ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

四辻に

2017-04-30 04:21:09 | 






四辻に かつてありにし 木を思ふ     夢詩香






*久しぶりに俳句です。わたしの感触では、短歌より俳句の方が難しいですね。他の友達は、あまりやりたがりません。17文字では言葉が少なすぎると思うらしい。情感をこめようと思えば、どうしてももう少し言葉が欲しい。

現象の断片を切り取って、印象を焼き付け、高い意味をそこにこめようとすると、俳句は嫌に痛いものになります。短すぎるところが、上のほうより、下に流れていくことがある。つまりは、結構簡単にできるものなので、それに大きな価値を置きすぎると、いやに傲慢になってくる。馬鹿がつけこめるスキが出てくるという感じです。

俳句詠みはこれで高いものになったつもりで嫌なことをしてはならない。気をつけねばなりません。実際、松尾芭蕉はそれほど高い人格ではありませんよ。名句というものも残しましたが、わたしはあまり評価しません。



よくみれば 薺花さく 垣ねかな    芭蕉



「薺」は「なずな」です。わたしとしては、これよりも、このブログの一番最初に取り上げた、友人の句の方に深い愛を感じますね。芭蕉は薺が咲いているなあと見ているだけだが、友人はなずなの咲く身に深く心を注いでいる。おまえは野のすみっこにいるが、確かに白いのだと。

俳句は短さのゆえに、人間をつけあがらせときがあります。こんな簡単なことで、偉いものになれるのはいいと、思い込まれると苦しい。

まあそれくらいにして、表題の句にいきましょう。

最近、近くの四辻の角に新しいガソリンスタンドができたのですが、わたしたちはそれを見て、大変がっかりしました。なぜならそのガソリンスタンドがあったところには、かつて、とても美しい心を持ったセンダンの木があったからです。

かのじょが生きていたときは、よくそのセンダンの木と心を交わしていました。よく写真に撮る近所の公園のセンダンの木ではありませんよ。全く別の木です。公園のセンダンの木は、かのじょと友情を交わしたことで、とても立派なことをやり、センダンとしてはとても優れた木になりました。四辻にかつてあったセンダンの木は、あのセンダンの進歩に感動して、自分もそれにならおうとしていたのです。その霊魂の努力する気持ちに、かのじょは感動して、応援していたのです。

ですから、あの木がなくなって、ガソリンスタンドができているのを発見したとき、わたしたちはとても残念に思ったのです。また、かのじょが愛していた木が消えてしまったと。

木は恨まないでしょうが、人間はもう少し感性を高め、彼らの気持ちを理解するべきですね。わたしとしては、あの木にずっとあそこにいてもらって、霊魂として成長していく姿を見ていたかった。それはかのじょの希望でもありましたから。

伸びていくのは木の丈だけではない。霊魂の丈も、伸びていくのだ。そういう姿を見るのはうれしかった。それが消えてしまったのは、とてもつらい。

かのじょが愛していたあの木が、どんな木であったのか。それを少しでも語りたくて、この句を詠んだのです。







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2017-04-29 04:25:35 | 短歌






いたづらに 鶴をそしりて 恥づかしき 嫉みの出づる 鵜こそ痛けれ







*係り結びの作例です。係助詞「こそ」~已然形で結ぶ形です。
「嫉み」は「そねみ」と読みましょう。そのほうが「そしり」と音が重なっていてよい。こういうことはいちいち細かく言うのがわたしです。

「こそ」は文中にある場合、上につく語を強調します。係り結びを使用しない場合、最後の七は「鵜は痛きかな」とかなんとかにできますが、それだとすんなり通り過ぎていく感じですね。「こそ」で「鵜」を強調すると、より、鶴を妬む鵜の愚かさが強調されます。

