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香山リカー常識を疑え! 「命の選別」を安易に許してはならない理由

2020年06月30日 | 健康・病気

 香山リカ(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

imidas連載コラム 2020/06/30

 新型コロナウイルスの流行が世界規模で続いている。6月18日には1日当たりで過去最多となる15万人以上の新規感染者が確認され、19日、世界保健機関(WHO)のテドロス・アダノム事務局長は「世界は危険な新局面に入った」と警鐘を鳴らした。

 現在の流行の中心は中南米と見られているが、日本でもここにきて感染者数が増えつつある。私は週に1度、コロナ感染が疑われる患者専用の外来がある病院で診療をしているが、5月はじめには日にゼロかせいぜい1人だった検査対象者が、5月末あたりから「日に数人」レベルに増えてきた印象がある。

 そういう中で、6月19日から国内の移動制限は解除され、旅行やイベントも条件つきとはいえ“解禁”になった。通学、通勤で電車や駅にも通常の混雑が戻りつつある。感染者が減る要素はどこにもない、とも言える。幸いにしていまは重症者の数はそれほど多くないが、まったく油断はできないのである。

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 3月から4月にかけてコロナウイルスの感染者が爆発的に増えたヨーロッパでは、事態はより悲惨であった。人工呼吸器や集中治療室のベッドが足りなくなり、重症の患者にも十分な治療ができない、いわゆる「医療崩壊」が起きていることが連日のように報道された。さらにその中で、限られた台数の人工呼吸器を誰につけるか、という「命の選別」を行わざるをえない場面もあったようだ。

 たとえば4月5日の朝日新聞(電子版)では、「父の人工呼吸器、電話で『若者に回す』 命の選別に絶望」というスペインの衝撃的な事例が紹介された。記事によると、感染が判明して入院した80歳の父親の主治医から47歳の息子に電話がかかってきて、「死なせることを許してほしい。75歳以上の高齢者は治療できない。人工呼吸器はつけられない。若い患者に回さないといけないから」と告げられたのだそうだ。主治医は涙声だったという。父親はそのまま亡くなった。息子は朝日新聞からの取材に、「『国が父を死なせた。日本はスペインの経験から学んでほしい』と憤」ったとある。

 その後、日本でも一時はコロナ感染での入院が増え、現場の緊張も高まった。安倍晋三総理は4月半ば、人工呼吸器1万5000台の確保を表明し、国内メーカーに「さらなる増産を」と求めたという。その後、国内では4月末から患者数が減少に転じたため、実際には「呼吸器が足りなくなり『命の選別』をしなければならない」という事態には至らずにすんだ。

 ただ、冒頭でも述べたように、ここにきてまた感染者数は増えてきており、この先、重症者が再び病院のベッドを占有する日がこないとも限らない。いや、夏場にかけては重症化は抑えられても、秋から冬にかけては確実にこの春と同じかそれ以上の流行が国内でも起きるはず、という意見が専門家の間でも出ている。日本では人工呼吸器が不足することはない、などと言い切れる人は誰もいないのである。

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 『週刊新潮』に連載されている医療コラム「医の中の蛙」で、著者の里見清一氏は職場である日本赤十字社医療センターで新型コロナウイルス感染症の治療に奮闘する日常を連続して綴っている。同誌5月28日号では、この感染症での死亡がいかに苛酷なものであるかを記して、「つくづく、長生きは不幸だと感じる」と言う。苛酷さが年齢によって違いがあるとも思えないが、里見医師はおそらく、長生きしたのに感染の危険から家族に看取られることもなくこの世を去らねばならない高齢者を目にして、このように感じたのであろう。

 そして里見医師は、「ピッツバーグ大学が、重症者治療での人工呼吸器やICU使用の優先順位ガイドラインを出している」と紹介し、「その一つに『若者優先』がある」とする。

