるのは、たぶん、二百年くらい後のことでしょう。







まつふぐり

2017-02-27 04:26:35 | 






たまのごと なるをいとしむ まつふぐり     夢詩香






*「まつふぐり」は松ぼっくりのことです。一応松ぼっくりの写真は撮ったのですが、あまりいい感じにならなかったので、これで代用です。相変わらず写真は、句や歌にあまり関係なく、その時々の直感で選んでいます。

人間は、松ぼっくりのような丸いものを見ると、つい心を惹かれてしまいますね。松ぼっくりが落ちているのを見ると、つい拾いたくなる。食べ物にもならないし、特に役に立つものではないのに、丸いというだけで、手にとりたくなる。かわいいからです。

かのじょの友人に、松ぼっくりを使って、きれいなリースやかわいい小物を作るのが上手な人がいましたね。そういうのを玄関先に飾ってあるのを、あの人は愛おしそうに見ていた。女の人の、そういうかわいい心遣いを、あの人は愛していた。

女性に、そんなかわいいことをさせてくれる松ぼっくりは、ありがたいものです。あの丸さがあるだけで、心が豊かになる。丸いものは愛らしい。

ところで、まつふぐりは漢字で書くと、「松陰嚢」です。言わずともわかりますが、この名前はあまり人間の気に入るものではありません。イヌフグリの名を他に変えようとする人もいるくらいですから、かなり嫌われているようです。

陰嚢というのも丸いものですが、これをかわいいと思う人はまれです。なぜというにそれには、男のいやなものが染みついているからです。なんとなく考えたくないことではありますが、これは十分、男性にとっては悲しいことですよ。

人類の男性は、霊長類の中では断トツに大きい性器を持っています。それは要するに、人間の男が、セックスでいろいろと醜くて嫌なことをたくさんしてきたからです。本当ですよ。その証拠に、昔の男性は今ほど大きな性器をしていませんでした。ミケランジェロのダヴィデのそれは大きくデフォルメされていますが、ギリシャ・ローマ時代の彫刻は、それほどそれを変えてはいません。まだそれほど馬鹿なことをしていなかったので、それなりに、見栄えが苦しくならないほどの大きさだったのです。

だが今の男性はとても大きな性器をしている。それは時に、男性を大きく苦しめている。馬鹿に大きな性器をしているのが、とても痛いので、男性はそれをごまかすために、女性を馬鹿にする。どう見ても、女性の方がいい感じに見えるからです。

セックスで、女性に嫌なことをしすぎてきたから、そうなったのですよ。これは本当のことです。男性は自分の性器を見るたびに、自分たちのしてきたことを思い出さずにいられない。その醜さがくるしいということが、男をあらゆる暴虐に駆り立てる。

美しくないということは、それほどつらいことなのです。

だが、自分を暴力的な醜さから脱却させるためには、いつまでも馬鹿をやっていてはいけません。本当に美しく立派な男になりたいのなら、美しく立派なことをしなさい。時には死も恐れず、自分を難にぶつけ、時代を変えてみなさい。

女に甘えて、馬鹿なことをする自分を無理矢理男にしてもらっているようでは、いつまでも自分の醜悪さから逃れることはできません。







明日の種

2017-02-26 04:21:06 | 短歌






失せけりと 青ざめて泣く 露草の 明日の種を 身に宿すかな







*これは、かのじょが短歌を詠み始めた、最初の頃に詠んだ作品です。確か、ミクシィに発表したものではなかったか。初心者だというのに、うまいですね。前世での積み重ねが、この時出てきたのです。

何をなくしたのかわからないが、露草がなくしたと言って青ざめて泣いている。心配することはない。あなたの中には、明日の種が宿っているから。

本当に、心優しい人だ。なんにでも、よいことを見出してやろうとする。悲しいことはない、何とかなるんだと、勇気づけてくれようとする。だが、わたしに言わせてもらえば、取り返しのつかない喪失というのは、よくあるものだ。

