ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

黒き

2019-07-28 04:34:48 | 短歌





ぬばたまの からす黒きが よきと鳴き おのれのままに おほぞらを飛べ





*最近、ぼちぼちとではありますが、ツイッターの歌が再開していますので、ここではそれを追いかけています。

ツイッターの歌は、即興でやっています。原稿を準備してやっているわけではない。そのときそのときに思いついたことを、歌にしているので、作品によって出来不出来はあるわけですが、これはいいですね。

あっけらかんと真実を詠っている。アルタイルの作品ですが、いかにも彼らしい歌です。衒いもなくまっすぐに心を詠む。解説も不要なほどだが、一応やってみましょう。

この歌の前に、こういう歌がありました。


鶴ばねを さしておのれを 白くして われは鶴ぢゃと 鳴くからすかな


今の世の中、盗んできた顔をかぶって、偽物の自分を生きている人間がことのほか多いものですから、それを嘆いた歌です。嘘の人間は、真実というものをそれはもう上手にそっくりに真似ます。自分を偽って、ほかのだれかになるために、それはうまく芝居をするのですが。

それはもう、本物そっくりにすればするほど、悲しいほど正体が見えてくるものなのです。どんなに上手に鶴に化けても、からすはからす。からすの声で鳴く。

その歌を受けて、アルタイルが表題の歌を詠ったのです。

からすはからす。黒いのがいいのだと鳴いて、自分自身のままに、大空を飛びなさい。

本当の自分ほどよいものはない。自分を自分として認め、まるのままそれを背負って生きていく。それほど美しいことはない。


ぬばたまの からすかあかあ 神の声 鳴きてうたはむ われは黒きと


ちょっとまだ本調子ではありませんが、わたしも詠ってみました。自分を自分としてたたえる、からすのからす自身の声を聴いていると、それはまるで神の声のようだ。

その美しいからすの黒い翼を馬鹿にしてまで、鶴の羽を自分にさして鶴になろうとすることほど馬鹿なことはない。

そんなものはかなぐり捨てて、ほんとうの自分自身を取り、つばさをひろげ大空を飛びなさい。

本当の自分自身をやり、世界に自分を広げていきなさい。

それが自己存在の真実の幸福なのだと、彼は詠っているのです。





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かうべ

2019-07-27 04:34:06 | 短歌





われを折り かうべたれよと 人にいふ 人もみづから かうべをたれよ





*「かうべ」は「頭(かうべ)」のことですね。わかると思いますが一応。「かうべ」をひらがなにしたのは漢字だと「あたま」と読まれるおそれがあるからですが、日本語的にわかりにくくしたかったという意図もあります。

実にこの歌はある国のことを意識して詠われた歌だからです。いいにくいことをいうのに、少し遠慮したという感がありますよ。要するに、その相手というのが痛い相手だからです。

自分を折り、頭を下げなさいと他人に言うなら、その人も人に頭を下げなさい。

詳しいことを言わなくてもわかるでしょう。実際あの国の人は、謝る、ということができません。自分が悪くても、謝らないということがある。

それでは、一人前の人間として、とてもやっていけません。

人間、どんな人でも自分が真っ白だということはありません。痛いところで嘘をついていたり、間違ったことをしていることは多いもの。人間は過つものですから。その自分の過ちを、素直に認められるかどうかで、人間の真価は決まってくる。

いつまでも、自分は真っ白だと言うことにして、自分をごまかしてばかりいると、きつい法則の風がかえってきますよ。自分が行なったことは、みな正確に自分に返るのです。

あまり突っ込んで言うのはここでは避けましょうか。言わずともみんなわかっている。国としても人としても、間違いをしたなら正直にそれを認めることができなければいけません。たとえどんな小さなことでもね。

