百日紅 いひたきことは われにいへ 夢詩香
*ひさしぶりに俳句にしましょう。この原稿を書いているのは3月なので、もちろんサルスベリは咲いていませんが、これがブログに載る頃には咲いているでしょうね。よい写真が撮れていたら、写真もそれにできるでしょうが、サルスベリは難しい花だ。あまりいい顔をしてくれない。
かのじょもサルスベリは好きでした。何か暖かい心持がして、その花を見ると近寄って行った。縮れたフリルのような花がまるで不思議な花が燃えているかのようでとても美しい。見惚れるほどきれいなのに、なぜか写真にとるととても難しい顔をしている。
それはサルスベリの花が、かのじょの人生を見ていたからです。あの人がどんなに耐えていたかを、知っていたからなのです。
馬鹿にされても何も言わずに黙っていた。誤解されても誤解されても、自分の真を皆のために積んでいた。世間に言いたいことなどあるだろうに、決してそれを言わない。そのかのじょを、サルスベリはもどかしそうに見ていたのです。
なぜそんなにも苦しんでいるのに、誰にも何も言わないのかと。
きついこと、つらいこと、泣きたいこと、いくらでもあるだろうに、なぜ言わないのかと。
もちろん、あの人にも言いたいことなどたくさんあった。だが言っても仕方のないことは言わない人なのです。苦しいと思う前に、心が神に吸われていく。いいのだ。わたしは馬鹿のままで。ただ自分のやりたいことをやろうとすればこうなるしかないということを、やっていくだけなのだ。
そのかのじょの心と姿が、けなげなどという言葉が馬鹿だと思えるほど、サルスベリには悔しかったのだ。
だから、写真を撮るたびに、苦い顔をしていたのです。
花にもそれぞれ心がある。心はみな違う。かのじょのああいう素直な姿をそのまま愛してくれた花もあったが、サルスベリはとてもつらかったのです。
言いたいことがあるだろう。それをわたしに言ってくれ。誰にも言わないから。あなたのために、できることはやってあげるから。何をしてほしいのかくらい、素直に言ってくれ。
だがそんなことすらも、あの人は言わないのだ。まっすぐに進むことしか知らない。少し横道にそれて心を休めるということにすら、心がいかないのだ。
だが、サルスベリの暖かい心は感じていた。だからいつも、花を見るたびに寄って行った。いい顔をしてくれないのを少しつらいと思いながら。