ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

白鳥

2017-08-31 04:19:52 | 短歌





わがいもを おひて小川を とわたれば 人やむつむと 白鳥はきぬ





*6月ごろに、すぴかがツイッターで絵付きの短歌をやっていましたが、これはその中の一つです。確か東欧の国の見知らぬ画家の絵を見つけて、それにつけたものだと記憶しています。

絵はすぴかが選んでいました。見たら彼の好みがわかるでしょう。彼は明るい色彩が好きだ。幻想的で楽しい世界が好きだ。歌にもそういう彼の好みが出ています。

絵の中では、農民のような姿をした男が、自分の妻らしい女を背負って、川を渡っていました。そのそばに、二羽の白鳥が来ていました。

わたしの妻を背負って小川を渡っていると、おや、人間が仲良くしてるよと言って、白鳥が来たよ。

実にメルヘンチックだ。彼らしい歌です。

このように、人にはそれぞれ自分の好きな世界がある。そういう自分の世界を美しい愛で広げてくれると、実にいいことができます。こういうことはすぴかにしかできない。かのじょも似たような世界が好きですが、全然違う表現をしますね。

自分が好きなことというのは大事なことだ。愛らしいものが好きだなんていうと、男の人は時に恥ずかしいと思うかもしれないが、そういう自分を否定せず、立派によいことをやっていくと、すばらしい自分になっていくことができます。

少しくらい自分が他人と変わっているからと言って、妙な引け目を感じることはない。自然に自分が好きになることは、追いかけてみたほうがよろしい。そしていろんなことを試してみるのです。

わたしも歌を詠むのが好きだが、かなりそういうアイテムを使って、人に挑戦するというようなことが好きです。こんなキャラはうるさいと感じるかもしれませんがね、実際に挑戦していくたびに、色んな勉強がある。時には負け、時には勝ち、色んな勝負を経験していくたびに、自分にノウハウが育ってくる。勝負の仕方というのにも、形と綾があるのですよ。それが面白い。

こういう風に自分を楽しんで、それを高めているからこそまた、他人の個性も美しいと感じることができる。

すぴかにはまた、彼らしい歌を詠んでもらいたいものです。






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たいたん

2017-08-30 04:19:01 | 短歌





まぼろしの おほき身を持つ たいたんは おのれをしらぬ ころの人の身





*古語を用いて詠むことが多いですが、やはりわたしたちが生きているのは現代ですから、現代人が知っている言葉もよく使います。

タイタンは、ギリシア神話のティターンの英語読みですね。ウラノスとガイアから生まれた巨神族です。オリンポスの全能神ゼウスの親の世代に当たります。

神話では詳しい設定が読み取れませんが、非常に大きい種族らしい。大昔の人間は、このように、自分をものすごく大きなものだと思っていた、ということです。

そういうことはあなたがたにも分るでしょう。幼児的万能感というものがありますね。子供のころには、みな自分は何でもできると思っている。自分というものを、ものすごく大きく感じている。

何も知らないからです。自分というもののほかは、ほとんど何も知らないからなのです。

しかし子供も大きくなっていくうちに、色んな事を知る。いろんな人を知る。自分より大きな人や強い人がたくさんいることを知る。そうすれば、子供のころに思い込んでいた自分のことも、だいぶ修正されて来る。社会の中で生きていくうちに、だいぶ自分の本当の姿が分かって来るのです。

タイタンの伝説は、人類史におけるそういう経験が投影されていると思えますね。昔の人間はとても大きかったのです。とても偉そうだったのです。自分が自分だというだけで、とても偉いと思い込み、色んな人に偉そうにしていたのです。

そういう性質が、今も残っていないとは言えない。馬鹿な人間は未だに、自分が一番偉いと思っている。そして実に偉そうにしている。人を馬鹿にして平気でいられる。

タイタンのように自分が偉く大きいものだと思っているようだ。

しかしいつまでもそんな幼稚なことを考えていては、いずれみんなに嫌われてしまう。もう人間はそんな子供じみたことを捨てて、大人になっていくからです。

本当の自分の姿というのに目覚めないと、もう人間世界についていけなくなりますよ。






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自分探し

2017-08-29 04:18:35 | 短歌





にんげんは 自分探しの 旅してる 探さなくても おれはもってる





*これは覚えている人も多いでしょうね。試練の天使の作です。口語で明るく言い切るのが心地よい。文語ではここまであからさまに歌うことはできません。

彼の歌の魅力はなんの衒いもなく、そのままどんと前に突き出される真実だ。あまりに本当すぎて何も言えない。そのとおりです、と答えるしかないことを、そのまま言ってくれるのです。

