ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

プシュケ

2017-06-30 04:20:48 | 短歌





アモールの 弓はプシュケを 侮りて 影と思ひて 野に見失ふ






*これはアモールとプシュケの神話を題材にした歌です。昨日、蝶を魂の隠喩だと言いましたが、その発想の元は、プシュケという言葉が古代ギリシャ語で、魂を意味すると同時に蝶をも意味することから来ています。西洋絵画では、プシュケは蝶の翅をもった美しい少女の姿で描かれることも多い。

アモールはエロース、クピドとも言いますね。愛の神だ。背中に翼をもち、小さな弓矢を持った男性の姿で描かれます。その矢に刺されたものはたちまち恋に落ちてしまう。ラテン語で愛はamor。この言葉は、ローマromaを逆にしたものだという説もあるそうです。

アモールとプシュケの結婚は、愛と魂の結婚だという譬えになりますが、物語は結構複雑だ。

美しいプシュケの噂を聞いた美の女神ウェヌスが嫉妬にかられ、息子アモールを遣わして嫌な男に恋をさせようとする。だがアモールはプシュケの美しさに驚いて、愛の矢を自分に刺してしまい、プシュケに恋をしてしまう。二人は愛し合うが順調にいくはずもなく、姉たちの嫉妬を受けてプシュケはアモールの正体を見てしまい、アモールに捨てられてしまう。

後悔したプシュケはウェヌスの試練を受け、愚かな間違いをしながらも、いろいろなものに助けられて何とか乗り越えることができる。そしてアモールと再び結ばれる。アモール(愛)とプシュケ(魂)は結ばれ、歓喜という名の子供が生まれる。

まあこんなところです。かわいい話だが、わたしはこれに、男社会のエゴをも感じます。女の魂という蝶を、飼いならして自分の配下に置こうとする男のエゴが、痛いところに塗りこめられているような気もするのです。

物語の中のプシュケは、冥界の女神プロセルピナからもらった美の箱を開けて、すこし美を盗もうとしたりしている。賢い魂なら、そんなことはできません。美しさを盗んだりしようとはしない。たとえ自分が醜い姿になっても、夫のためになることをしたいと思うものだ。

物語の作者がプシュケにそんなことをさせるのには、女が持っている魂というものが、実は節操もなく馬鹿なことをする愚かなものなのだということにして、男の支配下におきたい、そういう男の意図を感じますね。

愛の神アモールなのだと名乗ってはいるが、実はアモールは愛ではない。ローマなのだ。男が打ち立てた、巨大な帝国の権力を表す。それすなわち、男のエゴです。

男が、男の力で、女の魂を支配したい。そういう意図が、この物語にはあるのです。

物語の作者はアプレイウスという帝政ローマ時代の作家だそうです。女性に対する考え方がいかにも単純だ。筋はおもしろいが、洗練されていない、粗野な男の馬鹿っぽさを感じます。






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まつろはぬてふ

2017-06-29 04:22:34 | 短歌





まつろはぬ てふを飼ひける 月を切り 狐をめとりて 鬼界に散りぬ






*今日はまたきつい歌ですね。「狐」は古語で「きつ」と読みます。もちろん動物の狐のことです。「月(つき)」と反対になっていることがミソです。「まつろふ(順ふ)」は従うということ。「けり」は過去の助動詞ですが、ここでは過去に行われた動作や状態が現在まで続いていることを思う意を表します。

「てふ(蝶)」は、人間の魂を隠喩しています。

自分に従わない蝶を飼っているように、自由な真実の愛の魂を持つ月の女を切り捨て、化け狐のような女を選んで娶り、馬鹿男は鬼の世界に散ったのだ。

昔、九州地方には鬼界島という島があったそうです。今ではそこがどこか特定できないらしいが、罪人の配流の場所として使われていたらしい。ここではそれを意識しつつ、鬼のような妖怪じみたものがいる世界という感じで使っています。

まあ、わかるでしょう。自分の思い通りにならない女をことごとくつぶしてしまったら、残ったのは馬鹿なことばかりやる狐のような女ばかりだった。正しい女というものは、悪いことなどせずに、神の前に明るく心を差し出し、ただまじめに生きているものなのだが、馬鹿な男は女がそれだと悪いことができないので、そういうまじめな女をことごとくいじめて殺してきたのです。

