ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

かたし

2018-07-31 04:19:13 | 短歌





秋風に とはれし人の ゆくすゑを かたしといひて ほかはこたえず





*この「かたし」は「難し」と「固し」の両方があります。

秋風に問われた人の行く末、すなわち人類の未来はどうなるかという問いに、難しい、あるいは堅固に決まっていると答えて、ほかはこたえなかった。

難しいですね。実はこれは、ある日わたしたちが神から受けた啓示からとっているのですが。

あまり詳しいことは言えませんが、人類の救済事業がひとつ段階が上がったという、啓示を受けたことがあったのです。神はおっしゃった。人類の未来の一部が決まったと。それで人類は救われるだろうと。しかしそれは困難な道だと。

人間の未来への道は難しいだろう。だが救われるだろう。そういうことなのです。

その過程で起こる現象も見せられた。人類は今、自分を改造してずいぶんと変なものになっているが、その嘘があばかれつつある。人間の人生そのものが嘘になる。それで人類はたいそう苦しむだろう。そういうことを教えられました。

神の導きというのは厳しい。人類は試練の門をくぐり、そこを抜けて本当の世界を垣間見る時、自分自身がまるごと嘘だということに気付くのです。

自分の顔も、人生も、妻も子も、家族も、みな嘘なのです。

ほんとうの自分の人生をいやがり、嘘で無理矢理作った人生を生きている。それがどんなにむなしいことかを、人類は経験していくのです。

本当の自分のうれしさということを知った時、今ある自分がまるごと嘘だということに、人間は耐えられなくなってくる。しかしそれを耐えねばならない。嘘だとしても、まるっきり嘘にしてしまっては、あらゆることが崩れてくるからです。

本当の自分で生きている人は、その人生がどんなに苦しくとも幸いでしょう。まるで自分の人生そのものが癌のような、きつい苦悩を味わわずにすむ。

感性の進歩した人間は、他人だけではなく、自分自身をも見抜いていく。そしてその過程で、ゆるぎないほんとうの自分の世界に向かっていくのです。

それが救いなのです。






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凡庸の怪

2018-07-30 04:19:48 | 短歌





いつはりの 糞を重ねて 城をたて ももとせもすむ 凡庸の怪





*これは大火の作ですね。読めばすぐわかります。この切れ味がいいところだ。糞という言葉を平気で詠みこんで、すがすがしくしあげられるのは、彼の持ち味です。

嘘を、臭い糞のように重ねて、それを土台に城をたてて、百年もそれに住むという、凡庸の人々の怪であることよ。

なにげに不思議なことだ。嘘ばっかりついて、その上に長いこと住んでいられるということは。嘘というのは常に臭い。ひどい匂いがしているというのに、そこに百年も住んでいられる。

要するに、嘘ばかりついている人は、くさいにおいに慣れっこになっているのでしょう。匂いというのは常にその中にいると、気にならなくなるものだ。嘘ばかりの世界に常に住んでいたら、嘘にもなれっこになってしまうのでしょうね。ですがそれはあまりにも汚い。

嘘の外から見ている人から見たら、あまりにも馬鹿らしい。

芸能界やスポーツ界などというものは、この糞の上に建てられた城ですよ。ずいぶんと立派だが、臭いものにあふれている。もうこの項が発表される頃にはワールドカップは終わっているでしょうが、サッカーの選手にもひどくくさい人がたくさんいましたね。

顔つきがそこらのちんぴらというか、ひどい貧乏人を思わせるのに、ものすごく金持ちで、よい暮らしをしている。世界的に有名な選手になっている。もちろん大嘘です。霊的技術で肉体と運動神経をこしらえ、盗んだ徳分をつけて名声を得ている、とんでもない偽物なのです。

