カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」52 

2012年12月28日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の第四主日
「カトリック教会の教え」から
「回心と赦し」
カトリック教会の教えでは神様がいつもどんな時でも赦してくださると教えられますが、このような神秘的な恵みをいただくのは自動的な出来ごとではありません。確かに必要とするのは自分が間違ったことを認めること、それに告白をしながら、おゆるしを願うこと、最後に回心することです。回心するのは犯した罪を二度と犯さないように約束することです。けれども人間は間違い安い、弱いものですから、お医者さんのようにイエス様が人間の弱さ、人間の傷を癒すものです。「罪」、とはどのようなことでしょうか。それは、とても簡単なことです。聖書の中にイエス様がわたしたちに命じたものがあります。それは、「互いに愛し合いなさい」です。つまり、キリスト教における最大で唯一の掟は、「愛」なのです。ですから、この「愛」に背くこと、それが罪なのです。では、具体的には、どのようなことになるのでしょうか?そのためには、「愛」ということがわかっていないならば、罪が何であるのかがわからないでしょう。
 「愛」は、自分をたとえ犠牲にしてでも、相手の人に奉仕するということです。相手の人が、わたしたちに何を求めているのか?何をして欲しいのか?ということを的確につかみ、相手の人の目線で物事を見、相手と同じ地面(立場)に立って、共に考え、感じ、そして、相手の人と同じペースで歩んでいこうとすることです。別の言い方をすれば、人に対する、気配り、配慮、思いやりといったようなことばになるでしょう。このような見方をするならば、罪の概念が浮かび上がってきます。以前の罪の概念ならば、罪のリストに載っていないものは、罪だとはいえないという思いがありました。ですから、最近の人は、罪のリストに載るほどの罪を犯していないので、赦しの秘蹟を受ける必要がないと思っています。でも「愛」を基準に罪を考えるならば、どんな人でも罪を犯している、または犯す危険性があるといえるのです。
 たとえば、誰かに対して、善意から親切にしたとします。でも受け取った側にしてみれば、とても迷惑な行動、いわゆるありがた迷惑といったことがありえます。これは、わたしたちも経験していることでしょう。もし、たとえ良いことであっても、また善意からの行動であったとしても、受け取る側に何らかの迷惑をかけているのであれば、それは、罪とはならないにしても過ちにはなります。この過ちにどれだけ気づけるかが大切です。もし、この過ちを放っておくならば、わたしたちは自分中心のものの見方や考え方、また、自己満足によって、相手を支配することにもなってしまいます。そうではなくて、たとえ良いことであっても、その後の相手の人の受け取り方はどうであったのかという、相手を思いやる気持ち、これが必要なのです。もし、これがないのであれば、それは傲慢という罪を犯している可能性が出てきます。
 「愛」に反するものは、自己中心性です。「自分だけが大切」とか「自分の思い通りにやろうとする」、こういった傾向は、人間であるならば、だれでも持っています。でも、その傾向にどれだけ気づいていけるかが大切なのです。気づこうとするならば、過ちから罪に変わる危険性を低くすることができます。
 ですから、誰かに注意をしたりする時にも、その人のことをどれだけ最大限に考えることができるのか、その人の立場に立って物事を考えられるのかということが一つのポイントとなります。
 自分を見つめる時、また赦しの秘蹟を受けようと準備をする時、自分が何をやったかを見つめ直すことも大切ですが、それと同時に、自分のやったことに対して、相手の人がどのように感じたのかをも見つめ直すようにしましょう。そうすることによって、少しずつわたしたちの中の愛が成長していき、「自分のためだけではなく」、「他者のために生きる」ことができるようになっていくでしょう。そして、相手の人を思いやる気持ちが育まれていくならば、もっともっと自分らしく生きることができる教会、社会になっていくに違いありません。
 もう一度繰り返しますが、「罪」というのは、「愛」に反する行いです。それも「思い、ことば、行い、怠り」によって、「愛」に反しているもの、それが「罪」です。その意味では、罪の概念は、以前よりも広くなり、かつ曖昧になっているのも事実です。でも誰かから言われなければ罪でないとか、人に迷惑をかけていないから罪ではないといったことは、「愛」という観点から見るならば、問題のある行動であるといえるのです。
 自分の行動のすべてに責任を持ち、また相手に対して、特に相手の心を自分の知らないうちに、どれだけ傷つけてしまったかと言うことを思いやり、気遣う姿勢、これを身につけ、本当の良心の究明を果たし、自分の中に「愛」に反した行い、つまり自己中心性に気づき、神様や周りの人々などの共同体に対してあやまるためにも、もっともっと赦しの秘蹟に近づいて欲しいものです.
                                   デンニ神父 

「今週の公教要理の錠剤」53

2012年12月28日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の降誕祭    2012・12・30
  「カトリック教会の教え」から
「 人間の徳と救いの恵み」
どんな人でも良い行いを行うように呼びかけられていますが、キリスト信者は特別に、自分の日常生活の中で、イエス様に従って良い行いを探し求めて行うように呼びかけられています。それはイエス様の言葉と行いを手本にし、イエス様の教えを守り、聖霊の力によって愛で満ちた行いをいつも実践できるように願っているからです。このようにキリスト信者は、少しずつイエス様の思い、その心の慈しみに元づいて自分の人生に習慣を作り、イエス様と同じように、考えと行いをなし続ければ自分の人生の中で徳が身に着くことになります。このように悪い性格を削りながら、良い習慣、より良い性格を身につけるように努めています。キリスト信者の欠かせない特徴は謙虚さの中で、熱情、正義を行うことです。勇気なども聖霊の賜物であり、その力によってキリスト信者はイエス様の生き方に自分を合わせるようにします。隣人を愛することが出来るようになる為に、節制を含んだ生活は欠かせないことです。だからキリスト信者には、徳を持った生活が大きな目標になります。徳とはイエス様の足跡を踏みながら、イエス様の生き方に合わせた生き方です。良い行いを続け、身に徳を付けるのは自分自身で出来ることではなく、神様の恵みによるのです。お手本であるイエス様のことを見ながら、少しずつ、絶えず、歩まなければならないのです。信じるのも、どこにでも神様のわざを見るのも優れた徳です。けれども、キリスト信者の素晴らし冠は愛徳のことです。神様の愛の理由で人を愛する、そして弱いものに仕えることはいろんな徳の中で最も優れたキリスト信者の生き方です。
                              モヨリ神父