本当はそういう女性の方がずっとかわいらしくて美しく、男のためにいろいろなことを愛だけでやってくれる、よいものなのだが、馬鹿な男はそれを信じようとせず、馬鹿なものにして、毒の入っている嫌なものにしようとして、みんなで嘘を塗りたくり、全員でセックスだけのために利用できる肉にしようとした。

その結果、無残にひどい結果が落ちてきた。

何度も言われていることだが、歌というのは響く。いろいろな詠い方ができる。歌に詠われると、真実がまるでナイフのように突き刺さって来ます。それぞれに違う材料を持って作られるナイフが痛いと言ったらない。

偽物の美人の方がいいと言ったのは、そっちのほうが楽だからだ。だが、心の中を見てみると、それはあまりにも痛い。阿呆なことばかりを考えている。瞳から漏れ見えている心が見えたとき、それは美人というより恐ろしい獣にさえ見える。

狐の方がかわいらしいくらいだ。

その美人の正体がわかるのはもう少し先です。男が女にやってきたことのすべてがわかるには、もう少し勉強が進まねばならない。

男という男が、マリアナ海溝よりも深い奈落に落ちねばならない。そういう真実を理解するときがいずれ来る。

覚悟はしておいたほうがいいでしょう。






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銀の簪

2017-06-28 04:21:07 | 短歌





白鴨に たまひし銀の 簪を とりて眺むる 秋の空かな






*今日は昨日とは全然雰囲気の違う作品を取り上げてみました。これは、女性の弟子の作品です。彼女が、銀の簪(かんざし)を歌に詠みこみたいというので、指導してみました。

何でも、遠い昔に、いい男に銀の簪を贈られたことがあるのだそうです。とてもうれしかったのだが、その男はすぐに死んでしまって、とても悲しかったそうです。その心を歌にしてみたいというのです。

まだ未熟ですから、自分では上手に歌えないらしいので、いろいろと尋ねてみました。その男はどんな男なのかと、何か動物などにたとえてみなさいと。そうすると、彼は白い鴨のようだったと言うのです。

そんなに美男ではなかったが、いい感じのする人で、やさしかったと。

古語に、「黒鴨(くろかも)」という言葉があるのですが、それは文字通り黒い水鳥という意味もあるのですが、他に下男とか召使という意味もあるのです。彼はそういう仕事をしていたそうです。まじめな人で、黒いというよりは白い感じだったと。だから白鴨(しろかも)にしてみました。

旦那さんのところで下男をしてまじめに働いている男の人に、もらった銀の簪を手にとりながら、秋の空を眺めているのです。あの人は、そんな遠いところに行ってしまったからです。

よいですね。未熟ながらも素直な歌い方が良い。こういう練習を積み重ねていけば、歌の詠み方がわかってきて、もっとおもしろい歌が詠めるようになります。

ところで、この歌に触発されて、他の男の弟子がこれに答える形で歌を詠んでくれました。それも紹介してみましょう。




濃き紅の 百合を思ひて 簪の 店を訪ひたる 夕べなるかな




わたしには思う女性がいて、それは濃い紅の色をした百合のような人なのです。その人を思って、簪の店を訪ねた夕方ごろのことでした。

いいですね。はじめは真似事でもいい。しっかりと足を踏みしめてやっていけば、どんどん自分の力を大きくしていくことができます。

頑張る姿が美しい。人はこうでなくてはいけない。







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玉皇上帝

2017-06-27 04:20:04 | 短歌





孔丘を 越えむとはして 小人が 玉皇上帝 なるをつくりき






*少々衒学的なきらいがありますが、まあたまにはいいでしょう。

「玉皇上帝(ぎょくこうじょうてい)」または玉皇大帝というのは、道教の最高神です。西遊記にも天帝として出てきています。まあ、天界で一番偉い神というところでしょう。ですがこの神の経歴は実はかなり新しい。最高神として認定されたのは宋代のことです。

一応それなりのキャラ設定はあるようですが、はっきり言ってこれは、近代の新興宗教が設定した眉唾の至高神の神格とそう変わりはありません。人間が想像した最高の権力を、形にしてみたものです。実際には、天帝などという存在はありません。

天界というものも、ありませんね。神が住んでいらっしゃる国はありますが、神はこの地球世界をも、自由に闊歩されている。人間の言う天界とはたぶん、人間が住みたい絶対権力者の国でしょう。恐ろしいほどの金持ちで、無限の力と権威を持ち、地上のすべての存在を支配できる。

