一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

いい感じの暁天坐禅

2006年11月10日 | 思い・お寺の活動
われながら毎朝の暁天坐禅が板に付いてきました。

もう2ヶ月以上休みなく坐っています。

しかも今日はなんと3名出席。

私含め4名。

仲間が増えるのはとても嬉しいですね♪

お馴染みのサングラハのMさんはじめ、檀家のKさん、Cさんが参加するようになりました。

Mさんとはこれから長い坐禅の友となりそうですが、檀家のKさん、Cさんもなんとなく一過性では終わらない雰囲気。

偉そうに「坐禅も継続してこそなんぼですよ」とノタマウ私・・・

もっと、もっと早くからはじめてればよかったと今さらながら思います。

ですが、後ろは振り返らず、今みんなと坐れる幸せを噛み締めたいと思います。

そしてとにかく、続けること。

何があっても続けること。

あとは、やはり時折優れた指導者を招くなどして、みんなのモチベーションを高めることなども考えたいと思います。

※今日はお通夜でしたが、気合の入った法話ができました!
 自分に拍手!
 おめでたい奴?

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6 コメント

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Unknown (oniku)
2006-11-10 01:40:45
素敵な空間、時間を有難う。
自分の境界が広がる感覚があります。
自然との対話を楽しんでいます。
いろいろな人が自由に出入りできる空間
有難う。
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どういたしまして (りょう)
2006-11-10 20:20:53
onikuさん、こちらこそ有り難う。
あなたの存在のおかげで、とにかく毎日坐ってみようという気になったのかもしれません。
朝の坐禅は本当に素敵な時間ですね。
季節をじかに感じながら・・・
これからも末永いお付き合いをしていきましょうね。
そろそろ長袖にしてもいいのでは・・・なんて(笑)
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いい感じ♪ (acqua)
2006-11-11 10:59:41
やっぱり坐禅会で開けたようですね(^^)
私も、お寺さんの空間は心地よいのですが、
菩提寺もお墓参りくらいしか訪問せず、
ご本堂が開いてはいても上がっていいかわかりません。
何度も訪問していて、お寺の方に会ったことがないのです。
お会いできたらお尋ねして坐らせていただけると思うのですが。

カトリック教会も何かと閉鎖的で、過去の誤りを反省し、
広く扉を開こうとしているのですが、
敷居を高く感じられる方はまだまだ多いようです。
一般の方に、静かな空間、自分と対話する空間、
ただ黙って「居るだけ」の空間を提供できたらいいと思うのですが、
日曜の教会はにぎやかすぎて、信者の私でも辟易します...(^^;
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現実は・・・ (りょう)
2006-11-11 23:02:46
>acquaさん
acquaさん、こんばんは☆(←この星はありさんの影響・・・)
おかげさまで、先日第一回坐禅会を開くことができました。
毎朝の暁天坐禅は、フォーマルな坐禅会ではないので、みんな、余計にのびのびと坐っています。

>お会いできたらお尋ねして坐らせていただけると思うのですが。
とのこと。
そうだといいんですが・・・
でも現実は、残念ながら、檀信徒、あるいは一般の方が坐れるように配慮しているお寺は極めて少ないのが現状かと思います。
しかし、お寺の方に会ったことがないというのは驚きですね・・・。確かに「お坊さんはどこにいるの?」的なお寺があると聞いたことがあります・・・。恐ろしいほど閉鎖的ですね・・・現代寺院のひとつの傾向なのでしょう・・・。
私なんかどこにでも顔を出すので、檀家さんや、またその親戚の方にもバッチリ覚えられていると思います。これからもフットワークが軽い住職を目指します。

私の場合も、もう少し近所にあったパブテスト教会の敷居が低かったら、今頃牧師かもしれません・・・
行きたくて、でも行けなくて・・・教会の周りをうろうろしてた少年時代を思い出します。
宗教を超えて、どんな人でも温かく受け入れられる空間をつくるのが理想ですが、防犯上のことなどクリアすべき問題も多く、当寺としても今後の課題としています。
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プロテスタントは (acqua)
2006-11-12 02:13:07
ほとんどが牧師さんのご自宅と礼拝堂が地続きなので、
礼拝堂を開けておけないという事情があるようです。
私もカトリックに移ってから、いつも開いている聖堂がうれしかった。
これは物理的な「扉」ですが。

精神的な扉としては、宣教とはなにか、
わかってない信徒が多すぎます。
神さまだのお祈りだのと言うまえに、寄り添うことができないのです。

五木寛之さんと対談した心理学者の方(お名前失念!)を、
司祭の研修会にお招きしたとき、
神父はしゃべらずひたすら聞きなさい、とおっしゃったそうです。
自分も含めて反省しきり...

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寄り添うこと (りょう)
2006-11-13 18:39:54
とても大事なことだと思います。
私自身は、檀家さんの気持ちに何処まで寄り添えているか心もとないのですが、できるだけのことはしていこうと思っています。
物理的な扉も、精神的な扉も開いていけるといいですね。
お寺もできればそうありたいと思います。

ユング心理学の専門家、河合隼雄さんでしょうか・・・
そこのところ、「神父」を「僧侶」にあてはまてもいいですね。
心したいと思います。
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