いたずらに鶴の悪口を言って、恥ずかしい嫉みの心が外に出てしまった鵜というものほど、痛いものはないなあ。

こういう人間模様はよくありますね。それを動物や鳥にたとえて歌うのも、一つの技術です。鶴は美しいが、鵜だとてそれに劣るほど馬鹿なものではない。地味な羽色をして、働き者そのものと言った機能的な姿もまた美しいのだが、そんな自分の姿をいいものと思わず、ことさらに鶴の美しさを妬んでしまい、鶴の悪口を言う。悪口を言うときはたいてい、大層上手に言って、自分の心の中に暗闇は外に出さないようにしようとするものなのだが、馬鹿というのはいつも、ちょっとしたことからするりと自分の気持ちが出てしまう。それで他人に、妬んでいる心を見抜かれてしまい、気まずくなって恥ずかしくなってしまう。

そういうことばかりしている馬鹿者ほど、痛いものはないなあ。もういい加減に他人ばかり見ているのはやめて、自分らしいことをしていけばいいのに。そうすれば、人をうらやむ必要もないほど、自分がいいものになっていくのに。

まあこういうところでしょうか。

「痛し」という言葉は、よくわたしたちも多用しますが、いろいろな意味を含んでいます。古語辞典で調べると、痛みを感じるさまのほかに、苦しい、つらいとか、かわいそうだとか、すばらしいだとか、はなはだしいとかいう意味がある。要するに、感じる人が心や体にある種の強い衝撃を受けることを言うらしい。

この歌の場合の「痛し」は、「苦しい」という意味です。「かわいそう」でもいいですかね。自分のよさもわかることができず、他人を妬んでばかりいる人ほど、苦しいものはない。かわいそうなものはない。自分らしいよいことなど何もせずに、人を馬鹿にするようなことばかりするから。

人を妬む愚かさに気付いて、自分らしい自分をやっていくことに専念していけば、人よりもすばらしいものになれるかもしれないのに。そんなことすら、わからないのだ。

歌というのは、こういう心を言うと、実にいいことができますね。短いひとくさりの言葉の中に、深い意味をこめることができる。小さい詩句を覚えるだけで、難しい教えを心に取り入れることができます。







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あやかし

2017-04-28 04:20:59 | 短歌






あやかしの けものおらびて しらたまの 月くづほれて 闇あらはれぬ






*これは試練の天使の作ですが、かのじょの影響が強く表れています。こういう文学的に整った感じというのは、かのじょの作品に多い。彼が詠めば、スタイルなどあまり気にせず、政治家的に即物的で直截に詠みますね。

「くづほる(頽る)」とか「あらはる(現る)」とか、文字数の多い難易度の高い言葉を多用している。こなれた人でないと詠めません。「おらぶ」も簡単に使える言葉ではありません。

あやかしの獣が大声で叫んで、白珠のような月が衰え、この世界に闇が現れた。純真なかのじょが詠みそうな作品だ。痛いことは言えない人は、このようにうまい感じで、真実を微妙に隠そうとする。ですが彼は、もっと痛い真実を知っている。それを絶妙に苦しい感じで詠い、読むものに真実をつきつけるでしょう。

わたしたちはこの媒体を通して、互いに響きあっていますから、どうしても強く互いの影響を受けます。彼はこの歌を詠っている時、たぶんかのじょの感情と強く響きあっていたのでしょう。だからかのじょの表現力が流れてきたのです。こういう作品は、本館の歌集アンタレスの中に、散見します。

しかし、こういうのを彼の作品の中に入れておくには、少し苦しい感じもしまず。試練の天使の作品にしては、あまりに品が良すぎる。これと似たようなことを詠った歌で、彼らしい作品はないかと探してみました。