そんな恐ろしいものが実在すれば、この世界は成立しません。実際、世界のすべてを支配できる権力者などというものは、赤ん坊の自己中心性が人間の想像力によって発展したものにすぎない。いつまでもなめていてはいけないおしゃぶりのようなものです。

実在の神というものは、実に美しく雄大な存在です。支配などしはしない。権力を実行するときはあるが、それはそれをしたほうがいいという場合のみです。絶対権力者という資格はありますが、それをやろうとはなさいません。真実の神は、あらゆるものの存在を認め、それが永遠の幸福に至るまでの道を保証している。愛でなければ、神になどなれません。

天帝などという恐ろしくも滑稽な権威を考える裏にはもちろん、事実上の優位者に対する対抗心もあります。実質この玉皇上帝は、孔丘という聖者の存在を意識して設定されたのです。表向きは関係のないような顔をしていますが、暗いところには拭い去れない人間の心理がある。小人(しょうじん)の心理というべきか。

真っ向から挑戦してはかなうわけがありませんから、あんなものはたいしたものではないのだとすることができるような、超越した権威をつくり、間接的に優位者を馬鹿にしようとするのです。弱者とか、敗者の心理というものだ。自分は馬鹿ではないと思いたいから、想像の中でそういうものをつくり、幻の中に自分を立てようとする。

中国ではほかに、関帝という、関羽を神格化した神があります。関羽は劉備の配下の武将ですから、中国人が上役の劉備ではなく関羽を神にするのにも、何らかの心理を読み取れますね。上よりも、下の方のものが偉いのだということにしたがるという。阿呆はよくそういうことをします。だが事実上は、劉備のほうが関羽よりずっと上なのです。

関帝は今もよく中国人に信仰されているそうです。なんとなく、中国という国がわかりますね。







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爪を切り

2017-06-26 04:20:44 | その他





爪を切り 己ではなき ものと見る     夢詩香






*今日は俳句です。何ということもない句ですが、けっこうおもしろいでしょう。季語など気にせずにやれば、こういうのも詠める。季節感は大事だが、人間の情感を呼び覚ますのは季節だけではありませんから、季語には規制を弱めてもらった方がいいように思いますね。歳時記はけっこうおもしろいのだが、あまり縛られたくはない。

爪を切って、その爪を見た時になど、こういう感慨を持ちませんか。さっきまで自分の一部だったものが、もう全然自分ではないものになっている。そういうことに、少し不思議なことを感じることはないですか。

それで切った爪など、しばらく見つめてしまう人も結構いるでしょう。爪というのは指先にある時は、結構美しいし、指先を守ってくれたりもするのだが。切ってしまうとただのゴミになる。切った爪にも愛おしさを感じるが、持っていてもせんないのですぐにゴミ箱に捨ててしまう。

人間がこだわっている馬鹿な自分というものも、実はこの、伸びた爪のようなものですよ。本当は、実に下らないのだ。切ってしまえば邪魔にならなくて楽なのに、いつまでも惜しんで伸ばしておくから邪魔になって、生きることの差しさわりになる。とうに乗り越えていなければならない段階を乗り越えられずに、子供じみた失敗をやって、人生をだいなしにしてしまうのも、実はこういう、切ったほうがいい爪のようなものを、大事にしているからなのです。

金持ちになりたいだとか、芸能人みたいな美人を嫁さんに欲しいだとか、ばかばかしい名誉が欲しいだとか、そういうものです。そういう幻惑的な価値観は、本当は、ルネサンスの時代に捨てていなければならないのですよ。あの時代は、人間が人間の心をつかんだという時代ですから。あの時に、人間の本義に目覚めて、馬鹿みたいな価値観を捨てた人間は多かったのです。

魂の本当の幸福は、そういうものではないということに気付くことができた。そういう人間は、伸びた爪のように、表面的な幻惑される幼い段階の自分というものを、切り捨てたのです。

そういう馬鹿な自分を切り捨てることができた人というのは、不思議な目で過去の自分を見ている。過去の自分は、あんな馬鹿みたいなものをいいものだと信じて、馬鹿みたいなことばかりやっていたが、もうあの自分が自分だとは思えない。まったく別の存在のように思える。

