ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

柴犬の

2017-05-31 04:19:43 | その他





柴犬の やはらかき背の 赤さかな     夢詩香






*俳句というものの、短歌との違いは、短い情愛の感覚を詠むとき、胸に切り込んで来られるかのような情感を感じることですね。愛犬の背中を撫でているときというのは、そのやわらかさが気持ちよく、幸福な気持ちになるものだが、そういう何気ない幸せというものを表現するとき、短歌では冗漫になるような気がします。

かのじょは一匹の小さな雌の柴犬を飼っていました。とても美しい犬で、毛色は明るい茶色で、小鹿のようにはねている姿がかわいかった。澄んだ目が一心に自分を見てくれる。散歩をするときは尻尾を振ってついてきてくれる。風の中を一緒に歩いている時は、自分を導いてくれるかのように、先に歩いてくれていた。目指す先はもうわかっている。いつもの道を、犬は知っている。

それが夕時から朝方かというのは、その時々の事情によって習慣が変わったが、かのじょはあの犬と散歩をしている時がとても幸福だった。自分の情感に素直に従って生きることができる。自分を本当に愛してくれているものと、歩くことができる。

周りにいる人間は、口ではあたりのいいことを言っていても、目はいつも違うことを言っていた。人間が自分に対してどういう思いを持っているかを、かのじょは知っていたが、はっきりとわかるのが嫌で、いつも目をそらしていた。そういう自分を他人が見る目が、またちくちくと痛く、かのじょはこの世界で生きているだけで、どんどん傷ついていった。

そういう人生の中で、愛する犬と一緒に散歩するときだけが、心の縄を解いて自然に自分になれるひと時だったのです。

その愛していた犬が死んだとき、かのじょの人生はほとんど終わったのだと言っていい。もう誰も、本当に自分を愛してくれる人間は、この世界にはいないのだ。たとえ誰かが自分を愛してくれることがあるとしても、それはたぶん、未来のことだろう。自分が死んだ後のことだろう。そういうものだ。

この世界に新しい愛を持ってくるものは、たいてい、生きている間はほとんどだれにも愛してもらえない。それまでの世界を覆さねばならないという使命を果たそうとすれば、あらゆる人を苦しめてしまう。それでもやらねばならないのがわたしたちというものだ。人間の愛など、最初から期待してはいない。

本当の幸福をこの世界に持ってくるためには、それまでの幸福を壊さねばならない。そのとき浴びる反動を覚悟して、やれるものではないと、天使の仕事はできません。

だが、そういう使命を持った者にも、愛は必要だ。人間は愛してくれなくても、犬や楠は愛してくれる。その愛を頼りながら、神の愛の真をひたすら信じて、あらゆることをなしていく。阿呆にならねばできないとは言うが、その阿呆になるとは、愚昧の闇に自分を溶かしていくということではない。現実世界での計算など放り投げてしまうということだ。

やっても何もなりはしないのに、愛のために働くだけで幸福だと言って、すべてをやり、何もいらないと言って死んでいくことができる。それが幸せなのです。

馬鹿にはわかりはすまい。

わたしは、重い使命を背負って生きねばならなかったあの人の、あの寂しい人生に、ひと時でも寄り添ってくれたあの小さな犬を、ことのほかほめたいと思う。あの柔らかくも美しい毛の色は、まるで人生の明りのようだった。

とても暖かい。








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親心

2017-05-30 04:21:56 | 短歌






背く子の 思ひ隔つる 背を見つつ 微塵も減らぬ 親心かな






*「背く子」というのは、子育てをするものにとっては、何度も味わわねばならない苦悩の種です。愛していても、子供というものはいつも親に背くものだ。素直に従ってくれた方が、その子が幸せになれるのにと思うことは多くあるのだが、そういう時に限って、子供というものは親に背くものです。

あなたがたもよく、わたしたちにたてついてきますよ。子供が親に背く気持ちには、いろいろありますが、底辺には、自分より大きくて優れたものに対する引け目とか嫉妬がある。それは、存在としては宿命的に味わわねばならない心の文様です。いつかは乗り越えねばならないことだが、誰でも一度は苦しまねばならない。

