ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

百日紅

2017-07-31 04:21:05 | 





百日紅 いひたきことは われにいへ     夢詩香






*ひさしぶりに俳句にしましょう。この原稿を書いているのは3月なので、もちろんサルスベリは咲いていませんが、これがブログに載る頃には咲いているでしょうね。よい写真が撮れていたら、写真もそれにできるでしょうが、サルスベリは難しい花だ。あまりいい顔をしてくれない。

かのじょもサルスベリは好きでした。何か暖かい心持がして、その花を見ると近寄って行った。縮れたフリルのような花がまるで不思議な花が燃えているかのようでとても美しい。見惚れるほどきれいなのに、なぜか写真にとるととても難しい顔をしている。

それはサルスベリの花が、かのじょの人生を見ていたからです。あの人がどんなに耐えていたかを、知っていたからなのです。

馬鹿にされても何も言わずに黙っていた。誤解されても誤解されても、自分の真を皆のために積んでいた。世間に言いたいことなどあるだろうに、決してそれを言わない。そのかのじょを、サルスベリはもどかしそうに見ていたのです。

なぜそんなにも苦しんでいるのに、誰にも何も言わないのかと。

きついこと、つらいこと、泣きたいこと、いくらでもあるだろうに、なぜ言わないのかと。

もちろん、あの人にも言いたいことなどたくさんあった。だが言っても仕方のないことは言わない人なのです。苦しいと思う前に、心が神に吸われていく。いいのだ。わたしは馬鹿のままで。ただ自分のやりたいことをやろうとすればこうなるしかないということを、やっていくだけなのだ。

そのかのじょの心と姿が、けなげなどという言葉が馬鹿だと思えるほど、サルスベリには悔しかったのだ。

だから、写真を撮るたびに、苦い顔をしていたのです。

花にもそれぞれ心がある。心はみな違う。かのじょのああいう素直な姿をそのまま愛してくれた花もあったが、サルスベリはとてもつらかったのです。

言いたいことがあるだろう。それをわたしに言ってくれ。誰にも言わないから。あなたのために、できることはやってあげるから。何をしてほしいのかくらい、素直に言ってくれ。

だがそんなことすらも、あの人は言わないのだ。まっすぐに進むことしか知らない。少し横道にそれて心を休めるということにすら、心がいかないのだ。

だが、サルスベリの暖かい心は感じていた。だからいつも、花を見るたびに寄って行った。いい顔をしてくれないのを少しつらいと思いながら。






夢と見し世

2017-07-30 04:19:10 | 短歌





月失せて 影なき日々に 慣れゐつつ 夢と見し世も ふたたびもがな






*これはおととい紹介した歌と同じ作者による歌です。うまいですね。さすがに修行した人だ。

月が失せその光を見ることもできなくなった日々に慣れつつも、あの夢のように見ていた世界が再びくることはないだろうかと思う。

本人がこう思っているわけではない。ただ、こういう気持ちを胸に抱いている人間がたくさんいるだろうということを詠っているのです。すらすらと詠んでいるが、なかなかにこなれている。ほとんど推敲した跡が見えません。修行した魂というのは、霊魂の奥にいい仕組みができているものですから、自然にこういうものができてくるようになるものなのです。

麗しい歌です。このような人の作品なら、いくらでも読んでみたい。おもしろい作品が有ったらまた寄せてくださるでしょう。

それはさておき、ここでは歌集などというものに触れてみましょう。最近は出版が流行というか、それほど高い表現力を持っては居ない人でも、お金さえあれば気軽に本が出せる時代です。それ専門の出版社もある。

まあ、すべてを否定するわけではありませんがね、中にはこんなものを出してもいいのかという本があるので、お金を儲けることを主目的として本を出しているのだと疑われてもせんないような現実がありますね。