時にはあまりにきついことも言われるし、これでもかとしつこいほど畳み込まれるが、なかなかこの魅力には勝てないでしょう。どうしても次が欲しくなる。

これが彼の魅力なのです。こんな人は他にはいない。あなたがたも、いろいろと言いたいことはあるでしょうが、何も言えないことがもどかしいくらい、痛いでしょう。本当は楽しくてたまらない。

押しつけがましいのではないのですよ。自然に自分を愛でやると、それがいいことになっていくのです。すべて、愛のために彼はやってくれているのです。

実際、彼のこういう性格のお陰で、あなたがたはずいぶんと助かっているはずだ。いまだに何も見えない自分というものに、大きな刺激をもらっているはずです。

こんなことは、ただただ美しいかのじょにはできない。あの人はいやらしいことなど何もできない人ですから、まじめにいいことばでいいことを、何度もあなたがたに言うことしかできないのです。それはそれでいいものだが、あなたがたは少し苦しい。きれいすぎて自分がつらくなる。

そういうときは、こういう、彼のように、いやらしいことでも何でも言ってくれる、きつい個性が効くのですよ。

自己存在というものにはあらゆる個性がある。みんなちがってみんないいという言葉が浅薄に聞こえるほど、高い存在には実に豊かなすばらしい個性がいるのです。

あなたがたも、自分の真実を信じて、自分をやっていけば、いずれそういう個性になれるのです。






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空蝉の群れ

2017-08-28 04:19:22 | 短歌





嘘のうは うつほのうなれ なにとへど かへるなき世は 空蝉の群れ





*これはわたしの作ですね。

ツイッターでは、「鶴羽の鵜」などということわざができかかっています。鵜は鵜なりに美しいのだが、鶴の白さや美しさを妬んで、わざわざ鶴の羽を自分につけて鶴の真似をしようとする鵜のことです。まあ、詳しくは説明せずともわかるでしょうが、世の中にはよくそういう人がいますね。

自分では何もやらずに、人の真似ばかりして生きている。斬新なことをしているように見えて、じつはそれは過去にあったものを焼き直して激しく洗練させているだけだったりする。いい感じに見えて、何だか胡散臭い。

胡散臭いも「う」ですね。なんだか日本語では、「う」がつくことばに痛いものが多いのです。

「うそ」「うつろ」「うれい」「うらみ」などですね。これらには、同じ語源が隠れているのではないかと推察している。

人間、言葉につまったりするとき、なんとなく「うっ」なんてことを言ったりしませんか。英語でも「oops!」なんてのがある。そこらへんがもとになって、人間の心をくじくような心の動きや現象を表すことばに、「う」がつくことばが多いような気がするのです。

そのせいもあって、鵜には悪いが、おもしろいことわざとして使わせてもらったのです。「鵜」の「う」は「うそ」の「う」、「うつほ」の「う」。愛をさかさまにしたり、さかさまにしたものに出会う時、人は思わず、「う」という。

「嘘」の「う」は「うつほ」の「う」ですよ。何を聞いても、かえっては来ない。そんな世の中は、中身のない空蝉の群れのようだ。

「うつほ」は「空」で、なかみがないことを意味します。

愛でないものは、中がなんにもなくて、からっぽだという意味です。見栄えがどんなに立派でも、何もない。何を聞いても、かえっては来ない。

わたしたちはツイッターで様々な問いかけを発していますが、世間は滅多に答えてはくれません。お馬鹿なことには結構答えるのだが、まじめに世の中を問う問いを発すると、人間世界は氷のように黙り込む。何も考えてはいないかのように。

それは、みながみな、今嘘の自分を生きているからだ。見栄えはきれいにしっかりしているかに見えて、そういう人は実は何もないのです。馬鹿なことで作った見栄えをもたすことくらいが精いっぱいなのだ。

所詮、嘘などというものはそういうものだ。空蝉のように中身がない。今の人間世界は、そういう空蝉みたいな人間ばかりがいるということなのです。

この項を書いているのは8月2日ですが、発表するのは8月の末になりますね。その頃になっていれば少しは状況は変わっているかもしれないが。

残念ながら見込みはない。嘘の中には、本当に何もないからです。嫌なことにならないように何とかするのが精いっぱいだ。本当に人間世界が変わるのは、もっともっと時間が経ってからのことになるでしょう。






