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築地移転 20年目の真実

2017年06月27日 | 社会・経済

 「バブルの宴」の尻拭いに流用された2400億円もの積立金
                          日刊ゲンダイ 2017年6月23日

 水谷和子
2009年から豊洲市場汚染地購入賠償請求裁判に原告参加。最新著は「築地移転の謎 なぜ汚染地なのか」(花伝社)。

   1999年5月に東京都の市場当局が、当選まもない石原慎太郎知事ら都庁幹部に配布した会議資料。開示請求すると、そこには〈積立金の状況〉として約3005億円のうち、既に400億円を一般会計に貸し付け、99年度にはさらに2000億円を貸し付けることが書かれていました。

  築地市場を含む都内11カ所の卸売市場の会計予算は都の一般会計から切り離し、独立採算が原則です。市場会計の積立金は当時の築地市場の現地再整備に向け蓄えてきたものでした。

  最初に400億円を貸し付けたのは、96年のこと。91年に着工した再整備工事が中断した年と重なります。そのうえ、2000億円も一般会計に回せば積立金は605億円しか残らない。この時点で、当初予算2380億円だった再整備はもう賄いきれません。

  なぜ巨額の積立金を無謀にも取り崩したのか。その答えには、当時の東京都の財政状況が大きく影響しています。

   88年に当時の鈴木俊一都知事が鳴り物入りで立ち上げた「東京臨海副都心開発基本計画」――。土地の投機熱が頂点に達していた頃の壮大なプロジェクトは、バブル崩壊によって進出企業が次々と撤退。臨海部の開発資金は主に進出企業に出資を募る独立採算の特別会計(臨海会計)で賄っていましたが、撤退企業への権利金の返済ラッシュで行き詰まったのです。

  そして臨海会計はいよいよ底を尽き、現預金の残高は2000万円弱という悲惨な状況となりました。臨海会計の破綻危機を救ったのが、築地再整備の積立金でした。一般会計に貸し付けた計2400億円は巡り巡って、バブル政策の尻拭いに流用されたのです。

  破綻危機を脱して貸付金が無事完済されたのは2006年。結局、7年間も待たされましたが、99年当時の危機的状況下では本当に返済されるのか、市場当局も気を揉んでいたはず。目減りした市場会計の穴埋め策として浮上したのが、築地市場の跡地売却と豊洲移転のワンセットでした。

 99年5月の石原知事らへの事業説明は「豊洲ありき」の議論が繰り広げられていました。(つづく)

 ハナから「豊洲ありき」 石原都政幹部の生々しいやりとり

               2017年6月24日

 都の卸売市場の会計予算は独立採算が原則。1999年5月13日には当時の宮城哲夫市場長が、当選間もない石原慎太郎都知事に逼迫した予算状況を説明しています。開示請求で公開された〈説明の概要〉という資料には、生々しいやりとりが記録されていました。

 〈豊洲の開発は、地権者との最終合意が平成13(2001)年に予定されており、それから逆算すると平成11(1999)年10月頃には結論を出さないといけない〉

  〈豊洲周辺は道路整備が進んでいるが、幹線道路の整備が平成27(2015)年には終了するので、その時点で移れば、現在地(築地)で20年30年かけて整備するより短時間で再整備をすることができる〉

   表向きはまだ、再整備と移転の双方を検討していた時期なのに、説明はハナから「豊洲ありき」。現実の移転スケジュールも宮城氏の言い分通りに、ほぼ進みました。都庁の「一度決めたら変えられない」体質がよくうかがえます。

  ただ、この会議の場で宮城氏に反論する都庁幹部もいました。副知事だった青山佾氏です。開示資料によると、青山氏は当時、築地市場がどこにあるべきかの検討会のトップを務めていました。青山氏は石原知事に向かってこう言います。

 〈移転で腹を決めても、中央区は反対しているし、関係の議員も反対している。また、移転跡地の売却を考えているが難しい面があるし、公園整備など一般会計の持ち出しが必要になることも考えられ、慎重な判断が必要である〉

  青山氏は現在、ワイドショーのゲストに呼ばれる機会も多いのですが、まるで部外者のような顔で移転問題にコメントしているのは、なぜでしょう。浜渦武生元副知事らと同じくれっきとした移転問題の責任者です。

  さて、この日の説明会で石原知事は〈遠洋漁船は築地に接岸できるのか〉〈大田市場の移転はどのくらいかかったのか〉と質問したにすぎません。しかし、この日の説明が3カ月後に石原知事を大きく動かした「証拠」も、私は情報公開で入手してあります。 (つづく)