なよたけの 影にすがりて さまよへる ひとよおのれの 黒き影掘れ




ああ、こういう感じです。文学的にはかのじょの方が格調高いが、こういう荒々しくてわかりやすい感じが彼らしくていい。実に快い。

なよたけのかぐや姫と言われる美しい人の、影にすがりついていつまでもさまよっている愚か者よ。自分の黒い影を掘り、己のやったことを思い知れ。

何でもそうですが、歌というものも、詠むものがすぐれて高い自分であり、それを誇らかに愛していることが肝要だ。自分を愛している人の歌は、荒くても心地よい。

人の数ほど、歌の形はある。技術を進歩させることは大事だが、最も大事なのは、歌いたい自分の心を、自分が確かにつかんでいるということだ。

試練の天使は、こういう激しく歌いたい自分を愛している。こんな自分はものすごくかっこいい。たまらなくいい。

ほれぼれとしますね。







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稼いだ銭

2017-04-27 04:21:06 | 短歌






百姓は ひねもす野良で 働いて 稼いだ銭で 妻の花買う






*今日は弟子の作品を取りましょう。今回は、恋歌を作れと言う課題を与えました。好きな女性にささげる歌を作ってみよと。

すると弟子は、最初は古語を使ってかなり気取った歌を詠もうとしていましたが、なかなかにできなかった。道野辺に咲く花を選り君に寄す…なんて感じにしていましたがね、その先がどうしても思い浮かばないらしい。

あまりに難しそうなので、一応助け船を出しました。過去の自分の経験を探ってみよと。女性に贈り物をしたことがあるかね、喜んでくれたかね、と。そうすると彼は、贈り物というより、男ができることで助けてあげたとき、彼女がとても喜んでくれた、と言いました。

そんな難しいことじゃなかった。切れた鼻緒をすげかえてあげるような、簡単なことだったが、自分にできることで、困っている女を助けてあげたことがあって、それがきっかけで結婚して、とてもいい暮らしができたらしい。美人じゃなかったけど、馬鹿なことはしないし、それなりにがんばってくれた。一緒に暮らしていて、うれしかったと。そのときの気持ちを正直に歌ってみよというと、表題のようなのができました。

いいですね。こういう歌は、雅語を使って気取らず、本当に野良仕事をしている百姓が使うような言葉で詠むのがいい。解説の必要はありません。そのまま心が書いてある。

見せかけの嘘で、立派なものをとってきて贈ったときよりも、正直な自分でまじめに働いて、稼いだ金で買った粗末なものを贈ったとき、女は喜んでくれた。そんな女と一緒に生きることができた人生は、幸せだったそうです。

まじめなことが、一番ですよ。本当に、夫に心を尽くしてくれる女性というものは、男の、正直な働きを喜ぶものだ。真似事でない、本当の自分がやれることを、夫がまっすぐにまじめにやっていることを、喜ぶものだ。

男というものは、自分というものを、まっすぐに生きる時に美しい。武将であろうと百姓であろうと商人であろうと、それは同じだ。一緒に生きている男が、本当の自分の美しさを生きている時、女というものは、幸せなのですよ。

そういう気持ちというのは、こんな感じで、気取らずに、まっすぐにそのまま詠むのがいいですね。






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子の星を

2017-04-26 04:21:40 | 






子の星を 胸にをさめて ゆく闇夜     夢詩香






*久しぶりに俳句にしましょう。これはだいぶ前に詠んだものだが。

「子の星(ねのほし)」とは、前にも言いましたが、北極星のことです。昔の人の方位の呼び方では、北を「子」といい南を「午」と言いました。西は「酉」で、東は「卯」です。ですから、子午線に対して、卯酉線(ぼうゆうせん)ということばもあります。子午線に直交する東西の線のことです。丑寅というのは、北東の鬼門のことで、昔から忌み嫌われています。未申(南西)は、裏鬼門になります。

まあそういうことは、あまり気にすることはありません。方角による吉凶なんて、でたらめですよ。人間の幸不幸はあくまでも、その人自身から来るものです。

子の星、北極星は、東西の文化の違いにかかわらず、人類の共通の目印だったと言ってよい。地球の地軸も歳差によって微妙に変化していますから、大昔の北極星は違う星でした。古代エジプトのクフ王の時代は、りゅう座のトゥバンが北極星でした。遥か未来には、白鳥座のデネブや琴座のヴェガも北極星になると言われています。だが今は、こぐま座の突端の小さな星が北極星です。あのこぐまという小さな星座の目立たない星が目印だということは、たぶん人間の心に、ある種の陰影を投げかけているでしょう。