何に頼ることもなく立派に生きていける強い存在になりたいのだが、自分の弱さからは逃げられない。誰かに頼らなければ生きていけない子供という身分は、時に子供にとっては、堪えがたい屈辱に思える時がある。特に、親が自分より優れた人格だと思えない時には、その苦悩は強い。

「思ひ隔つ(おもひへだつ)」とは、心に壁を作るという意味の言葉です。

背いている子の、親に心を閉じている背中を見ながらも、微塵も減らない親心であることよ。

どんなに苦労をさせられても、子供を愛する親の気持ちというものは、微塵も減らない。どうにかしてやりたいと思う。そういう親の気持ちは、親になってから初めてわかる。

どんな思いをして育ててくれたか、わかったときにはもう、親はいないことが多い。そういうものだ。そして自分もまた、自分の子に、親が注いでくれたような愛を注いでいく。それが、自分を愛してくれた親への愛であるかのように。

子を愛することができるようになった人は、それがどんな幸せであることかを、深く知っているでしょう。何もいらない。あの子を愛しているだけで幸せなのだ。そのためになんでもできる自分の、見知らぬ神に頂いたような澄んだ美しさが、うれしいのだ。

だからどんな苦労でもしてやろう。

勉強というものは、神が滴り落してくれるそういう教えを食べていくことです。愛していくことが本当の幸せだということを教え続けてくれる、神の愛を知ることが、人間の本当の幸せなのです。

だからこの世で、人は子の親になり、親の子になる。そういう関係を通して、深い情愛を学び、自分の愛を深めていくことができる。ここはそういう世界なのだ。

誰かの親になることができる。誰かの子になることができる。

それは本当は、すばらしい幸福なのですよ。あなたがたは、そういう幸福を、当然のように神にいただいているのです。

それが、人間への御親の愛だからです。







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神のあふぎ

2017-05-29 04:20:32 | 短歌





冬去りて なまめく空に 鳥は散り 神のあふぎが 世にひるがへる






*ここでいう「冬」は、季節の冬ではなく、冬のような闇の時代ということです。「なまめく」は、色っぽい感じになるというのではなく、みずみずしく新鮮であるさまを表します。要するに、空が若々しく生きているように動いているということだ。

鳥が散るということは、天使のような高い存在が、たくさん活動しているという意味です。

解説するとわかりやすいですが、幾分歌の香がしおれるような気もしますね。だが解説しないと、意趣というのはなかなかにわからない。解説というものの難しさというものです。

もう冬の時代は去った。空がなまめくように動いている。鳥のように天使が空に散る。神の扇が翻り、世界を変える。

すばらしい歌です。これを詠った人は、かなり痛い人ですよ。わたしたちの中でも、上の方の人です。

わたしたちには、会社員のように階級というものはありません。指導者という感じの人はいますが、その人も、わたしたちそれぞれに命令したりはしません。わたしたちはそれぞれに、自分の本質の願いというものに添い、自由に表現しています。それでも、大きな愛の中で、自然に全体として統率のとれた活動ができるのです。

鳥が乱れ飛ぶように空に散るように見えて、すべてはある秩序の元に美しく行われている。何かの愛が自分を動かしていることを感じつつ、その愛の中で自分を生かしていることに、たとえようもない幸福を感じている。

愛というものは、無条件ではないが、どこかに無条件の鍵がある。その鍵が回っている時、愛は信じられないほど高いものになる。

千人の天使が、一人の神をやっているかのように、美しい一つの芸術的活動をすることができる。

あなたがたにも、いずれわかるようになります。本当の愛の中で、自分が溶けていくような幸福を感じながら、愛のためにすべてをやっている時の自分のすばらしさを、知ることができるようになるでしょう。

