うちは田んぼしてないのですが周りの田んぼはほぼ刈終わったようです。
木々の葉もかなり落ちてきています。
いよいよ今週で実物も終わりか?明日朝は割と気温は高く、10℃くらい。その後が0℃、0℃、-1℃という週間予報。小さな雪マークも今季初めてつきました。明日は色付かないパブリカやまだ小さいナスなど、食べられるものは全部収穫してしまおうと思っています。
今回の改造内閣の8氏、衆院選でTPP反対だった。
森山裕農林水産相
林幹雄経済産業相
高木毅復興相
塩崎恭久厚生労働相
麻生太郎副総裁・財務相
高市早苗総務荘総務相
中谷元・防衛相
遠藤利明五輪担当相
3年後に決まった減反政策の廃止で、今後、転作補助金の見直しなども行われれば、経営環境はさらに激変する恐れもある。米価は国の政策に翻弄(ほんろう)されてきたが、10年先が見通せなければ、投資や人を雇うこともできない。
「またも国に裏切られるとは」。
外国産米が増加すれば、いずれは価格競争で太刀打ちできなくなる。耕作放棄地が増え、農家が代々受け継いだ昔ながらの豊かな田園風景が失われるかもしれない。
「コメは聖域」と繰り返す地元の自民党議員らに期待を寄せてきたが、輸入米がこれ以上増えると、さらに価格低下は避けられない。
TPPで国内価格が下がれば、需要が高い海外への輸出を考える農家が増える可能性もある。輸出は国内需要が頭打ちになる中、新しい販路として2013年から手探りで始め、昨年は約160トンを豪州などに輸出した。世界的な「和食」ブームが後押しする。日本の食に責任を負わない日本農民の誕生か?
TPP交渉は、米アトランタで開かれた閣僚会合で大筋合意。今後の焦点は、発効に向けて、各国の国内手続きが順調に進むかどうかに移っている。
参加国の批准手続きが2年以内に終わらない場合、12カ国の国内総生産(GDP)の合計の85%以上を占める6カ国が手続きを終えれば発効できるという規定で合意している。12カ国のGDPで日米が占める割合は約8割で、最低でもこの2カ国が手続きを終えないと発効できない仕組みとなっている。日本でも闘いはこれから。嘘つき・憲法違反内閣打倒!
環太平洋パートナーシップ協定(TPP)について、米大統領選の民主党有力候補であるヒラリー・クリントン前国務長官が7日、不支持を表明した。労働組合を支持基盤としてTPPにも慎重派が多い党内に配慮したとみられ、今後の米国内での手続きに影響を与える可能性がある。
クリントン氏は同日放映された米公共放送(PBS)の番組で「現時点では支持できない。私が設定した高い水準を満たしているとは思わない」と指摘。中国を念頭に置いた通貨操作条項が具体化されなかったことや、医薬品の開発データの保護期間で妥協したことを問題視した。
こちら、今のところ被害等なく無事であります。前回の爆弾低気圧の時ほど風は強くありません。とはいえ、まだ明日夕方まで安心はできませんが。
「台風が勢力を維持したまま温帯低気圧に変わりました」この表現がよくわからなくて調べてみました。
北本 朝展 国立情報学研究所より
台風(熱帯低気圧)の定義と発生の認定
台風とは、トロピカル・サイクロンのうち中心付近の最大風速が34ノット以上のもの、と定義されています。また中心付近の最大風速が34ノット未満のものは、熱帯低気圧と呼ばれます。両者の違いは、中心付近の最大風速が34ノットという閾値以上か以下か、という点だけです。
しかし、実際の気象現象は連続的に変化するものですから、両者を厳密に区別することはなかなか困難です。また、台風の中心付近の最大風速を常時測定することも現実にはできませんので、台風かどうかの判断をコンピュータが自動的に下すことはできません。したがって、最終的には専門家による判断に委ねられることになります。