人間は進化していくたびに、こんな経験をしていくのです。古びた自分が、脱ぎ捨てた殻のように思える。それは確かに自分だったのだが、もう自分ではないのだ。

浅はかなことを、浅はかだとわかっていながらもやるのは、何もない自分を実行することに等しい。もうそんなことは馬鹿なことだとわかっていながら、まだ過去の自分の世界にこだわってやっている人は多いのだが、もうとっくに、本当の自分はそこを卒業しているのです。だから、馬鹿をやっている人間は、切った爪のために生きているようなものだ。

何もなりはしない。

本当の自分は、切った爪ではない。その爪をかつて持っていた本体なのだ。

そういうことに気付くことができれば、人間は進歩していくことができるでしょう。







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空籠

2017-06-25 04:19:21 | 短歌





空籠を かへしてもなき 玉松の 実の形代を 泡に描く国






*この原稿を書いているのは、2月14日です。ずいぶんですね。わたしたちの仕事はだいたいこんなものだ。これが発表される頃には、だいぶわたしの仕事は終わっていて、次の天使が違う表現を試みていることでしょう。

まあそれはそれとして、この歌は、ニュースで朴槿恵の顔を見て詠われました。まだ大統領から降ろされていないが、嫌なことをされまくっている姿を見ている。わたしには、韓国の霊界が彼女を攻撃している様が見える。

あの国の人間は、激しい嫉妬を持っている。あの女性の美しさを否定したくて、あまりに馬鹿らしいことをしているのです。こんなことばかりしていては、韓国はあと30年も持ちません。

「空籠(からかご)」の「から」は、もちろん韓国の「韓(から)」を意識しています。「玉松」とは松の美称です。「形代(かたしろ)」は身代わりという意味です。

空っぽの籠をひっくり返しても、出て来はしない美しい松の実の身代わりを、泡のようなものに描いている、そんなことばかりしているのだ、あの国は。

本当に大切なものを否定して攻撃し、ありもしない幻の幸福を、はかない泡のようなものに描いている。その泡がはじけるたびに、彼らはその責任を押し付けられる誰かを探す。自分がしたことがどういう結果をもたらしたかなどということを、正視したくないのだ。

松というものは優れて美しい植物です。人の心の美を掻き立てる。美しく生きていかねばならないという心を掻き立てる。それを馬鹿にしてしまえば、人は美をおろそかにして、いやなことばかりするようになる。人として醜いことをしても平気になる。

松のような美しい存在がいるからこそ国はなっていくのだ。そういう存在をなくしてしまえば、国は痛いことになるというのに、松が生えてくればみんなで嫉妬してつぶしてしまうようなことを、馬鹿はやる。そして国をだめにする。

どこかで馬鹿をせき止める工夫がなされなければ、運命は怒涛のように破滅に向かって流れていくでしょう。

誰かが何とかせねばならない。だがその誰かを、馬鹿が全部だめにする。

政治体制というものは、そういう現象を、頑丈に防げるものでなければならない。







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こまどり

2017-06-24 04:22:20 | 短歌





こまどりを 染む紅を 求めては 神の染屋を 訪ひめぐる人






*たまには趣の違うものを取り上げましょう。いつもきついものばかりやっていては、ブログを読んでくれる人も痛いでしょう。

こまどりはかわいらしい小鳥ですが、ここらへんでは見ることもできないので、もちろん写真はありません。野鳥を撮ることができたらいいんですが、今持っている安いカメラでは少し無理です。望遠のきくいいカメラが欲しいが、貧乏というものはつらい。

わたしたちはがんばっているが、小市民ができることの範囲を超えることは、かなり難しいです。

まあそれはそれとして、こまどりという鳥を知らない人は滅多にいないでしょう。裏庭でも確か2度くらいかわいい絵を選んでくれたはずです。丸っこいおにぎりのような姿をしていてとても愛らしい。すばらしいのは、のどの当たりに絶妙に品のいい赤を持っていることだ。

何という色と言ったらいいのでしょうね。暖色系だが、それほどきつく赤くない。茶色に近いが、それほど地味ではなくもっと暖かい。だが朱色とかオレンジ色という名でも捕まえられない。微妙な色合いに、目を吸いつけられる。あの赤を、神はこまどりに与えられた。それゆえにこまどりは、まるで神の使いでもあるかのようだ。