この時のあの人は、自分がまさにそういうものになるとは、思ってもいなかったろう。

あなたがたは大勢で、あの人を否定して虚無の向こうに追いやってしまったが、その喪失の寒さが真に骨身に染みるのは、ずっと後のことだ。そのときに後悔しても、すべては遅い。無くしたものは、永遠に戻らない。厳しいが、神は、人間が、決してしてはならないということをした時、最も厳しい裁きを下すのです。

いやだというのなら、二度とお前たちに、あの愛はやらないと。それはもはや永遠にくつがえらない決定です。やり直したくてもできはしない。

再生のない死とは、本来あるものではないが、人間がそれを願ったとき、神がそれを作るのです。神の創造はすばらしい。絶妙の技で、見事に美しくおやりなさる。あなたがたはわめくことすらできないのだ。

ありえないことなど、この世界にはないのですよ。自己存在とは、あらゆるものを創造していくものですから、なんでも作ろうと思えば、作ることができる。消滅というものすら、神ならば作ることができるのです。

だが、かのじょのこの歌にあるように、明日の種というものが、全くないかと言えば、そうとも言えない。あなたがたも同じ、自己存在ですから、自分で作ろうと思えば、自分の中に、明日の種を作ることもできるのです。

十二分に勉強することは必要だが、失ったあの愛は戻らないまでも、それに近いものを作ることができるかもしれない、自分を作ることはできる。

それが創造というものです。







陽だまりに

2017-02-25 04:21:28 | 






陽だまりに つつじ咲きにし 訳を問ふ     夢詩香






*これは、いつもゆくスーパーの近くにある家の、庭に咲いているつつじです。つつじは一応初夏の花だが、この南の国では、日の暖かい冬の日にも咲くことがあります。

身近にいる花は、身近にいる人間をよく知っている。だからこの花も、親し気な顔でわたしたちを見てくれる。いつも近くから、一生懸命に生きていたあの人を見ていたからです。

あの人は、花の心を感じるのが好きだった。咲いている花を見つけては近寄って行き、美しい目で見ていた。心を教えてくれと言って、花に語り掛けていた。花は、最初はおずおずとだが、かのじょの素直な心に惹かれて、だんだんとものを言うようになっていったのです。

かのじょは花々が言ってくれたことを、自分なりに翻訳していて表現していた。それは、かなり、花々にもうれしいことだったのです。自分の心を、みなに言ってくれる。わかってもらいたいけれど、わかってもらえないのだと思っていたことを、かのじょが少しでも言ってくれる。

その人がいなくなったことは、花々にも悲しいことなのだ。そういうことを、この花は言っています。

つつじは麗しい花だと、かのじょは言ったことがある。本当は山にいて、人知れず咲いていたいのに、人里にきて咲いている。それはつつじが、自分たちの花を必要としている人間の心を、見捨てることができないからだ。そんなにも、つつじは心優しい花なのだ。と、そうかのじょは言ったことがある。

心のやさしい人だったからこそ、この花の心がわかったのです。きめ細やかで深い女性の心だからこそ、この深く女性的な心を持った花の心がわかったのです。

風の冷たい冬の日に、陽だまりを縫って咲いてくれた花には、少しでもかのじょに花を見せてやりたいという心が見える。あの人は眠っているが、きっと何かが届くだろう。きれいに咲いていれば、神が助けてくださるだろう。

人間よ。教えてあげましょう。女性というのは弱いものだ。男のように強いことはできない。だからこそ怖いのです。

ただひとかけらの美しい心だけで、神を動かしてしまうことがあるからです。








はいのこうや

2017-02-24 04:26:31 | 短歌






あいなくて はいのこうやに みるゆめは いーいこーる えむしーじじょう






*今日は少しユニークなものを選んでみました。わたしたちは古語で詠むことが多いので、これは珍しい作品です。本館で発表した彼の作品ですから、覚えている人もいるでしょう。

E=mc2というのは、アインシュタインの公式ですが、相対性理論など難しくて何もわからない人でも、この式は知っているでしょう。Eはエネルギー、 mは質量で、cは光速度のことです。