例えば日本であれば、気象庁の専門家がさまざまな気象データを比較しながら中心付近の最大風速を推定し、それが34ノットを越えていそうだと確信を持つことができれば、台風の発生を宣言します。ところが、日本の気象庁の専門家がそう判断しても、アメリカの専門家はまた別の見方をしているかもしれません。データの読み取り方によって、最大風速が34ノット以上なのか未満なのかの判定が分かれることがあります。このように専門家の判断は各国でまちまちになる可能性がありますので、基本的に各国の気象機関は独自に台風の発生を認定しています。ただし北西太平洋地域では、日本の気象庁の判断が国際的には公式のものと定められています。
(注1.1)米国JTWCではTropical depression以上の強さになった熱帯低気圧に番号を与えます。これは気象庁が台風への命名をおこなう基準(Tropical storm)よりも低いため、気象庁よりも先に番号の付与がおこなわれることがあります。
2. 台風は温帯低気圧に変わりました
よく天気予報で「台風は温帯低気圧に変わりました」との解説を耳にします。これはどういう意味なのでしょうか?そもそも台風と呼ばれるには2つの条件があります。すなわち、(1) 熱帯低気圧であること、(2) 最大風速が基準値以上であること、です。この2つの条件が満たせなくなったとき、それは台風ではなく別の名前に変わります。
「台風は温帯低気圧に変わりました」という表現は、実は1番目の条件が満たせなくなった時に使われる表現です。具体的には、台風の構造が熱帯低気圧(tropical cyclone)の構造から温帯低気圧(extratropical cyclone)の構造に変化した場合に使います。台風は熱帯低気圧の一種ですから、中心付近には暖かい空気のみが存在します。そこに冷たい空気が入ってきて、もはや暖かい空気だけとは言えないとなったとき、台風の構造が変化したことを宣言する、というのがこの表現の意味です。この状態から再び暖かい空気だけの状態に戻ることは難しいため、この変化は基本的に後戻りしません。
一方、「台風は熱帯低気圧に変わりました」という表現は、2番目の条件が満たせなくなった時に使われる表現です。具体的には、中心付近の最大風速が台風の最低基準を下回った場合に使います。最大風速がたまたま基準を下回っただけで、熱帯低気圧の構造は保たれていますので、周囲の環境が回復すれば熱帯低気圧から台風に復活することもあります。
このように、台風から温帯低気圧への変化は構造の変化を意味し、台風から熱帯低気圧への変化は強弱の変化を意味する、というのがキーポイントです。この違いを理解すれば、「台風は熱帯低気圧に弱まった」という表現はおおむね正しい(注2.1)けれども、「台風は温帯低気圧に弱まった」という表現は一般に正しくない、という違いも理解できるでしょう。なぜなら、温帯低気圧に変わったという表現は、風速の変化とは関係なしに構造の変化に着目した表現であるため、それに伴って風速も弱まるとは限らないからです。実際には「台風は温帯低気圧に強まった」という場合も少なくなく、防災上はむしろこちらの方が危険であることは記憶して下さい(例えば台風200418号)。
台風から温帯低気圧への変化は連続的なので、ある時点でガラっと変わるものではありません。したがって、変化した時刻を一点に決めることは難しいのですが、種々の気象観測データを根拠として温帯低気圧の性質が支配的になったと判断できれば、その時点で温帯低気圧への変化を宣言することになります。例えば、前線が台風の中心にまで延びてきて、台風の中心付近にまで冷たい空気が入り込み、熱帯低気圧の特徴である暖かい空気の塊(暖気核)が不明瞭になってきたかどうかを見ることになります。
(注2.1)これも正確には風が弱まったことしか意味していないので、雨が弱まったかどうかは関係ないことに注意しておく必要があります。
先日の爆弾低気圧が去ったばかり、雨も多いようだが風が怖い。
この数日ハウス内の気温は2℃。明日で終わるか、明日で終わるかと思いつつ、まだ持ちこたえてる。天気が悪い分、気温の低下はそれほどでもないようだ。
この色付いたものだけでも収穫できればいい!保温被膜資材パオパオをかける。
2015年10月05日 毎日新聞WEB版
◇水俣病の背景は福島原発事故と似通う
−−水俣病など深刻な公害を生んだ日本社会の状況はどんなものだったのですか?