今にも闇に消えそうな小さな星だが、確かにそれはある。決して消えはしない。信じて見出し、それを目印にして、正しい道をいけと。

だが、その星も、空を雲が覆ってしまえば、見えなくなる。人間の愚昧が嵐のように大きくなり、世界を覆ってしまえば、神の印も見えなくなる。そんな時にはどうすればいいのか。それは、愛を知っている自分の中にある、まごうかたない真実の光を目印にすればよい。空の真ん中にある子の星のように、それはあなたの真ん中にある。それを見失いさえしなければ、全くの闇夜の中でさえも、正しい道を生きていくことができるだろう。

自分自身というものが、あなたにとっての、子の星なのだ。それだけは、未来永劫、どんな星とも変わることはない。







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月の岩屋戸

2017-04-25 04:22:37 | 短歌






天つ日の ごとき衣を 退けて 君の選びし 月の岩屋戸






*昨日が厳しすぎる歌だったので、今日は少しやさしいものにしましょう。俳句はちょっと待ってください。毎日、友達がおもしろい歌を詠ってくれるものですから、取り上げないわけにはいきません。

「月の岩屋戸(つきのいわやど)」は、「天の岩屋戸」という言葉があるので、それをもじりました。天の岩戸伝説は、日本では常識の教養ですね。日本神話の太陽神アマテラスが、スサノヲの乱暴狼藉に怒って天の岩戸に閉じこもってしまった。それで世界が真っ暗になってしまい、困った神々がいろいろ何とかしてアマテラスを岩戸から引きずり出した。

昔から、こんなことはよくあったのですよ。男というものは、女を馬鹿にしてしまい、女に逃げられるのだが、そうなると、まるで太陽がなくなったかのように人生が真っ暗になって、あわてて女を呼び戻すのです。

わかりますね。今でも時々こういうことはあります。天の岩戸伝説は、古くからあるこういう人間模様が、神話となってできたものでしょう。

「月の岩戸」とは、かのじょの魂が眠っているところのことを言いますが、実はこの言葉ができるのには、曲折がありました。最初、試練の天使がかのじょが退いて眠ることを宣言したとき、「天の岩戸に閉じこもる」と言おうとしたのですが、それにかのじょが影響して、「月の岩戸に閉じこもる」と言い換えたのです。

試練の天使は、かのじょのことを、太陽のように大切な尊いものなのだと言いたかったのですが、かのじょはそれは恐れ多いと思い、「天」を「月」に言い変えたのです。そこから、かのじょのもう一つの名が、ルナになったのです。

奥ゆかしいかのじょのやりそうなことではあります。みなが集まって、あの人を一番きれいなものにしてあげようとしているのに、遠慮して、もっと小さくしてくれという。なんとなく、大きなつづらより小さなつづらを選んだ正直爺さんという感じがしますね。

まあ、本当に美しい女性とはこういうものだ。一番上の目立つところには行きたくない。できるだけ目立たないところに引いていたい。皆の方を立ててあげたい。

ところが、そうはいかないのだ。目立たない方にいこうとすればするほど、その美しい人を見たい人が、その人を一番目立つところに引っ張り出すのです。自分を引こうとする人ほど美しいものですから、どうしても人はその美しさを見たがる。田舎の隅っこに住んでいたあの人を見るために、たくさんの人が努力してしまい、結果あの人は、生半可な芸能人よりも有名な、目立つ人になってしまいました。