 「最後はカネ」であっさり片づけた 石原知事のツルの一声

       2017年6月27日

   頓挫した臨海開発の尻拭いに築地市場再整備の積立金2400億円を流用し、「豊洲ありき」の移転計画と築地跡地売却のセットで穴埋めする――当時の市場長から就任直後に説明を受けてから3カ月。ついに石原慎太郎都知事が決断します。

  開示請求して入手した1999年8月10日付の「Gブリ資料」。Gは「Governor=知事」の略で、知事へのブリーフィングを指す都庁用語です。市場当局の作成で「築地市場の再整備について」と題し、A4用紙7枚に「現地再整備」と「豊洲移転」の課題をまとめてあります。この際の石原氏の発言記録は同年8月13日付の「Gブリ概要」に残っていました。

 〈移すだけの話。多摩の方に行くわけじゃないんだよな〉〈移転の場合、豊洲はいつ頃から工事に入る予定か〉〈いまのアクセスではだめだろ。この地区だけ環2を早くつくればいいのでは〉

百条委では脳梗塞の後遺症で「すべての字を忘れた」と知らぬ存ぜぬだった石原氏の当時の認識が分かります。そして、こう結論づけました。

 〈予算の面が何より重要だな〉〈ローリング(築地市場を営業しながらの再整備)なんかでやっていられない。移転しかないな〉〈築地市場には視察に行く〉

   豊洲移転が事実上、決まった瞬間です。約3週間後、生まれて初めて築地市場を視察した石原氏の感想は「古い、狭い、危ない」。ここから豊洲移転が具体的に動き始めました。

  注目は〈予算の面が何より重要〉とした石原氏の決断理由です。臨海開発の後始末に積立金を流用した都のフトコロ事情が、移転の最大の要因だと証明しています。

  驚くのはGブリ資料に現地再整備の問題点として〈建設費用はトータルで約2400億円に達する見込み〉と記されていること。現在まで都が公開してきた額は、96年に都が再試算した約3400億円です。1000億円もの開きは、都が積立金の流用をごまかすため、莫大なコストをデッチあげ、業者に再整備をあきらめさせる狙いがあったとしか思えません。

  ひもといてきた築地移転の「謀議」は常に密室で話し合われ、都民は「真実」を知らされることはなかった。「築地再整備は不可能」とするデマに20年近くもダマされてきたのです。 (おわり)

 

 

食品のカラクリと食べ物語

http://blog.goo.ne.jp/galaxy-karakuri/e/a2ca99fe8b76889872fc46f2bd981bd5

 より

 元東京ガス社員証言・豊洲の東京ガスが出した汚染物質は築地とは桁違い

 ■証言・公益事業者が消費者の利益を忘れ健康被害を出すことは避けてほしい

 豊洲にあった「東京ガス工場の規模(汚染度)を知らないのか」「生鮮市場などありえない」と、元東京ガスの社員だった方の証言を載せます。しんぶん赤旗に載っていた記事を、ほぼそのまま投稿する次第です。労働組合中央委員だった、伊野正之(ただゆき)さん(78歳)の悲痛な声です。都議会でも、当時の酷い状態を証言されてきました。長年、現場で作業された方なので、文章をご覧になれば桁違いの汚染の酷さが切実に伝わってきます。さて飽くまで現状で測ったデータから、自民党や専門家会議は安全だと簡単に言い切りますが、果たしてそうなのでしょうか?

 【注意】文章各所のタイトルは投稿者が付け、また一部の補足説明を行っております。

  地下4.5mまでの土壌を交換したと都が言ってますが、その下の汚染物質は完全に取り除かれてはいません。伊野氏や多くの専門家が言うように、地下水が地上付近まで湧き上がっており、交換した土壌を再汚染しているのです。私は豊洲と同じ江東区に住み、子供の頃、高度成長期の湾岸地帯の汚染を体験しているだけに、おっしゃることが手に取るように分かります。伊野氏が語るように当時は環境基準も意識も低く、ベンゼン・シアンなどの汚染物質は、そこら中にぶちまけていた訳です。また「豊洲雨」(下記)が1年中降り続いていたので、いくら土壌改善したところで、所詮、無理なんです。役人や政治家は、歴史も現実も、また労働者が経験で積んだ貴重な危険回避の術も何も分かっていないのです。これから半世紀後の将来に対し、私達の判断が求められています。まだ遅くないので、豊洲には行くべきでないと声をあげましょう。政治家や役人、自民党よりのメディア(コメンテーター)に騙されてはいけません。