田中氏 水俣病の背景は、福島第1原発事故とよく似ていると思います。共通するのが電力です。曽木電気と日本カーバイド商会という会社が合併して1908年、日本窒素肥料(後のチッソ)が発足しました。チッソの化学肥料などの工場に電力を供給して、日本の経済発展、工業的な発展を図ろうという考えで出発しました。チッソは水俣に工場を造り、水俣は大変近代的な街になっていきましたが、この経過も福島の事例ととてもよく似ています。
実は、非常に早い時期からチッソの排水による漁業被害が起きていて、見舞金も払っています。チッソはそれで済むと思っていたんでしょうね。そして戦時体制になり、チッソ水俣工場の役割はさらに強く求められるようになったのです。でも、公害の一番の原因は、何と言っても戦後社会です。戦後の日本社会は、明治以降の工業化方針を、敗戦しても転換しなかった。それどころか「復興」という名目で、戦後、量的な拡大が行われていきました。戦後復興のためにいろんなことをやり、どんな結果が出ても「止めない」「止められない」時代になったのです。
チッソのアセトアルデヒド生産量が最大になったのが60年です。その前から周辺住民に症状が出て、原因も分かり始めているのに、チッソは量産体制を止めなかった。
−−それ以前は、水俣病のような被害を引き起こすことはなかったのですか?
田中氏 農業も含め、古代から人間はさまざまな開発行為をしてきましたが、非常に不都合なことが起こったときには、開発を止めたり抑えたりしました。江戸時代でもよくあったことです。例えば、下流で洪水が起こったときに、原因が上流にある山の木の切り過ぎだと気づくと、幕府からも各藩からも過剰伐採を止める動きが出るんです。同時に川の周辺に建物を建てるなといった指令を出して、住民が洪水被害にさらされないようにしました。
染め物を作るために木の皮をはぐにしても、ある程度で止めておかないと次の年にはその木が弱ってしまいます。取りすぎたと思ったら、木の皮をもう一度元の木に張り付けたりもしました。また、クマ1頭を捕ったら、内臓を串に刺して山に戻した。これは象徴的な行為です。実際にはどうにもならないけれど、捕ったものの何割かは山にお返しするという考え方。やり過ぎたなと思った瞬間に、止めるか戻す。そういう考え方が一貫していれば、問題が起こっても取り返しがつきます。
一方、近代化、特に産業革命の背景には植民地化があります。自国内で開発をやり過ぎたら、自分たちが被害者になります。でも、自分たちは文明人で、植民地には野蛮人が住んでいると思えば、植民地でいくら搾取したって構わないし、自分たちは損害を被らず、むしろ豊かになる。それが産業革命以降の基本的価値観でした。
ただし、現実には(技術的な限界から)それほど大規模に開発を進めることはできないから、被害は徐々にしか起こらなかった。他方、江戸時代の日本は、自分たちが植民者になることも、植民地化されることも拒否する体制を270年間守ったので、その考え方の中に入らないで済んだのです。
でも、明治以降の近代化とともに、日本はそのマインドセット(考え方の枠組み)の中に入りました。近代化とは「止めない」「戻らない」ことで、開発行為をひたすら続ける道を選びました。日本は明治維新以降、日清戦争、日露戦争へと進みました。産業革命と戦争と植民地化はセットになっていたわけです。そうなると歯止めが利かない。チッソも今の北朝鮮に進出し、世界最大規模のコンビナートを造っています。
◇「苦海浄土」に衝撃受けた
−−水俣病に関心を持ったきっかけは?