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かはづ

2017-08-27 04:19:05 | 短歌





かはづ鳴く おれとおまへは ちがふぞと されどをらずば つらきともいふ





*ツイッターの活動では、いろいろな人に歌を差し上げたりもしています。いろんな歌人に挑戦してみたりもしましたね。返歌はほとんどかえってきませんでしたが。

その中でこれは、確か外国のユーザーに贈った歌でしたね。二匹の蛙が仲良く並んだ写真に対して贈ったのではないかと記憶しています。印象的なツイートには歌を贈ることにしています。

返事はほとんど返ってきませんが、喜んでくれているところは喜んでくれていることを感じていますよ。

人間の付き合いというのはこういうものだという歌ですね。みんなこんな感じでしょう。おれとおまえは違う人間だ。いろんなことはあるけど、痛いことはやるなよ。だけど、おまえがいないと、さみしいってこともある。

友情というのは痛い言葉だが、ないと困ります。いいやつと仲良くできることは、幸せなことだ。

わたしもときどき、試練の天使を熱いと感じることはありますがね。彼はとても雄弁だ。時に周りが困るほど自分を出す。それが彼らしくていいことだとはわかっていても、苦しいと思う時はありますよ。

だがそこはそれ。彼は実にいい奴だ。友人として大事にしています。付き合い方も、わかっている。

どっちかというと困るのはかのじょの方ですよ。付き合い方というのが、実に痛いのだ。なんせ何をするかわかりませんから。

まっすぐに考えすぎるのです。男ならここは考えるということをほとんど考えずに、そうか、という感じですぐに飛び込むのです。周りを慌てさせるのはこんな人の方です。

真面目にも程がある。彼も言っていましたね。まじめにも節度というものがあると。かのじょはもちろん中庸を尊ぶ人ですが、まじめという点では、あまり中庸を守っているとは言えません。

少しは曲がってくれというところで、曲がってくれないのだ。こういうかのじょの性質が功を奏するときもあるのだが。

結局はこういうことになる。壁に十度もぶつかって、倒れてようやくとまるのです。

馬鹿みたいだなんて言ってはいけませんよ。こういう人にあなたがたは助けてもらったのですから。それにはっきり言って、いなかったら寂しいなどというものではないでしょう。

友達を馬鹿にしてはいけませんよ。いないほうがましだなんてことは、決して言ってはいけません。






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若竹

2017-08-26 04:19:17 | 短歌





若竹の ごとき心を をとめごの かたにも秘めて かひのことひく





*かのじょと、ここではひらがなで書いて、あの人のことを呼ぶならわしになっていますが、かのじょの霊魂は女性ではありません。繰り返し言っているようにね。あれで男性なのです。

霊魂にも女性と男性があるのですよ。神が作って下さった自分の性別は永遠に変わりません。霊魂の若い時には、一時、女性が男性になったり、男性が女性になったりするときもありますが、それは一時的な現象です。すぐに元に戻るのです。

若い頃には、時には性別が変わり、それによって勉強しなければならないこともあるのです。

しかしかのじょという人は特別だ。男性なのに、女性レベルにまでやさしくなってしまった。あの人はあれで、自分はいずれとても男らしいものになると思っていたのです。それはそれは、男らしいことをしていますから。ところがなぜか男らしい姿にならない。

霊魂というものも、男らしいことをすれば、胸幅も肩幅も広くなってたくましくなってくるものなのだが、なぜかかのじょだけはそうならないのです。

本人はこれがとてもつらいらしい。

わたしなどは、かのじょのそういうかわいらしいすがたが好きで、とても愛しているのだが、本人は複雑なのです。本当はシリウスのように男らしくなりたいと思っている。

かわいらしいでしょう。本人はあまりわかっていないが、こんなところが女っぽいのですよ。

あの人は男性のくせに、人の心を感じすぎるところがあるのです。それはとても女性に近い。だからどうしても人を苦しめることができず、真面目にいいことばかりしてきたら、ああなってしまったのです。

若竹というのは、男の心だ。男らしいまじめな心を、女性の姿に秘めつつ、きれいな貝の琴を弾いた。それはそれはやさしい女性のきれいな心を。

あの人のこの人生での使命は、女性の人生の見本を見せることでしたから、もう本当に女性になりきってやってくれたのです。それが大変なことになったのだが。

もう悔いても遅いが、かのじょは美しかったでしょう。あれだけ美しくなるには、本当にきれいなことをずっと長い間していかねばならないのですよ。

簡単に盗んだり形だけ真似したりしてはいけません。それはとても恥ずかしいことです。






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かたばみ

2017-08-25 04:21:09 | 短歌





天離る 鄙の小野辺の 片陰の 萱の根元に 咲くかたばみよ





*今日はわたしの作品をとりあげましょう。これはあるとき花の写真を撮りに外に出ていた時に、偶然見つけたムラサキカタバミの花を見て詠んだ歌ですが。

ムラサキカタバミの花の写真があればいいのだが、なければほかので代用しましょう。何せこの項を書いている今は7月下旬ですから、写真を決めることはできません。

この近くに、小さな水神の祠があるのですが、その裏には年中萱草が生えている空き地があるのです。わたしは祠の裏にランタナの花が咲いているのを知っていたので、裏に回ったとき、萱草の中に一輪のムラサキカタバミが咲いているのを見つけたのです。