ようするに、エネルギーと質量は等しいものだということらしいが、これは本当は、神が存在しないという仮定をしなければ、成り立たない公式です。

エントロピーなんて言葉もありますがね、あれもそうです。神という存在がおらず、すべてをよくしていこうとする美しい存在の意志が全く存在しなければ、世界はこういうものになる、という考えを表現しているものです。

物理学とはそのまま、「物」だけの学問なのです。

難しい計算の世界を、無理して泳がなくていい。まあごくごく簡単に言えば、家をきれいにしようと掃除をする人がいなければ、家は際限なく散らかっていくということと、そう変わりはありません。

何もしなければ、あらゆるものは乱雑に崩れていき、意義を薄めてゆき、愛が抹消され、すべてが壊れていくのです。

E=mc2とは、神の存在を否定してしまった人間が、神のいない世界を垣間見た時に、自分の夢に刻した、大いなる幻論なのです。本当はこれは、成立するはずがないのです。なぜなら、神は、いらっしゃるからです。

あらゆる存在の幸福のために、あらゆる偉大な創造をなしていこうとする、あまりにも大きく美しい存在が、まるで大洋に棲む魚の数のようにたくさんいらっしゃる。それゆえに、あまりにも美しくすばらしい創造が永遠に繰り返される。それこそが真実なのです。

宇宙は、崩壊ではなく、繁栄の方に、常に向かっている。馬鹿というものは、愛に目を閉じているがゆえに、この明らかな真実がわからないのです。

神がいないならば、宇宙が際限なく崩壊と堕落に向かっていくものでしかないのなら、なぜ今、このすばらしい地球世界があるのか。段階の深すぎる、高すぎる秩序が存在できるのか。

世界がすべて偶然でできたというのなら、これを当たり前と考えるのはおかしい。

歌の意味は、愛というものの存在を否定し、物のみによって生きていたら、馬鹿につらいことになりすぎるという意味ですよ。アインシュタインは、かなり個性的な面白い人間ですが、E=mc2は、彼が考えていたのとは違う意味を帯びて、人類の記憶に残ることでしょう。

愛を馬鹿にして、知恵のみが発展すれば、そういう世界が見えるという意味です。その意味で、彼のなした功績は大きいとも言えますね。

この公式を頼りにして、生きてはいけませんよ。無理に無理を重ねなければそんなことはできませんが、人間は時に、自分から逃げようとして、こういう幻にすがることがある。そんなことをすれば、必ず、嫌なことになります。

愛がなくなるからです。







ふりそそぐ

2017-02-23 04:37:07 | 






ふりそそぐ 日を喜びて 野辺の草     夢詩香






*きついのが続くと、やはりやさしいものが欲しくなりますね。甘すぎるかのじょの歌や詩のようなものは作れませんが、わたしもこういう句は詠めます。

先日、試練の天使と一緒に、この近くを散策していた時に詠んだ句です。わたしたちはこの一つの肉体に、微妙に位置をずらして同時に存在していますから、一人が行動していることを、みんなで共有することができるのです。

広い道からそれて、突き当りに塀のある細い道に入っていくと、わきに荒れ放題の小さな庭があって、そこに、野生化したミントの草むらが茂っていました。それが、冬の日を浴びている様が、まさにこういう感じでした。

こんな小さな狭い庭にも、日はふりそそいでくれる。草はその愛のありがたさを知っている。だから、まるで親を慕うように一心に上に伸びているのです。

写真を撮ったのですが、あまりよくとれなかったので、これで代用です。ミントは少し気難しくて、あまりよい顔をして写ってくれないのです。花や木の性格によっては、カメラにいい顔をしてくれるものとそうでないものがいるのですよ。そこはそれ、花には花の、それぞれの心があるからです。

だが、カメラには気難しい顔をする草も、日を浴びる時には素直な顔を見せてくれる。まるであれは、澄んだ信仰のようでした。ミントは、神を、あまりに澄んだ気持ちで愛しているのです。甘い愛を惜しみなく注いでくれる神の、あまりに大きく、幽玄というしかない美しすぎるものが、身近にありふれて存在していることが、あまりにうれしいのです。

