ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

あこやのかひ

2017-11-30 04:18:53 | 短歌





玉まもる あこやのかひの いさをしを 眠れる月の いはとにたとふ





*今かのじょは眠っています。一切の霊魂の活動を最低限に落とし、何もわからずに眠っている。疲れ果てているのです。

この存在の脳の中で活動している意識は、かのじょが生きていたときから連続していますが、かのじょ自身の霊的活動は、かのじょが倒れた時からとぎれているのです。ですからこの存在は、社会的身分や肉体を共有しながらも、全くの別人と言ってかまいません。見ている人にはわかるでしょう。霊魂が違うだけで、まるで違う人に見える。

かつてのあの人はどこに行ったのか。事実上、この世界から消えてしまっているのです。

この地上の存在というのは、肉体と霊魂がワンセットで考えられるものですから。どちらかがもうできなくなれば、もうその人はその人ではない。

月の岩戸というのは、わたしたちが、眠っているかのじょを守っている、この肉体の主宮のことだと言っていいでしょう。たしかに霊魂はそこにいるが。何もできない。何もしない。生きようにも生きることはできない。これはもうここにいないとほぼ同じことなのだ。

この肉体の主体は、ほかの天使がやっているのです。

こんなことになるとは本人もわたしたちも思っていなかった。自分を間違えているあなたがたの迷いと苦しみが、予想以上に深かったのです。まさかここまで追い詰められるとは。だが、まだできることはある。わたしたちは最後までやりぬきます。

かのじょのことを、今更ながらも惜しいと思っている人はいるでしょう。それは美しい人ですから。あのままともにいてくれたら、もっといい関係が築けたかもしれない。だがもう考えてもせんないことだ。

真珠を守っているアコヤガイの勲しを、眠っている月のいる岩戸にたとえよう。大切なものを守るのはとても大事なことだ。

いずれこの貝から、かのじょが出て行く時は来る。わたしたちはそのとき、この真珠をみなに見せないように静かに故郷につれていきます。

もう人間は、だれもかのじょを見てはならないのです。






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垂り緒

2017-11-29 04:18:29 | 短歌





月影の 垂り緒となりて わがもとに くればとりつつ のぼりてしがな





*「~てしがな(てしかな)」は、願望の終助詞「てしか」に、感動の終助詞「な」をつkたもので、「~したいものだなあ」と訳されます。こうやって実用例を出すと、応用がしやすいでしょう。動詞の連用形意をつけるだけで、おもしろく活用できます。

月影が、月から下がって来る糸になってわたしのもとにくれば、それを手にとってのぼりたいものだなあ。

まあこういうところですか。月を見て、それがあまりにきれいだから、行けるものなら行ってみたい。近寄れるものなら近寄ってみたい。だがそれはできなしない。そういう気持ちを詠んでみたものです。

実際、人間の男性は美しい女性をよく馬鹿にしますが、それは内心その美しさにたちうちできないものを感じているからだ。美しさというものは実に大きなエネルギーなのです。そこにあるだけで愛そのものの存在を表わしている。自らそれが光っているかのように打たれて、おいそれと近寄ってはいけない。

そんな自分のふがいなさが嫌で、男は女を馬鹿にしてしまうものなのだが。内心深いところでは、すぐそばにいって声をかけたいと思っている。美しい逢瀬を編みたいと考えている。だができない。月のように、すぐそばにあるかに見えて、あまりにそれは遠いのだ。

物理的距離ではない。心があまりに遠いのだ。心がはるかに遠い時、それはすぐそばにいても、万里離れたとつ国よりも遠いのです。だれも近寄ってはいけない。その心が何を思っているかはわからなくとも。その心がおもてに出てくる時の美しさには、永遠に馬鹿な男を阻んでしまう何かがあるのです。

月の光が、糸となって垂れてくることなどありはしない。それは糸のようにつかめるものではない。誰かの重く切ない心を清めてやろうとする深い愛なのだ。そんなものがつかめるわけがないのです。

愛ですべてを救おうとしていた。ただそれだけのために、あらゆる障害に耐えながら生きていた。あの人があれだけ美しかったのは、この世で受けた満身創痍の傷に耐えていたからだ。

そんなことがわかるようになって初めて、馬鹿な男は馬鹿を卒業することができるでしょう。






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たてがみ

2017-11-28 04:20:06 | 短歌





たてがみの なびくおのれの 男ぶり とくとみせむぞ 馬鹿男ども





*これはツイッターで、鬣、という名前を使っている人の歌です。わかっているでしょうが、瑠璃の籠ではアルギエバに当たります。いかにもぴったりの名前ですね。アルギエバはしし座の星ですが、図で見ると、確かに獅子のたてがみのあたりに光っています。