歌集などもたくさん出ているが、はっきり言って個人の歌集などというものは、西行か貫之くらいの人でなければ出してはいけませんよ。素人同然の人の歌集など読んでみましたが、とても読めなかった。ガラクタ同然の言葉が羅列している。それだけならいいが、おもしろいと思って低級な感情を泥ミミズのように並べているものさえある。

こんなものばかり世の中に出していては、本当にいいものが伸びて来ません。

出版社も考えたほうがいい。

わたしたちによるこの短歌や俳句の活動では、個人の歌集を出版するなどということはあまりお勧めしないつもりです。それよりは、みんなでよい作品を集めて、多人数による歌集などつくるのがいいでしょう。装丁など気取りすぎるとつらい。品の良いかわいらしい本にして、みなで楽しめるくらいのかわいいものがいい。

それぞれの自分にあった形を勧めるつもりです。

そういう見地から言えば、表題の歌の作者などは、それなりの個人歌集など出してもそん色ないと思われますね。修行した人ですから、かなり高い歌が詠める。読みたいと思う人も、たくさんいるでしょう。






野苺

2017-07-29 04:20:14 | 短歌





昏き野に まことをもだす 血の赤み 野苺を知る 月影もがな






*人間の歌が続いたので、今日はわたしたちの歌をいきましょう。読めば、なんとなく違いがわかるかもしれません。人間と比べると、わたしたちはきつい。感覚を責めるところが痛い。

「もだす」は「黙す」で、もちろん黙ることです。こういう古語の単語は細やかに覚えておくとよろしい。すぐに生かせます。「赤み」の「み」は形容詞の語幹などについてその形容詞を体言にします。他にも用法がありますが、ここは「赤いところ」と訳しましょう。「もがな」はよく使われるから知っている人も多いでしょうが、体言や形容詞の連用形などについて願望の意を表します。「~があればなあ」などと訳されますね。

暗い野に、真を言わずに沈黙している、血のように赤いところある。その野苺を見つけることのできる、月の光があればいいのに。

麗しいですね。少し悔しさがにじみ出ている。野で花ばかり見つめていたあのひとの真の心を、みんなに教えてくれるいい人がいればよかったのにとの、意にとれます。

あの人は口下手というか、人が苦手な人でしたから、あまり人間に近寄って行かなかった。難しいことが人間世界にはいっぱいありましたから、そういうものの一切から逃げて、野に行った。そこで花とばかり話していた。人間は誰もあの人の心がわからなかった。

ただ美しい女性だというだけで、頭から馬鹿な女だと決めつけて、その色目で見た姿をあの人に投影し、勝手に馬鹿なことを考えていたのです。

それがあまりに痛々しかったので、詠み手にはあの人の存在そのものが、赤い血を吹き出す傷のようにさえ見えたのでしょう。それを赤い宝石のような一粒の野苺に擬しているのは、詠み手のかのじょへの愛でしょう。それほど大切なものだと思っているということです。

大切な人のことを、玉にたとえることは多いが、それから発展して、宝石のようなものにたとえることも多い。確かに、野をさまよっていて、ふと真っ赤な玉のような野苺に出会うと、くっきりと心に印象が刻まれる。まるで赤い血の玉のようだ。何かを叫んででもいるようだ。大切なことを。

実際、野苺は、とても大事なことを言っているのです。人間にはまだわからない言葉で、人間の迷いをいさめる言葉を、ずっと発しているのです。それがどういうことかは、いずれあなたがたにもわかる。

野苺の赤みは、まるで、人間が何も知らないうちに傷つけ続けてきた自然界の傷から噴き出る血のようだ。見ているとあまりにも痛い。







狡童

2017-07-28 04:24:02 | 短歌





狡童を 恨む甲斐なく 朽ち落ちし 花は月下に 種を抱かむ






*今日も人間の歌ですが、これは今までの作者とはちょっと違う人の作です。わたしの活動を知って来てくれたのだが、この人は以前の人生で、歌人としてとても高い修行をしたことがあるのです。勅撰和歌集にもその歌が残っているという人の歌なのです。