そうなれば、どんな苦難にも挑戦し、あらゆることをなしていくようになるでしょう。清らかに生きなさい。

動物的エゴを実行する者が強いように見えるのは、自己存在の幼い頃だけです。そこを請えれば、愛の方が何万倍も強いものだとわかるのです。

扇を翻すように、自分を変えていきなさい。







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みみなぐさ

2017-05-28 04:20:18 | 





祈りゐて 照る日を浴びる みみなぐさ    夢詩香






*たまには俳句をやりましょう。この記事を発表するのは5月の下旬ですが、書いているのは2月の初旬です。オランダミミナグサが咲き始めたころです。

この花は、かのじょも好きでしたね。冬が穏やかになり始め、日差しが柔らかくなってきたころに咲く、目立たない白い花です。あまり人目を引かないが、近寄ってよくよく見てみれば、大変に愛らしい。きれいな心が見える。あの人はこういうのが好きだった。小さなものに心惹かれて見に行くと、とても美しいものがある。信じられないほどきよい心が、あまりにありきたりなところにある。道端や庭の隅や、明日には刈られてしまいそうな空き地の中に咲いている。

人間はまだ知りはすまい。こんな小さな花の中にある心が、人間を幸せにしてくれと、神に祈っていることを。

そんな心が、絶え間なく人里に咲いてくれているからこそ、人間の暮らしがよくなっていくのだということを。

小さな花だが、神はそのようなきれいな心を見失うことはない。どんな小さな祈りも聞き逃さないほど、神はたくさんの耳を持っていらっしゃる。

千耳という名をさしあげたいほどに。

その耳は、この世のすべての花の祈りを聞き逃さないほどに、幽玄微妙な感覚を持っているのだ。

そのような愛の祈りの声を聞くことができるようになり、あふれるほどの愛に包まれて生きていたことに気付くころには、人間も美しいものになっていることでしょう。

日差しをあびているミミナグサは美しいですね。ミミナグサは「耳菜草」だ。葉っぱがネズミの耳に似ていることから来ているそうです。日本のミミナグサは、写真のオランダミミナグサとは違いますが、どちらもナデシコ科で、道端などに生えるかわいらしい野花です。




神の呼ぶ 声を聞き知る 耳菜草     夢詩香







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猩々の宮

2017-05-27 04:19:53 | 短歌





星のごと 絹の上着に 勲章を 並べ手を打つ 猩々の宮





*「猩々(しょうじょう)」というのは、オランウータンの異名です。元は中国の伝説の中の架空の動物で、そこからオランウータンの漢名になったものらしい。これから材をとった能の演目があり、その演者が真っ赤な衣装を着ていることから、「猩々緋(しょうじょうひ)」という色の名前もあります。シグナルレッドに似た鮮やかな赤色ですが、名前の感じからすると、おさるの尻の色かという誤解をうけそうですね。

似たような言葉に「狒々(ひひ)」もあります。こちらは中国から日本に伝わってきた伝説の猿の妖怪です。マントヒヒとかゲラダヒヒとかの名前は、この妖怪からつけられたものです。

まあここでは、「猩々」というのは、単に猿を言い表しています。オランウータンという名前には「森の人」という意味があるそうだが、見るからに、怠け者の爺だという顔をしている。のんきに生きているが、あまりいいことはしていないようだ。

星のように絹の服の胸にごてごてと勲章を飾り、手を打って馬鹿にしているオランウータンのような猿が住んでいる宮がある。

「宮」というのは「御屋」で、まあ要するに、皇居のことですね。

言いたいことは明白ですね。冒頭の「星」と「猩々」の「猩」がなんとなくあっているのがおかしい。

先の天皇はよい人間だったが、今上天皇はむごいことになっている。国民に猿の正体がばれているというのに、防弾ガラスの向こうから、つまらない芸人の付き人のような顔をしている馬鹿が、うれしそうに手を振っている。

世間というのは痛いものだ。形だけになったしきたりを嫌なものにしないようにやってくれてはいるが、そのせいで、嫌なことが違うところで起きてくる。

最近、皇族というのはきつい感じになってきていますね。内親王が登校拒否をしている。あまり問題にはしていないようだが、あれは痛いですよ。なんでそういうことになるかというと、皇族を守っていた霊集団が、もう皇族を守ってはいないからです。事実上、日本の皇族をやっていた霊的活動は、かのじょが国王を代行していたある時期に、破裂してしまっているのです。