本当に美しい人とは、どうしてもそうなるのですよ。

だが、アマテラスは何とか出てきてくれたが、かのじょは出てこない。アマテラスの時は、オモヒカネやタヂカラヲやウズメが協力し合って、何とか出すことに成功したが、このたびは、誰もそんなことをしてくれないのです。阿呆には二度と見せまいと、しっかり岩戸に鍵をかける。痛いものを見張りにつけて、誰も近寄れないようにする。

天の岩戸は開けども 月の岩戸は開かぬぞ

女に乱暴狼藉を働きすぎた男は、どんなにがんばっても、もう戻って来てはもらえない。そういう限界というものは必ずあるのです。

天の岩戸なら、開いたかもしれない。それは一番麗しいものだから。だがかのじょは、月の岩戸を選んでしまった。天の岩戸より、それは小さくて弱いものにみえるが、決して開きはしないのだ。なぜだかわかりますか。

答えを言うのは簡単だが、ここは控えておきましょう。みなさんで考えてみてください。







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千尋の底

2017-04-24 04:57:41 | 短歌






千尋の 底に落ちたる 馬鹿どもの 面に浴びせる ゆばりの煮え湯






*これは厳しいですね。獅子は千尋の谷底に我が子を落とすという言葉がありますから、どんな人が詠んだかはわかるでしょう。

「尋」は長さの単位で、古代中国では一尋は八尺ですが、日本では六尺に当たります。六尺は約1.8mですから、千尋がどれくらいかはわかりますね。まあ、千丈と同じで、とても長いという意味です。

「ゆばり」とは、「小便」のことだから、「ゆばりの煮え湯」がどういうものかはわかるでしょう。相変わらず、獅子は細かい文法など気にせず、頭から槌で殴ってくるような歌を詠みます。

こういうことをする人を、わたしは知っていますよ。獅子の星でも熱い人だ。人間の馬鹿のために、厳しいなどというものではないことをしてくれる。ひん曲がった根性を叩き直すために、あらゆることをしてくれます。

それはもう、千尋の谷底に落とされて呻きあえいでいる馬鹿の顔に、煮えた小便のようなものをひっかけるなんてことは、すぐにやってくれます。むごいですね。

人間は、イエスのような甘くてやさしい愛ばかりが、神の愛だと思っているようだが、それは、甘い甘い。非情ということを、愛でやってくれる、厳しい存在もたくさんいるのです。それくらいやらないと、馬鹿者の根性というのは直らない。

いつまでも、馬鹿なことをやって人をだましていれば、自分が得できると思い込んでいるような馬鹿を、愛の道に目覚めさせるには、苦労とか苦悩とかいうものではない試練を食わさねばならないのだ。

阿呆は心底震えるでしょう。

愛を甘いものだと思い込んで、そういう甘い愛をことごとく攻撃して滅ぼしてしまえば、こういう激しく厳しい獅子がやって来るのです。

鞭とか獅子とかいう言葉を、愛の一つの姿を現す言葉として、覚えておきなさい。自分のために、涙も流さずあざけるように吠えながら、人間の馬鹿を鞭で翻弄してくれる愛があるのです。そういう目に自分が合うときは、獅子が来たと言えばよい。

これから、そういうことはたぶん、たくさんあることでしょう。







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しづのをだまき

2017-04-23 04:21:20 | 短歌






ひとのよに しづのをだまき くりかへし おとなひきては 玉の種まく 







*これは試練の天使の作です。2013年のもの。

「しづのをだまき(倭文の苧環)」というのは「くりかへし」を呼ぶ序詞(じょことば)です。序詞というのは歌の中である語句を呼び出す言葉で、枕詞と似たところがあるが、はっきりと形式は決まっておらず、通常七文字以上で、歌によって自由に創作できるものです。比喩(たとえ)や掛詞(しゃれ)を使って、特定の言葉を導き出すために、歌詠みが自由に作るのです。

例を挙げて説明してみましょうか。



葦引の 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む     柿本人麻呂



有名な歌ですね。この歌では「葦引の山鳥の尾のしだり尾の」までが、「ながながし」を導くための序詞になっています。こういうふうに、おもしろい譬えなどを用いて、言いたい言葉を呼んでくるのが序詞という修辞技法です。