たったひとこと、ごめんが言えなかっただけで、破滅の人生を味わわねばならない人は多いのです。





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とこしへのわれ

2019-07-24 04:39:13 | 短歌





いつはりの われをかぶりて とこしへの われをうしなふ 馬鹿者の群れ





*うーん、うまくありませんね。言いたいことはわかるのだが、最後の7がよくない。もう少しきりりとしまる言い方をしたいものだが、ほかにいい言葉を思いつきません。

偽物の自分をかぶって、永遠の本当の自分を失う、馬鹿者がたくさんいる。

今の時代、とにかく人間は自分がつらくて、偽物の顔をかぶり、本来の自分とは全然違う自分になっています。馬鹿は嘘でも自分を美しくしたい。だから人から盗んだ美貌をかぶり、それをこの上もなくきれいに演出している。

そういうお化けみたいな人間が、今うようよいるのです。

しかし、そんな風に嘘の自分を生きてばかりいると、自分の中にある本当の自分がどんどん苦しいものになっていく。醜いというよりは、馬鹿みたいな顔になっていく。他人の顔ばかり生きて、本当の自分を生きたことはほとんどないからです。

そんな本当の自分が嫌で、馬鹿な人間はますます他人の顔にはまっていくわけだが。

とこしへのわれとは、本当の自分になれば手に入れることのできる、幸福のすべてのことです。自分として生きていくことから始まる、永遠の安らぎ、永遠の幸福。自分であるからこそある、すばらしい神の恵み。

偽物の顔にこだわって、そういうものを放棄するのはとても愚かなことなのです。

いつまでも馬鹿をやっていると、とうとう本当の自分が壊れてしまうというところまで来るのですよ。そうなったらもう、人間ではない。

永遠に、人間ではないものとなり、人類世界と決別しなくてはならなくなるのです。

何度も言われていることですね。しかし何度も言われるのは、全然わかっていないようなことばかりしているからですよ。

人類はいまだに人から盗んだ美貌をかぶっている。それを外して本当の自分に帰れと言われても聞きはしない。そうしないと大変なことになるというのに、聞きはしない。

もういい加減に、他人の美貌を盗むのはやめましょう。それをやっているだけで、あなたはどんどん人類世界から遠ざかっていることになるのです。





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見栄え

2019-07-23 04:44:40 | 短歌





人間が 見栄えばかりを 磨くのは 自分がつらくて しょうがないから





*大火節ばかりが続きます。スランプ中は、どうも彼のこの作風がやりやすいようです。古語を使って気取って詠みたくなる時もありますが、そっちのほうはどうもうまくいきません。

これも、言い言葉がそのまま歌になったような歌ですね。それをそのまま言っていて、別に解説などしなくてもいいようなものだ。実にそのとおり。人間が見栄えばっかりきれいにするのは、自分がつらいからなのです。

本当の自分を馬鹿なものだと思い込んでいるからです。

なんで自分を馬鹿なものだと思い込むかというと、日ごろ、自分が馬鹿なことばかりしているからです。自分というものは常に自分を見ていますから、そういう自分の馬鹿さ加減のことも知り抜いているのです。

なぜ馬鹿なことをするのか。そうでもしないと自分がいいものにならないからです。馬鹿な人は自分が馬鹿だと思い込んでいますから、とにかく嘘でも自分をいいものにしたいのです。そのために、いやなことやずるいことをたくさんしてしまう。そんな自分がまたつらくてしょうがない。

そんな自分がいやなら、嫌なことはすっぱりとやめて、正直な自分に戻るほうがいいのだが、そうなると自分が痛い感じで醜くなるので、それは嫌なのです。

嘘でも、自分が美しいほうがいい。

でもそれだと、嘘をついている自分がつらくてたまらない。

こういう負のスパイラルにとらわれている人は、とにかく見栄えをよくします。嘘をついて作った自分をきれいに磨きまくる。せめて見栄えくらいよくしないと、自分には何もないと思い込んでいる。