以前なら、おそろしく幼稚な人格でも、皇族だというだけでよいものに見えていたのだが、今はそれが全然ない。本人の段階が丸見えに見える。だから、人間の、皇族に対する嫉妬や攻撃欲が、だんだんとむき出しになってきているのです。だから内親王は学校にいけないのですよ。行けば嫌なことをするやつと会わなければならないからです。

日本の皇室はだんだんきついことになってくるでしょう。もう、国王としての徳も機能も果しえない血流を、国は大事にしてくれなくなる。皇太子は天皇になれるでしょうが、秋篠宮は難しいでしょうね。

世間体というものも、古びてくれば嫌なものになってくる。人間も変わらざるを得ない。

この国を動かしているのは、天皇ではありません。総理大臣でもないですね。実は痛い機能を持っているものがほかにあります。そこがもうそろそろ、天皇を見放し始めている。阿呆がばれればもう終わりだ。




さるにより さるはさるべき 玉の宮     夢詩香




新しい時代がやってくる。そのときに馬鹿にならないために、今から確実に足元をしっかりしたものにしておきましょう。







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西の門

2017-05-26 04:20:28 | 短歌





はしための 下の帯をぞ 形見とし 西の門より 後宮を去れ






*これは、以前試練の天使が、金瓶梅のことなど話題にしていたので、誰かが詠んでみた歌です。金瓶梅はいわゆる官能小説の古典ですが、わたしは読んでいるわけではありません。ただ教養として、主人公の西門慶(せいもんけい)が、金持ちで権力者で光源氏も真っ青な美形で、もてまくってもてまくって、美人の妻をたくさん持っているということを知っているくらいです。

まあ、男の都合の良い願望を、一心に浴びているキャラだと言えますね。

中国人の名前には、司馬とか夏侯とか諸葛とかいう二字性があることは知っていましたが、西門という姓はこれで初めて知りました。調べてみると、珍しいが、本当にあるらしい。人間の名前というのもおもしろいですね。司馬懿、夏侯惇、諸葛亮、こういうと人物像が浮かぶ人は、三国志に通じている人です。二字姓というのはなんとなく特別な響きがある。色事師の名前に使われると、かなりかっこいい感じになりますね。おもしろい。

まあここまでくればわかるでしょうが、「西の門より後宮を去れ」は、馬鹿男は西門慶のような都合のよい夢は捨て、いさぎよく後宮のようなところから出ていけという意味です。

はしための下着など形見にでも持って、さっさとこんな汚い夢から出て行くがいい。

ハレムなんぞ、夢の夢ですよ。

過去の歴史では、そういうものを作った男もいましたがね、そういう男は、後が大変なことになっているのです。その人生で自分の相手をさせた女性ひとりひとりの人生の責任を取らねばならないからです。阿呆なんですよ。百人も女性を囲ったら、百人の女性すべてを幸せにせねばならない。責任逃れをすることはできません。法則は必ず、馬鹿な男の元に、請求書を顔に書き込んだ女性を連れてくる。その顔を見た途端、その馬鹿男はその女性のために、すべてを与えねばならなくなるのです。

皇帝や殿様などになって、後宮や大奥のようなところに好きなだけ美女を集めて、やりたい放題にやった男は、今も大変な苦労をしているのです。

光源氏のように、プレイボーイを気取っていろんな女性と遊ぶのも、法則的に無理です。現実的に男は、妻や恋人を持っていながら、ほかに二人目の女性と関係を結ぶだけで、痛い破滅がやってきます。それだけで、苦しめてしまう人間の数がとても増えるからです。

女性は、生涯にひとりだけにしておいたほうがよい。連れ合いに先立たれて再婚するなどということはよくありますが、その場合も、過重負担になります。苦労はあるだろうが、やもめ暮らしをがんばって生きるのが勉強だと思い、再婚はあまりしないほうがよいというのが、本当です。

男性はもうそろそろ、自分の分というものをわからねばならない。馬鹿な男の夢は捨てなさい。

アダムとイヴはエデンの東から楽園を出て行ったが、馬鹿男は西の門から、汚い男の夢から追放されるのだ。そんなことを想像すれば、西門慶の名前もおもしろく生きるというものだ。西の門の慶びと書く。あんなものが出て行けばめでたいという意にとれないこともない。