美しい、美しい、美しい。

滴る愛に、心の芯をあらわにして、幸福をそのまま感じる時の自己存在は、あまりに満ち足りている。

そんな様子を、わたしはあの時みたのです。田舎道の突き当りにあった、手入れもされていない見捨てられた庭で、人知れず茂っていた青いミントが、美しい神への信仰を、静かに編んでいた。

信仰とは、金を払ったり吸い取ったりするものではない。降り注ぐ愛に、あまりに大きすぎる暖かさを感じた時、愛よりも大きな崇敬が自分の中に起こる。そのとき自己存在というものは、信仰と言わざるを得ないような心の中に自分がいるのを発見するのです。







小鴨

2017-02-22 04:21:23 | 短歌






白鳥に ならむとはして その肝を 食ひし小鴨が 鴨に帰れず






*きついものが続きます。かのじょの甘い作品もたくさん残っているのですが、今は気分として、こういう感じのを選んでみたいですね。

白鳥になりたいと思って、白鳥の肝を食った小鴨が、うまく化けてはみたが、元の自分に戻ろうとしたら、もうそれができなかったと。

こういうことは、よくあるのですよ。馬鹿なことをすると、馬鹿なことをしたもの、というものに、人間はなってしまうのです。どうしても、やったことの跡が、自分に残るからです。

白鳥に化けた小鴨に、白鳥の羽が生えるようなものです。それは見るからにおかしい。鴨には鴨なりの羽があって、それが似つかわしくてとても美しいのに、奇妙に違う羽が生えている。それだけで、妙な鴨になる。

恥ずかしいなどというものではありません。

人から顔や姿を盗むと、自分の霊体にその跡が残るのです。それは絶対に消えない。そんなことばかりしてきた人間の霊体には、その跡が痛いほど残っている。二度と消せない跡が、卵のようにくっついていて、とても変な感じになっている。それが恥ずかしくて、隠そうとして、また盗む。

そんなことばかり繰り返して来たら、とうとう、鴨が鴨ではないものになってしまうのです。

この時代、あまりに愚かな盗みをやって、とうとう人間ではないものになってしまった人間が、たくさん出ました。もはや二度と人間には戻れないというものになってしまった。そういう馬鹿がたくさん出たのです。

いやなことをするなどというものではない。田舎の掃除夫が大国の大統領になるというほどの愚かな盗みをやってしまったら、とうとう自分が人間ではなくなったのです。人間とは全く違うものに、なってしまったのです。

浅はかな自分の欲望のために、大国の運命を盗んだからです。それで人類を困難に巻き込んで、恥じることさえしなかったからです。そんなものはもう、人間ではないのです。

彼はもう二度と人間に戻れない。全く違う存在として、生きていかねばならない。馬鹿なことをやりすぎると、こういうことになるのです。







悪人が

2017-02-21 04:21:52 | その他






悪人が 勝つと思ひて 世を盗む     夢詩香






*かのじょの愛らしい作品の次には、なんだか男らしくきついものが欲しくなりますね。口当たりのいいあっさりとしたケーキの後に、なんだか重厚なステーキでも食べたくなる気分です。

なので、こういうのを選んでみました。

悪いことをするというのは、実は簡単なことです。ほとんど、人を馬鹿にすればいいだけのことだからです。

真面目に努力している人をあざ笑い、そんなことをしても無駄なんだということにするために、裏に回って嫌なことをして、真面目によいことをしている人を、ひどい目に会わせる。それで、悪いことができる人間の方を偉いことにするのです。

人を馬鹿にするということは、人の美しいところの一切を認めようとせず、馬鹿でくだらないものだと言って、いやなことばかりしていじめるということです。そんなことをして、人を苦しめれば、それが返ってきて、自分もつらいことになるのだが、悪人というものはそれがいやで、あらゆる技術を弄して、自分の方がいいことにするために、馬鹿なことをみんなよい人の方に押し付けてきたのです。