田中氏 大学1年のときに教室で古典文学の先生が、石牟礼道子さんが書いた「苦海浄土」を朗読しました。古事記が専門で、国語科教育法を担当なさっていた益田勝実先生です。「苦海浄土」はその前年(69年)に出版されたばかりでした。
水俣弁で書かれていて、文学としても素晴らしく、大変な衝撃を受けました。こんな文学が世の中にあるのかと。人が生きてしゃべっている言葉です。普通の文体じゃない。切羽詰まって伝えている、その力が伝わってきました。当時は、今ほど水俣病の情報がありませんでしたが、それでも「苦海浄土」を1冊読むだけで相当分かりましたし、個人的にも勉強しました。
胎児性水俣病の患者たちは私とほぼ同世代で、「患者は自分だったかもしれない」と思ったんです。51〜53年ごろに生まれた子供たちの母親が、(メチル水銀に汚染された)魚介類を食べていたわけです。私は横浜生まれですが、もし水俣に生まれていたら、自分(が胎児性患者)だったかもしれない。これは別世界の出来事ではなく、まさに私が生きている時代の問題。いったいこれは、どういう時代なんだろうと考えたのです。
−−高度経済成長期と重なります。
田中氏 チッソは戦後、アンモニア肥料の生産でもトップでした。農業革命の一翼も担っていたんです。化学肥料で農業の生産量を上げようという政府の考え方と、チッソの進路は一致して、そこでも非常に多くの利益を得ました。
61年に農業基本法が成立します。大型農機具を入れたり化学肥料を使ったりして、農業を近代化して所得を伸ばそうという法律です。工業だけ突出して豊かになるのではなくて、農家も豊かになりましょうということですが、現実には大型機械が投入されて、農家は何千万円という借金を背負い、生産量を上げなければならないという状況になりました。私はこの状況を「農業の工業化」と呼んでいます。その結果、農業では労働力が削減でき、農業従事者から季節労働者として都会に出ることになる。本来農業と工業は道が違うので、(一方が発展すれば一方は衰退するといったように)矛盾したまま進めばいいのだけれど、工業の発展と農業の工業化という矛盾のないセットを作ってしまったのです。
また、54年に衆議院議員だった中曽根康弘さんらが主導して、原子力予算が初めて成立しました。核を背後に置きながら、平和利用と言って原子力政策を進めていきました。その間、水俣病は全然解決されず、どんどん患者が出続けた。水俣病の背後にある農業の工業化と工業化のさらなる推進、さらに「核の工業化=原子力発電」といったようなことが同時に起こりました。それぞれ別の問題に見えるけれど、全部つながっています。
66年に日本初の商業用原発、71年に福島第1原発の営業運転が開始されました。ちょうど私が生まれてから大学生になるまでの間に、いろんなことが急速に動いていったのです。2011年3月11日の福島第1原発事故を経験して、改めて振り返ると、誰も止めない、止められない流れがあり、止められないので「危険ではない」と言い続ける流れが、この時代にできあがったと思います。
◇流れから降りること 受け入れよう
−−戦後日本は、なぜ「止めない」社会を続けたのでしょうか。
田中氏 原発については、原子力の平和利用という言葉によって歯止めが利かなくなったという側面があります。平和と名づけさえすれば、歯止めは利かせなくてもいい。それが戦後社会です。「平和」という言葉がある種の「道具」になってしまったと思います。
もう一つの道具が「経済成長」です。怖い言葉で、どこまで行っても「成長し終わった」なんていうことがない。企業は、去年と比べてどれだけ利益が上がったかという数字を気にします。常に成長し続けなければならない仕組みができてしまっているわけです。
−−豊かさを追い求める中で大変な犠牲を払った反省は根付いていないのでしょうか?