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青駒の角

2017-05-25 04:20:54 | 短歌






青駒の 角をな矯めそ ありもせぬ 神のすくひは たよるとも来ず






*「青駒」とか「青馬」というのは、青毛の馬のことです。青毛というのは、青みを帯びた黒い馬の毛色のことですが、日本語では、色の使い方にも微妙なものがありますね。「青駒」に対し「赤駒(あかごま)」という言葉もあるが、それは赤みがかった茶色の毛色のことだ。緑の野菜のことを「青物」などというときもあります。赤ん坊のことを「みどりご(嬰児)」ということがあるが、それは「緑」が草木の新芽を意味することと関係あるらしい。赤系統の色にも「紅(べに、くれない)」「茜(あかね)」「朱(しゅ)」「緋(ひ)」といろいろと言葉があり、それぞれに微妙に違いますが、いろいろ知っておくと、文字数に応じて使い分けることができます。

色の名前もたくさん集めておくとよろしい。鴇色、苺色、縹色、伽羅色に千草色、どんな色かと想像するだけでも楽しいでしょう。空の青を表すときも、青磁色とか、浅葱色とか、言葉によってイメージが変わって来る。

「な~そ」というのは、上代語で副詞「な」に終助詞「そ」を添えて、「~するな、してくれるな」という意味の言葉になります。「~」の部分に入るのは動詞の連用形です。禁止の終助詞「な」を使って「矯むるな」と詠むこともできますが、「な矯めそ」というほうがなんとなく柔らかいですね。覚えておけばおもしろい歌が詠めます。歌の気持ちによって、変えてみるとよろしい。

青毛の馬は黒くとも角はない。そんな角を矯めるようなことをしてくれるな。ありもしない神の救いを頼っても何も来はしない。

神の救いというものは、ありますが、ない神に救いを頼ってもしかたがないということです。人間は時に、おもしろいものを神と勘違いしてそれに頼ることがある。阿呆のような世間の常識を神と考えていることもあるし、恐ろしく物がわかっていない科学者の妄言を神と信じていることもある。馬鹿な人間が自分のエゴを実行するために、都合よく仮定した神を信じていることもあります。

本当の救いというものは、神の真実の子である自分の、本当の自分というものを忘れていては、来ることはありません。

自分を忘れて阿呆になっていては、どんな神に頼っても何の救いもありはしないのです。

馬に角などありません。だから角をことさらに矯めることなどできない。ここまでいうと、「青駒の角をな矯めそ」が、「ありもせぬ」を導く序詞であることがわかります。言いたいのは、ありもしない神を頼むなということだ。それをおもしろくいうために、青駒の角を矯めるな、などという言葉を作ったのです。馬にもいろいろあるが青毛の馬にしたのは、黒っぽい馬というのはいかにも悪いところがありそうですから、その欠点を探そうと角を探す人がいるなんてことをにおわせたのです。

こういう譬えで言いたい言葉を導いてくるのが、序詞という技術です。応用すれば、簡単にできますよ。おもしろい歌が詠める。意味も深まる。

いろいろと活用して、歌を詠んでみてください。






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道の辺の花

2017-05-24 04:21:44 | 短歌





行き悩む 道を帰りて かぞいろの 面影を見る 道の辺の花






*彼とかのじょの作品が続いたので、今日は別のものの作品をとりましょう。これはわかりやすいですね。

生きているうちに、これ以上はどうしても進めないという壁にぶつかり、とうとう道を引き返す。そして道端の花に、故郷の父母の面影を見る。かぞいろは父母という意味の古いことばです。

よくある情景だ。人間は間違いやすい生き物ですから、幻の価値に惑わされて妙な道に入り込み、迷い悩むことなどよくある。強情を張って突き進んでいくと、何もかもが壊れて、人生を賭してやってきたことがすべて馬鹿になる。そういうことがある。