誰かは言えませんが、言えばあなたがたもなるほどとうなずく名前です。

さすがですね。とてもうまい。狡童(こうどう)というのは、プレイボーイとか伊達男とかいう意味の漢語です。漢文に通じた清少納言を意識したらしい。おもしろいですね。本人の歌はもっと清澄で貴族的だが、これはどこか男っぽい感じがする。少納言を真似ているのです。

あの伊達男を恨んでもその甲斐なく、わたしは花のように朽ち落ちてしまったが、月の下で、いつか痛いことをしてやろうなどという気持ちの種を抱いていますよ。

女性の気持ちになって詠ったものでしょう。実に粋だ。男に嫌なことをされてきついことになっても、黙ってはいない気の強い女性が描かれています。彼は少納言をそんな感じに見ていたのでしょう。

女性だが手ごわいと感じていた。ゆえにこの作品で少なからず敬意を表しているのです。

達人とは、男女にかかわらず、力高いものには一目おくものだ。彼は、少納言という存在には強いものを感じていたらしい。男偏重の社会にあってはことさらに何も言いはしなかったが、かなり意識していたらしいです。

その心は歌にも出ている。教養の高さがにじみ出て、技巧的にも高い作品を多く残しています。

彼には学ぶことが大きいので、これ以後も時々、作品を使わせてもらいましょう。







うたての水

2017-07-27 04:19:57 | 短歌





酒はまた うたての水と 飲みかはし けふもこきしく 愚者のいひわけ






*人間の歌が続きます。こうしてみると、わたしたちとは違うでしょう。なんとなく自分に近いものを感じませんか。あたたかい肌の感触がある。

「うたて」は「うたてし」の語幹で、嫌だとかうとましいとか君が悪いとかいう意味があります。「こきしく(扱き敷く)」は、しごき落として敷き詰めるという意味です。紅葉や花が散って地面に敷かれているように落ちている情景を描写するのに便利な言葉ですが、ここではちょっと違う使われ方をしています。

酒なんてまた、嫌な水だと言って飲みかわし、今日もくだらない言い訳を、紅葉のように散らしてそこらに敷き詰めていることだ。

なんだか情景が見えるようですね。よく馬鹿なことをやった男が、仲間を見つけて酒を飲んでいる時になど、こういうことになる。

女房が悪いんだ課長が悪いんだ政治が悪いんだと、何かにつけて人の生にして、いろいろとくだらない理屈をこねては馬鹿なことを言いつのり、どうにもならない言い訳を自分の周りに敷き詰めている。

人間というものは、こういう人間の情けなさをよく知っている。自分もまた、つらい時にはよくこんな馬鹿になってしまうものだからだ。

わかっていても甘えたいときはあるでしょう。

酒というものは、まだつらいことの多い自己存在の若い時代には、必要なものです。ひと時でも、自分を忘れることができる。酔っ払いも、よほどひどいものでなければ、周りも大目に見てくれます。悲しいのは自分も同じだからだ。

だが人間として成長してくると、あまり酒は飲まなくなりますよ。必要なくなるというか、欲しくなくなるのです。酔うて忘れなくても、自分というものがよくなってくる。自在に動ける自分というものを生きていると、酒で忘れたくなるほどのつらいことなど、あまり出て来なくなるのです。

酒がいるのは、嫌なことをしてしまった自分が、まだ重く自分の中にいて、影のようにうずいている時だけだ。そんな頃は、ほどほどになら、神も酒を飲むことを許してくれます。

酒は静かに飲むべかりけれなんて歌を詠った歌人もいましたが、それも自分の内部にある矛盾が、痛くきつかったからでしょう。そういう者には、自分を浄化するための酒も必要なのでしょう。