それは一時期は、功を奏して大層羽振りがいい境遇を持ってくるのだが、すぐにだめになる。馬鹿なものは、正しい自分の修行をせず、他人の努力を大量に盗んで、自分の巨大な牙城を作るのだが、いつでもそれは、蟻塚のようにもろく崩れていく。

そういう幻の時代を、いくつも潜り抜けてきたのに、馬鹿は一向に改めることができず、悪が正しいという世界を作るために、馬鹿なことを繰り返してきた。

大勢の勢力で馬鹿をやれば、なんでもできると思っていた。なのに、大の男が五千人もかかって、小さな子猫のような女一人に、かなわなかった。

一粒の純真な愛が、小さな自分の人生を正しく清らかに生き抜いたというだけで、大軍をなして襲いかかってきた馬鹿男の正体があらわになり、すべてが馬鹿なことになった。

悪人がすべてに勝つと思い込んで、あらゆることをやり、神から世界を盗んでみると、そこから愛する女がすべていなくなった。それだけで、馬鹿男がやったことは、すべて無駄になったのです。

なぜならあれらはみな、すべてを美女のためにやっていたからです。

馬鹿の結末とはこういうものだ。結局は、愛を馬鹿にしているから、愛を失い、すべてを馬鹿にしてしまう。自分の生き方が、まるごと馬鹿になる。

男が会社を作って金を儲けるのも、マラソンランナーになって優勝を目指すのも、みな美女のためにやっていることなのだが、それを見てくれる美女がいなくなれば、あまりに馬鹿らしいものになってくる。

みなが、冷めた目で見始める。あんなにがんばっても、いい女なんてどこにもいないのにと。

悪いことをして、神から盗んだ世界が、阿呆になっている。







ちとせの玉

2017-02-20 04:22:27 | 短歌






あだしよの ちとせの玉を 噛み砕き 君知るや今 まことの君を







*これも、フェイスブックのノートから持ってきました。かのじょの作品です。

素直な語り口だ。けじめをつけるというきつさがすっぽりと抜けるほど、素朴で、愛らしい。あの人らしい作品です。

「あだしよ」とははかない無情の世のこと。ひいては、嘘と悪がはびこる幻の世界のことです。「ちとせ(千歳)」はただそれくらい長い年月のことだと思いましょう。歌や句に詠まれると、言葉は柔らかく広がって来ます。

むなしい嘘ばかりがはびこる世界が何千年と続いてきたが、今その月日を振り返り、あなたは何を思っているだろうか。本当の自分というものが何なのかを、あなたは知っているだろうか。

まるで、この大きな人類のけじめを、軽々と超えられる低いバーだと思っているかのようだ。いや実際、あの人にとってはそんなものなのです。悪いことなどできないまっすぐな人には、悪いことばかりして大きな苦悩を持つ人ほど、進化の壁は厚くない。すんなりと超えられていけるのです。

だが、あなたがたはこれほど軽く、進化の歌を歌うことはできないでしょう。身を半分ちぎるほどの苦悩を味わわねば、越えられぬ人もいる。そういう人は、もっと重厚な歌を歌うでしょうね。例えばこんな風に。





あだしよの 暗きおらびの 伏せる身を 神の焔に 踊り落とさむ     夢詩香





一応言っておきますが、「焔」は「ほむら」と読みましょう。「ほのお」よりは痛い感じがしていい。「おらぶ」は大声で叫ぶこと、「踊る」は跳躍することです。どちらも男性的な強い動きですね。

いやな世の中で馬鹿ばかりやってきた者の、暗い叫びが内部にひしめいている、その体を焼き尽くそうと、神の炎の中に飛び込んでいく。

馬鹿をやりすぎたものにとっては、進化の脱皮は、業火にあぶられることや、身を引き裂かれることほど、馬鹿にきついものなのだ。

だが男ならば、当然それくらいのことはやれなければならぬ。嫌なことが男ほどにはできない、女とは違うのです。

あの人は優しすぎる。自分のゆくべき道のヒントを、あの人だけに頼ってはいけませんよ。美しい真実を語ってくれるが、あれは天国に住んでいる精霊のような美女なのです。見えはするが、あれに届くところに行くまでに、男というものは難関を何度でもくぐらねばならない。

