ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

樹倒れて

2023-03-01 09:09:41 | その他





樹倒れて あっけらかんと 空があく    夢詩香




*今週はいくつか歌が詠めたので、そのうちのひとつをあげようと思ったのですが、今朝いつもの神社にお参りしていた時、境内のクスノキがみんな無残に伐られていたので、少しショックを受けて、こんなのを詠みました。

立派なクスノキでした。わたしたちが神の前にお祈りしていると、いつも温かい視線をなげてくれていた。いつもわたしたちを見ていてくれた。その木が倒されてなくなると、大きく空があいて見える。いつもきれいなこずえを見上げていたところに、あっけらかんと空が開いている。

なんで伐ってしまったのだろう。美しい木だったのに。さみしさが胸ににじんできて、今心が沈んでいます。

いつまでもあそこに立ってくれているものと思っていた。人の知らないところで、みんなのためにとてもよいことをしていたのに。人間はそんなことを何も知らないから、人間の都合で簡単に木を伐ってしまうのだ。

神社の境内で、いつも温かい魂の香りを発していた、あの木がもういない。人々は、何を失ったのかも気づかない。

木は、ただ立っているだけではないのです。美しい魂を有し、いつもみんなのためにすばらしいことをしている。その魂が消えていなくなれば、とても寒いことになる。

しばらく、あの神社に行くたびに、苦しい思いをしそうです。






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龍馬の真似

2018-10-16 04:13:48 | その他





われのなき 龍馬の真似の 痛さかな    夢詩香





*たまには俳句をやりましょう。これは、インスタグラムであるユーザーさんに贈ろうと思ったが、やめたものです。

なかなかにおもしろい方でね、音楽活動などもしながら書道などもたしなんでいるらしい。その人が坂本龍馬の字を朱筆で書いていたので、ふとこんな句が思い浮かんだのです。

坂本龍馬は人気がありますからね、その生き方を見習っているものは多い。だがああいう生き方というのはとてもリスクが大きい。それがわかっているのかいないのか、ただかっこいいからと、安易にスタイルだけ真似する人がいるもので。

ヘアスタイルを似せてみたり、やたらと言動を派手にしたりね、こういうだけでいくたりかの馬鹿の顔が浮かんできそうだ。大河ドラマなんかでも、痛い俳優に龍馬をやらせていますがね、うわべだけの龍馬という感じで、ちっともかっこよくない。龍馬本人も苦い思いを抱いているでしょう。

自分というものを賭けない、龍馬の真似の、痛さであることよ。

坂本龍馬は、ひとりで時代の壁に挑戦し、痛い傷を負わせてはみたものの、総身にその反動をかぶり、むごたらしく殺された人です。本当に時代に挑戦したいなら、命の一つや二つぶち壊れるほどの反動も覚悟せねばならない。様々な防護壁に守られた安全地帯で、命を失う危険を回避しながら、かっこだけ龍馬の真似をしている馬鹿ほど、かっこ悪いものはない。

命と人生をかけなければ、時代など変えることはできませんよ。

本当に龍馬のようになりたいなら、一度、総身で時代にぶつかって、壊れてみればいい。きついですね。しかしわたしたちに偉そうにこんなことを言えるのは、かのじょという人が、実際にそれをやってくれたからです。

女性の身でね、自分というものの真実を人間に教えるために、人生をなげうってくれたのです。かのじょは龍馬のまねなどしない。龍馬は龍馬。自分には自分のやり方がある。その自分で、世界を変えることのできる、大きな一手をかのじょは打ってくれた。

龍馬のようにかっこよくなりたいなら、自分というものを、まるごとかけて、神の中にとびこんでみなさい。なんのためにかと? 愛のため、神のため、そして、人類のためです。

それができてこそ、龍馬の真似も、それほど不格好にはならないことでしょう。






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をさなの日

2017-11-23 04:20:26 | その他





煙突の 無きとうれひし をさなの日     夢詩香





*たまには俳句をやりましょう。ツイッターを始めてから、俳句を詠まなくなってしまったので、これもブログを始めた当初に詠んだ句の中からとりました。

なかなかほかのものは俳句を詠んでくれません。歌の方がやりやすいみたいですね。俳句をやるには、わたしたちは少々大きすぎるようだ。情感が普通の人間より大きいので、多くの言葉を必要とするようです。