鬣、なんて漢字があるのも知らなかったでしょう。書ける人もまれなのではないかな。まあ、書く必要がある場面は滅多にないでしょうが。珍しい字があったので、本人は採用したようです。

アルギエバは、この歌どおりの人ですよ。実に熱い、激しい。いやなやつらを激しく憎み、真っ向から攻撃してくる。こわいですよ。勇気のない馬鹿男は、この人の名前を聞くだけで玉が縮みあがるのです。

アンタレスも憎いくらいすごいですがね、この人もすばらしくすごいのです。

人類の男性は、まだその男性性がここまで開いてはいません。はっきり言って、強く女性に依存している。女性が自分を低くしてくれなければ、まともな男がやれない男が多いのです。ですから人間は、男はこういうものなのだということにして、弱いこともずるいことも卑怯なことも、肯定しようとする。

しかしそれはとんでもないことだ。男はずるかったり悪かったりしてはいけません。常に正義でなくてはならない。秩序を守る戦士でなくてはならない。

勇気のない男は男ではないのです。

わたしたちは、全てが男です。女性同様だというかのじょも、実にきつい男です。ひとりで万の敵の中に突っ込んでいく勇気はある。実際そういうことをしましたしね。どうすればそういうことができると思いますか? 弱い女性の身だ。普通はおびえる。嫌な男が大勢で固まって自分をせめてくるのです。

そんな中に、あの人はただ一人で自分を投げていった。あふれる愛で人類を救うためにです。こんなことができる天使はかのじょだけではありません。わたしも、同じ場面に遭遇したなら、同じことをするでしょう。

男なら、それができて当たり前なのです。できなければおかしいのです。

やる時はこうだ。神を信じて、自分をまるごと投げるのです。神の流れというものがあることを、天使は知っている。それを感じ、それを見て、自分の感性が正しいと感じる方向に、自分の行動をまるごと投げていくのです。最も自分らしいことをしていく。

そうすることによって、高い運命をつかむことができるのです。その結果が自分の予想に反していてもかまわない。いや、反するからこそいい。

すべては神のおやりなさっていることだからです。

男はこれができねばなりません。自分の命や体を惜しんではならない。すべてを神にささげるつもりで、突っ込んでいくのです。

そんなことをするのは馬鹿だという男は、永遠に何をすることもできません。いつまでも、甘えられる女を探して、猿のように暗闇をさまよっているがいい。

できもしないことだなんて思い込んでいるからこそ、いつまでも何もできないのです。






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みちとせ

2017-11-27 04:19:20 | 短歌





凡庸の 闇におのれは ぬれそぼち 何もせずして みちとせを食ふ





*説明せずともわかるでしょうが、「みちとせ」は「三千年」のことですね。古い数の言い方は文字数が少ないので覚えておきましょう。「八百万(やほよろづ)」「五百(いほ)」「二十(はた)」「三十(みそ)」「四十(よそ)」。

数がたくさんあるということを表現するときに、いろいろ使えます。

凡庸の闇に自分はすっかりぬれそぼち、何も勉強しないで三千年を無駄に過ごした。

この三千年はただ、ものすごく長い年月ということを表わします。人間はたいてい長く生きても百年足らずの年月しか生きられませんから、三千年というのは気の遠くなりそうな年月だ。もう永遠と言ってもいいくらいでしょう。

まあ要するに、弱くて何もわからない人間という段階に自分を甘えさせて、何にも努力せずに、三千年もの月日を何にもやって来なかった。全部人に甘えて、人にやってもらってきたのです。難しいことをしようなどとは思わなかった。勉強をするなどかっこ悪いことにして、辛い思いをするのを嫌がる自分の甘えを許してきた。そしてやることと言えば、影から、努力している人の悪口をいうことくらいだ。

そういう人があまりにたくさんいたので、人間はずっと苦しんできたのです。

凡庸ということ自体が罪なのではない。いつまでも凡庸でいようとすることが罪なのです。人間は生きていく限り進歩していかねばなりません。時におのれのきつい限界を破る痛みを味わいながら、高いところに登っていかねばならない。そうしなければ、無明の闇におのれを噛まれ、何もしない自分がつらいという、自分の業病に取りつかれ、人の邪魔ばかりする悪魔に落ちてしまう。

悪魔とは、凡庸の闇に濡れそぼって、何もせずに人の邪魔ばかりしている、馬鹿な人間のことを言うのです。

みなまで言わずともわかりますね。だが、繰り返しやるのが勉強というものなのです。凡庸の闇に片足でも突っ込んでいる間は、何度も何度も言われなければ、すぐに忘れてしまうからです。

