ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

若き蟾蜍

2017-06-17 04:21:42 | 





白珠や 若き蟾蜍が 水に落つ     夢詩香






*久しぶりに俳句です。蟾蜍(せんじょ)とはヒキガエルのことです。前に「蟇と月」なんて句を詠みましたが、中国の故事に、嫦娥(じょうが)という仙女が不死の薬を盗んで月に逃げ、そこでヒキガエルに変身したという伝説があり、それで蟾蜍が月の異称となっているそうです。

まあこの句は、それを採用して詠んでみたのです。月はおもしろい。いろんな伝説をまとっていて、不思議な名前をたくさん持っている。ほかにもどんなものがあるか、探してみたいですね。ギリシャの神話ではアルテミスやセレネだが、フィンランドの神話では月の女神はクーというそうです。短いから歌に使えそうだ。おもしろい神話もありますよ。

ああ、白珠だ。若い蟇蛙が水に落ちているかのように、月が水面に映っている。

嫦娥という仙女もたいそう美しい女性だったのでしょう。なんとなくかぐや姫をも思わせる。ヒキガエルの正体が美女だというのも、いろいろと想像力を掻き立てられますね。

美女というものは、ことさらに人に馬鹿にされるものですから、月のように美しい人でも、ヒキガエルのように醜いと言われることなど、ざらにある。

美しい人ほど、おもしろいほど、異様に醜いものと結び付けられる。馬鹿な人間には、美しい人の真実が恐ろしく痛く、どうしても泥の中に引きずり落して汚し尽くしてしまいたいという欲にかられるのです。

美女がヒキガエルに変身したのだという説話は、そんな人間の心理から生まれたものかもしれない。

だが、美しさというものは、泥で汚されても消すことはできない。ヒキガエルのようなものにされても、天に昇ってしまう。届かないところに行ってしまう。馬鹿は遠く離れてしまった美しい人の面影を、月の中に見るしかない。月は誰にでも見えるが、誰にも触れることはできない。去ってしまった美しい人は二度と帰っては来ない。




やはらかき 餅と見紛ふ 月代に とどかぬ指の 痛む冬の夜     夢詩香




もう一ついきましょう。




触れもみで 腫れる指かな 蟇の月     夢詩香




いくらでもできそうだ。月ほど、人の情感を誘うものはありませんね。古来から月は女性に比されることが多いが、人間というものは、永遠に、月に恋していくのかもしれません。







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月の餅

2017-06-07 04:20:06 | 





身を焼きて たれに食はさむ 月の餅     夢詩香






*月にはウサギが住んでいて、餅をついているという説話は、昔からアジア各地にありますね。

月の兎がついている餅とはどんなものでしょうね。月餅(げっぺい)というおかしがあるが、それはお饅頭のようなもので、丸い形をした皮の中に、とても甘い餡が入っている。餡と言えば、かのじょは一時期アンパンに凝っていました。とても甘いこしあんの入ったパンで、一個80円くらいだった。つらいことが続く日々、毎日一個アンパンを買って、それを食べることを慰めとして、生きしのいでいたことがあった。

先日の俳句では、子を食われるなどという話をしましたが、月のウサギにはこういう話がありますね。ジャータカにある説話です。

猿、狐、兎の3匹が、ある日行き倒れた老人に出会う。施しをしてくれと頼まれたので、猿は木の実を、狐は魚を持って来たのだが、兎は何も見つけることができず、自分を食べてくれと言って、火の中に身を投げた。すると、老人は実は帝釈天であったので、その正体を現し、兎の心をほめて、月にあげた。

自分をそのまま与えるということが、最も麗しい愛であるということを、このかわいらしい説話は伝えている。なぜなら自分というものこそ、自分にとっては最も大事なものだからです。なんでもやっていける自分存在の自由そのものを、神という愛に差し上げる。そのときに、自分というものは月のように美しく高いものになる。

だが、そのような愛は、とても甘いものだ。どんなことをしてでも、あなたを助けてあげようという、女性のような、ほとんど無条件の愛だ。愛する人がどんな人であろうとも、ただ愛しているというだけで、すべてをやってくれる。自分というものを燃やし尽くして、すべてをやってくれる。