どこにも行くところなどない。羽振りがよかったころに付き合いがあった友達はみな離れていく。愛情があったと思い込んでいた恋人も、いつの間にかいなくなっている。すべては、自分が間違っていたからだ。馬鹿なことをして、痛いことで自分を偉いものにしようとするからそうなる。何もかもを失ってから気付いたのでは遅いのだが、馬鹿な人間は、たいていそうなる。

だが、まだ道を引き返す気になるものは幸福です。人に謝らねばならないという考えさえ、かけらも頭をよぎらない者は、そのまま突き進み、永遠に帰って来れないところに落ちねばならない。かろうじて、故郷の父母のことを思いだし、謝る自分の姿を想像できるものは、まだ期待できる。

あほなことになったな、馬鹿なことばかりやったなと、親に叱られることはわかっている。だが、聖書に出てくる放蕩息子のように、尾羽打ち枯らした負け犬のような面を下げて帰れるものはまだ幸せなのだ。

期待していたような愛の言葉はもらえないかもしれないが、新しい仕事が見つかるまでは、屋根裏で寝ろということくらいは言ってくれるだろう。

馬鹿な子供でも、親が愛してくれる間はまだいい。

親でさえも嫌になるような子になってしまえばもう終わりなのです。

放蕩息子も父がいるから帰って来れるのに、その父を壊してしまうようなことをしたら終わりなのだ。もうどこにも帰るところはなくなる。こんなことになった阿呆はこれまでいなかったが、とうとうこの時代、そういう馬鹿が出た。

嫌になるほど情熱的になって、徹底的に壊してしまったのは、母親のように自分を助けてくれようとしていた天使だった。それを焦って消してしまったら、もう神でさえもあきれ果てる馬鹿になってしまう。

道の辺の花を見て、親の顔が思い浮かぶような間はまだいい。もう乱暴をしすぎて人間を超えるようなことをしてしまったら、親との霊魂の縁も切れてしまう。阿呆はそんなことになるようなことがあるとは、思わなかったろう。

親の愛と神の愛は、永遠にあるものと思っていたろう。








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呼ぶもの

2017-05-23 04:20:47 | 短歌





星に染む 風は心を 吹き抜ける 高きところに 呼ぶものはたれ






*これも、現代語と古語がほどよく混じっている例ですね。かのじょの古い作品ですが、古語では「抜ける」は「抜く」です。連体形も「抜くる」。

ですがこの歌では、どう考えても「抜ける」の方がいいですね。そのほうが風の清々しさが出る。痛いことではないですよ。言葉はやわらかく使った方がよい。感覚的に、現代語の方が優れていると思ったときは、現代語の方を使った方がよいと思います。

星に染まった風が、わたしの心を吹き抜ける。高いところから、わたしを呼ぶ者がいる。それは誰だろう。

これを詠んだのは、確か例の日記を発表した前後ではなかったか。高い存在からの、接触があった頃でした。自分に課された使命がどんなに重いものになってしまったかということには、まだ気づいていなかったが、何かが自分に何かをさせようとしているということは、わかっていた。

星に染まった風というのは、要するに、天使の声という意味です。

もうわかるでしょう。この世界に生き残っていた天使がほとんどかのじょだけだったので、ほかの天使が大勢かのじょのところに来ていたのです。こちら側に生きていたかのじょは、それをなんとなく感じていた。だからそれをこのような歌で表現したのだが。

まさかそれがこんな運命に流れていくとは思っていなかった。




うたびとよ 鳥の衣を ひるがへし はるかならめや なつかしき空




詩人よ。鳥のようなその衣を翻して飛ぼう。あの懐かしい空は、はるかに遠いものであろうか。いや、決してそうではない。

「めや」は、推量の助動詞「む」の已然形と係助詞「や」のつながったもので、反語の意が加わった推量の意を表します。「~だろうか、いいや~ではない」という感じです。こういう感じを詠むときは、古語が有効ですね。「めや」の二文字でここまで表現するのは、現代語には無理ですから。

いずれなつかしい故郷に翼を返して帰ることができるまで、この世界で生きてやっていくことができると思っていた。それは豊かな仕事をして、決して遠くはない故郷に帰れば、少しの間休んで、またこの世界に来ることができると思っていた。しかし、神はそういう運命をかのじょにくれませんでした。

