ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

いつはりの世を

2022-04-28 09:21:04 | 短歌





なにもなき われをうれひて 人を盗み いつはりの世を かさねこしかな





*今歌が全然詠めないので、過去に歌い重ねてきた歌群の中から探してきました。こういう時、積み重ねは生きますね。その時々にがんばってきた自分が、今日の自分を助けてくれる。努力は大切です。

しかし表題の歌は、そういう努力をずっとさぼってきた人を詠ったものです。自分には何もないからと、人のものを盗んで、嘘で作った人生ばかりを生きてきた。そういう人がたくさんいる。

何もないのは、自分では何もやらないからです。人生楽に幸せになりたいからと、自分の人生を丸投げして、全部他人にやってもらっている。他人の美貌を盗んで自分を美人にし、それで羽振りのいい異性を引き付けて、得しようとする。そんな人生ばかり生きてきて、何も勉強してこなかった。

そういう人は、今この人類史の総決算の時期において、非常に困っています。ずるで得する人生ばかりやってきて、いいことは何もやってこなかったのに、人の徳分を盗んでひどく明るい人生を生きている。そういう人はみんな人類を落ちると、わかったからです。

何も勉強していない人が、まじめに勉強してきた人から、いいものをみんな盗んで、自分ばかりいいことにしてきたから、この世は苦しみに満ちていたのだ。ずるで勉強をさぼってきた馬鹿者は、みんなその責任を取らされることになったのです。

そういう人が、助かる可能性はただ一つ。嘘をみんな捨てて、本当の自分に戻り、皆に謝って、まじめに償っていくことなのだが、馬鹿者はそれから逃げるのです。今までつらい思いをして心の勉強などほとんどしたことがないので、少しでもつらい思いをせねばならないことになると、馬鹿者はすぐに逃げる。いやなのです。自分がいいものでなければいやなのです。人に謝るなど絶対にしたくない。そんなことをすれば馬鹿にされて、つらい思いをするから。

絶望的ですね。嘘の人生ばかり重ねてきて、まじめな努力を重ねてこなかったから、そうなったのです。




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なづな

2022-04-21 12:47:06 | 短歌





あさぢふの 野のかたすみに 日を浴びて なづななづなを 生きむとぞする





*最近歌が詠めません。馬鹿の妨害があって、感性も表現力も封じ込められていて、詠もうにも詠めないのです。

だからツイッターの方の歌は休んでいるのですが、わたしも歌人の端くれと思っているので、歌が詠めないのは苦しいですね。なんだか手足をもぎとられたようだ。美しいことを美しく詠みたいのに、それができないのはもどかしい。

というわけで、表題の歌は一年前に詠んだものです。この時も相当に邪魔があったので、歌としてはぎこちないですが、何もできない今よりはましだ。今はとにかく、馬鹿の妨害が止むのを待つしかありません。

「あさぢふの(浅茅生の)」は「野」を呼ぶまくらことばですね。だからこの場合は訳しません。野原の片隅で、日の光を浴びて、ナズナはナズナを生きようとしている。小さな何気ない花ですが、しっかりと自分を持っていて、ナズナである自分を生きている。

道端や、野原の片隅に咲いている目立たない花だが、花はそんな自分を卑下したりしない。自分なりの美しさ、強さを信じて、しっかりと自分をやっているのです。

野のかたすみで、花は何をしているのだろう。ただ咲いているだけではない。通り過ぎてゆく人間に、何かを語り掛けている。

自分を生きなさい。どんなに自分が小さく思えようとも、その自分を馬鹿にしてはいけない。

花は人間に、すばらしいことを教えようとしているのです。人間が感性を開き、耳を傾ければ、それはいいことを教えてくれる。こんな小さな花の中に、すばらしく高貴な魂がいる。