  ■伊野正之氏の証言■

▽有害物質の「豊洲雨」が1日120回・20年間降り続き地面に浸み込んだ

 ・私が東京ガス豊洲工場で働き始めたのは1957年です。石炭乾留(かんりゅう=密閉した炉内で石炭を約1000度で加熱し、揮発分と残留物を分ける作業)によって、ガスを取り出す「室炉(しつろ)」と呼ばれる職場で働きました。

・室炉から出てくる石炭殻は大量の水で冷やされ、消火塔からはモクモクと蒸気が上がりました。その蒸気が炭の粉を含んだ水滴となって降り、私たちは「豊洲雨(とよすあめ)」と呼んでいました。豊洲雨に有害物質が含まれていたと知るのは後のことです。

・豊洲雨は1日当たり120回、20年間降り続け、豊洲の地盤にしみ込みました。晴海や月島からも、蒸気はよく見え、豊洲の象徴でした。石炭乾留の副産物のタールなどの残留物にも、ベンゼン、シアン、ヒ素、水銀、鉛、六価クロムなどの有害物質が含まれていました。

 ▽排水も海水で薄めてそのまま高濃度のまま東京湾に流した

 ・当時は戦後復興から経済成長の時期で、首都圏のガス需要は逼迫(ひっぱく)しました。24時間、365日、30年間も、盆も正月も休まず、旺盛に稼働した場所は・・・[省略]・・・1000人近い労働者が不夜城として稼働させたのが、豊洲工場です。

・技術革新ごとに最新のプラントが建設され、原料は石炭から石油、ナフサ、LPG、天然ガスと変わり、排出される有害物質もさまざまに変化しました。

・工場からの大量の煙は、湾岸沿いの他の工場と一体となってスモッグ公害として問題になりました。美濃部亮吉革新都知事が誕生(1967年)し、やっと規制が始まりました。都庁と直通の「赤電話」が鳴ると硫黄分をあまり出さない「ミナス」という高価な原料に切り替えたものです。

 [投稿者補足]①ミナス/東南アジア産の低硫黄分の原油 ②赤電話/都が都内各所の大気汚染を計測しており、規制数値に近づくと通告してきたと思われます。

・排水も無害化することにはなっていましたが、実際は海水で薄めて、今では信じられない濃度で流しました。

 ▽土壌交換した盛り土も既に有害物質で汚染されている

 ・豊洲は、東京湾を埋め立てた地盤の弱い土地です。地下水位が高く、海と河で囲まれ、潮の干満の影響をもろに受けます。

・地中に潜った汚染は、それ自体が汚染されていた潮の満ち引きやパイピング現象(水圧の高いところから低いところへ向かって流れる現象)によって、縦にも横にも移動します。地面の中の汚染が動くのです。

・コンクリートで表面を覆ったとしても、地盤の悪い豊洲は地震の液状化で地中の物質が地上に出てきます。東日本大震災の翌日、豊洲を見にいきました。土砂と一緒になった泥水の大きな噴き出しを見て驚き、汚染も湧いたのではと思います。

・「築地も、駐留軍のクリーニング工場やガソリンスタンドがあって、汚染されている」という人がいますが、(豊洲とは)質や桁が全く違います。ネズミだとか、雨漏りなどとは、比べる次元では到底ありません。

 ▽豊洲移転は消費者の健康を害しこんなに恥ずかしいことはない

 ・東京ガスの当事者は、汚染の事実を知っています。同様の工場があった南千住(荒川区)や大森(大田区)は、汚染対策を実施していますが手放していません。売れるような土壌にしようとすれば、巨額の汚染除去費が掛かるからでしょう。

 [投稿者補足]現在は、南千住/水素ステーション・関連事業 大森/グラウンドなどに使用されています。

・公益事業者であるガス会社が大手ゼネコンと一緒になって再開発ビジネスに手を染め、消費者の利益を忘れたり、健康被害を出したりするようなことは避けてほしい。

・大企業による公害は、チッソの水俣から始まって東京電力の放射能汚染で極まっています。豊洲へ生鮮市場の移転を強行すれば、日本や世界に流通する食物に、東京ガスが出した汚染物質が付着し、人の体をいためることになるかもしれません。人間として、一労働者として、こんな恥ずかしいことはありません。