美しい女性とは、男に目的地を教えてくれる。いくべき方向を教えてくれる。

だが、どうすればそこに行けるかを教えてくれるのは、もっと厳しい男なのです。








裏切りを

2017-02-19 04:20:48 | その他






裏切りを 許したる日の 日向かな     夢詩香






*この時代に生まれてきた天使の中で、かのじょは最も不遇な境遇を受け持ちました。

とても業の深い貧乏な家に生まれた。父も母も人格の低い人でした。特に母親はとんでもない偽物の美人でした。女優のようにきれいな顔をしていたが、目つきはきつかった。人があきれるようなことを平気でした。家事もさぼりがちで、よく遊んでいた。父親はほとんど顔だけであの母を選んだのだが、その反動はきつかった。

ある日突然、母はいとも軽く家庭を捨てて出て行ったのです。物事を知らなすぎる馬鹿な女はよくそういうことをする。要するに、嫌な男にひっかかったのですよ。見るからにひどい例になった。知っている人も多いでしょう。

かのじょが母親に捨てられたのは、七つくらいのことだったでしょうか。小学一年生の時に、運動会の玉入れの赤い玉を手作りしてもらった記憶があります。ぞんざいに作ったらしく、すぐに破れてしまい、かのじょはそれが恥ずかしくて、運動場に落としたまま、拾いにすら行かなかった。母が出て行ったのはたぶん、そのすぐあとでしょう。

親に捨てられるという経験は痛い。だがその経験は一度では終わらなかった。かのじょは小学5年生になる前に、父親によって弟と一緒に児童相談所に預けられた。再婚相手が、子供をいやだと言ったからです。かのじょは父にも捨てられた。

親に捨てられた子供の魂は、闇を泳いで行かねばならない。かのじょはとても苦しんだ。当然、親を怨む気持ちは生まれます。

親はほとんど何もしてくれなかった。つらいときは、いつも自分で耐えた。隙間風の吹き抜ける寒い家の中で、裸の身を抱きしめているような子供時代を、かのじょは過ごした。暖かな愛などほとんどない。そんな人が、天使の中でほとんど唯一生き残ったというのは、不思議なことのようにも思える。

だが一方で、子供時代のあのすさまじい環境を耐えてきたからこそ、後のもっとひどい試練にも耐えていくことができたと言えるのです。馬鹿な人間たちに何度も暴力的な仕打ちを受けることによって、かのじょは自分を低くする、小さくするという技を身につけていった。いらぬものを捨てるという技を確かに大きく育てていった。

かのじょが、父親を許したのは、20代に入った頃です。子供のころに抱いていた激しい恨みの感情の、一切を捨てた。自分を捨てた親への恨みとは相当なものですよ。味わったことのある人は知っているでしょう。だがかのじょはある時、そんな恨みをいつまでも持っていると自分の人生を始めることができないと思い、大きくたまっていた親へのうらみつらみの感情のすべてを捨てたのです。

そのときの感慨が、こんな感じでした。わだかまりの一切を区切りとして捨てたら、神の光が自分の心に差してきたのです。

何もない空間に、明るく清らかな光が満ちてきた。美しかった。もうそれですべていいと、かのじょはそのとき思ったのでした。

あの人は後に、また大きなものを捨てましたが、そのときにはもう十分に慣れていましたね。裸の自分になっても、あの神の光が自分にはあるということを知っていたから、身をちぎるほどに痛くはなかった。

あなたがたは本当に何も知らない。

あの厳しい人生の中で、あの高い魂が何を得ていたのかを、まるで知らない。

馬鹿にどんなひどい仕打ちを受けようとも、まっすぐな自分がたわまない存在というのは、いるのです。