表題の句は、かのじょの幼いころの記憶を詠んだものです。まだクリスマスには一か月ありますが、そろそろみな準備にかかるかと思うので、とりあげてみました。

クリスマス・イヴにサンタクロースが煙突から家に入って来て、子供たちにプレゼントをくれるという話は、かのじょはもう物心つくころにはすでに知っていました。ですが、そのころ住んでいた家には煙突がなかったので、それを親に訴えた時があったのです。このままではサンタがうちに来てくれないと。

そうすると母親がこういったのを覚えている。窓から入ってくるから大丈夫だよと。それでかのじょは一安心したのでした。そしてやはり期待通り、クリスマスの朝にはちゃんと枕もとにプレゼントがあった。

そのプレゼントをめぐって、兄弟でケンカしたりなどもしたんですがね、その様子を、親が意味ありげな視線で見ていたのに、かのじょは敏感に気付いていました。

サンタを疑い始める最初のきざしでしたね。賢い子供というのは誰より早くその突端をつかむのだ。確かにかのじょはすぐにサンタを信じなくなったが。

大人になるとまた信じるようになるのです。いえ、実感として、知るようになるのです。本当にそんな存在がいると。

人間を愛して、全ての子供にプレゼントを配ってくれているような存在がいると。

そういう心が、後にかのじょにおもしろい小説を書かせました。「ばらの“み”」という。読んだ方にはわかりますね。

あの物語の始まりは、この小さな頃のかのじょの記憶に発しているのです。まだ父母もいて、弟妹と一緒に住んでいた、幸福な子供時代の思い出。後にみんな失うことになるのだが。

すさんだ子供時代を味わったかのじょが、すべての子供にプレゼントを与えるというサンタの味方につく。一体その心はどこから来たのでしょうね。普通ならすねて、地獄のような精神を生きてもおかしくはない。

悲劇的な境遇から自分を救うものは愛しかないのだと。そういうことを考えることができるほどに、高い魂の持ち主だったからです。






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白き猫

2017-10-12 04:21:27 | その他





白き猫 われにうたふる 花寝床     夢詩香





*たまには俳句をやりましょう。短歌ばかりをやっていますからね。このブログの自己紹介文も変えねばならないと思いつつ、さぼっている。ほかのところが忙しくて、そっちに頭が回らないのです。

「うたふる」は「うたふ(訴ふ)」の連体形です。「うたふ」は「うつたふ」の促音無表記の表現です。字数が稼げるのでよく使いますが、「歌ふ」と紛らわしいのが難ですね。ですが使い込んでいくと、違いがわかってきます。

なんでもやって積み重ねていくと、いろいろなことがなっていくのです。それまで常識だと思っていたことが、だんだんと崩れてきて、新しいものが育つ土壌ができてくる。

それはそうとして、これはかのじょが生きていたころのことを思い出して詠ったものです。花寝床というのは、よい寝床だというほどの意味だと思ってください。

白い猫がわたしに訴えるのだ。よい寝床をくださいと。

知っていると思いますが、かのじょはある白い猫をとても愛していました。できるなら家に入れてかわいがりたいと思っていたが、夫にだめだと言われてできなかった。愛してやりたいのに愛せないのがとてもつらかった。白い猫はたびたび家に入って来て、暖かい寝床で寝かせてくれとせがむ。それを無理に外に追い出さねばならない。

わたしはこういうことが平気でできる男がたまらない。妻がどんなに苦労して夫を助けているかわかりもせずに、威張り散らして妻の心を苦しめ続けるのです。

猫の一匹を飼うことさえ許してやれないのだ。匂いなどがまんできるものなのに。がまんしているうちに、自分も変わっていけるものなのに。

人間は少しのことが我慢できないから、次の段階に行けないのですよ。

痛いことがあっても、もう少し耐えてやっていこう、という気持ちになれる人が、無駄とも思える努力を繰り返していくうちに、世の中は変わってくるのです。そして世の中が変わった時、何も努力しなかった人間の方が焦るのです。