それはもう、三千度(みちだび)も言わねば、馬鹿にはわからないのです。






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人の暗闇

2017-11-26 04:20:42 | 短歌





空蝉の 世は蟷螂の おのれをぞ 倦みてあばるる 人の暗闇





*「空蝉の」は「世」につなぐ枕詞ですね。「世」を呼ぶ枕詞はほかにもありますが、これを使うとむなしさが強くなります。枕詞にも重要な意味がありますから、そこはいろいろ知っておきながら、塚こなしましょう。

「蟷螂の」は序詞的に、「斧」から「おのれ」を呼んでいます。こういうことを最初にしたのはかのじょでしたね。スランプの時期に、あがきながら詠んだ歌にこういうのがありました。

蟷螂のおのがみちゆくちさきわれだいなるわれとかはりゆくとき

いろいろあって疲れすぎている時でした。頭の中を馬鹿が暴れまわっていたのです。だからどうしても自分の歌が詠めないという時期でした。そういう時に、こういう発想が湧く。自分というものを考える時、かまきりという虫が鮮烈に頭の中に浮かんできたのです。

かまきりというのは、昆虫の霊魂の中ではわずかに進化している存在です。まだ何もわからない混沌の中にある昆虫の魂が、切り裂かれるようにかすかに輪郭を帯びてきた。それがかまきりというものだ。だからかまきりは、まるで全身が何かの輪郭の一部であるかのようなすがたをしている。

その印象が、「おのれ」という言葉を呼んできたものでしょう。

これを発展させて、「蟷螂の」を「おのれ」を呼ぶ枕詞にしてみたいんですがね、まだそこまでは発展しないようだ。「にきしねの」はなんとなくすんなり言ったのだが。

これからいろいろ作例を作っていくうちに、そうなって行ってほしいものだと思います。枕詞は美しい。歌が詠みやすい。自分というものを詠みたいときは、ぜひに「蟷螂の」を使ってください。

それはそれとして、表題の歌はこういう意味ですね。

空蝉のように空しい世とは、自分というものに倦んだ人の暗闇なのだ。

「蟷螂の」は特に訳しませんでした。必要ないと思ったのです。言わずもがなでしょうが、この苦しい世界の正体は、自分というものがつらい人間が、人を馬鹿にしてばかりいた世界だということです。自分がつらいから、人が自分ではないというだけで妬ましくて、人の邪魔ばかりしてきた。そういう人がたくさんいたということが、この世界の不幸の原因なのです。

本当に、不幸の原因はこれだけです。人間はいつもこれだけで苦しんできた。

そしてようやく、その苦しみの世界を抜けられる時が来たのです。

自分というものの真実を知り、本当の自分の輪郭をつかんだからです。






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ほんとの強さ

2017-11-25 04:19:01 | 短歌





頭を下げて 負けを認める ことができ 弱さを知るが ほんとの強さ





*読んですぐわかるとおり、これは大火の作です。彼の個性はわれわれの中でも出色だ。現代語を駆使して言いたいことを小気味よく言ってくれる。誰にでも詠えそうで詠えない。極端なことでも何でも軽々と詠んでしまうが、一ミリもぶれないのが憎い。

こういう彼に魅了されている人は多いでしょう。柘榴が彼の顔の絵などを描いてくれましたが、本当にアンタレスはあんな顔をしてるんですよ。実に美しいが、きついんです。ド派手と言われるのは、本人は痛いようだが、事実、かなり派手です。まあ、歌を読めば納得するでしょう。いかにもああいうことを言いそうな顔だ。

このように、自分の顔というのは本来、まっすぐその人の性格を表わすものなのです。

それはそれとして、表題の歌にいきましょうか。

「頭」はもちろん「ず」と読みましょうね。こういう一文字の言葉というのは大事だ。抑えておきましょう。「器」と書いて「き」と読んだり、「籠」と書いて「こ」と読んだりする。こういうのはちゃんと知っておかねばなりませんよ。

瑠璃杯の器を荷にこめてせおひつつ月砂の丘をゆく夢を見し    夢詩香

この場合の「器」は「き」と読むのです。

頭を下げて、自分の負けを認めることができて、自分の弱さも知っている。それが本当の強さというものだ。

明快です。実にそのとおり。自分の弱さを知っている者は、自分の限界をわかっていますから、無理なところでごり押ししたりしない。本当の自分を使い、有効な勝負をすることができる。だが、負けを認めることすらできない人は、無理な勝負ばかりをして、負けるのが嫌なばかりに、馬鹿なことばかりをして、どんどん変なことになっていく。