いいことばかりしてくれる。

こんな愛を、人はよく甘いと言って馬鹿にするが、いつでも、自分が馬鹿になってきたら頼ってくるところは、こういう甘い愛のあるところばかりなのだ。

甘い餡の入ったアンパン一個があるだけで、生きることがどれだけ楽になるだろう。甘い味はひと時の安楽をくれる。人間は時にそういうものを頼って、苦しいことを生きしのぐことがある。

飴(あめ)と餡(あん)は漢字もことばも似ていますね。月の兎がついている餅とは、とにかく人間が生きていくことを本当に助けてくれる、甘いお菓子のようなものでしょう。そんなものは子供だけが喜ぶものだと言って馬鹿にしていると、アンパンが食べられなくなりますよ。そうなったら困るのではありませんか。甘い味というものは、きついことを穏やかにしてくれる。そういうものを食べることで、人は苦しいことを生きしのいでいけることがある。

痛いことをする辛い男も必要だが、愛だけでほとんど無条件に自分をくれる女性のような愛がなければ、苦しすぎはしないか。

自分を低めて、自分そのものを愛する人にやった兎を、帝釈天は月というとても高いところにあげた。それは美しいものにした。

自分をささげるということが、最も美しい愛だからです。




玉桂 かすかに苦き 根の水を 混ぜて作らむ 月の白飴     夢詩香




「玉桂(たまかつら)」とは、月に生えているという桂の木のことです。月そのもののことを現すこともある。肉桂という木のことも意識しています。肉桂からはシナモンがとれる。ニッキともいう。ここまで言えばわかりますね。







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月か塵

2017-05-03 04:19:57 | 






生き方に 三つめはなし 月か塵     夢詩香






*月か塵というのは、是か非か、イエスかノーか、ということを、美しいものにたとえて言い換えようとしたものです。月は大きく美しく光り、天高く冴え冴えと存在し、あらゆるものを照らしている。塵は芥子粒よりも小さく黒く、巷にあふれかえり、ほとんど何の意味もないものとして、人間を汚すことだけのためにあるようなものだ。

ウルトラマン・キオに、受諾の神イルという存在が出て来ましたが、実はあの発想の元は、イエスであったりします。日本語で呼ぶイエスが、英語で受諾を意味するYESに通じるので、それから生まれたのです。

生きることを是とし、真実の自分を信じるかと、神に問われたとき、是と言った者が、イエスである。つまりは受諾の神イルとは、自己存在に真実の幸福を与える神の意に、人間が是と言って従うように導く神ということです。

あなたは神の与える自分自身を信じて生きるか?    ……イエス!

そう答えたとき、すべての自己存在は、真実の幸福に向かってまっすぐに生きることができる。そしてまさに、幸福になることができる。

自分の存在の本質に従って生きることが、生きることを楽にし、あらゆることに耐えて乗り越えていける力を与えてくれるのです。

だが、これにノーと言えばどうなるでしょう。自分は自分など信じない。こんなものは、塵のように馬鹿でくだらないものなのだ。何もできはしない。だから、何をしてもだめなのだ。そう思い込んでしまえば、あらゆることが苦しくなるでしょう。

努力しなければいけないところで努力しなくなる。自分の力など信じてなどいませんから、馬鹿なことばかりして、つらいことになるというのに、一向に何もしようとしない。痛いことになれば、すぐに人に頼って何かをしてもらおうとする。足りないものがあれば、平気で他人から盗む。そんなことばかりしていると、人生が薄暗く、きつくなってくる。嫌なことばかりが起こるようになる。

実質、人生には二種類しかないのです。生きることにイエスというか、ノーというか。月のようにすばらしいというか、塵のようにくだらないというか。

神の心を受諾すれば、それだけで不思議な力が授かり、あらゆる人生を豊かに生きていくことができる。本当の自分がどんどん大きく、新しくなっていく。自分とはそういうものだったということを、どんどん知っていくことができる。それが幸福なのに、ノーと言って何もしないものは、いつまでも狭い暗がりの中に閉じこもって、自分で自分を否定する心にさいなまれて、苦しんでばかりいるのだ。