わたしたちは、逆風を満身に浴びながらも努力してきた。そして今、その努力が永遠の姿を持って現れてきている。人間が変わり始めている。世界はもうすでに変っている。

かのじょが生きていたころから、無駄とも思える努力を積み重ねてきたからです。






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歯は抜けて

2017-07-21 04:19:01 | その他





歯は抜けて 痛き憎悪の 小ささよ     夢詩香






*これは2月の下旬に書いています。ほんのさっき、歯が抜けたので、こう詠んでみました。前々からぐらついていて、時々神経に触って痛い思いをさせられた歯なのですが、抜けてみると、実にそれが小さかったので、すこし驚いたのです。

口の中にあるときは、それは常に嫌な痛みをもたらして、いらだちの元だったので、半ば自分のものとはいえかなり憎らしく思っていたのだが、くらりときてすっと抜けてみると、なんと小さい。まるでビーズのようだ。

女性の骨格は小さいですし、特にかのじょはあまり顎が発達していませんから、よけいにかわいらしい。黄味をおびた真珠色をしている。欠けたところに銀色の金属が充填してあるのが、なお愛らしい。

かのじょの口の中にあって、小さくもいじらしい仕事をしてきたのだ。それがぐらついてきて、悲しい歯痛の原因ともなってみると、痛く憎悪を起こす種になって、想像の中ではオバケのように大きなものになっていたが。

手にとってみると、実に軽い。まるで木の葉のようだ。

こんなものを憎んでいたのかと思う。

憎悪というのは、たいていそういうものでしょう。自分の苦しみの元になる存在という者は、いつも異様に大きく感じるものだ。倒してしまわねば自分の安楽はない相手というのは、常に自分の恐怖によって大きく膨らんでくる。様々な想像を重ねて、馬鹿に汚く嫌なものになってくる。

口の中にあって見えない時は、この歯がこんなに小さく愛おしいものだとは思わなかった。

あなたがたにとってのあの人も、そうだったでしょう。あの人が生きていて激しく憎んでいた間は、あの人がとてつもなく大きなものに思えた。すごいものだと思っていた。だが死んでしまい、その正体がわかってみると、それはあまりにもかわいらしかった。

真実の姿というものは、なくしてしまって初めてわかるのだ。いつでも人間というものは、その最中には、自分のいる世界の実像がわからない。

抜けてしまった歯はもう痛まない。だが、その歯のなくなってしまった後の口の中というのは、痛く寂しい。

この肉体はもう彼のものだが、抜けてしまった歯には、かのじょの霊の匂いが深くしみついています。かのじょの歯だと言っていい。

恋しさをぬぐえない人は、形見とするといいでしょう。







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念仏は

2017-07-05 04:21:29 | その他





念仏は 嘘と言へずに 坊主去る     夢詩香






*久しぶりに17文字です。やはりここまで言葉が少ないと、きついものがありますね。31文字ならもう少し柔らかくいうこともできるだろうが、17文字では無情に切られてしまう。

仏教の嘘については、前々から言っていることですが、釈尊は人間を愛してはならないなどと言ったことはありません。この世界の者はすべてむなしいなどと言ったこともありません。

諸行無常という言葉は有名だが、それは実際は、悪いことをしている者の栄華は長く持たないという意味にとった方がよろしい。因果応報は世の常です。悪いことをして、栄華を得て、傲慢に落ちて、人をいじめてばかりしていると、すぐに法則上の反動が来てしまう。そしてあれほど盤石に見えた世界が、もろく崩れていく。

人間はそういうことばかり繰り返しているのだが、それが自分のせいだとはなかなか気付かない。世の中自体がそういうものだと思い込んでいる節がある。しかしそうではない。人間が確かな愛を土台にして、よいことをしていけば、栄華というのはそれほど派手ではないが、それなりに自分に似合った幸福の姿をとって、生涯より添ってくれる妻のように、常にそばにいてくれるものなのです。