ですから、とにかく見栄えを磨いている人は、自分がつらい人だということができます。嘘をついて作った自分を着込み、本当の自分を隠している人なのです。

嘘をつかない人は、あんまり見栄えは気にしないものですよ。本当の自分で生きているだけで、自信にあふれ、それだけで十分に美しく見えるからです。





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本当の顔

2019-07-22 04:39:25 | 短歌





何をして こうなったのか 本当の 顔が教える ほんとの自分





*今、若者の顔がおかしくなっています。

ツイッターで何度か取り上げたので、わかっているでしょうが、第1期人類の若者たちの顔が、みな第2期人類の顔になっているのです。

一応復習しておきましょうか。第1期人類とは、霊魂の年齢として、15歳くらいになった人類のこと。第2期人類は、霊魂の年齢として、7歳くらいの人類です。この地球上では、このように、段階の違う人類がともに生きているのです。

第2期人類は、段階的に幼いので、できないことが多く、それゆえに庇護欲をそそるような幼げな顔をしています。大人になっても、どこかたよりなげな顔をしています。それを見ると、人が助けてあげたくなるような顔をしているのです。

しかし第1期人類は、ある程度進化していますから、それほど庇護を必要としません。ですからそれなりの大人の顔をしているものなのですが。

今の若い世代の偽物は、みな第二期から顔を盗んで自分を美形にしているので、みんな幼げな顔をしているのです。

それがあまりに苦しいというか、気持ちが悪いので、ツイッターの方で大火が、もうやめろと何度か言ったわけですが。

本当の顔に戻りなさい。そのほうがずっと美しいのだとね。

そのとおりです。どんな美しい嘘より真実のほうが美しい。ですが、本当の顔に戻れば、本人はショックを受けるでしょうね。なぜなら、自分が何をしたのかという真実が見える、そういう顔になるからです。

きついですが、盗みをして自分を美しくした者だ、ということが如実にわかる顔になります。つらいですね。でもそれが本当なのです。実際にそういうことをしていたのですから。人間はここから永遠に逃げ続けていくわけにはいかないのです。

本当の自分は、そこを認めることから始まる。そういう自分の真実を認め、そこからもう一度自分を立て直していかねばならない。それが最も正しい道なのです。

ずるで自分を美しくして、楽にいい思いばかりしてきた人間には、厳しい試練でしょう。ですが、乗り越えていかなければ、本当の自分の美を見ることはできません。





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女の業

2019-07-19 04:39:47 | 短歌





とにかくも 美人になれば うまくいく それが女の 業ってものか





*最近、少しだけですが、ツイッターの歌が復活しています。まだまだ本調子ではありませんが、大火節にひきずられて、わたしも少し出てきています。表題の歌は大火のものです。

軽くさらさらと詠んだ感じですが、言い得て妙と思い、とりあげてみました。

とにかく美人になればうまくいく、というのは馬鹿な女の思い込みのようなものですね。彼女らは、そういう生き方しかしてこなかったのです。人から美貌を盗んで自分を美人にすれば、痛い男がそれに騙されて、女のためになんでもするものですから。

盗みで美人になって、男に何もかもやらせて、自分では何も努力してこなかった。そういう女が、人類の中にたくさんいる。

偽物の美人というのは、美人になれば、男がなんでもやってくれて、すべてそれだけで何とかしようとする女のことです。背景には女性の弱さがある。どうしても男に痛い感じで依存しなければ生きていけない。男に対する対抗心もある。男に女が勝とうとすれば、美貌とセックスを利用して、支配していくよりない。

そういう女は、まるで病原体のように男に取りつき、男を頭から支配して何でもやらせようとするのです。

痛いですね。表題の歌はこれを、女の業、とひとことで言っているのですが、要するにそれは、女性の弱さゆえの愚かさだということになりましょうか。女性は、自分たちの宿命に、こういう愚かさに流れやすい傾向があるということを、学んでいなければなりません。