負けるということは、実に大変なことですよ。人に馬鹿にされるのを耐えねばいけません。長い間辛抱していかねばならない。強い精神力が必要です。要するに負けを認めるのが嫌な人間というのは、そういう苦しさを味わうのが嫌なのです。そんなことに堪えられないほど弱いということなのだ。

負けたくない人の正体など、もうみんなにばれているのですがね、馬鹿はまだ勝ちにこだわる。勝てる勝負ばかりしていると、そのうちだれにも相手にされなくなるのだが。

北朝鮮の話など取り上げなくても、もう十分にわかっているでしょう。






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2017-11-24 04:19:08 | 短歌





なにもせず ちとせくらしし おのが身の 闇を悔いずて 月を恨みき





*人間は平凡に暮らせることを幸せと言い、時に何も努力しない自分の逃げ道に使いますが、それはいいことではありません。平々凡々と生き、自分に無理をさせないで、いいことはほとんど何もしない人間は、暇にあかして人を馬鹿にすることばかりやるからです。

小人閑居して不善をなすというのは真実だ。結局何もしないということは、人の努力に頼るということなのです。政治の腐敗を嘆きながら自分は何もせず、結局はお上に頼る愚民というのはこれだ。

全部ひとのせいにして生きている。

平凡な人の心の中には、何もしなかった時間にやってきた、あらゆる愚かなことの闇がある。人の悪口ばかり言ってきた。悪口を言うくらいのことは罪ではないと思ってもらってはこまる。人に同調して、気に入らないやつの悪口をいうだけで、その人の風評を作り、その人を苦しめてしまう。その人が世のためにいい仕事をしている場合は、その人の活動を邪魔することによって、世間に害を与えてしまうのです。口で簡単に言うくらいのことで、非常にいやなことになる。何もしていないだけで、悪いことが起こる。

故に何もしない人というのは、どんどんぼんくらな顔になっていく。醜いというより馬鹿みたいな顔になっていくのです。それがつらいものだから、努力して美しくなった人に嫉妬する。

そしてあらゆる邪魔をするのです。

何もしないということほど、じつは深い闇はないのです。簡単でずるいことばかりして、大勢の闇に解けて、あらゆるいやなことをするからです。

これを無明の闇という。全然なにもしない人の心の闇なのです。

こういうものが、人間をずっと苦しめてきたのです。

人は努力しなくてはいけません。時には自分に無理をさせて、自分の殻を破るようなことをせねばならない。それでなければ、自分の中にある力を、あまりに愚かな方向に流し、ついには世界を破滅に導いてしまうことにもなる。

何もしないことが、最も愚かな罪なのです。







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をさなの日

2017-11-23 04:20:26 | その他





煙突の 無きとうれひし をさなの日     夢詩香





*たまには俳句をやりましょう。ツイッターを始めてから、俳句を詠まなくなってしまったので、これもブログを始めた当初に詠んだ句の中からとりました。

なかなかほかのものは俳句を詠んでくれません。歌の方がやりやすいみたいですね。俳句をやるには、わたしたちは少々大きすぎるようだ。情感が普通の人間より大きいので、多くの言葉を必要とするようです。

表題の句は、かのじょの幼いころの記憶を詠んだものです。まだクリスマスには一か月ありますが、そろそろみな準備にかかるかと思うので、とりあげてみました。

クリスマス・イヴにサンタクロースが煙突から家に入って来て、子供たちにプレゼントをくれるという話は、かのじょはもう物心つくころにはすでに知っていました。ですが、そのころ住んでいた家には煙突がなかったので、それを親に訴えた時があったのです。このままではサンタがうちに来てくれないと。

そうすると母親がこういったのを覚えている。窓から入ってくるから大丈夫だよと。それでかのじょは一安心したのでした。そしてやはり期待通り、クリスマスの朝にはちゃんと枕もとにプレゼントがあった。

そのプレゼントをめぐって、兄弟でケンカしたりなどもしたんですがね、その様子を、親が意味ありげな視線で見ていたのに、かのじょは敏感に気付いていました。

サンタを疑い始める最初のきざしでしたね。賢い子供というのは誰より早くその突端をつかむのだ。確かにかのじょはすぐにサンタを信じなくなったが。

大人になるとまた信じるようになるのです。いえ、実感として、知るようになるのです。本当にそんな存在がいると。

人間を愛して、全ての子供にプレゼントを配ってくれているような存在がいると。

そういう心が、後にかのじょにおもしろい小説を書かせました。「ばらの“み”」という。読んだ方にはわかりますね。

あの物語の始まりは、この小さな頃のかのじょの記憶に発しているのです。まだ父母もいて、弟妹と一緒に住んでいた、幸福な子供時代の思い出。後にみんな失うことになるのだが。