田中氏 気がついている人はたくさんいると思います。でも気がついているのに、見ないふりをする立場にいられる人たちがこの流れを引っ張るわけですよ。一時期より貧富の差が広がっていること、子供の貧困が増えていることも、みんな知っている。それは今までの経済成長の、ある種のゆり戻しだったり、矛盾だったりする。少子高齢化が進むということも、ずいぶん前から分かっていて、量的拡大だけを追い求める経済成長はもうできないということも、みんな分かっている。分かっているのに止められないことがすごく怖い。立ち止まる、あるいはこの流れから降りるということを、本当は一人一人が受け入れていかなければいけない。
これまで、それができなかったのは、戦後日本の国民の間に「止まったらまた貧しくなるかもしれない」というある種の恐怖感があったからだと思います。でも私の世代は当時子供でしたから、自分が貧しかったという感覚を持っていないんです。貧しさについて恐れを持たない一方で、むしろ豊か過ぎる社会の中で矛盾を抱えてきた世代でもあります。そういう世代が、これ以上成長する必要がない、意味がないということをはっきり認識して、違う道に行き始めるという動きがある程度大規模に起こってきたときに、日本の社会は変わると思います。
◇日本の未来像、経験した世代が語らなくては
−−そういった動きは期待できるのでしょうか。
田中氏 もう起こっています。例えば、30〜40代の人たちが自分の親がいる田舎に帰るのではなく、よそ者として新しいコミュニティーに入って、そこで子育てをするような動きが出始めているんです。都会で経済成長を追いかけて、お金だけためるという生活にもううんざりして、別の生き方があることを発見した人たちです。彼らの力がどのくらい蓄積されるか。その動きと、旧来の成長一直線の流れがせめぎあっているんじゃないかなという気がしています。
政治は相変わらず、経済成長の方に引っ張り上げようとしています。集団的自衛権の行使容認も経済と無縁のことではないと思います。国際貢献とか抑止力強化ということだけで物事が動いているとはとても思えない。誰かが必ず利益を上げるからです。軍需産業の成長で利益配分を期待する人たちと、そういう生き方から降りる人たち。力関係がどっちに行くかによって、だいぶ違ってくると思います。
メディアの責任もすごく大きいと思います。違う生活をし始めた人たちをフォローして、こんな生き方もあるんじゃないかと具体的に見せていくことが重要です。抽象的に言ったのでは何の意味もないけれども、現実に違う生き方を発見した人たちがいるわけですから。
−−「止めない」「戻らない」日本は変わると思いますか?
田中氏 悲観的になることはないと思います。ただし、これまでと違う動きをどうやって作るかということが重要です。
安保法制への反対運動は大事で、確かにうねりはあったけれど、欠けているものがあるとずっと感じていました。一連の運動は安保法制に反対をしているだけだったんです。反対した結果、日本はどういう姿になるのか。どういう生き方をしたいから反対するのか。そういった未来像が見えてこなかった。語られていないんです。野党の政治家もそうです。「安保法制反対」だけが目標だったら、いずれこの運動は崩れます。だから私のような世代の人間が、未来像を言わなきゃならないと思っているんです。反対した向こう側にどんな生活があるのかを語るのは、ある程度経験を積んだ世代だからこそできる。
また、地方創生を議論するとき、「もう一度農業を取り戻そう」という動きだってありえるわけです。地方に企業がなくて勤めるところがないから衰退するんだと言われるけれど、実際に今、移住している人たちは、企業中心ではない生き方を作り上げようと思っているんですよね。
今なら農業の技術的な蓄積を持っている人たちが残っていらっしゃるから、間に合うと思うんです。このままその世代の方たちがいなくなってしまったら、技術もなくなりますから、もう二度と農業を取り戻せなくなる。完全に輸入依存の社会で、非常に危険な社会になります。高齢化している農村で働いている方たちのノウハウを今のうちに継承しておかなければなりません。
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■人物略歴