 里見医師が指すのは、ピッツバーグ大学の救急救命科のダグラス・ホワイト教授らが作成し、4月15日に発表した「緊急事態において限られた医療資源をどう配分するか」の評価基準のことであろう(原文は英語、筆者訳、以下同)。ネットに公開されている実際の評価基準を見ると、たしかに「退院した場合の予測寿命」は項目のひとつになっているものの、ほかにもいくつもの条件を考慮した上で判断が下される仕組みになっており、単純に「若者優先」で人工呼吸器を使用してもらう、といったものではないことがわかる。

 里見医師はコラムをこう締めくくる。「もうすぐこういう『年齢トリアージ』は日本でも喫緊の課題になるだろう。いつまで『生命は平等で、地球より重い』の一つ覚えが通用するのだろうか。」トリアージとは、「患者の重症度をその場で評価して、治療の優先度を決定すること」を意味する災害医療や救急医療で使われる用語だが、『「人生百年」という不幸』(新潮新書)という著書もある里見医師は、はっきりと言ってはいないが、新型コロナでもそうでなくても、医療現場では年齢や残りの予測寿命を確認、評価して、「若者優先」で医療を行ってもよいはずだ、と「年齢による選別」を容認したいのではないだろうか。

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 もちろん、「選別」じたいは医療現場では日常的に行われている。たとえば私の勤務する診療所の待合室にも、「患者さまの状況によって診察の順番が番号通りではないことがありますがご理解ください」というお知らせが貼られている。受付で「とても具合が悪い」と訴える患者さんがいる場合、診察室に連絡が来て、受付番号に関係なく先に診察することはよくある。あるいは、インフルエンザワクチンの接種を希望する親子が来て、ワクチンの残りが1本の場合、「じゃお子さんに先に打って、お母さんは次回にしましょうか」と提案することもある。救急医療や臓器移植医療に携わっている人は、もっとハードな選別をする場面もあるだろう。とはいえ、新型コロナウイルス感染症の場合、いざ感染爆発が起きてしまうと、その選別の機会も爆発的に増えることになる。

 先に紹介したスペインのケースでは、80歳の父親に人工呼吸器は使えない、と医者から告げられた47歳の息子は「憤っていた」と伝えられる。里見医師が考えるように、「つくづく、長生きは不幸」だから「若者優先」でどうぞ、などとは言わなかったのだ。

 もし、日本でも人工呼吸器が不足するような事態が起きた場合はどうなるのだろう。スペインでのケースのように、「親を死なせるなんて許せない」と憤る人が続出するのだろうか。あるいは、高齢者も「もし私がコロナになったらちゃんと人工呼吸器を使ってくれ」と言うだろうか。

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 どうもそうではなさそう、ということが、あるカードの提案により示された。そのカードとは、大阪の医師が高齢者向けに「集中治療を譲る意志」を表示するもの、として作成した通称「譲(ゆずる)カード」だ。このカードは、発電型健康用具の普及を目的として作られた「日本原始力発電所協会」という一般社団法人のホームページで4月8日に公表された。カードの説明の一部を引用しよう。

「イタリアでは回復見込みの少ない高齢者の人工呼吸器を取り外して若い人に使用すると言う『命の選択』が始まっています。ただでさえ忙しい医療関係者に『命の選択』まで迫るのは酷な話です。では医療関係者がそのような苦渋の判断をする苦労を少なくするにはどうすれば良いでしょうか?

 それは我々高齢者が『高度医療を万が一の時に若者に譲ると言う意思』を示せば良いのではないでしょうか?」

 考案した石蔵文信氏は、64歳の現役循環器内科医である。ただ、インタビューでは自身も前立腺がんを患っており、「助かる可能性が高い若い人の治療を優先してほしい」とこのカードに署名して保持していると語っているので、「選ぶ側」としてだけではなくて「譲る側」の一員としても作ったのかもしれない。

 石蔵医師がこのカードを公表するとサイトへのアクセスが増え、テレビの情報番組からもコメントを求められるなど、次第に注目が集まっていく。

 『週刊ポスト』(5月22・29日号)では「「若者にコロナ治療譲ります」あなたはこのカードに署名できますか?」としてこのカードを取り上げ、評論家の呉智英氏が「今こそ『トリアージ』の問題を本格的に議論していくべき」「現役医師(石蔵氏)が提唱したこのカードは意義のあることだと思います」と高く評価した。