ほかの天使が強引に人生を終わらせねばならないほど、痛いことになりすぎたのは、馬鹿な人間が大勢固まって、あまりにひどいことをしすぎたからです。いやなことをするというにも、恐ろしい馬鹿をやりすぎた。呵責も葛藤もなく、人間は馬鹿の暗闇の中に自分を溶かし、獣よりも愚かなことをやった。

それで、かのじょという天使が、すべてだめになったのです。

あほうめ。

どんなことをやっても取り返せない結末があるということを、あなたがたは思い知らねばなりません。「いいや決してそうではない」などという反語の尾ひれはつかない。

はるかに去りきって、もう二度と戻っては来ない。

そういう場合有効なのは、完了の助動詞「り」か「ぬ」でしょう。




うたびとは 鳥の衣を ひるがへし はるかに去りぬ ふるさとの空     夢詩香






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隣人が

2017-05-22 04:22:10 | 雑句





隣人が 不幸にならぬ 不幸せ     夢詩香






*やあ、これは痛いですね。雑句のカテゴリだが、こんなのはよくあります。人の不幸は蜜の味という言葉もありますしね。

だがまあ、一度は自分での語ってみたい境地ではありますよ。同窓や類句はあるでしょうが、自分で詠うということに意味が生じるのです。

馬鹿な人間には、他人が不幸になるのを見るのが自分の幸せというか、生き甲斐だという人がいます。それで、影から痛いことをして、他人の足を引っかけるようなことを平気でするのです。そういうやつらにやられている人が、馬鹿なことになるなという状況を、黙って見ているというのも、こういう者たちのたぐいだ。

美人をいじめているやつらが、影からどんなことをしているかということを知っていて、何もしない。あわよくば、自分もいいことにあずかろうと思っている。

阿呆になった美人は、嫌な男の餌食なのだ。阿呆の方が悪いのだ。

こんな人は痛いほどたくさんいますよ。

だが、ものごとはことほど左様に思い通りにいきはしない。阿呆の知っている理屈は、馬鹿の理屈ですから、高い存在たちが生きている世界の常識がどういうものであるかを知らない。

人間として長く生きてきて、よいことを積み重ねていくと、不幸になろうとしてもなれなくなるという人が出てくるのだが、馬鹿はそんなことは何も知らないのです。

どんなにがんばっても不幸にならない人を、焦って不幸にしようとして、やってもせんないことを百度も繰り返しているのに、まだわからない。そして何もかもが馬鹿になったところで、ようやく馬鹿をやめる。痛いですね。まあ、何度も言わずともわかっているでしょうが。

あまりに愚かなので、何度でも言いたくなるのです。

人の不幸を見てみたいという心は、いつも自分の人生が暗く不幸になってしまうからです。嫌なことをしたことがある人は、どうしても自分の不幸でその業を支払わねばなりませんから、自分の人生がとても痛いものになる。だから、不幸にならないまっとうな人が妬ましくなり、影から嫌なことをして、そんな人たちを不幸に引きずり落そうとするのです。

馬鹿がそんなことばかりするから、よけいに自分の業を作る。自分の不幸の種を量産する。払わねばならない借金が膨らみ、自分の人生がどんどんつらいものになって、もっと他人が妬ましくなる。

こういうのが、業のスパイラルです。

他人が不幸にならないのが不幸せだと言う人は、常にこういう世界に住んでいるのです。暗いところで、同じことばかりを繰り返している。それが不幸の原因なのだよと教えても、耳を背けて聞こうともしない。嫌いな人間を不幸にしてやるのだという馬鹿の中に忍び込んで、阿呆なところに行って、汚いことばかりしている。

もうやめなさい。

本当に幸せになりたいのなら、そういう世界と決別し、真面目に借金を支払うべく、明るい世界に戻って働いていくべきです。人を不幸にするより、人を幸せにするために、できることは何でもしていくのです。下僕のように頭を下げていくのです。

自分の人生に嫌なことばかり起こるのは、他人を不幸にしようといろんなことをやりすぎているからだと、そろそろわかりなさい。







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