通常序詞は、その歌のみに一回だけしか使わないものですが、「しづのをだまき」は、響きがおもしろいので、ここでは枕詞のように使ってみました。

「しづ(倭文)」とは、日本古来の織物のことで、「をだまき(苧環)」とは、それを織るために使う麻糸などを、中を空「にして丸く巻いたものを言います。その玉から糸を繰り出すときに、繰り返しそれをすることから、比喩で「くりかへし」を呼び出すことができるわけです。

この人の世界に、倭文を織るために使う麻糸の玉から糸を繰り出すように、繰り返しやってきては、玉のような種をまいてきたことだ。

天使や、天使のように高い人々が、使命を帯びて繰り返しこの世界に来ては、この世界の間違いを正すために、大切なことをしてきたのだ。

いい感じですね。「繰り返し」という言葉を使いたいときには、「しづのをだまき」を使ってみるとよろしいでしょう。序詞を使うおもしろさがわかります。練習は大切です。古い言葉はとても魅力的だ。ところで、この言葉を使った元歌はこの歌ですね。知っていると思いますが一応押さえておきましょう。




いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな    伊勢物語




昔の人が織ったというしづのをだまきから繰り返し糸を繰り出すように、もう一度昔に戻ることができないかなあ。

まあ、美しく詠んではいるが、馬鹿ですね。昔は今に戻るはずがない。過ぎ去ってしまったことはもう二度と戻らない。

失ってしまったものに、いつまでもくよくよと思いをかけてもしょうがないのだ。

どんなに逃げても必ずやって来る明日のために、心を向けて生きて行った方がいい。古い世界を捨てて、新しいことのために生きることの方が、本当は人間にとって幸せなのだ。だが、阿呆はなかなかこれができないで、繰り返し繰り返し、昔の思い出ばかりつぶやいている。

馬鹿なことをして別れてしまったが、惜しいことをしたなあ。別れてしまったあの人と、もう一度いいことになれないかなあ。

よくいますね。こんな馬鹿な男が。

なお、「もがな」は、願望を表す終助詞「もが」に、感動の終助詞「な」がついたもので、「~があればいいのになあ」などと訳されます。体言や形容詞の連用形、助詞などにつきます。




馬鹿者の しづのをだまき くりかへし うなる呪ひを 打つこともがな     夢詩香




こういうパロディは楽しいですね。








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隻影

2017-04-22 04:21:05 | 短歌






高空に 月はかかりて 隻影の 潜む光に 夜を濡らしつつ






*古語を使ってはいるが、現代的な詠ですね。

「隻影(せきえい)」はもちろん「ひとつのものの影」という意味です。「つつ」は反復や継続や並列の意味を表す助詞ですが、文末に来る場合は「ということだよなあ」という風に訳されて、詠嘆を表します。

高い空に月はかかり、その、一つのものの影だという心の潜む光で、この世界の夜を濡らしていることだ。だから人間は、あの高空の月を見ると、ことさらに自分の孤独を思うのだろう。

まあ、こういうところでしょうか。

月にもののあわれやわびさびを感じる心は、古い時代からあったが、現代ではことさらに、激しく孤独を感じるものです。自分だけが、何かから断絶されて、ひとりどこかに取り残されているような気がする。

それは人間が、愛を馬鹿にしすぎて、永遠に帰れないかと思うほど、遠いところに来ているからなのだが。

そんな心も、月は果てしない過去から照らしてきた心と同じ心で、照らしてくれる。そして教えてくれるのだ。愛から離れてしまった人間の孤独というものを。

わたしたちは、あの月を、かのじょを言い表す言葉として多用していますが、それはかのじょの優しい心が、月の光に似ているからです。やさしい、弱い、馬鹿にしたくなるほどきれいだ。それなのに毎夜毎夜、飽きることなく見つめてしまう。