 この流れだけを見ると、日本では「年齢によって『命の選別』をするなんてとんでもない」と憤るどころか、高齢の当事者が自ら「医療資源を若い人に譲ります」と申告しようとしているように思える。

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 しかし、本当にこれは高齢者の自発的な意思と言えるのだろうか。

 たしかに、かなり前から「人生の最終段階(終末期)を迎えたときの医療の選択について事前に文書などで意思表示しておく」、つまりリビング・ウィルの動きが広まり、現在は高齢者の入院に際して、医師が家族に「もしもの場合の延命措置はどうしますか」と確認するのも一般的となった。また、リビング・ウィルを含め「最期をすごす場所」などについて、患者の意思決定がはっきりしているうちに家族らと話しあっておく「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」を、いま厚労省も勧めている。

 とはいえ、このリビング・ウィルやACPに関しても、「それは本当に自分の意思なのか」という問題がつきまとうことは事実だ。私も、かつて入院中の何人もの高齢の患者さんたちから、「本当はもっと生きたい」「家族に迷惑はかけたくないが死にたくない」という言葉を聞いた。家族にしても同様で、入院時には「延命措置はいりません」と申告したが、いざとなったら「見殺しにしないで!」と叫んだ人もいた。それは当然だと思う。自分あるいは親の死という、ある意味、人生でいちばん大きなできごとの前で、冷静でいられる人などいるわけはない。ホスピス医として患者さんたちに「死は怖くありませんよ」などと伝えてきた人が、自分ががんになったとたん「最新の治療を受けたい。なんとしても助かりたい」と言い出した、という話も聴いたことがある。それもまた驚くことではない。仕事として第三者に接するのと、「当事者」として直接、体験するのとでは、できごとの意味が決定的に変わるのは自然のことだ。

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 ここで私が言いたいのは、「考えがぶれるのはあたりまえ」ということだけではない。本人が「自分の意思」としたことでさえ、立場や状況によってこれほど変わるのだ。まして、そこに周囲からの圧力や世間の意思が介入したらどうなるだろう。「いま『譲カード』というのが流行ってるらしいよ」と家族から聞かされたり見せられたりした高齢者が、自分の意思かどうかもさだかではないのに、「自分も所持しなければならないのか」と感じて署名することもあるのではないだろうか。あるいは、一度は「それはいいね」と署名し、その後、考えが変わったとしても「もうやめる」と言い出しにくい、ということもあるはずだ。

 石蔵医師は、このカードは「命の選別」を行う医療関係者に負担をかけないため、と目的を語っていた。もしこれが普及し、コロナ感染症の第二波で人工呼吸器が不足したとき、カードを持った高齢者が搬送されてきたら医師は本当に呼吸器を装着しないのだろうか。助かる可能性がきわめて低い進行性の病の末期にある患者に延命措置をしないことと、コロナによる肺炎など急性の疾患の患者に必要な手当てをしないことでは、その重みはまったく違う。このカード一枚程度で、医師が「若い人に呼吸器を使おう」と決断するのはあまりに安易ではないか。「命の選別」というのはあくまでも、前半で紹介したスペインのケースのように、行う医者は涙声で家族に伝え、その家族は「国に殺された」と憤りをぶちまける、というようなものなのだ。いや、そうでなくてはならない。どんな意思表示の手段ができたとしても、「命の選別」が機械的なものになったり、行うものが自分がしたことの重大さに痛みを感じずにすんだりすべきではない、と私は思う。

 そうでないと、「命の選別」はあっという間にその範囲を広げていくかもしれない。たとえば、「退院できた場合の予測寿命」が選別の基準のひとつになるのであれば、「年齢は若いが、がんで余命が限られている」という子どもの治療はどうする? 身体に重い障害があって寝たきりの場合は「予測寿命」を健常な人と同じと考えてよいの?といった具合だ。

 さらに、「予測寿命」だけではなく「その間にどれくらい生産性を上げて社会に貢献できるか」といった要素も折り込んではどうか、という議論は出ないだろうか。そんなことは考えすぎだと思う人もいるかもしれないが、それは違う。