わかりますね。短いが、深い言葉でしょう。俳句でこういうことを言えれば、なかなかにきつい感じでよい。短くて覚えやすい言葉に、高い真実をこめることができる。人間の生き方というものは、イエスかノーかの二種類のみだということなのだ。

またおもしろいものを作ってみたいですね。







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子の星を

2017-04-26 04:21:40 | 






子の星を 胸にをさめて ゆく闇夜     夢詩香






*久しぶりに俳句にしましょう。これはだいぶ前に詠んだものだが。

「子の星(ねのほし)」とは、前にも言いましたが、北極星のことです。昔の人の方位の呼び方では、北を「子」といい南を「午」と言いました。西は「酉」で、東は「卯」です。ですから、子午線に対して、卯酉線(ぼうゆうせん)ということばもあります。子午線に直交する東西の線のことです。丑寅というのは、北東の鬼門のことで、昔から忌み嫌われています。未申(南西)は、裏鬼門になります。

まあそういうことは、あまり気にすることはありません。方角による吉凶なんて、でたらめですよ。人間の幸不幸はあくまでも、その人自身から来るものです。

子の星、北極星は、東西の文化の違いにかかわらず、人類の共通の目印だったと言ってよい。地球の地軸も歳差によって微妙に変化していますから、大昔の北極星は違う星でした。古代エジプトのクフ王の時代は、りゅう座のトゥバンが北極星でした。遥か未来には、白鳥座のデネブや琴座のヴェガも北極星になると言われています。だが今は、こぐま座の突端の小さな星が北極星です。あのこぐまという小さな星座の目立たない星が目印だということは、たぶん人間の心に、ある種の陰影を投げかけているでしょう。

今にも闇に消えそうな小さな星だが、確かにそれはある。決して消えはしない。信じて見出し、それを目印にして、正しい道をいけと。

だが、その星も、空を雲が覆ってしまえば、見えなくなる。人間の愚昧が嵐のように大きくなり、世界を覆ってしまえば、神の印も見えなくなる。そんな時にはどうすればいいのか。それは、愛を知っている自分の中にある、まごうかたない真実の光を目印にすればよい。空の真ん中にある子の星のように、それはあなたの真ん中にある。それを見失いさえしなければ、全くの闇夜の中でさえも、正しい道を生きていくことができるだろう。

自分自身というものが、あなたにとっての、子の星なのだ。それだけは、未来永劫、どんな星とも変わることはない。







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錨星

2017-03-29 04:19:29 | 






錨星 とはに会はでは をれぬ夢     夢詩香






*錨星(いかりぼし)は、和語で、カシオペア座のことです。日本語でも、星を表す言葉はたくさんあります。参考までに、集めておきましょうか。このブログはいろいろと役に立ちますね。

オリオンの三つ星は有名ですね。北極星のことは、北辰とか妙見とか子の星(ねのほし)とか言います。北斗七星は北斗とか七つ星と言います。シリウスのことは天狼だということは知られています。白鳥座のことは北十字。スピカは真珠星という名があり、アンタレスは大火(たいか)という。ちなみに「あかぼし」は「明星(あかぼし)」なら明けの明星の金星のことだが、「赤星(あかぼし)」となるとアンタレスになります。宵の明星は「ゆふつづ(ゆふづつ)」ですね。木星には「歳星(さいせい)」という名もあります。織姫(ヴェガ)、彦星(アルタイル)、昴(プレアデス)、五角星(ぎょしゃ座)、釣鐘星(ヒアデス)、天の川、銀河、いて座に南斗六星があることも有名ですね。カノープスには南極老人星の別名がありますが、俳句には使いにくい。これくらいでいいでしょうか。

獅子とか琴とか天馬とか、星座の名前も押さえておきましょう。いろいろな星座の神話も知っておくとよいですよ。

カシオペアはギリシャ神話ではエチオピアの王妃で、アンドロメダの母親です。娘の美しさを奢ったことをポセイドンにとがめられて、娘を生贄に出さねばならなくなった。悲しい母親ですね。だが日本語の「錨星」は、単純にその形から命名されました。ギリシャ神話からくる星座の名前にはいろいろロマンがありますが、日本語はそれほど豊かではない。ギリシャ神話の助けを受けながら、イメージを膨らませています。