庭先に来てくれた時など、本当にうれしくなるものだ。あの赤い色が、目に染みるように痛い。心の中にある何かを、痛く呼び覚ます。それが何かであるかはわからないのだが。

ここでは文字数の関係上、「紅(くれない)」としましたが、それはスカーレットというよりは、赤色全般を表現しています。文字数の関連で三文字しか余裕がないのなら「茜(あかね)」を、二文字なら「紅(べに)」や「赤(あか)」を、一文字なら「朱(しゅ)」や「緋(ひ)」などを使えばよろしい。言葉の感じによって微妙にイメージが違うのが楽しいです。

こまどりの喉を染めている、あのすばらしい紅色を求めて、神の染め屋を問いめぐっている人がいる。

そのように、神のなした自然の技に感動して、学ぼうとしている人間がいる。美しい歌だ。

この世界には、一羽のこまどりの中にも神の愛がある。こまどりを愛してそれを求めていけば、そこから神の愛にたどり着くこともできる。すばらしい世界です。

世界を見て感動する自分の心を大事にしていきなさい。そして素直に学び、表現していきなさい。あなたがたはすばらしい世界に住むことを今許されている。それを棒に振ってはなりません。







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神のゆくへ

2017-06-23 04:20:48 | 短歌





じふじかに 生る実のごとき 血の人に 問ひつくしてよ 神のゆくへを






*今日のは最近の作です。違う人が詠んでくれたものです。この存在の表現活動には実にたくさんのものが参加してくれている。同じ媒体を利用しているが、昨日の作品とはずいぶん違うと感じるでしょう。

「じふじか」は「十字架」、「てよ」は完了の助動詞「つ」の命令形で、「~してしまえ」と訳されます。普通の命令形よりは強い言い方になります。

「血の人」などというきつい表現は、実にかのじょにはできませんね。確かに、十字架にはりつけられたイエスの姿は、まるで不思議な木に生った血の実のようだ。いずれ、人間たちの頭に落ちてくる。それを「血の人」と一言で言ってしまえる人は、なかなかに痛い。

十字架になった血の実のようなあの人に、問いつくしてしまえ、神がどこに行ってしまったのかを。

人間は神を見失い、闇の中をさまよっている。一体神がどこに行ったのか、複雑な道をたどって逃げてきた身にはもうとんとわからない。そんな人間が神の行方を知りたいなら、あの人に、問い尽くしてしまいなさい。それほど強いことをしなければ、あなたがたには神の行方はわかるまい。

「てよ」という強い命令形にしたのは、阿呆の馬鹿さ加減を改めて、神の国に戻るのは、見下げ果てた自分を振り動かして、最も蔑んだ人にひたすら頭を下げて、しつこいほど問いただすことまでしなければできはすまいという、歌い手の心でしょう。

古語というのは、こういう心を「てよ」の二文字で表せるのが憎い。いろいろと使い方を覚えて、活用してみましょう。

別に怖がる必要はない。使い方がわかれば、適当な動詞と組み合わせて、そこから歌をねっていくという方法もあります。「問ひつくしてよ」の「問ひつくす」の部分をほかの動詞に変えてごらんなさい。それを連用形にしてくっつければよい。例えば「責め下ろす」という言葉を入れてみましょう。「責め下ろしてよ」つまりは責め下ろしてしまえという意味になる。責め下ろすとは無理矢理引きずり落すという意味です。




生きわぶる 賤の涙を からかひて 見過ぐす君は 責め下ろしてよ     夢詩香




「賤(しづ)」は身分の賤しいものの意、「見過ぐす(みすぐす)」はそ知らぬふりで過ごすという意です。「君(きみ)」は王様の意ですね。ここまでくれば簡単ですね。

「てよ」の意から、歌を練り上げることもできるという例です。







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岸の佐保姫

2017-06-22 04:20:16 | 短歌





風運ぶ にほひこぼるる 若草を 衣きせたまへ 岸の佐保姫






*今日はかのじょの古い作品から取り上げましょう。これは旧ブログの「ふゑのあかぼし」にあったものです。確か、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」と組んで発表したはずです。

「佐保姫(さほひめ)」は春の女神のことです。佐保山を神格化した女神のことらしい。これに対して秋の女神は「竜田姫(たつたひめ)」と言います。竜田山を神格化したものです。平城京からすれば、佐保山は東にあり、竜田山は西にあることから、そうなったらしい。五行説では春は東方にあり、秋は西方にあるからだそうです。

