ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

塵屑

2021-12-23 08:15:01 | 短歌





塵屑に 等しきものと 世をうれひ われを捨てつる 人ぞうたてき




*「世」は「人生」という意味にとらえましょう。「うたてし」は、「嘆かわしい」とか「いやだ」という意味の古語です。

こんな人生、塵や屑みたいにつまらないものだと憂えて、自分を捨ててしまった人ほど、嘆かわしいものはないなあ。

最近、ある著名人が、自殺を思わせる死をとげたことに、材を得て詠んだものです。ツイッターの方でも繰り返し語っていることですから、わかっている人もいるでしょうが、その人の人生は、まるごと嘘でした。

親を盗み、顔を盗み、自分の人生をまるごと塗り替えて、この世でいい思いをしようとした、馬鹿だったのです。実際その人は、金持ちの家に生まれて、いい感じの人生を味わっていました。美貌と才能にも恵まれ、チャンスにも恵まれ、一見すばらしい人生を歩んでいるように見えたのです。ですがその人はある日突然自分の人生を断ってしまった。それはなぜか。

嫌だったからです。その人生でやらなければならなかったことが、まるで自分に合わなくて、苦しかったからなのです。一生こんなことを味わわなければならないのかと思うと、人生がつらく、つまらなくて、その人は自分の人生をとっとと捨ててしまったわけです。

馬鹿にもほどがある。本当の自分の人生を嫌がって、勝手に書き換えた人生を生きていたのに、それも嫌だと言って、捨ててしまう。塵屑に等しいというが、自分の人生を屑にしてしまったのは、自分ではないか。

嘘の人生でも、何とかできることはあったはずだ。少なくとも、死んで親を悲しませるようなことをしない選択はできたはずだ。結局のところ、馬鹿は自分のことしか考えていなかったのです。好きなように人生を書き換えておいて、それがつらいからといって捨ててしまうのは、あまりにも愚かなことです。

人生というものは、自分のものではありません。神が人間に貸して下さるのです。それが証拠に人間は、こんなすばらしい命を自分で作ることはできない。すべては神がやってくださることなのです。それを、自分勝手に作り変えて、苦しいからといって捨ててしまうことは、人生を、神を侮辱することです。

人は、神が創ってくださる人生を、素直に生きるべきです。そこで真面目に修行をして、愛を勉強するべきなのです。そんなことを、少しもやってこなかったから、愛がわからなくて、平気で親を悲しませるようなことができるのです。





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楽土の鍵

2021-12-18 12:18:41 | 短歌




まぼろしの われを惜しみて とこしへの 楽土の鍵を 捨つる馬鹿かな




*馬鹿な人間は今、幻の幸福の夢を見ています。それは何もない自分の闇を埋めるための、うっとうしいくらいきらびやかな夢なのです。

美しい衣装や、派手なアクセサリや、幸福そのものと言える家庭、すばらしい勲章、そんな、人生を飾るきらびやかなものが、馬鹿な人間は欲しくてたまらないのです。それがなければ、自分には何もないと思っているのです。

だから馬鹿な人間は、いくつもの幻の夢を捏造する。美貌や、車や、家や、すばらしいパートナー、見果てぬ夢をかなえるための、潤沢な金、そういうものを、ずると盗みで用意し、自分一人に着せるのです。

幸せでなければ、何かに負けると思っている。その幸せを作るために、馬鹿は馬鹿なことばかりする。人から盗んだ幸福を、糞のようにため込んで、うまそうに食っている。馬鹿がそれらはすべて幻なのだ。自分が幸せなのを、人に見せつけるために作った、しょうもない偽物の夢なのだ。

そんなものより、もっと素晴らしいものがある。それが本当の自分自身というものです。人間が解脱をして本当の自分に目覚めれば、自分こそが愛であり、愛ですべてをやっていくすばらしいものであることを発見する。それがすばらしい天国なのです。美しく正しい自分であることが、霊魂の至上の幸せなのだ。それは実に簡単なことで手に入る。自分に気づきさえすればいいのだ。だが。