そういうことに気付くまで、人間は諸行無常の風の中をさまよい続けるわけです。

仏教というものは、釈尊に関する根本的な誤解から生じています。そういう話はかのじょが月の世の物語の「聖」という話で書いてくれましたね。読んだ人はきついほど驚いたでしょう。あれだけで、仏教がすべてひっくり返ってしまうような話です。実際、もうほとんど仏教はひっくり返っています。形だけはあるが、思想は霧のように消えているのです。信じても何もありません。お経をあげたり、観音様にお参りしても、何も功徳はありません。

もちろん、南無阿弥陀仏を唱えても、それだけで救われたりなどはありません。

他力本願というのは、間違いです。もちろん他力は絶対に必要ですが、それを本願として自分は何もしないというか、自分のすることに価値を全くおかないというのは愚かなことです。自分を信じないということだからだ。

釈尊という人は、自己存在の真実の姿を、彼なりの美しい言葉で語っていたのです。だがその真意を理解できる人が全く周囲にいなかった。ただ釈尊の姿の立派なことと、行いの美しいことに目を見張って、単純にああいう人になりたいとみなが願って、それぞれの自分を捨ててしまったというのが、仏教の過ちの始まりです。

まあ、わかりますね。人間が自分より釈尊がいいと単純に思って、あの人になりたいと願ったものだから、すべて自分を否定してしまった。だから、ああいう宗教になってしまったのです。

仏教はこれから、だんだん小さくなっていくでしょう。正しい自己存在の真実の教えを語るには、仏教ではあまりに材が少なすぎる。むしろ、論語のほうがよい。孔子の言葉の方が基本的に、人間が自分を実行していくうえで大きく参考になります。

仏教を追いかけていれば、自分が何をしても所詮は無駄だと言う感じにどうしても流れていく。それが宗教的権威と結びつけば、あまりに馬鹿らしい存在ができる。

坊主は潔く非を認めて、静かに消えていくがよろしい。

釈尊は仏教の過ちを痛いと思っていますから、いずれまた、あなたがたに正しいことを教えにきてくれるでしょう。その時こそは、彼の真意を理解してほしいものです。







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爪を切り

2017-06-26 04:20:44 | その他





爪を切り 己ではなき ものと見る     夢詩香






*今日は俳句です。何ということもない句ですが、けっこうおもしろいでしょう。季語など気にせずにやれば、こういうのも詠める。季節感は大事だが、人間の情感を呼び覚ますのは季節だけではありませんから、季語には規制を弱めてもらった方がいいように思いますね。歳時記はけっこうおもしろいのだが、あまり縛られたくはない。

爪を切って、その爪を見た時になど、こういう感慨を持ちませんか。さっきまで自分の一部だったものが、もう全然自分ではないものになっている。そういうことに、少し不思議なことを感じることはないですか。

それで切った爪など、しばらく見つめてしまう人も結構いるでしょう。爪というのは指先にある時は、結構美しいし、指先を守ってくれたりもするのだが。切ってしまうとただのゴミになる。切った爪にも愛おしさを感じるが、持っていてもせんないのですぐにゴミ箱に捨ててしまう。

人間がこだわっている馬鹿な自分というものも、実はこの、伸びた爪のようなものですよ。本当は、実に下らないのだ。切ってしまえば邪魔にならなくて楽なのに、いつまでも惜しんで伸ばしておくから邪魔になって、生きることの差しさわりになる。とうに乗り越えていなければならない段階を乗り越えられずに、子供じみた失敗をやって、人生をだいなしにしてしまうのも、実はこういう、切ったほうがいい爪のようなものを、大事にしているからなのです。

金持ちになりたいだとか、芸能人みたいな美人を嫁さんに欲しいだとか、ばかばかしい名誉が欲しいだとか、そういうものです。そういう幻惑的な価値観は、本当は、ルネサンスの時代に捨てていなければならないのですよ。あの時代は、人間が人間の心をつかんだという時代ですから。あの時に、人間の本義に目覚めて、馬鹿みたいな価値観を捨てた人間は多かったのです。

魂の本当の幸福は、そういうものではないということに気付くことができた。そういう人間は、伸びた爪のように、表面的な幻惑される幼い段階の自分というものを、切り捨てたのです。

そういう馬鹿な自分を切り捨てることができた人というのは、不思議な目で過去の自分を見ている。過去の自分は、あんな馬鹿みたいなものをいいものだと信じて、馬鹿みたいなことばかりやっていたが、もうあの自分が自分だとは思えない。まったく別の存在のように思える。