◇たなか・ゆうこ
1952年横浜市生まれ。専門は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。法政大社会学部長などを経て2014年4月から現職。
興味深いインタビューが載ったので紹介しておこう。全面的に共感できるものではないのですが、現状認識では的を得てると思う。
今や生産を制御する社会になったことを我々は認識しなければならない。公害問題、原発問題、巨大化する自然災害、基地問題、等々。そして経済的「発展」は格差を生み、一方の貧困を生んでいる。アベノミクス然り、TPP然りである。
大企業は膨大な「内部留保」を抱え込み、働く者には一生涯の不正規雇用を押し付ける。
経済的発展は必要であろうが、身の丈にあったものでなければならない。生産を制御できる、経済的「発展」をスローダウンできる政権を作らなければならない。
その前に「安保法制」を廃棄する連立政権が必要だ。
深読みCINEMAコラム【パンドラ映画館】vol.210
奥西死刑囚は“村社会”を守るための生贄にされた!? 名張毒ぶどう酒事件の闇に迫る再現ドラマ『約束』
東海テレビ報道部の齊藤潤一ディレクターが撮ったドラマ『約束 名張毒ぶどう酒事件死刑囚の生涯』は、3つの村社会に向かってそれぞれ一石を投じている。ひとつはスケープゴートを出すことによって小さなコミュニティーの平穏を守ろうとする実在の村社会に。もうひとつは裁判所の威厳を保つために再審を認めようとしない頑強な縦社会である司法界へ。そしてもうひとつは、わかりやすいもの、面白いもの、当たり障りのないものしか取り上げようとしないテレビ業界に向かって。平和を装う、それら3つの村社会に対して、『約束』は疑問を投げ掛ける。東海エリアで2012年6月30日に放送された『約束』は大きな反響を呼び、2月16日(土)より劇場公開されることになった。波紋がどれだけ広がるか注目される。
『約束』は、サブタイトルにあるように“名張毒ぶどう酒事件”の真相に迫ったものだ。この事件は昭和36年、1961年に三重県名張市の小さな集落・葛尾の公民館で5人の女性が薬物死したもの。亡くなった5人の中に妻と愛人がいた奥西勝を警察は重要参考人として連行し、自宅に2人の幼い子どもを残していた奥西が「ぶどう酒に農薬を混入した」と自白したことから逮捕された。その後奥西は無罪を主張し、第一審では自白に信憑性がなく、物的証拠も乏しいと無罪を言い渡されている。ところが、名古屋高裁は一転して死刑を宣告。1972年の最高裁で死刑が確定。奥西が自白した直後に村の人たちの証言が二転三転するなどの不可解さが多いことから、冤罪の可能性が高い事件として知られている。
齊藤ディレクターは東海テレビ報道部に籍を置き、これまでに戸塚ヨットスクールの現状を追った『平成ジレンマ』(11)、光市母子殺害事件でバッシングを浴びた安田好弘弁護士に密着した『死刑弁護人』(12)などの問題作が劇場公開されたドキュメンタリストだ。地元エリアである三重県で起きた名張毒ぶどう酒事件を題材に『重い扉名張毒ぶどう酒事件の45年』(06年放送)、『黒と白 自白・名張毒ぶどう酒事件の闇』(08年放送)、『毒とひまわり 名張毒ぶどう酒事件の半世紀』(10年放送)と3本のドキュメンタリー番組を作ってきた。奥西死刑囚に仲代達矢、その母・タツノに樹木希林、と日本映画界の名優2人をキャスティングした『約束』は、齊藤ディレクターにとって初めてのドラマとなる。
齊藤「僕が初めて撮ったドキュメタリーが『重い扉』で、名張毒ぶどう酒事件について合わせて3本のドキュメンタリーを作りました。でも奥西死刑囚にはまだ取材できずにいます。死刑確定囚に会えるのは家族か弁護人、一部の支援者だけに限られているんです。これまでは面会した関係者をインタビューしたり、直筆の手紙をナレーターが読み上げることで、いつ処刑されるか分からない日々を過ごす死刑囚の心情を伝えようと試みてきました。でも、3本のドキュメンタリーを作り、もう手はないなぁと。ある種、ドキュメンタリーとしての限界にぶつかってしまったんです。そこで、まったく経験はなかったけれど、奥西死刑囚を主人公にしたドラマを撮ろうと思い付いたんです」