あの高空に月がなければ、人は闇を生きていく自分が絶えられないほどつらくなるだろう。そしらぬ顔をして、遠い高みで反り返っているかに見えるが、気付けばいつも、みんなを追いかけてきてくれる。走って逃げても逃げても、いつの間にか月は頭の上にいる。

あの月も、たったひとりなのだ。ほかのどこにも同じものはない。孤高と言えば聞こえはいいが、寂しいだろう。誰かに、そこにいて光る訳を、聞いてもらえるわけでもないのに、光っている。

あれは一体何なのか。

月は一体だれなのか。

かのじょという存在は、あの愛の一部です。本当の月の姿は、今のあなたがたにはまだわからない、大きな存在の愛なのです。いつか、わかる。

あなたがたは、月の光の中に、荒野にたたずんでいる自分の隻影を、思い浮かべるといい。そうすれば、そろそろもうやめようという気にも、なれるでしょう。







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かたつぶり

2017-04-21 04:25:15 | 






みをはぢて とぢしなりしや かたつぶり     夢詩香






*汚れた百合ほど汚いものはない、と言ったのはルナールだと思いますが、それは清らかに美しいものが汚されたというものほど、痛々しくつらいものはないということでしょう。

本当は美しくあるべきものが、嫌なことをしてしまい、嫌なものになってしまった。そういう自分であることが苦しすぎる。人の苦しみの中には、そういう心がいつも、膿んだ傷のように存在しています。

人間は、絵の中にいる聖母は尊敬するが、実在の女性が、聖母のような美しい生き方をしようとすれば、激しく憎む。みなで邪魔をして引きずり落そうとする。それは、そういう生き方に失敗して、自分を汚してしまった自分が、たまらなく恥ずかしいからです。

ですから人は、清らかに咲いた百合の花を見ると、汚したくなるのだ。嫌だからです。嫌なのは百合の花ではない、自分です。汚れたことをしてしまった自分が、嫌なのです。

誰にも見られたくない心を、カタツムリのような殻の中に隠し、嫌な自分が自分である痛みを、どこかでごまかそうと、心は暗いところに流れていき、美しいものと見ては、ずるいやり方でいじめるようになる。そんなことをする自分が、また痛ましくつらくなり、一層激しく自分が嫌になり、その心を、また美しいものに振り向ける。

こういう心の負のスパイラルがあることは、ご存じでしょう。たくさんの未熟な男や女が、こんな心の沼に浸りこんで溺れている。苦しさのあまり、嫌なことばかりして、世間に馬鹿を振りまいている。人から盗んだ顔を着て、表面は馬鹿馬鹿しいほどきれいな、できた人間の芝居をしていながら、誰も見ていないところに行けば、みじめなところで延々と守っている、愚かな自分を満足させるために、天使のような生き方をしている人間を、不幸のどん底に落とすようなことばかりしているのだ。

世界中のみんなが、自分のように汚くなければ、馬鹿は我慢ができないのです。

馬鹿が必死になって美しい人を攻撃するのは、自分がたまらなく恥ずかしいからなのです。だから馬鹿は、カタツムリの中のような閉じた闇に閉じこもり、延々と毒を食い続ける。出て来なさいと言っても出て来はしない。暗闇から人をいじめる血の味に、酔うてしまうと、なかなか出て来れなくなる。阿呆の愉悦とは、自分よりいい人間が落ちて不幸になるときに、げらげらと笑って馬鹿にできる時が、しびれるほどいいということだ。

そんなことをすればするほど、自分がみじめに醜くなってくるというのに、やめられないのだ。愛を、あんなものは馬鹿だと言ってだめにすれば、自分の方が大変なことになるというのに。

もうそこから出て来なさい。いつまでもいると、当然のごとく、世界を破滅させたものとして、大きな罪の家を、カタツムリのように背負うことになる。

阿呆はもう、やめなさい。







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