かのじょの瑠璃の籠の中での異名は、ルナのほかにツィーがありました。カシオペアのWの真ん中の星です。それはどうやら中国語で「鞭」を意味するらしい。偶然ですが、少し面白い符合です。愛の天使が自分を意味することに選んだ星に、鞭の名が秘められている。

カシオペアはアンドロメダの母親と言いましたが、その神話がどことなく影響しているのでしょう。かのじょはあの星座を、母国のようなものだと感じていたふしがある。小さな青い星の片隅に生きている自分の本当の故郷が、空にあるとすれば、あそこではないのかと。そしていつまでも不思議な目で見上げていた。

北の空に浮かぶ、錨の形の星はとても端正でくっきりとしている。見れば見るほど引き込まれてしまう。

星には、とても高い秘密があります。今はまだ教えられませんが、かのじょが星に感じていたことには、とても不思議な意味があります。

あの人はきっと、カシオペアに生きていたのだ。そう考えても、それほど大きな間違いではありませんよ。

あの錨星が、あの人の故郷なのだろうか。あの人は今あそこにいるのだろうか。ああ、永遠に会えないとはいうが、あの星を見ていると、それが我慢できないと思うほどだ。夢でもいいから会いたい。

星を見るたびに、会える気がする。

そういう物語が、空に書かれたのは、不思議な神の恵みです。







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しづのめに

2017-03-15 04:24:37 | 






しづのめに しづく月夜は つきづきし    夢詩香






*「つ」が重なっていて面白いですね。「しづのめ」は「賤の女」で、身分の賤しい女のこと。「しづく」は「沈く」で、水面に月が映る様子を言い、「つきづきし」は似つかわしいという意味です。

身分の低い女には、水面に月が映っている夜が、似つかわしい。さて、どういう意味でしょう。

賤しいなどと言われると、反感を覚える人もいるでしょうが、段階の進んでいない女の人には、そういう言葉がよく似合う人がいるということも事実です。勉強をしていないから、人の心というものがよくわからない。だからつい偉そうにして、人を傷つけるようなことを、別に呵責もなく平気で言うことができる。それは乱暴なことを言ったり、したりする。反省もできない。やったことが人に迷惑をかけて、責任をとらねばならないということになると、自分がつらいことをしなければならないというのが嫌で、平気で言い訳をして逃げようとする。

そういう、品性というものがまだ育っていいない女性は、賤しいと言われても仕方がありません。教育とかしつけとかいうものは、本当に必要です。人を思いやれる優しい心と、具合よく物事を運べる知識としぐさと、神に心をなじませることのできる純真さというものを身につけないうちは、高貴などということばを、自分を表現する形容詞に使ってはなりません。

あの空に高く澄む月のように美しいなどという、清らかな譬えをかぶって恥ずかしくない女性は、この世界にはほとんどいないのだが、よくそういうことをする人がいますね。

だが、人間というものはまだ若いのに、よく美しい人がいます。それほど高く修行をしていない人でも、ごく若いうちには、まれなる美をかぶることができることがあります。それはなぜかというと、神のように高い存在が、少しでも人間が自分をよいものと思えるように、高い美しさを着せてくれるからです。

もったいないものを、くださっていたのです。まるで、月が小さな水たまりにも自分を映してくれるように。

水がある間は、月が映っているから、それは美しいが、水がなくなってしまえば、もうそれはなくなる。それが、段階の若い間の美というものです。いつまでも美しいままでいたら、それを鼻にかけてずいぶんと自分が偉いと思いすぎてしまい、何の努力もしなくなる。だからまだ勉強の進んでいない若い間は、月の光の映った水のような美しさが似つかわしい。それは月そのものではあるが月ではない。いずれは消えてしまうものだ。

もうわかりますね。

若い間は、どんなに自分が美しく見えても、それを自分のものだと思ってはいけません。それは、神が下さった着物なのです。それを着ているから美しく見えるのです。自分が美しいなどと思ってはいけませんよ。