仲代達矢は『毒とひまわり』のナレーターを務めており、冤罪の可能性の高い奥西死刑囚に強い関心を持っていた。舞台公演のスケジュールを調整して、難役のオファーを快諾した。樹木希林は当初、ローカル局が作る“再現ドラマ”への出演を拒んだ。しかし、齊藤ディレクターが事件に関わる資料を送るとちゃんと目を通し、「一度、村を見てみたい」と申し出てきた。名古屋からローカル線に乗って片道約3時間かかる三重県と奈良県の県境にある集落まで、齊藤ディレクターと2人で足を運んだ。さらに奥西死刑囚の妹にも会っている。再現ドラマへの出演に気乗りではなかったはずの樹木の周到な役づくりが始まっていた。2人の名優に対し、齊藤ディレクターから演出することはなかった。ただ、これまでに取材してきた情報をもとに、奥西死刑囚がどのような状況で独房で過ごしているのか、ひたすら息子の無罪を信じ、釈放を願ってきた母・タツノがどのような手紙を残してきたのかをそれぞれ仲代と樹木に説明したそうだ。シーンごとの状況を理解し、後は半世紀にわたり独房に閉じ込められている死刑囚と「人殺しの母親」と罵られながらも息子の帰宅を待ち続けた老女の内面を名優たちは演じてみせた。
ドラマパートを際立たせているのが、ドキュメンタリーパートだ。齊藤ディレクターが手掛けた過去の作品も含め、東海テレビがこれまで取材してきたニュース素材、ドキュメンタリー素材を要所要所に盛り込み、この事件の闇の部分に斬り込んでいく。事件について証言した村の関係者たちの顔と声はモザイク処理やボイスチェンジャーで加工されることなく映し出されていく。奥西死刑囚が冤罪ならば、村の人たちは偽りの証言をしていることになる。村の人たちは口裏を合わせて、自白した奥西をそのまま犯人にしなくてはならなかった。奥西が犯人でなければ、村の中に別の真犯人がいることになり、小さな集落の“平和”が維持できなくなるからだ。真実を語っているのは誰か? どこまでが真実で、どこからが偽りなのか? 真実から目を背けて、口を閉ざしているのは誰か? カメラは噓も真実も両方を映し出していく。観る側は目を見開いて、見極めなくてはならない。仲代や樹木らプロの俳優だけでなく、彼らもまた村の平和を守るためにカメラの前で必死で演じているのだ。
ドキュメンタリーパートで白眉と言えるのが、秋山賢三元裁判官のコメント。裁判所はトイレへ行くにも食事を摂るのもエレベーターに乗るのも、すべて厳格に順列が決まっている。そういった習慣が身に付くと、先輩である裁判官が出した判決を覆すようなことはできなくなると。司法の世界では、再審に興味を示す裁判官はエリートコースから外れるのだと。秋山元裁判官は「徳島ラジオ商殺人事件」の再審を認めたことで、出世コースから外れることになった。ラジオ商殺人事件で冤罪に問われた冨士茂子さんは再審の結果無罪を勝ち得たが、それは冨士さんが亡くなってからの名誉回復だった。秋山元裁判官は涙を浮かべながら、自分が25年間を過ごした裁判所の内情を振り返る。
齊藤「秋山さんのコメントは、僕の初めてのドキュメンタリー『重い扉』を撮ったときのものです。カメラの前で自分が属していた体制側に対して異議を唱える発言をすることはかなり勇気がいったはず。カメラを回しながら、僕も体が震えました。コツコツと地道に取材を続けていると、たまにドキュメンタリーの神さまが微笑んでくれるときがあるんです」
何度も再審請求した奥西死刑囚は、2005年にようやく再審が認められた。だが、再審を認めた名古屋高裁の小出一裁判長は1年後に退官。2006年には門野博裁判長によって再審は取り消される。「死刑が予測される重大事件で、噓の自白をするとは考えられない」と自白を重視した門野裁判長は翌年、東京高裁への栄転を果たす。高学歴の人たちが集う裁判所もまた、恐ろしく前近代的な封建社会であることが分かる。裁判所とは真実を明らかにする場所ではなく、あくまでも体制を維持するための頑迷極まりないシステムなのだ。