サッカーの世界は、ああいう鬼のような怪物がたくさんいる世界なのです。本当の人間は、皆無です。だれもいません。ほんとうですよ。

人間は、そういうものたちを、英雄か神のようにもてはやしているのです。もろに、狸に化かされて糞を食わされているようなものだ。

糞の上に建てられた城に住んでいる、猿をあがめているようなものなのですよ。






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マルス

2018-07-29 04:18:24 | 短歌





月影の きよきねがひも 萎えはてて マルスは目覚め ウェヌスは眠る





*これは、かのじょの「ふゑのあかぼし」にあったこの歌を元にしてありますね。


天暗き 千歳の夢も とひつきて ウェヌスは目覚め マルスは眠る


「ふゑのあかぼし」はボッティチェリとのコラボでつくられた歌集ですが、たしかこの歌には「ヴィーナスとマルス」の絵が添えられていました。目覚めている着衣のヴィーナスと、裸のまま眠っているマルスが描かれている。

歌の意は、ウェヌスを愛、マルスを暴虐の隠喩ととらえて、長い暗黒の時代が終わり、愛の時代が始まるということですが、それを逆手にとって、表題の歌はこう言っているわけです。

愛の時代が始まるという、月にたとえられる人のきよらかな願いも萎え果てて、今度は正義と戦いの星マルスが目覚め、ウェヌスが眠る。

愛の星であったかのじょはもう眠り、馬鹿どもを制するためにマルスにたとえられる獅子の星が目覚めるのだ。

絵の中ではマルスは眠りこけていますが、しかし目が覚めている彼ほど怖い存在はない。愛ですべてを救おうとしていたウェヌスが、馬鹿どもにどんな目にあわされたかを知った時、怒り心頭に達して、やりはじめる。

彼はウェヌスのようにやさしくはない。愛で倒れるまで我慢してくれるなんてことはない。痛いことをする馬鹿どもには容赦なく鉄槌を下す。反動を当然のこととかぶりながらどんどん進んでくる。

男を甘く見ると大変なことになる。

絵の中のマルスのように痛い男がいつまでも眠りこけていると思ったら大間違いだ。

表題の歌は、もちろん獅子の星の作です。おそろしい天使の作です。これから、いえ今も、馬鹿どもは彼に恐ろしい目にあわされているでしょう。






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夏のねぶり

2018-07-28 04:18:43 | 短歌





かたつぶり 夏のねぶりの ぬばたまの 夢をふまれて 野に砕かれぬ





*「ぬばたまの」は「夢」を呼ぶ枕詞ですね。こんなことばがあると便利でいい。歌の調子を整えることができますし、真っ暗な夢と意を添えることもできる。できるだけたくさん覚えておきましょう。

これは一年前のツイートから持ってきましたが、最近、神社でかたつむりを本当にふみつぶしてしまったりなど、印象的な出来事があったので、取り上げました。

いや、この項を書いているのは6月30日で、自分を守っているばかりで痛いことは何もしようとしない人間たちにあきれて、大火がつぶやきをさぼっているところなのです。

これが発表されるころにはどうなっているかわかりませんが、わたしも休むのには賛成ですね。続けても、人間が変わらねば、同じことを繰り返すだけだ。

少し休んで、状況の変化を待つこともよいと思いました。

何度も何度も重ね重ね言うのが教育とは言っても、その何度も何度もが、あきれるほど重なると、言う方もしんどくなってくるというものです。がんばってもがんばっても、人間は何も変わろうとしない。何もしようとしない。ですから、たまには言うのを休むのもいいのではないかと。彼のことですから何かはしゃべるでしょうがね。

夏眠中のかたつむりが、殻に閉じこもって真っ暗な夢を見ていると、たれかに踏まれてしまって、野原で砕かれてしまいましたよ。

かたつむりは自己防衛の象徴。いつまでも自分を守ってじっとしていると、神に踏まれてつぶされてしまいますよ、という暗示です。

季節は変化していく。それに気付いていながら、何もしないで楽な方に逃げていると、そのうち痛いことになりますよ。時代の方向は、うそばかりの現実から遊離し始め、真実の方向に吸われはじめている。神の風が吹いてきている。

どこかでジャンプして、自分を動かさないと、神の流れに乗り遅れてしまいます。

古い時代と一緒に踏み潰されて、馬鹿になってしまいますよ。






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伏すよし

2018-07-27 04:19:15 | 短歌





いつはりの あをき実をなす 幻想の 暗きばおばぶ 伏すよしもがな





*今日も一年前のツイートからもってきました。最近、歌が不調ですのでね。昨日あたりから、というのは6月28日のことですが、大火がキレてつぶやきをやすんでいるので、その影響もあって、あまり歌を詠む気になれません。