ですがいつまでも、酒を美化していてはいけませんよ。それは本当は、毒なのです。







真玉

2017-07-26 04:20:21 | 短歌





真玉散る 花の嵐は 不壊といふ 国の塵かは 我やらむとす






*人間の作品が続きます。これも、「明日への道」の歌と同じように、わたしの活動に引かれて歌を入れてくださった人の歌です。

「真玉(またま)」というは、玉の美称です。「真」の字がつく美称もたくさんありますね。「真鳥(まとり)」とか「真木(まき)」とか「真金(まかね)」とか。覚えておくとよろしいでしょう。字が足りない時になど役に立ちますよ。「かは」は詠嘆の意味を持った係助詞です。「~だろうか」という風に訳されます。反語の意味もつくときがあります。

この玉を散らすかのような花嵐は、決して壊れないはずの国が塵と崩れていくような未来を表すのだろうか。わたしはやろうと思う。国のために。

「かは」には反語の意味もつきますから、決してそうしてはならないという、詠み手の意志も感じますね。政治の志を持つ人の歌です。こういう世界に飛び込んでいこうとする人は、汚泥の中に足を踏み入れることも覚悟しなくてはならない。痛い馬鹿に噛みつかれる痛みも覚悟せねばならない。時にそれは激しくつらい。だのにいかずにいられない。それが使命というものだ。

自分なら、あの汚海を泳いでいくことができる。そのための知恵も骨も筋肉も備わっている。それなのにやらないのは、こういう自分を作ってくださった神を裏切ることだ。やらねばならない。

できることがあるのにやらないものは、男ではない。

美しいですね。真玉という言葉に、その男の真価を信じる男の信念をも感じます。真の玉と書く。真実の男という意味にもとれる。

あのような激しい世界を泳いでいくのは、並大抵の根性ではできない。実質、かのじょのような愛らしいくらいの正直な人には無理です。でかい芝居ができる肝がなければ、政治家はできない。時には馬鹿もできる巧みさがなければならない。難しいことではない。できるやつなら、そんなことができるのは当たり前なのです。馬鹿にはこれがわからない。いやらしいことでも何でも、国のためにやれる人間が、どのような高い世界を知っているかを、知らない。

たとえ馬鹿の反動をかぶり、奈落に落ちても、復活しそこから飛んでゆくことのできる翼をも、男という者は自分につくることができるのだ。

やりさえすれば。

だから飛び込んでいく。

麗しいですね。ぜひに応援したい。わたしは顧問という職業をするのが主ですから、表には出ないが、そういう明るいところに出て行く人は積極的に応援します。

そういう人を生かすことができてこそ、国は生きてくる。そして国が生きれば、民が豊かに育ってくる。

幻ではない。真の愛をもってやれば、すべては永遠に繁栄していくのです。







我が窓

2017-07-25 04:20:03 | 短歌





我が窓を 訪ひし心に 我は恥づ 月を月とも 思はざりしと






*これは返歌です。以前、「こどくがふたつ」という歌を紹介しましたね。あの時かのじょが歌を寄せた男性から、返ってきたのです。

彼はどうやら死んだらしい。死んで霊界に帰ってから、かのじょの心がわかって、とても後悔したらしいです。

霊界というところは、心の世界です。時に、はてしなく遠く隔たっていても、ほんの数秒で心が押し寄せてくる時がある。彼の嘆きが大きかったので、それがどうやら、わたしたちのところに流れてきたらしい。

彼は愚かで、あまり勉強の進んでいない人だが、心は純なのです。馬鹿なこともしてしまうが、痛すぎることはとてもできない。弱くて、人に馬鹿にされても嫌なことはできないものだから、いつも影の方に流れていく。そういう心の中に、美しいものがあるから、かのじょは寄って行ったのです。