齊藤「再審を取り消した裁判官たちの顔と名前を出すことに関しては、プロデューサーと何度も話し合いました。批判を受けることは覚悟の上ですが、やはり裁判官は人の運命を左右する責任ある立場にあるんじゃないでしょうか。『テレビのドキュメンタリー番組は中立公正であれ』とよく言われますが、中立公正を守っていると冤罪事件を追うことはできない。名張の事件は東海テレビが開局して間もない頃に起きたこともあり、報道部の先輩記者やカメラマンたちが『奥西死刑囚は冤罪である』という確信のもと、代々バトンを受け継いで取材してきたもの。『約束』はその総決算でもあるんです。ドラマにしたことで幅広い世代からの反響が届きましたが、ドラマといってもすべて分かりやすく描いた内容にはしていません。あまり丁寧に説明しすぎると、観る人たちを受け身にして、考える力を奪ってしまうからです」
何気ないシーンだが、拘置所の高い壁の前を小学生たちの集団が歩いていく様子が何度か挿入されている。壁の外側にいる子どもたちは齊藤ディレクターが東海テレビに入局する以前の姿であり、また私たち自身の姿でもあるのだろう。子どもたちは知らない。壁の中に無実の罪を背負わされ、今日にも処刑されるかも知れないという恐怖と闘い続けている男がいることを。自分の無実を証明するために懸命に生命の炎を保ち続ける奥西死刑囚は現在87歳となる。
仲代達矢、樹木希林らの入魂の演技に胸が熱くなるドラマだが、それだけではこのドラマは終われない。奥西死刑囚の無実が証明されたとき、初めてこのドラマは完結する。固く閉ざされた村社会の扉を、このドラマは激しくノックする。
(文=長野辰次)
『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』
監督・脚本/齊藤潤一 製作/広中幹男、喜多功 音楽/本多俊之 音楽プロデューサー/岡田こずえ 撮影/坂井洋紀 照明/角川雅彦 録音/遠藤淳 美術/高宮祐一 記録/須田麻記子 題字/山本史鳳 音響効果/久保田吉根 編集/奥田繁 助監督/丹羽真哉 監修/門脇康郎 プロデューサー/阿武野勝彦
ナレーション/寺島しのぶ 出演/仲代達矢、樹木希林、天野鎮雄、山本太郎 製作・配給/東海テレビ 配給協力/東風 2月16日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次公開 (c)東海テレビ放送
<http://yakusoku-nabari.jp>
今日はピークを過ぎたといってもやはり強い風です。
こんな日には晴れてほしくないのですが、日が照るとたちまち30℃を超えてしまいます。
出入り口をすこしだけ開けて対応しましたが、中での仕事がはかどりません。
苗立てに使う小さなハウス。
風下にあり、ほかのハウスの陰になって大丈夫だろうと思って肩の部分を少しだけ開けたのですが、失敗でした。
今日もパッカーが飛ばされたりしましたが、被害はなかったと思い、仕事を終えようとしました。家に入る前に全体を見ると、そのハウスの天井部分がおかしいことに気が付きました。
やっぱり、風にあおられたのでしょう。
1mくらい破れています。
上に登って、外から修理しなければなりませんが、今日のところは内側からテープを張って応急処置です。
夜になって、ようやく静かになりました。
疲れる2日間でした。
こちら、昼すぎの風がひどかったです。ハウスの妻面のパッカー(ビニールをパイプに止めるプラスチックの器具)が飛ばされたり、ハウスバンドがずれたり、螺旋杭が抜けたりと、少々大変な状態でした。何とか対処でき、被害は食い止めることができました。ようやくピークを過ぎ、ホッとしているところです。
昨日は、今季最低の3℃でした。霜は降りてませんでした。
今朝は風がどんどん強くなってる感じです。外へ出てみるといろんな物が倒れ、あるいは近くへ、遠くまで、吹っ飛んでいました。まだまだ強くなるようです。
中心気圧が24時間以内に24ヘクトパスカル以上低下するものを爆弾低気圧と呼ぶ。
猛烈な風になるようです。冬には猛烈な地吹雪を伴い、恐ろしい事故につながる可能性があります。ハウス栽培をしていると、この風がとても怖いのです。ビニールがバタバタと風になびくようになると、そこが千切れ、風が入り込み、全体を持っていかれます。または風に耐え切れず、パイプが曲がり、ハウス全体が潰れてしまいます。
今日はひもが緩んでいるところを閉めなおしたり、穴の開いたところを補修したり、風に備えました。