こういうときにこそ、積み重ねがありがたいものだ。過去を掘ればいろいろなものが出てくる。

いつはりの青い実、というのには、かのじょのこの歌がからんでいますね。


花の実の 朱をあざむきて ことごとく あをきにしたり 阿呆の宴


花の実の本当の赤い色をあざむいて、ぜんぶ青いものだということにした、あほうのうたげであることよ。

まあつまりは、自分のことを影であれこれ言っている心無い馬鹿どものことを詠っているわけです。何にも知らないと思っていたら大間違いですよ。自分の本当の心も知らずに、陰で好きなことを言っている馬鹿どもがたくさんいて、宴のように騒いでいることなど、かのじょはとっくに知っていたのです。

それはともかくとして、そのようにこの世界は嘘にあふれている。すべてが嘘でできていると言っても過言ではないほど。青い実をつけるばおばぶが、星を壊しそうな勢いで栄え栄えている。

そんな嘘の青い実ばかりがなっている大きなばおばぶの木を、倒す方法はないものだろうか。

人間世界の嘘を浄める方法はないものだろうか。

感性の進化を見て、嘘の正体がわかっても、人間はなかなか変われない。嘘が嘘になって、全部倒れてしまえば、大変なことになるからです。人間、嘘で自分をなんとかしている人が多すぎる。嘘でも、すべてをよいことにしておかなければ、困る人がたくさん出るのです。

しかしいつまでもごまかしは効きますまい。人間が、嘘ばかりの世界にいつまでも耐えられるとは思いません。それは美しくないからです。美しいもののふりをしている、もっとも愚かな馬鹿だからです。

本当に美しいものがないと、人間は生きていけない。

どうにかして、嘘を倒し、この世の中に本当の世界を打ち建てねばなりますまい。

さて、そのためにはどうしたらよいか。わたしたちにも、すべてがわかっているわけではない。いろいろとやってはいますがね。

神に学びながら、なんとかしていくしかありません。






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孤独

2018-07-26 04:18:56 | 短歌





とほき日の 忘れし野辺の 過ちの うへにたたずむ りんごの孤独





*これも一年前のツイートですね。すぴかの絵付き短歌です。絵は、大きな青いりんごの上に、裸体の人物がひざを折って座っているという図でした。

りんごというのは、自分のなしたことから生えてきた木になった苦い実というところでしょう。自分がやったことが自分に返って来て、結局こうなったという結末の隠喩です。

何にせよ、りんごというのは苦い意味を乗せられるものだ。その甘酸っぱさは、痛い記憶を刺激する。りんごを噛んでいると、過去の苦い思い出を思い出しそうになる。

縁起の世界では、人は自分のなしたことから逃げることはできません。過去にまいた種は、必ず芽吹いて、その人にからみついてくる。そして必ずなんらかの実を結ぶ。

その実を食うのは誰でもない、自分自身なのです。自分の蒔いた種からなった実は必ず自分が食わねばならない。自分以外のだれもそれを食うてはならない。もし自分が食うのが嫌なばかりに、他人にそれを押し付ければ、また苦い種を植えたことになって、そこからまた何かが芽生えてくる。

孤独というのは、その実を食う時、たれもそれを代わってはくれないのだと気付く時の孤独でしょう。

さざ波のように繰り返す過ちの中で、人は少しずつ、この縁起の世界の文様を学んでいく。巡り巡る時の中で、似たようなことを繰り返している自分の愚かさに気付いた時がチャンスだ。自分の過ちを知り、自分が間違っていたことを知ることができれば、その苦しい繰り返しから抜け出すことができる。