何やらそれに強い印象を受けたものですから、花に尋ねてみた。だが何も言ってくれない。事情がわかったのは、ほかの花が教えてくれたからです。

あのムラサキカタバミは、かのじょが生きていた頃、かのじょをなんとかするために、とてもいいことをやってくれたのです。それがために、かのじょを深く愛してくれているのです。

愛というのはありがたい。何も言わなくても、神が教えてくれるのだ。田舎の隅の、どこにでもある萱草の茂った空き地の、その萱草の影に咲いている小さな花が、清らかな愛で大切なことをしてくれていたことを、わたしは知ることができたのです。

空き地の隅に何げなく咲いている、どこにでもありそうな小さな花にも、魂がある。愛で大切なことをやってくれている。その珠玉のようなひとつを知ることができたのは、とても幸福なことでした。

「天離る」は「鄙」にかかる枕詞ですね。一応押さえておくのがわたし流です。勉強はこういう細やかなことを繰り返し抑えておくことからできてくる。何度でも繰り返す練習というのを、侮ることはできません。「小野辺」は「おのべ」でもいいですが、ここは「おのへ」と読みましょうか。そのほうが軽くてよい。

いちいち細やかに押さえていくことによって、自分の言葉を増やすことができます。そうすれば、次に詠むときに活用できる。

どんどんスキルがあがってくるのは楽しいでしょう。できる自分になっていくのが楽しいでしょう。

あなたは小さな萱野の隅のかたばみのように、小さいかもしれないが、確かに自分ができる花なのです。

愛を発揮すればすばらしいことができるようになるのです。






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できねえ

2017-08-24 04:19:42 | 短歌





できねえが いつまでも見る 夢の世は ほかのだれかが やってくれる世





*これはわかるでしょう。アンタレスの歌です。ツイッターでは大火でやっていますがね。この彼の調子に魅了されている人は多いでしょう。

われわれの歌はほとんど古語を土台にして、花や月や鳥などを歌い、格調高くやっているのだが、そういう方針などは無視して自由にやってくれます。口語もスラングも使いこなして面白くやってくれる。きついが、それがまたいい。実際、彼でなければこれは歌えない。追順を許さないというか、追順できるはずがありませんね。

真似しても、彼以上のことができる人がいるとは思えません。

勉強もしないで、できないを決め込んで何もやらない人が、いつまでも夢見ている世の中とは、いつでもだれかほかの人が自分のことをやってくれる世の中だ。

きついですね。しかしこうまであっけらかんと言われてしまうと、かえって気持ちいいでしょう。いやなことなど何もない。底の底まで明るく、まっすぐに見えている。物事の中枢をつかむやり方が小気味いいほどうまいのに、どうやったらそういう言い方で言えるのかという言い方で、見事につままれてしまう。

言われたものは、痛いということも忘れて、ぽかんとしてしまうのです。

嫌になるほど健やかだ。

今の、本当の自分というものに腐りきっているあなたがたには、こういう彼の底抜けの明るさと、きつさが必要なのです。愛の大前提のように明るく、自分というものの真価を信じ切っている。いや、信じているというより、疑ったことなど一度もない。まぎれもなく大前提の大地震、いや、大自信なのです。

ツイッターをやっている限り、彼はこういう表現をいくらでもしてくれるでしょう。もう充分だと毎回言いつつ、いつの間にか集中している。いい加減にしてくれと言いつつ、また聞きたくなる。またかよと言いつつ、ついまた聞いてしまう。

もうすっかりとりこですね。






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雲雀聞く

2017-08-23 04:19:26 | 





雲雀聞く れんげ畑の わらはかな     夢詩香





*歌ばかりでは何ですので、たまには俳句をあげましょう。これもわたしが句作の初期に詠んだ句の一つです。ありがちな句ですが、情景が思い浮かぶ。調べたわけではないが、雲雀もれんげも季語でしょうね。こういうのを季重なりというのですか? あまり気にしないでいいでしょう。