美しさを下さった神に感謝し、その美しさに少しでも見合うようなことをしていかなければならないと、そう思って、勉強していかなければ、本当の自分の美しさを、身につけることはできないのです。









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月の海

2017-02-09 04:19:42 | 






いかにして 深きを知らむ 月の海     夢詩香






*レオナルド・ダ・ヴィンチは、月には海があると考えていたそうです。確かに、月の表に移る薄い影は、海のように見えないこともない。今考えられている月の地図には、海と名付けられた地形がたくさんありますね。

「静かの海」とか「豊かの海」とか。「幸福の湖」とか「愛の入り江」とかもあるらしい。美しい名です。

海と言ってももちろん水はなく、暗い玄武岩に覆われた広く平らな土地です。月に水があれば月に住めるなどということを考えて、月に水を探している人もいるそうですが、それは無理だからやめたほうがいいですね。事実上、人間は地球以外のところに住むことはできません。科学的にも無理ですが、法則的にも無理です。なぜなら、神がお許しにならないからです。

宇宙開発はすぐにでもやめなければならない愚行だということは、わたしたちは何度でも言います。遠い未来の人類に、多大な迷惑をかけることになるのです。

あなたがたは、神の創造について、ほとんど何も知らない。地球から見た視点で宇宙を見ても、何もわからないのですよ。痛いことをすれば、神の世界にいやなことをしたことになり、それが返ってきた時には、実にすごいことになるのです。焦ってやめたほうがいいのですが、それがなかなかできないのが馬鹿というものだ。

それはともかくとして、表題の句はもちろん、月に擬せられたあの人の深い心を知るにはどうしたらいいだろうという意味が秘されています。月はとても高いところにある。そこにある心の海の深さはどれくらいだろう。

身近にある池の深さすら、測るのは大変だというのに、人の心の深さなど測れるはずがない。天使ならなおさら。

だれが考えていたでしょう。あの人が本気で、人類の救済を考えていたなどと。

あの人の心をとりこにすることなど、月にロケットを飛ばすことよりも難しい。それでも、美しさだけに目がくらんで、そんなことをやろうとするのが馬鹿なのだ。

月は紙でできているのではない。神が崇高な御技でおつくりになったすごいものなのです。それなのに人間は、紙でできていると信じているのではないかと思うほど、馬鹿なことをやるのだ。何も知らない。

何も知らない。







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芥子と月

2016-12-31 04:22:49 | 







会ひたきも 散るが悲しき 芥子と月     夢詩香







*大晦日ですから、それなりに季節にあった句を詠もうとは思ってはみるのですが、なにせわたしの心はあちこちに飛ぶ。季節などおかまいなしです。

あの人のことを、ひなげしにたとえたのは、わたしの友達の一人ですが、わたしもだいたいそれには賛成です。確かに、あの人はひなげしのようにはかなげなところがある。本音を言えば、わたしとしてはほんの少しそれに条件をつけたいのだが。

あの人はひなげしが好きでした。かわいらしいのに、あでやかではなく、引き締まっている。そこがどこか男の子っぽいのが、あの人は好きだったのです。なんとなく、自分に近いものを、やはり感じていたのでしょう。

だがひなげしの方は、自分をかのじょの比喩に使われることは、ちょっとつらいと思うかもしれません。美しいものは、いつもそういうものだ。自分の美しさが、よくわからないのです。自己存在というものは、自分とは違う人の美しさは、よくわかるものなのだが、自分の美しさというのは、あまりよくわからないのです。