小さな野原のかたすみに、清らかな魂の世界がある。

人間もそろそろ、そんな世界のすばらしい豊かさに、気づくべきです。




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魔道の砂

2022-04-15 09:55:36 | 短歌





たとへその おのれがいかに つらくとも 魔道の砂に われを捨つるな





*古語辞典によると、「魔道(まどう)」とは、悪魔の住む世界のことだそうです。

たとえその自分がいかに重く、つらいものでも、悪魔の住む世界に、自分を捨ててはならない。要するに、人間をあきらめて、自分を悪魔に落としてはならない。

悪魔とは何でしょう。それは人間の愛を捨て、獣じみた我欲にわれを明け渡した、かつて人間だったもののことです。馬鹿なことをしすぎて、自分がつらくなりすぎた人間が、悪の方が正しいのだと、理屈を逆さまにして、すべてを愚弄して生きる、馬鹿者のことなのです。

悪魔は自分を守るために人を傷つけたり、嘘をついたりが平気なのです。呵責などつぶしてしまい、自分をよくすることだけを考え、自分以外のものはみなそのための道具のようなものだと考える。愛を愚弄し、それは弱い者の甘えだとあざける。

そういうものになってしまってはおしまいなのです。だから今の自分がどんなにつらくても、けして自分を捨ててはならない。その自分がどんなに愚かなことをしたものでも、自分で背負い、すべての責任を負って、生きていかねばならない。

表題の歌はある著名な人物を想定して詠んだものです。その人は大きな間違いを起こし、多くの人間を傷つけ、世界に混沌の嵐を吹き起こしている。こういえばだれのことを言っているかわかるでしょう。全人類に嫌われ、孤独の極みにいる魂のことだ。そういう自分を生きている人の気持ちはどういうものだろう。

自分が恐ろしいことをしている。重すぎる罪を犯している。そんな自分を引き受けて、彼は神の正義のもとに帰ってくることができるだろうか。魔道に自分を落とさずに、自分を立て直すことができるだろうか。

わかりません。だがわたしたちは見つめている。あまりにも厳しい試練だが、一縷の望みは抱いている。もし彼が自分の愛に気づいて、すべてを背負い、すべての責任を取ると言えば、神の救いが来る。

神の心に自分を捨てて、みなの幸福のために死ねば、自分自身も国も救われるのです。




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ちひさき花

2022-04-06 12:24:19 | 短歌





野のすみに ちひさき花を 咲かせつつ 神に語りし おほいなる夢





*相変わらずうまく詠めません。長いスランプが続いています。これなどはすんなり出てきましたが、今一つうまくない。言いたいことはわかるのだが、歌人としてはもっと凝ってみたいという欲が出ます。もう少し何かうまい言い方はないものかと。

かのじょは、田舎に住んでいる一人の普通の主婦でした。それほど金持ちではない普通の家に嫁に来て、普通に暮らしていた。小説など書いたり、小さな同人誌などやっていたりしましたがね、それほど大きなことではない。ただ小さな自分にできる限りの美しいことをやっていた。しかし、心に秘めていた夢は大きかった。

自分は小さな田舎の人間なのに、なぜか人類を救いたいと願っていた。そんなことを思ってもできるはずがないと普通は考えるものですがね、だがかのじょにはできるような気がしていた。どうしてそれができるのか、まるでわからなかったが。

ただかのじょには愛があった。愛だけで、人類を救いたいと思っていた。その心だけは本物だった。

かのじょは思った。自分には自分というものしかない。だからこの自分を神にささげよう。神に自分を通して、神を表現していただこう。そうすれば神が人類を救ってくださる。

美しい心というものは、必ず神に届くものなのです。実際神は、かのじょの自分を通して様々に表現し、人類を救ってくださった。すばらしい自分自身をうたい上げたあの日記は、神がかのじょを通して人類に語り掛けたものなのです。

それで、人類は救われたのです。もちろんそれからも、いろいろな手続きが必要でしたがね、あの日記が世に出た時点で、決定的に人類の救いの道が示された。

田舎の隅で、小さなブログをやっていた主婦が、実際人類を救ってしまったのです。

野原の隅っこで咲いている花のように小さな自分が、神に語り掛けた大きな夢。それが人類の救いだった。そこからすべては始まった。

ああこれを、もっといい感じで歌いたいものですね。どうすればいいでしょう。今はどうしても歌を詠める頭が働かないのだが。


野菫の すくひの夢を 聞き留めて 世に吹き出だす おほいなる風


ああ、やっぱりだめですね。今は低空を飛ぶしかなさそうだ。






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