馬鹿はそれをすると、嘘で得ていた偽物の幸福をすべて失うからと、やりたがらないのです。解脱をして本当の自分に目覚めれば、偽物の幸福はすべて消えてしまうからです。

愚かなことだ。きらびやかな偽物の光をいくら集めても、魂の飢えはおさまることはない。いつでも何かが足らないような気がして、馬鹿は次から次へといらぬものを欲しがる。そのために罪を重ね、自分がどんどん醜くなってくる。

醜い生き方をしている自分がつらくて、また欲しがる。そういう苦しい不幸の輪の中にいることに、馬鹿ははっきりとは気づいていない。

自分に目覚めさえすれば、そんな不幸の輪から抜け出し、本当の幸福の中に飛び込むことができるというのに、馬鹿はまだ馬鹿に迷い続ける。

本当の自分こそが、永遠の楽土に入るための鍵なのに。それを捨てて、幻の幸福にいつまでも迷い続けている。




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細糸

2021-12-13 08:31:23 | 短歌





白飴の 甘きすくひを たふとびて まよひの闇に 垂らす細糸




*これは「白飴の」を、「甘き」にかかる枕詞のように使ってみたものです。

白飴のように甘い救いとは、すべての人間を救い、次の段階に導きたいという、かのじょの本願のことです。それが可能なことかどうかは問題ではない。ただ救いたいと願ってその願いのために一身をかけて行動することが大事なのです。確かにかのじょは生きていたころ、その夢に向かって努力していた。ただ、人間の現実が、それを全くダメにしてしまったのです。

すべての人間を救うということは事実上不可能なことでした。この人類史の総決算の時代、人間を落ちる人間がたくさん出た。神の発する愛を問う質問に正しく答えることができず、次の時代を生きることのできない人間の魂が、あまりにもたくさん発生したのです。

しかしだからと言って、かのじょの本願を馬鹿にすることはできない。現実問題たくさんの人間が落ちるが、その中でも助かるものは助けてやりたい。すべてを救うことは無理でも、少しでも多くの人間を助けてやりたい。

だからわたしたちは繰り返し、救いの細い糸を迷っている人間の心の闇に垂らすのです。

すべてを捨てて、その細い糸にすがって来いと。

芥川の小説を思い出したりもしますね。「蜘蛛の糸」では、お釈迦様が盗人の魂を救うために、細い蜘蛛の糸を垂らすのだが、盗人は自分が助かることばかり考えていたので、その糸は切れ、また地獄の底に落ちていったのでした。

細糸の暗喩は、要するにそういうことです。自分のことばかり考えているそのエゴを捨て、真正直な自分になって、神の糸にすがって来いと。何もかもを捨てて、神のもとに逃げてこいと。そうすれば救われるのだ。

だが迷いの闇に溺れている人間は、なかなかその糸にすがることができないのです。今自分が得ている幻の幸福が、惜しいからです。それらを捨てて、真正直な自分に戻れば、いやなことばかりしてきた自分の真実の姿が出てくるからなのです。

それが怖くて、馬鹿者は永遠に苦しむ地獄の道を選ぶのです。




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夜明けのひかり

2021-12-06 09:04:31 | 短歌





すさまじき 夜のあらしも とほりすぎ しじまにさしし 夜明けのひかり




*このところ、ツイッターの方に、一日一首は上げようと努力しているのですが、なかなかうまく詠めません。まだまだスランプは続いています。

その中で、これはまあまあよいものです。なんだかおみくじに書いてある歌のようでもありますが、素直にいい感じで詠めている。

なかなかにすがすがしくてよい。

これは、解脱を終えた人間の心の風景を詠んだものです。それまで迷いと悩みが心の中を嵐のように吹き荒れていた。人間は暗い目をしてしてあらゆるものを憎み、破壊しようともくろんで、いやなことばかりしていた。その嵐が、解脱をすると嘘のように収まり、心が澄み渡り、静けさの中に神の光が差してくるのです。

