白珠や 若き蟾蜍が 水に落つ 夢詩香
*久しぶりに俳句です。蟾蜍(せんじょ)とはヒキガエルのことです。前に「蟇と月」なんて句を詠みましたが、中国の故事に、嫦娥(じょうが)という仙女が不死の薬を盗んで月に逃げ、そこでヒキガエルに変身したという伝説があり、それで蟾蜍が月の異称となっているそうです。
まあこの句は、それを採用して詠んでみたのです。月はおもしろい。いろんな伝説をまとっていて、不思議な名前をたくさん持っている。ほかにもどんなものがあるか、探してみたいですね。ギリシャの神話ではアルテミスやセレネだが、フィンランドの神話では月の女神はクーというそうです。短いから歌に使えそうだ。おもしろい神話もありますよ。
ああ、白珠だ。若い蟇蛙が水に落ちているかのように、月が水面に映っている。
嫦娥という仙女もたいそう美しい女性だったのでしょう。なんとなくかぐや姫をも思わせる。ヒキガエルの正体が美女だというのも、いろいろと想像力を掻き立てられますね。
美女というものは、ことさらに人に馬鹿にされるものですから、月のように美しい人でも、ヒキガエルのように醜いと言われることなど、ざらにある。
美しい人ほど、おもしろいほど、異様に醜いものと結び付けられる。馬鹿な人間には、美しい人の真実が恐ろしく痛く、どうしても泥の中に引きずり落して汚し尽くしてしまいたいという欲にかられるのです。
美女がヒキガエルに変身したのだという説話は、そんな人間の心理から生まれたものかもしれない。
だが、美しさというものは、泥で汚されても消すことはできない。ヒキガエルのようなものにされても、天に昇ってしまう。届かないところに行ってしまう。馬鹿は遠く離れてしまった美しい人の面影を、月の中に見るしかない。月は誰にでも見えるが、誰にも触れることはできない。去ってしまった美しい人は二度と帰っては来ない。
やはらかき 餅と見紛ふ 月代に とどかぬ指の 痛む冬の夜 夢詩香
もう一ついきましょう。
触れもみで 腫れる指かな 蟇の月 夢詩香
いくらでもできそうだ。月ほど、人の情感を誘うものはありませんね。古来から月は女性に比されることが多いが、人間というものは、永遠に、月に恋していくのかもしれません。