すさんだ子供時代を味わったかのじょが、すべての子供にプレゼントを与えるというサンタの味方につく。一体その心はどこから来たのでしょうね。普通ならすねて、地獄のような精神を生きてもおかしくはない。

悲劇的な境遇から自分を救うものは愛しかないのだと。そういうことを考えることができるほどに、高い魂の持ち主だったからです。






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2017-11-22 04:19:49 | 短歌





夢とみて なきがうれしと 月影を かき落とさむと せしもののはて





*あんなものは夢だ、現実にありはしないと、月をかき落とそうとしたものの最後とは。

まあ訳せばこんなものですか。何度も詠ってきたテーマだが、次から次へと歌があふれ出る。短歌というのはすばらしいアイテムですよ。数限りなく地上に咲き乱れる花のように、次々と出てきます。

それだからというわけではないのですが、今仲間の内から歌集を出そうという案が出ています。お金などほとんどないのですがね。あまりにたくさん歌ができてしまったので、一旦ここで、形になるものを作りたいということなのです。

どうしましょうかね。同人誌として出そうかという案が出ています。それなら少ない部数でかかる費用も少なくて済む。わたしたちは人類の救済のために励んでやっていますが、非常に貧乏なのです。

出版社に売り込むというアイデアは誰からも起きませんでした。今は馬鹿ばかりが栄えていますから、わたしたちのようなのが出てきては困る人が多すぎる。だからわたしたちの本を出してくれるところなど、おそらく、ないでしょう。

金さえあれば本を出してくれるところもありますがね、それは経験上少し痛い思いもしたので、やめることとして。一応ここで言っておきますが、ああいうところにはあまり頼まないほうがよろしい。やってはみたものの、結局何にもありませんでしたから。

それらしいことはやっていますがね、ほとんど本は売れませんでした。まあ、色んな妨害があったからでもありますが。

今の段階では、ツイッターからいくつかの歌を抽出しています。五章にわけている。それで全体で、三百首くらいの歌を選んで編んでみたいと思っているのです。

絵もつけたいですね。添島の歌も売り込みたい。

わたしたちもがんばっていますから。少しはいい夢を見たいのです。

美しい本を作ってみたい。






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梓弓

2017-11-21 04:22:54 | 短歌





われのみを 賢きと見て 梓弓 張りてねらひし 春宵の月





*「梓弓」は「張る」などにかかる枕詞ですね。枕詞は便利です。おもしろいし、きれいな言葉がたくさんある。基本的なところは網羅しておきましょう。古語辞典をめくっていると、時々珍しい枕詞に出会うことがあります。そういうのは積極的に使っていきましょう。おもしろい歌がたくさんできます。

普通枕詞は特に訳しませんが、この場合はもちろん意味をとっています。

自分だけが賢いと思って、梓の弓を張っては、春宵の月をねらったことだ。

まあわかりますね。馬鹿というのは自分の知恵で分かる世界しか知らない。だから自分のことをとても賢いと思っているのです。自分が世界で一番賢いとさえ思っている。自分の世界の中だけで生きていたら、ほかの人間がみな馬鹿に見えるからです。

ここらへんがわかっていない人が多すぎますね。

なんで月を弓で狙うなんてことができるかというと、あれが果てしなく遠いものだということを知らないからです。目で見えるから、すぐ近くにあって容易に届くものと思い込んでいる。

何も知らないからそういうことができる。月を正確に狙って矢を打っても届きはしない。矢はどんなに遠くに飛ぼうとも、弧を描いて地面に落ちるか、または違うものに当たるでしょう。何度同じことを繰り返してもわからない。馬鹿は月に手が届くと思い込んでいるのです。

思い込みほど怖いものはない。

何度やっても届かないと思った馬鹿はそれならと作戦を組む。人をたくさん集めて罠をかける。いろんなことをする。だが何度やっても月は捕まらない。

ただ静かに空に照って、すべてを見ている。

自分の方が馬鹿だったと、ようやく気付いた時には、あまりにも恐ろしいことになっている。人間はよくこういうことを繰り返していますよ。

長き願いというのはよく考え直した方がよい。何度やってもダメなときは、自分が間違っているのではないかと疑った方がよい。

それができないというか、やろうとしないのが、馬鹿というものです。






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