名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)...
(島崎藤村作『椰子の実』 →歌詞全文。音が出るのでご注意)
昨日、浜で見つけた。
ただし、この椰子の実は「遠き島」からではなく、すぐ向こうの岸から来たのかも...(^^;)
藤村は、どこでこの椰子の実を見つけたのかしら。
...と、思ったら、実際にこの情景に出くわしたのは、藤村でなく友人の民俗学者・柳田國男だったそうだ。(→こちら)
明治31年、柳田國男が愛知県、渥美半島先端の伊良湖に滞在していた時に見たという。
私は、藤村の描いた「椰子の実」とは逆方向に、故郷を遠く離れて南の島に来てしまった...
同じく2号です。
柳田國男さんは、椰子の実の「故郷」をどこらへんと思ったんでしょう。
もしかして、八重山から都会へ働きに出て来た人のことを掛けて唄ってたり…?深読みしすぎでしょうか。
私もずいぶんと方向を違えて、遠く南の大陸に来ちゃった・・・。
その通り、八重とは八重山地方のようですヨ。柳田は「きっと沖縄方面から流れ着いたに違いない」と、興奮して藤村に話したそうです。藤村は藤村で「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はず呉れ給へ」と。
そこから先、「日本民族は、黒潮に乗って大陸から沖縄を経て日本列島に達したという主張を晩年『海上の道』で展開した柳田と、叙情的な『椰子の実』の詩を書いた藤村。民俗学者と文学者の違いですね...
私は見なかったのですが、今月NHKの「その時歴史が残った」で柳田が取り上げられ、この歌のこともあったそうです。(12月12日に再放送予定)
★patinhaさん★
私もね、椰子の実のごとく流れ流れてここに来たという感じです。偶然に偶然がいくつも重なって。
黒潮という大きな流れには乗っているのかなぁ...
次にどこに行くかも楽しみですね、お互い^^
流れるっていいなあぁ~ この年になったらもうこの現状の流れに身を任せることしか・・・無いです!貴女方若い方は流れを変えるパワーが有る!!!夢がある!!!
2人が流れ着いたのは駿河の国。番所での取調べでは言葉が一向に通じない。
役人「州はいずこぞ?」
先祖「シュ?・・・実岡主(さねおかしゅ)!」(家のあるじの名前)
役人「郡はいずこぞ?」
先祖「コオリ?・・・柳行李(やなぎごおり)!」
役人はお手上げ状態だったが、ある日二人が地面に書いた落書きが“丸に十の字”だったので薩摩と検討がつき、通行証と小遣いを持たせて送り出したとのこと。何でも駿河の国の番所の記録が残っているとかいないとか・・・です。
外の世界を見てしまった二人はその後果たして幸せな人生を送れたのか?興味深いところです。
そうですね~椰子になっちゃいけませんね (^^)
しかしどこの島に流れ着くかと思ったら、奄美だった、と波任せに来てしまったような気もするもので... (^^)ゞ
流れてきた先はとても良いところでした。いつも運に恵まれてます。
★marriさん★
流れを変えるパワー!「住めば都」派なんで、いつも現状に満足してしまいます。と、同時に飽きっぽいタチでもある為、退屈したなぁなんて思うと良い風が吹いてきて私をどこかに流してくれます。
ああ、もう既に流されっぱなしの私かもしれません(^^;
marriさんこそ、常に自分から流れを作って、進んでいらっしゃると思います!
★義志直さん★
そのお話、初めてです!(ええ、色々たくさん伺ってので忘れていたら申し訳ないのですが、やはり伺ってないです)
これはまたまた、駿河の国までとはよくぞご無事でしたね。歌の中の「椰子の実」より遠くに行っちゃいましたね。富士山もおがんでこられたんでしょうか。
そしてそんなお話がちゃんと伝わっているところがすごい!おもしろい!
そのお役人も良い人ですねぇ。お小遣いまで下さるなんて。あー、本当にその後のことが知りたいですね。
私も流れ者人生で、あちこちフラフラ~♪です。
奄美も、安曇野も良い漂流地でした(*^-^*)
確かに必然としか思えないと思うことがあります。こんなに都合よく偶然が重なるというのもありえないなぁと。てふてふさんとの出会いもそうですね!
今このときを大切にしたいと思います。
★takaさん★
この歌を知っている人なら誰でもつい口ずさんでしまいますよね♪
だんだんと「万人が口ずさむ」歌というのが少なくなっている気がします。同じ思いを共有できる歌を伝えていきたいですねー。