人間は進化していくたびに、こんな経験をしていくのです。古びた自分が、脱ぎ捨てた殻のように思える。それは確かに自分だったのだが、もう自分ではないのだ。

浅はかなことを、浅はかだとわかっていながらもやるのは、何もない自分を実行することに等しい。もうそんなことは馬鹿なことだとわかっていながら、まだ過去の自分の世界にこだわってやっている人は多いのだが、もうとっくに、本当の自分はそこを卒業しているのです。だから、馬鹿をやっている人間は、切った爪のために生きているようなものだ。

何もなりはしない。

本当の自分は、切った爪ではない。その爪をかつて持っていた本体なのだ。

そういうことに気付くことができれば、人間は進歩していくことができるでしょう。







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おほひるめ

2017-06-09 04:21:12 | その他





戸にこもり 明日は出でむと おほひるめ    夢詩香






*「おほひるめ」は天照大神のことです。「あまてらす」でもよかったのですが、こちらのほうが俳句として詠みやすいと思ったので、「おほひるめ」にしました。

太陽神が女性である神話は、かなり珍しいもののようですね。ギリシャ神話ではアポロンもヘリオスも男性です。メソポタミアの太陽神はシャマシュと言ってこれも男性です。インドの神話ではスーリヤと言ってこれもまた男性です。エジプトの太陽神ラーは性別をことさらに語っていないようだが、男性としか考えられません。太陽というものはどうしても、男性のイメージがある。強い光を発し、世界中のあらゆる真実を照らし出す。あらゆる秩序を支配する。自己存在の意思の表明を力強く表す。

男性というものはいつも、自分というものを強く押し出すものですから、どうしても太陽の方に近いと感じる。

だがなぜか、日本神話では、太陽神が女性であり、月神は男性なのです。それはおそらく、縄文時代の社会体制に基を発しているでしょう。あの頃には結婚制度などありませんでしたから、家族というものは母親を中心に営まれていました。男は結婚などせず、生涯母親の家で暮らし、時々よその女のところに行っては、子供をこしらえるというような、遊分子的な存在でした。

父親という概念はありましたが、そういう存在は、自分のためにほとんど何もしてくれなかった。愛してくれて、何かと世話をしてくれるのは、母親だったのです。そういう存在のイメージが、太陽神に進化したのが、日本神話におけるアマテラスというものでしょう。

元始女性は太陽であったと、平塚らいてうは言ったが、それは誤りではありません。女性というものが、昔は、みなを何とかしていたのです。男はただセックスをするだけで、ほとんど何もしてなかったという時代では、女性が主だって、社会を運営していたのです。愛というものがなければ、皆のためにやるなどという気持ちも生まれてきません。母親が子のためにやるという基本の基本の愛でしか、社会を営めなかったという時代も、確かにあったのです。

男が、愛に目覚め、社会の秩序を背負うようになったのは、その後の時代です。アポロンもスーリヤも、ある意味ではアマテラスの子供なのです。

表題の句は、岩戸にこもったアマテラスが、明日には出ようと思っているという意味です。なぜアマテラスがこもったのか。それは、男が自分を馬鹿にしたからです。男というものが、自分を主張しだして、アマテラスの太陽神としての資格を奪おうとしたのです。力ではかなうわけはありませんから、アマテラスは岩戸に逃げてこもったのです。そして何にもしてやらなかった。そうなればみんなが困るだろう。困って反省した時を見計らって出てやろう、とアマテラスは考えていたのです。そうすればまた、皆の世話をすることができる。

まあ神話では、アマテラスが隠れたことに困った神々が、いろいろと策を弄して引きずり出したことになっていますが、そういうことはたぶん、古い時代にたくさんあったでしょう。母親を馬鹿にしたばかりに、母親に逃げられて、あわててみんなが迎えにいくなどという人間模様は、たくさんあったでしょう。今でもそんなことはよくありますね。