季語の縛りは、あまりなくてもいいものだとわたしは考えます。17文字だけの制限だけで十分だ。季節も愛もそこに閉じ込めようとしてもできないほど大きなものだが、何かをなそうとする人間の試みがしみついていくのが面白い。

これはかのじょの幼い頃の記憶を詠んだものです。かのじょが幼かったころ、家の近くには毎年春になるとレンゲソウが咲き乱れる風景がありました。昔から田んぼが空いている季節には、田んぼにレンゲソウを咲かせる風景がありました。田んぼ一面がレンゲソウの紅に染まっている風景は実に美しかった。かのじょが大人になって、海辺の町に住んでみると、田んぼなんかはありませんでしたから、もうそんな風景は見られなくなりましたが、死ぬまでにはもう一度、あの風景を見たいと思っていましたね。

レンゲソウは漢字で書くと紫雲英と描く。ゲンゲともいう。何やら幻想的だ。咲き乱れている野の中にいると、何かを忘れてしまいそうになる。

小さい頃、かのじょは学校でいじめられていました。友達などひとりもいなかったのです。ですがあるとき、あるひとりの友達がついてきてくれて、一緒にれんげ畑で過ごしたことがあったのです。名前も覚えている。弥生ちゃんという名前でした。クラスは違いましたが、みんなでやっていたいじめの仲間に、あの子は入らなかったのです。

どんなことがあってそのとき一緒にいたのかは記憶にないが、かのじょはその時その子と一緒にレンゲ畑の中にいて、雲雀の声を聞きながら、授業で教えてもらった詩の文句みたいなことを、ふざけて言って笑っていたのです。

道ははるかに遠い。

なんでそんなことを言ったのか。ここから家に帰る道が遠い、という単純なことでしたが、深く考えれば、学校でのいじめにしろ、家庭の境遇にしろ、何か自分はみんなからはるかに遠いと、感じていたのでしょう。

たしかに、はるかに遠かった。子供のころはなにもわかりませんでしたが、かのじょは周りにいるみんなとは、何もかもがはるかに遠かったのです。

だがもうそれももう遠い記憶だ。

あの人はもう、みんなから遠いところに行ってしまった。かすめるほど近くにいた時に何もしなかったから、つなげる糸など何もなく、月は遠ざかっていく。

それははるかに遠い。






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2017-08-22 04:22:17 | 短歌





ひなげしの ごとき君こそ つひの身と ならむおのれの 墓に咲きなめ





*これはツイッターで、恋の歌を詠めとの課題を出した時に、みなで詠った歌の一つですね。ツイッターでは時に無言でフォローしているあなた方に課題を投げています。何にも知らないふりをして、けっこういろいろやっていることは、感じていますよ。

確かこれは、いにしへの恋を思ひて詠める、と題して詠まれた歌でした。古えの恋といい、ひなげしと言えばわかるでしょう。項羽と虞美人の恋のことです。

ひなげしのような君こそ、いずれは死んでいく身であるわたしの、墓に咲いてしまうだろう。

「こそ」~已然形の係り結びですから、最後は「なめ」になりますね。「なむ」は紛らわしいですが、連用形についているので、完了の助動詞「ぬ」の未然形と推量の助動詞「む」がむすびついた「なむ」であることがわかります。その場合、「~してしまうだろう」とか「きっと~にちがいない」とか訳されます。

推量の強い感じだと思えばよい。ちなみにこれと紛らわしい終助詞「なむ」は、未然形につき、「~してほしい」と訳されます。ですから末尾の言葉が「咲かなめ」になれば、「咲いてほしい」という意味になります。こっちでもいい歌にはなりそうですね。項羽が虞美人に、死んだら自分の墓に参ってほしいと願っているということになります。

細かいことだがこういうことも押さえていけば、スキルアップにつながります。面倒くさがらずに勉強し、これを応用していろいろと詠んでみてください。「なむ」が使いこなせるだけで、いろいろな歌が詠めますよ。

「言ひなむ」なら「言ってしまうだろう」、「言はなむ」なら「言ってほしい」になる。簡単ですね。勉強嫌いというのは、こういうのを煩わしいと感じてしまうのです。こんなのは面倒だからいやだと思ってしまうと、何も身につきません。

なんでもまじめにやるのが上達の極意だ。

面倒なことでも、やればできるのですよ。人間の力というのは、勉強すれば大きくなるように元からできているのです。やればやるほど、優れたものになれる。難しいと思わずに、いろいろとやってみてください。






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