わが背子の かげもひなたも 知りおきて 愛するほかは なきとこそいへ
*今週もいくつか詠めましたが、あまりいいのがありません。相変わらず妨害は続いていて、感性のアンテナが伸びない。言葉が重くて、思うように心が飛びません。その中で、表題の作はまだましなほうですか。
これは、女性ならわかる、夫への思いというところでしょう。
「背子(せこ)」は上代語で、妻から夫に親しみをこめて呼ぶ語です。「夫(つま)」でもよかったのですがね、こちらのほうが温かい感じがして採用しました。
わたしの夫の、いいところも悪いところも知って、そのうえで、愛するほかにすべはないのだと言います。
男というものは、女のいないところで、かなり痛いことをしているものだ。それが時に関係にひびをいれるほどつらいことがある。尻の軽い女なら、すぐにその男をやめて、離れていくだろう。だが中には、それを知っていても、愛するほかはないのだと、あきらめに似た心で決意する女もいる。
悪いところを責めたところで、男が変わるわけがない。かえって女のほうが悪いのだと責めてくるものだ。男というものは、自分が悪いのだとは絶対に考えない。悪くても、理屈をねじまげて、自分が正しいのだと言い張る。
そんな男と、正面から戦うのは、よほどエネルギーの高いものでないとできないことですね。普通の女にはできません。だから男というものがわかっている女性は、こんな男でも自分の夫なのだから、愛していくしかないのだと、あきらめるのです。
自分が我慢すれば、みなが平和な家庭の中で幸せに過ごせる。そういう我慢を通して、女というものは、自分の中に愛の社を建てていくものなのだ。陰で涙をこらえながら、愛で夫に尽くしていく。だれにもわかってもらえない気持ちは、神に向けて、なんとかささえてゆく。
女性ならわかるでしょう。男と一緒に生きていくことは、男の幼稚さに耐えなければいけないことでもあるのだと。
大人として自分がわかっている、成熟した男性などほとんどいませんよ。人間の男というものは、だれしも女を支配したいというエゴが抜け切れていないものなのです。その幼稚なエゴを知りながらも、愛していくことを決意するとき、女性はいい女というものになるのですよ。