天使というものは時に、強いものや賢いものよりも、美しいものを慕って寄って来るのですよ。神もそうです。

なぜ彼の心がここに流れてきたのか。それは彼の心の嘆きが純で、美しかったからです。純粋な美しさというものは、まるで吸い込まれていくように、神の愛の流れに乗る。そしてその願いがかなうようにして、心が愛する人のところに流れていくのです。

彼は、後悔している心を、かのじょのところに届けたかったのに違いない。いやらしい世の中に生きて、人の嫌なところばかり見てきたから、近寄ってきたあの人の心を見抜けなかった。その自分のふがいなさが、とんでもなく情けなかったのです。

単純だが、せつせつとした歌だ。強いことができない自分を、恥じることはない。強いことができない者には、そういう者としての使命がある。その自分を大事にして、精進していってほしい。

弱さというものは時に、激しい美しさを生みます。痛いことができない自分というものを認めるしかない時、人は自分そのものを神にさしあげるしかないからです。そういうことが、切ないまでに痛い美を生むことがあるのです。

彼の嘆きは、それに近かったのでしょう。だから、神の愛の流れに乗って、わたしのところにきたのです。






紅梅

2017-07-24 04:20:02 | 短歌






ほとばしる 熱き思ひの 消えわびぬ 我が紅梅を 照らせ月読






*これは、女性の弟子の作品です。恋の心を詠いたいというので、指導をしてみました。先に二つほど見本を作って見せましたが、どうも自分の心と違うというので、いろいろと心を探りつつ、言葉を繰ってみたものです。

まだ初心者なので、少々ぎこちないが、ぎこちないのがいい。初恋も、最初から上手に恋ができたのではおもしろくないですしね。上手に恋ができない心の、芽生え始めた芽のような、おずおずと発現する、不器用な心がよい。

恋しい人を思ってほとばしる熱い思いが、消えなくてつらい。この紅梅のようなわたしの心を、どうか月よ、照らしてください。

「紅梅」は「こうばい」ではなく、「べにうめ」と読みましょう。そのほうが作者はいいそうです。自分の恋する心の姿を花にたとえてみよと言ったら、こう答えました。

「月読(つくよみ)」は月のことだが、4文字でいいのなら月影もいけますね。だが本人は月読のほうがよいようだ。おそらく、日本神話の月神のイメージがあるものでしょう。月読命にはとても麗しい貴公子のイメージがある。彼女が思い焦がれている男性は、そういう人なのかもしれない。

男性には、素戔嗚尊のような荒ぶる男がもてることにしたいという心理がありますが、ここらへんは外してはいけませんよ。女性は、確かに素戔嗚尊のような男性もかなり好きだが、月読のような、麗しくて紳士的な男性の方が、本当はいいのです。乱暴なことはしないし、とてもやさしいことをしてくれる。静かに愛してくれる。まるで月のように。

麗しい月読のような青年と見つめあうことなど想像すると、女性は心が溶けるようになってしまうのです。愛という甘い幻想に酔ってしまう。自分というものがなくなってしまいそうなほど、愛する人の中に溶けてしまうのです。

馬鹿なことだと言ってはいけません。こんな女性のやわらかな気持ちも理解してあげなくては。彼女らは、自然に、男性を愛してしまうように、神に作られているのです。その愛が素直に溶けていける月読のような心を持っている男性がいたら、もう何もかもを忘れてついていきそうにさえなるのです。

男には、素戔嗚尊のように、荒ぶる力を発揮せねばならない時もありますが、かわいい女性と対話する時には、時に月読のような麗しい紳士にもならねばいけません。これができないというなら、いつまでもよい男にはなれませんね。