アマテラスを馬鹿にしたスサノヲは、高天原を追われるが、実際の世界では、スサノヲは暴虐を果たしました。アマテラスを追い落とし、自分が太陽神になったのです。そして時代は弥生に移行する。男が暴虐をやりすぎないようにするために、段階の高い秩序を神がこの世界にもたらしたのです。男性の太陽神はつまり、農耕の始まりとともに現れたのです。

女性は光を弱め、月のようになり、男性の下になって働き始めた。男を主とした家庭が営まれ、社会は新たな太陽神の元に進化していったのです。

だがそれは、馬鹿な男の暴虐にも大きな活動を許すことにもなった。秩序を実行しようとする進化した男が何とか抑えようとしてきたが、それを破壊してでも原始の性欲を実行しようとする馬鹿男の前に、たびたび倒された。その馬鹿男の暴虐が、女性を虐げて苦しめ続ける。恐ろしい馬鹿をやり続け、とうとう馬鹿男は、月の岩戸に女神を追いやるのです。

天の岩戸なら出て来られるが、月の岩戸ならもう出てこない。阿呆は知らない。女性というものはまだやわらかいということを。月が、太陽よりは火が弱く、大事にしなければ消えてしまうものだということを。




世に逆へ 鵺の嘘音を 語れども 月の岩戸の 鍵は開かじ     夢詩香




「逆ふ」は「さかふ」、さからうという意味です。元歌は清少納言の歌ですね。知っていると思うのでここでは紹介しません。

アマテラスはまだ、馬鹿にされても明日には出てあげようと思っていたが。月の岩戸にこもったなよ竹の姫は、もう帰っては来ないのです。

馬鹿男の暴虐が、消してしまったからです。







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柴犬の

2017-05-31 04:19:43 | その他





柴犬の やはらかき背の 赤さかな     夢詩香






*俳句というものの、短歌との違いは、短い情愛の感覚を詠むとき、胸に切り込んで来られるかのような情感を感じることですね。愛犬の背中を撫でているときというのは、そのやわらかさが気持ちよく、幸福な気持ちになるものだが、そういう何気ない幸せというものを表現するとき、短歌では冗漫になるような気がします。

かのじょは一匹の小さな雌の柴犬を飼っていました。とても美しい犬で、毛色は明るい茶色で、小鹿のようにはねている姿がかわいかった。澄んだ目が一心に自分を見てくれる。散歩をするときは尻尾を振ってついてきてくれる。風の中を一緒に歩いている時は、自分を導いてくれるかのように、先に歩いてくれていた。目指す先はもうわかっている。いつもの道を、犬は知っている。

それが夕時から朝方かというのは、その時々の事情によって習慣が変わったが、かのじょはあの犬と散歩をしている時がとても幸福だった。自分の情感に素直に従って生きることができる。自分を本当に愛してくれているものと、歩くことができる。

周りにいる人間は、口ではあたりのいいことを言っていても、目はいつも違うことを言っていた。人間が自分に対してどういう思いを持っているかを、かのじょは知っていたが、はっきりとわかるのが嫌で、いつも目をそらしていた。そういう自分を他人が見る目が、またちくちくと痛く、かのじょはこの世界で生きているだけで、どんどん傷ついていった。

そういう人生の中で、愛する犬と一緒に散歩するときだけが、心の縄を解いて自然に自分になれるひと時だったのです。

その愛していた犬が死んだとき、かのじょの人生はほとんど終わったのだと言っていい。もう誰も、本当に自分を愛してくれる人間は、この世界にはいないのだ。たとえ誰かが自分を愛してくれることがあるとしても、それはたぶん、未来のことだろう。自分が死んだ後のことだろう。そういうものだ。

この世界に新しい愛を持ってくるものは、たいてい、生きている間はほとんどだれにも愛してもらえない。それまでの世界を覆さねばならないという使命を果たそうとすれば、あらゆる人を苦しめてしまう。それでもやらねばならないのがわたしたちというものだ。人間の愛など、最初から期待してはいない。

本当の幸福をこの世界に持ってくるためには、それまでの幸福を壊さねばならない。そのとき浴びる反動を覚悟して、やれるものではないと、天使の仕事はできません。

だが、そういう使命を持った者にも、愛は必要だ。人間は愛してくれなくても、犬や楠は愛してくれる。その愛を頼りながら、神の愛の真をひたすら信じて、あらゆることをなしていく。阿呆にならねばできないとは言うが、その阿呆になるとは、愚昧の闇に自分を溶かしていくということではない。現実世界での計算など放り投げてしまうということだ。