正しい女性は、女性の弱さゆえの甘えに流れず、女性だからこそ確かに自分を立てていかねばならない。そのうえで、神を行ずるという女性の使命ができていかねばなりません。

腐った女性ほど、世間に害するものはない。簡単に美貌を盗んで美人になりすまし、男を支配して思い通りの人生を手に入れようとする。

これはあまりにも醜い、女性悪ということができましょう。





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飛ぶ

2019-07-17 04:40:23 | 





夏は来て 飛ぶわれを知る つばめかな    夢詩香





*少し前に、第3館で、「燕の子」という小説をやりましたね。あれに、米屋の軒下に編まれた燕の巣が出て来ましたが、実はこの近所の米屋さんの軒下に、本当に燕の巣があるのです。

わたしたちは毎日、近くの神社にお参りしているのですが、そこにいく道のりの途中に、その燕の巣があるのです。

毎日見ていると、燕の子がどんどん大きくなっていくのがわかる。そしてある日、突然ヒナは巣を出て、巣の周りの電線にとまっていたりする。

巣立ちをしたわけですが、なんだかそれがドラマチックにうれしくて、しばらく燕を眺めていたものでした。

燕の子は飛ぶことができる自分を、夏が来れば知るのだ。

毎年繰り返される燕たちの巣立ちに、人間の霊魂の進歩も隠喩されているような気がします。

人間の魂も、いつか燕のように飛ぶことができるようになるのだと。

今はそのために、伸びてきた感性を使って、いろいろなことをしている最中なのだ。

燕の翼が伸びてくるまでに、親鳥はひっきりなしにえさを運んでくる。そのように、神や天使や、そのほかの高い存在たちが、あらゆる投資をして、人間を育ててきた。そしてようやく、人間の魂に翼が生えてきた。

まだ飛ぶまでには来ていませんがね、しかし飛ぶことができるようになるのも、もうすぐだ。

飛ぶということが隠喩していることとは何でしょうか?

幻の世界で繁茂していた虚偽を捨て、真実の空に飛び込んでくるということです。

燕の飛ぶ空のように、真実の空には、人間存在が永遠に成長していける、あまりにも広い世界があるのです。





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はしため

2019-07-15 04:35:22 | 短歌





はしための ことをつくして われをひき 神を学びて くはしめの道





*先日、久しぶりに大火がツイッターで悪乗りをしかけました。これはそのときにわたしが詠んだものですが。

「くはしめ」は「美し女」で、きれいな女性のことです。まあ何度も使ってわかっているでしょうが、何度も勉強するのがここでのやり方です。「くはし(美し、細し)」は、細やかで美しいという意味の形容詞です。

「はしため」は「端女」、召使の女性のことですが、要するに、ほんとうの美人になりたいのなら、人の下になって働いて、人に尽くすことをまじめに勉強しろということなのです。それをはしため修行というのだが。

人間というものは、勉強したことでないと、身につきません。何もやったことのない人は、何もわからないのです。人の下になって人に尽くしたことのない人は、やさしさというものが身に付きません。やさしさというものは、人に尽くしていくという勉強を通して身につくものだからです。

自分を抑えて、人の気持ちを推し量り、人の気持ちに添ってやることができる。そういう修業をしない限り、人間は人の気持ちを理解することができず、自分のことばかり考える馬鹿になってしまうのです。

はしための修業をつくして、自分を引くことができ、神を学んでいく、これが美しい女性への道なのだ。

言いつくしている感がありますね。本当の美人というものは、心がやさしくないといけない。神を知っていなければならない。神とはみんなの幸せを考えてくださる存在ですから、女性はその心を知り、みんなの幸せのために働くことができねばならない。

このはしため修業ができていない人は、いつもわがままばかりを言って、人を馬鹿にします。自分のことしか考えられない。そういう人が、盗みで美人になっていたりすると、とても醜いお化けになる。