「にほひこぼる」とは美しさが外にあふれ出るということを意味します。「にほひ(匂い)」には香りという意味の他に、美しい色合いや魅力、気品と言った意味があるのです。「若草」は春に萌えだしたばかりの草のことですが、若い女性の譬えによく使われます。ここまで言えば、わかりますね。

風が運んできた、あふれんばかりに美しいそのひとを、衣を着せて立派な姿にしてください、岸に立っている春の女神よ。

そのまま、「ヴィーナスの誕生」の図になっていますね。絵の中では西風ゼフュロスに吹かれて岸にたどり着いた裸体のヴィーナスに、時の女神ホーラが衣を着せようとしている。

「ふゑのあかぼし」を最初からたどっていけば、闇の中を耐えてがんばってきた女性が、やがて光の中に出てきて、自分の本当の姿を勝ち得ていくという話になっているのに気付くはずです。ですからこの歌はこういう意味にもなるのです。

その人は闇に塗りこめられた世界を、ただ愛を信じてつらぬいて生きてきた。そして本当の自分を勝ちえた。ゆえに春の女神よ、その人に真の衣を着せ、美しく立派な姿にしてください。その人は本当にがんばってきた。ひたすらに神を信じて生き抜いてきたのだから。

これは暗闇の世界を、魂をさいなまれながらも生き抜いている正しい霊魂をたたえるための歌なのです。どんなつらいことがあろうとも、あなたがたはこのヴィーナスのように、いずれ本当に美しいものになって、真実の国の岸にたどりつくだろうと。

それが、人類の春なのだと。







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とかげのはら

2017-06-21 04:22:44 | 





つかまへし とかげのはらの やはらかさ    夢詩香






*たまには俳句をやりましょう。これもずいぶん前の作品ですが。俳句を詠み始めてからすぐの作品ですから、最近の作と比べると、なんだかすんなりとして単純な感じがしますね。

わたしも、詠みなれてくると、少し上達するようです。

とかげやかなへびという生き物は、蛇ほどに怖くなく、小さいので、かのじょも好きでした。道を歩いている時、とかげやかなへびがどこから出てきたりすると、目を輝かせて追いかけていたものでした。

まるで子供のようにかわいらしい。あの人は元からこういう傾向がありましたが、この人生ではかわいらしい女性になってしまったので、これに拍車がかかりました。美しい女性というものはいろいろなことに耐えねばならないものだが、男としての自分に無理をかけてでも耐え忍んでいるうちに、何か、どこかが変に壊れてしまったらしい。

ずいぶんと女性っぽくなってしまった。

霊魂の進化というものは、不思議なものです。進化というより、変容と言ったほうがいいのかもしれない。人間の女性として、今のこの時代を耐えるということは、おそらくこの人には激しく自分を超えることだったのだ。

とかげなど小さな生き物を見ると、人はどうしても捕まえてみたくなるものですね。実際あの人も何度か捕まえたことがあった。だがそのたびに、すぐに放してやっていた。手で触れて、その柔らかさを教えてもらったら、もうそれだけでいい。神の庭に帰って、自由に生きるといい。そう言って逃げていくとかげを見ながら目を細めて笑っている顔は、愛らしかった。

愛など糞だという人ばかりがいる世界で、物欲しげな人間の、金物のような視線に傷つきながら、あの人はどんどん自分を変えていったのだ。女性というものはそういうものかもしれない。相手が阿呆でも何でも、自分の方を変えてやろうとする。

馬鹿な人間は、とかげのはらの柔らかさなどに触れると、生き物の弱点を見つけたような気がして、つぶしてやりたいという暗い衝動を覚えるときもあるものだが。そうやって自分の強さを実行して、ありもしない幻の権力に酔おうとするときもあるものだが。

いずれそれはとても汚いものになる。

人の弱さばかりを探して、馬鹿にして、嫌なものにして、食うてしまおうとするから何もかもを失うのだということに気付いた時には、もう何もない。

あの人が逃がしたとかげはたぶん、今もその子孫が生きているだろう。神の庭で、愛の光を浴びながら生きているだろう。そしてまた、誰かに会いにきてくれるだろう。誰もに、その命のやわらかさを教えてくれるだろう。

とかげをつかまえて、そのやわらかさを知ったら、すぐに放してやりなさい。







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