孤独を突っ切って、孤独をすべて受け入れる時、人は自分のすべてを背負って生きようとする。

そのときが、ほんとうの自分の始まり、ほんとうの幸福への道の、始まりなのです。





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とこしへの野

2018-07-25 04:19:25 | 短歌





佐保姫の 岸に露とも 消えつるを とこしへの野に 咲く花とせむ





*今日は一年前のツイートから持ってきました。

「佐保姫」はもう知っていますね、春の女神のことです。わたしたちの歌では、ヴィーナスやそれに準ずる女神のことを言い表したりします。

表題の歌は、ボッティチェリの誕生のヴィーナスの絵に添えて詠われていました。

ヴィーナスの女神が、岸にたどりついて露のように消えてしまったのを、永遠の野に咲く花としよう。

もちろんこの歌はかのじょのことを意識しています。人間世界に美しい女性として生まれてきて、ぞんぶんによいことをしようとしていたが、それはある程度なんとかなったものの、結局は露のように消えていかざるを得なかった。現れては消えてゆく泡のように、かのじょははかなく消えていった。

あれほど人類に尽くしても、何も報いはなかったというのに。それどころかあまりにもひどい仕打ちを受けていたというのに。

不幸なのは消えていった本人ではない。それを消してしまった人々の方だ。あらゆることをして人類に尽くしてきた霊魂を消してしまったら、残った世界があまりにもひどいことになった。春の女神が咲かせていた花が一気に咲かなくなり、世界はあまりにも寂しくなった。なんにもない。それだけでなんにもない。

生きるのがつらいのは、ほんとうは愛のために生きていたからです。その愛を、人間は消してしまったのです。

人々はヴィーナスなんてものは美しいだけの馬鹿だと思い込んでいた。だがそれがいなくなった時、どれだけ世界がつらいものになるかを、初めて知った。

もう永遠に帰っては来ない。そして女神は永遠の花になる。

すべてを愛で救ってくれた女神を、人間は永遠に恋していかねばならなくなったのです。






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ことひと

2018-07-24 04:19:09 | 短歌





われになき われをつくりて きぬのごと かづきつつまふ ことひとのむれ





*「ことひと」は「異人」、他人、関係のない人、という意味の古語ですが、ここではそれに、現代語の意味も引いて、どこともしれない外国の人、という意味もこめられています。要するに、わけのわからない、理解できない人たち、というくらいの意味です。

「かづく」は「被く」、文字通り、かぶるという意味ですね。

自分ではない自分を作って、それを衣のようにかぶって踊りを踊っている、わけのわからない人々の群れがいる。

これを書いているのは、ワールドカップが行われている最中です。人々は日本がセネガルと引き分けたということで喜び踊り狂っている。わたしたちはそれを、いつまで馬鹿をやるつもりなのかと冷ややかに見ている。

あそこにいる人たちは、みな偽物なのです。人から盗んだものを自分につけて、かっこいい自分をつくり、バックの霊界にいる霊に自分の活動をやらせて、いっぱしのいい人間に見せている。だが本人は肉体の主宮にいるだけで、ほとんど何もやってはいない。

嘘でつくった自分を本当の自分と思い込み、いやに誇らしげに走っているが、真実が見える人間には、みっともない嘘が恥ずかしく見えている。

目付きを見れば人間のレベルがわかる。本当の姿がわかる。小さい人間が、無理矢理自分を大きくして、つくられた舞台の上で英雄を気取っている。そのさまがおそろしくみじめだ。

いずれあれらはそのまま馬鹿になるでしょう。見破られたらおしまいの嘘がもう見破られている。おそまつな正体をあらわにし、どんどんしなびていくだろう。

そして、ほんとうの自分がどんなものか、やっと知ることができるだろう。人間以外の者に落ちた自分の真実を、知ることができるだろう。

人類はもう本当の世界に戻っていく。それは抗いようのない流れです。美しいものがない世界では、人間は生きていけないからです。そしてその流れの中で、嘘はどんどん滅びていくのです。






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あやまち

2018-07-23 04:20:29 | 短歌





あやまちの ばおばぶのごと 世に栄え 目を細めつつ あふぎし月よ





*ばおばぶというのは、星の王子さまに出てきた大きな木のことですね。バオバブ自身には罪はないが、たしかに小さな王子さまがひとりですんでいるような小さな星にとっては、壊滅的な破壊をもたらすとてもやっかいなものでしょう。