やっても何もなりはしないのに、愛のために働くだけで幸福だと言って、すべてをやり、何もいらないと言って死んでいくことができる。それが幸せなのです。

馬鹿にはわかりはすまい。

わたしは、重い使命を背負って生きねばならなかったあの人の、あの寂しい人生に、ひと時でも寄り添ってくれたあの小さな犬を、ことのほかほめたいと思う。あの柔らかくも美しい毛の色は、まるで人生の明りのようだった。

とても暖かい。








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小夜時雨

2017-05-18 04:20:51 | その他





赤子抱き ひとり聞き入る 小夜時雨     夢詩香






*相変わらず季節を無視しています。「時雨(しぐれ)」は晩秋から初冬にかけて断続的に降る雨のことです。「小夜時雨(さよしぐれ)」はもちろん、夜に振る時雨のこと。一応冬の季語らしいですよ。

雨の多いこの国には、いろんな雨の名前がありますね。陰暦5月ごろに降る雨のことは「五月雨(さみだれ)」という。春に降るのは「春雨」、秋に降るのは「秋雨」、「氷雨(ひさめ」は雹や霰のことです。「霙(みぞれ)」は雪交じりの雨のこと。「霧雨(きりさめ)」、「小糠雨(こぬかあめ)」、春先に雨が続くと「菜種梅雨(なたねづゆ)」。「夕立ち」、「にわか雨」、「狐の嫁入り」、「雷雨」、「驟雨」、「涙雨」。意味はそれぞれに調べてください。

かのじょの最初の子は、10月の半ばに生まれました。秋ですね。最初の赤子育てはとても大変でした。それは、人生で初めての子供ですから、まだ右も左もわからない。育児書を見ながらなんとかやっていましたが、実際の子供は、全然育児書に書いてあるようなことはしてくれませんでした。

小さなアパートの一室で、ほとんど母親一人だけの子育てです。父親は仕事ばかりであまり協力してくれないし、子供は夜泣きして、ほとんど眠れない日が何日も続きました。心細いなどというものではない。かのじょには実母はいませんでしたから、助けてくれる人などほとんどいない。

そんな日の一こまを描いてみたのが、冒頭の句です。むずかる赤子を抱きながら、外に降っている時雨の音を聞いている。自分の子は自分で育てねばならない。誰にも助けてもらえないのだが、誰かに助けてもらいたいという心が、耳の感覚を外に向かわせている。

けれど誰もいるはずもありませんから、結局心は自分に帰って来る。思い通りにならない赤子育てに、さすがのかのじょもこの頃はつらい思いをしました。

でも子供を愛していましたから、一生懸命に育てていた。おむつを替え、お風呂に入れ、乳を飲ませ、添い寝して眠らせた。ほかのことはほとんどできません。家が散らかっていてもなかなか掃除もできません。食器洗いや洗濯さえままならない。赤子育てというのは、それまでの自分がいつの間にかまとっていた常識というものを、ものの見事に壊してくれます。どんどん自分を壊して、赤子に合わせていかねば、赤子など育てることはできません。

母親というものは、こういう経験を通して、自分を人に合わせるということを身につけていくものでしょう。

子供を産むと乳が出る女の体というものも不思議だ。それに子供が夢中で吸い付いてくるのも不思議だ。自分でこうしたわけでもないのに、自然に決まっている。そしてうまくいく。自分の乳を吸って、大きくなっていく赤子を見ながら、あの人はたびたび感動していました。

何もかも神がやってくださっているのだ。それでなければ、こんなすごいことができるわけがない。

そうやって育てた子も大きくなって、大人になり、いろいろな思いを味わっている。仕事はしていたが、すぐにやめた。今は親に背いて、ほとんど部屋に閉じこもっている。背丈の大きな男になってくれたが、横顔がかのじょに似ている。

わたしたちが共有しているこの存在の中には、あの子への愛がたっぷり残っている。どうにかしてあげなければと、わたしも思うのです。







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