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 今回の新型コロナウイルス対策として、国はひとり一律10万円の特別定額給付金を支給することを決めた。しかし、それが生活保護世帯の人たちにも支給され、収入として認定されない(つまり生活保護の給付金は減額されない)ことをめぐり、一部で「生活保護バッシング」が起きたのだ。それを伝える6月16日の西日本新聞の記事(「『10万円給付金もらうな』生活保護バッシングなぜ起きる」)によると、同社の読者投稿コーナーにも「働かざる者、10万円もらうべからず」という趣旨のコメントが相次いだという。

 つまり、ここには「より困窮している人が支援を受けられるべき」どころか、コロナの被害は全国民に等しく及んだのだから、みな同じく支援を受けられるべき」という考えすらなく、「働いていない人は除外した方がよい」という明らかな選別の意識があるのだ。ここから人工呼吸器などの使用に関して「仕事をしている人と生活保護の人、どちらを優先すべきか」という議論に発展したとしても、おかしくはないだろう。

 日本には、小説家の深沢七郎(1914~87年)が『楢山節考』(56年)で描いたような「姥捨て」の伝説がある。それがどこまで事実であったかは別として、現在も「誰にも迷惑をかけずに死にたい」との願いを叶えるという通称ぽっくり寺が全国にあって参拝客でにぎわうなど、「命の選別」に対して、それをする側もされる側も意外に抵抗がない土壌があるように思う。さらにそこに経済至上主義、ネオリベラリズムの考えが加わり、「稼げる人が社会に役立つ人」と同時に「稼げない人は不要な人」という価値観も若い人を中心に強まりつつある。その中では、「誰の命も平等」という意識を繰り返し確認し続けないと、あっという間に「命の重みには軽重や傾斜がある」といった考えが広まり、気づいたら「年齢トリアージ」にとどまらず「健康トリアージ」「収入トリアージ」「才能トリアージ」などがあたりまえに、という悪夢が訪れないとも限らないのだ。

 さらに、もし第三者によって行われるトリアージではなく、「譲カード」のように自己申告制であれば、そこで選ばれる死は本当に「自己決定による死」なのか、という問題もある。医療社会学を専門とする市野川容孝氏は、『ナチズムの安楽死をどう〈理解〉すべきか」(「imago」96年9月号所収)という論文の中で、ナチスのプロパガンダ映画において神経難病の患者が安楽死を望み、夫によって実行されるというシナリオをあげながら、「自己決定」の名のもとに、身体障害者や精神障害者が無意識のうちに抑圧されてそうせざるをえなかった可能性に言及している。『楢山節考』のおりんも、安楽死につながる「楢山参り」を渋る息子・辰平を叱咤激励するようにして山に入る。一見、これも「自己決定による死」に見えるが、本当にそうなのだろうか。たとえ本人はそう思っていても、長年の風習、村の雰囲気などさまざまな要素が幾重にも重なり合い、無意識のうちにおりんにそれを“選ばせている”という可能性はないだろうか。何をもってして「(本当の)自己決定」とすべきかは、それほど単純に定義することはできないのである。

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 「譲カード」には、もちろんそんな悪意や思惑などはないだろう。あくまで「若い人に生きてもらいたい、現場の医者たちを困らせたくない」という善意で考案されたもののはずだ。善意であるだけに批判がむずかしく、それが内包している問題は見えづらいが、だからこそ、ここまで述べてきたようにいっそう深刻なのだ。

 きれいごとは言っていられない。それはたしかにそうだろう。

それでも、「誰の命も平等」。この原則はいくら新型コロナウイルス感染症が猛威をふるい、医療現場が逼迫してもすべての人が忘れてはならないことだ、と私は思うのだ。


 医療現場では様々な「選択」がなされるのかもしれない。しかし、十分な医療体制が整っていれば、その選択は極めて小さいものになっていくはず。限られた医療体制の中ではなく、平時にこそすべての「命」に向き合える体制をとる必要があると思う。

今日の散歩道

こちらもサクランボの木です。手が届きません。