その星を壊すばおばぶのように、世の中に過ちが栄えている。それを目を細めながら仰いでいた、月にたとえられる美しい人よ。

かのじょが生きていた頃、この世界の間違いはたしかに星を壊すような勢いで栄えていた。悪の優位性を信じ、馬鹿どもはやっきになってひとりの美女を滅ぼそうとしていた。何千もの勢力を持って、人一人を滅ぼそうとしていた。なぜか。その美女が真実の人だったからです。この世界に残った、ただ一粒の本当に美しい人だったからです。嘘と偽物ばかりの世界で悪を信じていた馬鹿どもは、たったひとりの真実の美しい人の前に狂い、あらゆる暴虐をなしたのです。

その美しい人は、この世界に愛の世界を打ち建てようとしていた。絶望的な仕事です。周りの人間はみな自分を見失い、凡庸の闇に安住して好きなことをやっていた。愛のために行動しようなどというものはだれもいなかった。

世界中のすべてが自分の敵だとも思えるような世界で、ただひとりでそれに挑もうとしていたのです。

自分が真実の人であるならば、それはやらねばならない賭けでした。その賭けをしようとしている人が、ばおばぶのように巨大な人間の過ちのかたまりを見ている。その気持ちはどんなものだったでしょう。

見える世界にはだれひとりとして味方はいない。だがかのじょは知っている。神がいらっしゃることを。それならば、自分の身を捨てていくしかない。

神を信じて、やるしかない。

すべてがそれでなんとかなったのです。過ちの海の中に、ただひとり、神を信じて行動した真実の人がいたから、この世界はなんとかなったのです。

凡庸の闇に溶け、悪に酔っていた大勢の馬鹿たちは、一気に沈んだ。そして今も、本当の美人ひとりに、何をすることもできない。すべてがそれに支配されているかのように、美人の前で動けずにいる。

美しさというものは計り知れない。ひともとの薔薇のようにはかなく見える美しい人が、真心のみで、最も美しいことをしたというだけで、ばおばぶのように巨大なものが、一気に倒れたのです。





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2018-07-22 04:22:22 | 短歌





暗き世を あをきこてふを たよりつつ 犬をかぶりて 生きむとぞする





*これは一年前のツイートから持ってきました。すぴかの絵付き短歌ですが、ジェームス・C・クリステンセンの絵につけたものです。風変わりなかっこうをした妖精めいた男が、青い蝶を明りのように下げ持ちながら、歩いているという図です。

クリステンセンは本物の画家ですが、それゆえにきついことがあったらしい。画家の作品からそういう心が漏れ見えていました。それですぴかがこんなのを詠んでみたのですが。

暗い世の中を、青い蝶のようなはかない希望をたよりつつ、犬のような顔をかぶって、生きようとする。

吹きすさぶ馬鹿の嵐の中で、犬のように生きて来た。何気ないことにも馬鹿にされて、ひどい仕打ちを受けたこともあった。だが犬のように引き下がり、尻尾を振って生きて来た。それが苦しいなどというものではなかった。まるでかのじょの人生そのもののようだ。

青いという色は悲しみを帯びている。まるで黄昏の空のように暗い。それはほの暗い希望だ。何もないわけではないが、あまりにもささやかで苦しい。そんな小さな希望とは何だろう。希望とも見えない希望なのだ。ここを通り抜ければ何かがあるという、さして根拠のない願望かもしれない。

人生というのには、長い忍耐が必要です。ほんとうの愛のために生きようとすれば、この世界では特に長い忍耐が必要です。全部が絶望ばかりで、希望など何にも見えないような暗闇の中でも、未来に何かがあると信じて、忍耐し、努力を重ねていかねばならない。

それはもう、徒労のような仕事を積み重ねていかねばならない。

徒労の丘、なんて歌を前に詠みましたが、わたしたちのこの仕事も、まるで徒労のように思える時がある。どんなにがんばっても、あなたがたは飛ぼうとしない。どんなに叫んでも、表向き何も答えようとしない。

忍耐が必要だ。青い蝶のようにはかない希望をたのんで、今を耐えるしかない。犬のような顔をかぶりながら。

犬とはなんでしょう? それは馬鹿だという意味だ。馬鹿になってでも、やらねばならない。やりつづけねばならない。

本当の幸福とは何なのかを、知るために、長い忍耐というのはあるのでしょう。そしてすべてが終わった時、やってきた年月のすべてが幸福だったと、人は知ることになるのです。






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