自分とはすばらしいものだったのだと、人間は気づく。光の中に、あまりにも清らかな美しい心の風景が広がり、これが本当の自分なのかと人間は驚く。そしてそのすばらしい自分をやってゆくべく、何もかもを始めていくのです。

解脱をした人なら、この心の境地がわかるはずです。闇の中で荒れに荒れていた自分が、幻のように消え、いつしかそこに美しい立派な自分自身がいる。その自分は、自分によって、美しいことをいくらでもやっていけるすばらしい自分自身なのだ。その真実に、震えるほど感動する。自分は自分。自分の自分。あまりにもすばらしい。

神は人間を、本当に美しいものに創ってくださっていたのだと、人間はそのときはじめて気づくのです。

この境地を知らないことは、大損などというものではありませんよ。本当の自分を嫌がって、解脱することから逃げることほど愚かなことはない。

ただ本当の自分に目を覚ますだけで、そこに美しい天国が広がるというのに。それから逃げるのは、あまりにも惜しいことですよ。





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ひたき来て

2021-12-03 15:38:46 | 





ひたき来て うれひの日々の 明かりかな     夢詩香





*小鳥の句ですから、小鳥の写真を使いたいところですが、手元にないので、仕方なくツワブキの写真で代用です。なんの関係もありませんけどね。

今の季節、ここらへんではジョウビタキをよく見かけます。翼に印象的な文様を持った、とてもきれいな小鳥。

表題の句は、かのじょの実経験をもとにしています。いろいろと世間に誤解されて、夫にすら理解されない、憂いの多い日々を送っていたある日、玄関の門柱の上に、きれいなジョウビタキが来てくれたのです。ただそれだけで、かのじょは憂いの日々に温かいともしびがともったように感じ、少し苦労が軽くなるような気がしたのでした。

小さな生き物というものは、時々神の使いをするのですよ。その小さなジョウビタキは、もちろん神の使いだったのです。憂いの日々を耐えているかのじょのもとに、神の愛のことばを送り届けにきたのです。

愛しているぞと。いつも見ているよと。

ひたきは、ヒタキ科の小鳥の総称。「火焼」とも書き、鳴き声が火打石を打つ音に似ているからついた名だそうです。句は、「火焼」と「明かり」を何となくかけています。ひたきは、かのじょの憂いの日々に、明かりをつけにきてくれたのだと。

悲しみの多い日々に、きれいな一羽の小鳥が訪ねてきてくれた。たったそれだけのことで、かのじょはまた憂いの日々を強く耐えていけるような気がしたのでした。そして耐えていってくれたのです。

人生には時に、そういう忘れられない、印象的な出会いがあるのです。






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ひこばえの

2021-12-01 09:18:13 | 





ひこばえの 細きみどりや まだ生きむ     夢詩香




*写真は神社の境内に生えた銀杏の木です。この銀杏はつい最近見るも無残に伐られてしまったのですが、そのわきから小さな緑の芽が出ていたので、写真に撮ってみました。

人里に生えた木の悲哀というものですかね、人間の都合によっていつ伐られるかわからない。わたしたちが親しんでいたセンダンやモクレンの木も伐られてしまった。伐られてしまうと、中には生きる気を失ってそのまま死んでいく木もあるのですが、この銀杏の木は、傷ついてもまだ生きていくことを選択したようだ。

か弱いが、確かに美しい緑をともらせている。これからどうやって樹勢をよみがえらせていくのか、伐られようから見ると事態は絶望的でさえあるのですが、それでも銀杏は生きることを選んだみたいだ。

何度伐られようと、まだ自分をあきらめない。それが痛々しいほど美しく思え、表題のようなのを詠んでみました。

なお、「ひこばえ」は、「ひこばへ」ではなく、「ひこばえ」です。古語には「ひこばゆ」という動詞があり、それは伐った草木の根株から新しい芽が出てくることを意味します。ひこばえはその名詞形です。

ひこばえの小さな緑から、この木の未来は再び始まってゆく。これからどういうふうに発展していくのか、見守っていきたいと思います。




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