そろそろ、子供みたいな馬鹿な真似はやめましょう。子供のわがままと、素戔嗚の勇気は、違うものですよ。






白飴

2017-07-23 04:21:03 | 短歌





みんなみの 野辺にな来そね いはとなる 月は白飴 煮る夢見てむ




*「な~そ(ね)」は、「~してくれるな」という意味の古い言い回しですね。だいたい「そ」で終わりますが、語調を整えるために「ね」をいれるときもあります。

南の国のかの野辺には来てくれるな。岩戸に眠っている月は、白飴を煮る夢を見てしまうだろう。誰かの気配を感じるだけで、あの人は助けようとしてしまうのだ。

「てむ」は前にも言いましたが、使いやすいし魅力的な言葉なので復習しておきましょう。完了の助動詞「つ」の未然形「て」と推量の助動詞「む」をつなげたかたちで、「きっと~だろう」とか、「きっと~にちがいない」とか、推量を強調した言い方になります。

さばかりに、人は悲しき夢を見てむ。

雪野の白くつめたきばかりに、彼の人は苦しくひとりゆきてむ。

歌ではなく、こういう古語的言い方をするのも、何だか楽しい。文語詩に発展しそうだ。

歌で古語を練習していると、いずれそういうこともできるようになるでしょう。こうやって古い言葉で歌を詠んでいけば、助詞や助動詞を使う練習にもなるし、いろいろな言葉を覚えます。自分のスキルがあがり、段階が進んでいくのは楽しいですね。

「な~そ(ね)」も練習してみましょうか。「~」のところに動詞の連用形を入れるだけで、魅力的な言い回しができます。

ゆくふねをなかへしそ。潮路のきびしきをしりつつも。

おお、いい感じですね。もうひとついってみましょうか。

貉の皮に描きしまがひの月をな見そね。まことの月は空にあれば。

なかなかに詩的だ。こういう、魅力的な言い回しは、何度も練習しておきましょう。そういう風に日ごろから使っておけば、歌を詠むときに柔らかく言葉が浮かんできます。

最後のを歌に直しておきましょう。




からかみの月をな見そねしろかねの月はまことの空にしあれば






星月夜

2017-07-22 04:19:49 | 短歌





星月夜 都の小寺 桔梗咲き ほたるつどひて 宴を張りぬ





*これは、かのじょが生きていた頃、ほぼ唯一と言っていい友人のために、銀香炉が詠ったものです。この歌にはその人の名前が詠みこまれています。わかるひとはわかるでしょう。

星月夜とは星の明るい月夜のことだ。都に小さな寺があり、その庭に桔梗が咲いている。そこで蛍が集まって宴を張った。そのようにあなたは、あの人と一時をうれしく過ごしたのだ。

かのじょにとっては苦しい人生でした。美しいことを理由に、影から馬鹿にする人間は山ほどいたが、素直に愛してくれる人間はほとんどいなかった。いても、馬鹿どもの攻撃を恐れて、近寄ることすらできなかった。

その中で、ただ一人だけ、かのじょに近寄ってきて、素直な愛を表現してくれた人がいたのです。かのじょは生きていた時、その人が好きでした。やさしいことはなんでもしてあげていた。理由など探す必要はない。ただしてあげたいからするのだ。それでかのじょはその友達のために、きれいな童話を書いたり絵を描いたりしたのです。

ほんとうに、きれいな人ですから。素直に心を表して親しんでいきさえすれば、いくらでもそういうことをしてくれるのです。それなのに、人間というのは実際、素直ではない。

馬鹿にして、嫌なものにしてから、どうにかしようとする。きついものにして、くだらないものにして、自分で支配できるものにしてから、なんとかしようとする。それだけでやってきて、とうとう何もかもをだめにした。それでも彼らは、後悔することすらできないのだ。

その日とはそんなに力高い人ではありませんでした。平凡に少し花が咲いているかのような、普通の人だったのです。だけれどあの人だけが、かのじょを素直に見てくれた。きれいな人だと素直に思ってくれた。そして、友達になりたいと、思ってくれたのです。

それがうれしい。普通のことしかできない人でも、かのじょは一生懸命愛してくれる。とてもいい友情でした。

ゆえにわたしたちは、こういう歌を歌い、あの人のためにささげたのです。