自分の表面だけをきわめて美しく磨き上げて、ほかの人を馬鹿にしようとする、とても心の醜い女性になってしまうのです。いやそれは女性とも言えません。

本当の女性は、必ず人の心を思うものだからです。

自分ばかりきれいにして、周りの人を馬鹿にしていれば、人がどんなに苦しむかということを、心で感じることができなければ、それは女性とは言えません。

心の修業ができていない女性は、女性ではないのです。それは女性以前の女性か、あるいは、女性ではなくなった女性のことです。





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凡庸のみづ

2019-07-14 04:44:13 | 短歌





凡庸の みづに溺れて よきことも せずに玉欲る さかさまの猿





*スランプ中とあって、少し気に入らないのですが、とりあげてみました。

「欲る」は「ほる」、欲しがるという意味ですね。

さかさまとは、ものごとの道理を逆にしているという意味です。このさかさまの猿というのが、歌としてはどうも歯切れが悪いですね。意味はわかりますが。もっと、いい歌い方はないものかと悩みますけれども、いまのところこれ以外に適当な語句を思い浮かびません。

凡庸の水に溺れるということは、平均的あるいはそれ以下の自分に安住して、何も努力せず、だらだらと日々を過ごしているということだ。

ひとのためによいことなど何もしていないのに、要するに徳分を稼げるほど働いてもいないのに、天使並みの外見を欲しがる。そういうものは、天と地の道理をさかさまにしている猿のようなものだ。

道理を逆にして、猿のほうが賢いのだにしてしまえば、馬鹿も天使並みに美しくなるというものか。

天使まねの馬鹿女、あるいは馬鹿男とは、高いものほど美しくなるというものごとの正しい道理を、まったく逆にしている馬鹿なのです。

そういう意味をこめて、「さかさまの猿」などとしたのだが、ここだけ意味が強くて、歌としてはいいように思えません。どうにかして、もっと軽くできないものか。


凡庸の みづに溺れて よきことも せずに欲しがる たかどのの玉


よくありませんね。幾分軽くなったが、わかりにくくなった。どうも調子が出ません。まだまだスランプの闇から出られないようだ。まあとにかく、言いたいのは、凡庸に甘えて、努力しない人ほど、高いものを欲しがるということなのです。

努力している人は、それがどんなに尊いものかということがわかりますから、自分に不似合いなものは欲しがりません。自分以上に自分を高く設定することを、恥と思うのです。そんなことをすれば、自分の努力を侮辱することになる。自分自身の美も、自分の努力に似合ったものでいいと思う。それが美しいのだが。

凡庸に溺れる馬鹿は、努力なんてしたことがありませんから、それがどんなに大変なことかということもわからず、平気で人の努力の玉を盗み、自分にくっつけるのです。





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虹を見る

2019-07-11 04:41:12 | 





雨あがり 蛙かはゆく 虹を見る    夢詩香





*これは、インスタグラムで、ある画家さんの絵を見たときに思いついた句です。絵の中では、アジサイの花にとまったアマガエルが、美しい虹を見上げていました。それをそのまま詠んだという感じですね。

そのままその人にさしあげようと思ったのですが、絵を説明しただけの感があって、やめました。まだまだスランプから抜け切れていません。どうしても、発想が高く飛ばない。

気に入った芸術作品に差し上げるなら、もっと気の利いた言い回しができないとと思うのです。

それでいろいろと考えてみるわけです。こんなのはどうでしょう。


あまがえる あれは何ぞと 虹を見る    夢詩香


あ、なんかよくなりましたね。これならさしあげてもよいような気がしてきました。でも、今一つ何かが欲しいような気もします。

絵の中では蛙はアジサイの花のてっぺんにいました。


あまがえる 花をのぼりて 虹を見る    夢詩香


うーん、どうでしょう。さっきのほうがいいような気がしますね。でも考えているうちに、なんだか、さしあげたくなってきました。スランプ中はスランプなりに、努力してみると、いい感じになってくるようだ。

絵を見ながら、発想をかきたててみましょう。


はなのうへ ちさきかはづの にじをみる    夢詩香


ちょっと、まんなかの7が重くなりましたか。難しいですね。もうひとつ考えてみましょう。


はなのうへ かはづなにぞと 虹を見る    夢詩香


あ、これでいきましょう。絶妙に状況が説明できている。俳句というのはいいですね。たった17文字でいい仕事ができます。

短歌はまだ不調ですが、俳句の方でスランプをなんとかしていきましょうかね。





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