ひなげしとかのじょの違いは、ひなげしは昼咲いて夕には散るが、かのじょは夜の間にも月のように光ってくれることです。

この世界の、最も苦しい矛盾の時代にも、きりりと自分を通して、生き抜いてくれたのです。

ひなげしは、そういうかのじょの、夜にも光る花を見たい。だが、自分は、夜になる前に散ってしまうのだ。それは、ひなげしは悲しいだろう。

日向にも咲いている空の月のかすかな白さを見上げて、ため息をつく。あの人の夜の姿はどんなに美しいだろうかと。

そういうひなげしの心は美しい。

美しさというものは、自分の中にある本質の愛の発露だ。だれも妨げることのできない真実の愛の言葉を発する、切ない痛みだ。

永遠の未来の中に、ひなげしと月の邂逅はあるかもしれないが、それは神に預けておきましょう。

どうにもならないことに、小さな愛を塗る花の姿の、あまりにも奥ゆかしいかわいらしさを、わたしはしばらく見ていたい。








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しろかねの

2016-12-28 04:22:15 | 







しろかねの 月はどなたが 解きし鳥     夢詩香







*太陽が照ることを、当然だというよりも、月が照ることを、当然だということのほうが、苦しいことのような気がする。そういう感じはありませんか。

太陽がなくては生きていけないから、とんでもなく必要だから、それはあってしかるべきと考えても苦しくはない。では月はどうだろう。

月がなくても、たぶん、生命活動に、それほど大きな影響はないかもしれない。少なくとも、太陽を失うほどの大きな喪失ではないだろう。だのに、月はある。

なぜ月はあるのだろう。なぜ神は、この地球世界に、月という衛星をくれたのだろう。

ほかの天体と比べても、地球型の惑星で、地球ほど大きな衛星を持っている星はありません。あれは、ほんとうに、大きな愛で、誰かが地球に下さったとしか思えない。
ではそれは一体、何のためなのか。

星の運行により、暗闇も生じる世界を、月の光で照らすためか。それもあるだろう。月があるだけで、暗闇を生きるものの恐怖は少なくなる。だがそれだけではない。

妻を持つ男は、それだけで情感が膨らみ、生きることがうれしくなる。夜にひっそりと添うてくれる月は、それがあるだけで、人間の心が豊かに膨らんでくる。

もののあはれというものは、太陽よりも、月に育てられるものだ。

小さいもの、弱いものに対する情愛が、きめ細やかになってくるのは、月の光があまりにやさしいからだ。なんと美しいものなのだろう。愛さずにいられない。

太陽が生き物の命を保証するものなら、月は、人間の中にある愛を、神が信じているという証拠なのだ。

あれは、神が、地球に生きる魂たちのために、空に解き放った美しい鳥なのです。

人間が、愛するために、月は必要なのです。







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あるたいる

2016-12-23 04:21:21 | 







たたかへと 闇をさしけり あるたいる     夢詩香






*天使に星の名前をつけるということが始まってから、わたしたちの活動はだいぶやりやすくなりました。

特に、獅子の星はかなり衝撃的でしょう。あなたがたにとっては、最も怖い天使たちです。ゾスマがここに出てきただけでも、だいぶ馬鹿が滅んでしまった。彼は今ここにいませんが、まだ活動しています。あらゆる馬鹿を清めようと、いろいろなことをしています。

彼が何をやっているかは知っていますが、言いません。ある程度効果が上がってきたら、教えてあげることにしましょう。言っておきますが、怖いですよ。そして獅子の星は、彼だけではないのです。もっと怖い星もいる。

このように、獅子はとても怖いですが、もっと怖いのは、実は鷲です。

アルタイルはわし座の星です。瑠璃の籠でも初期のうちに名前がつきました。最初の頃はよく出てきたが、この頃はさっぱり出てこない。これがとてもきついと、わたしたちは感じている。

アルタイルはかのじょとよく性質が似ています。愚直なまでに正直で、清らかに動く。どんな妨害があっても、頑固なまでに自分をつらぬく。彼は男というものを、光の柱のように信じているのです。アルタイルという男らしい名前が、とても似合います。

だが、彼がかのじょと絶対に違うところは、かのじょは怒っても、ほとんど何もしないで去っていくだけだが、彼は怒ると何をするかわからないということです。

それが怖いのです。

あの人が、何もやっていないわけがない。わたしたちとの連絡を絶ってまで、何をやっているのか。さっぱりわからないのが、怖い。

あの人が本気で怒れば、太平洋の底の栓を抜くということすら、やりかねないのです。

あなたがたは、本当に困ったことをした。あの人が怒るのは、本当に久しぶりだ。前に怒ったのがいつだったのか、もう覚えていないほど。







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