カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第六主日

2011年02月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様を愛される皆様へ

「人間にとって最高の幸せは、ただ神様の為だけに生き、働き、喜ぶことです。」聖フランシスコ・サレジオ

此の文章のためにいつも参考にしている「くまもと歳時記」に「踏み絵」「絵踏み」が季語として取り上げられているのを発見して、少し不思議に感じました。踏み絵はキリシタン信者でないことの証や転宗を確かめるために、聖母マリアやキリストの絵像を跣で踏ませることです。また、この絵を踏み絵といいます。江戸時代、旧暦一月四日ごろから三月にかけて行われていました。天草の本渡にある切支丹館には、天草四郎陣中旗や十字架とともに踏み絵が陳列されています。
さて、わたし達の目の前によくあらわれる文字があります。しかし、それが完全な意味を発揮するのは難しい時がすくなくありません。それは「聖」です。読み方もさまざまで「ひじり、せい、しょう.・・・」などです。どんな宗教の中でも使われているし、特別にキリスト教では専門用語になっています。聖書には聖と言う字は8〇〇回以上記されています。聖書によると聖なるものはまず、神様です。神様がおられる場所、山、祭壇、聖堂。神様に関係するもの、神様とかかわる人間も、聖と言われます。たとえば、聖堂、聖書、聖人…などです。しかしこの文字の意味を聖書を通して分析すると、「命」と意味づけられます。さて、具体的にそれを確かめてみましょう。「聖」の反対語は汚れと俗です。旧約の時代、汚れた者は重い皮膚病を患っている人でした。イエス様の時代の初めにも、死んだ者として扱われていました。しかし、イエス様の奇跡的な力によって、清い者とされて生きるようになりました。命を与えるのは神様だけです。つまり神様から命をいただく者は神様の前で聖なる者になるのです。聖なる者はまず、生ける神です。命を与える神、永久に生きる神なのです。死に勝って、復活されたイエス様は、いと高き聖なるものです。イエス様の為に命を捧げた殉教者も聖なる者として永遠に生きるのです。イエス様と同じように生きた者、イエス様と一緒に死んで復活された者は聖人として、命を与える者になります。このように生き生きとした者の命が、神様を誉めたたえています。
マタイによる福音 5・17-37
イエス様は旧約聖書から受け継がれた大切なところを評価されて、それを乗り越えて、場合によって廃止する時もあります。イエス様だけが、旧約聖書の言葉を信仰の深みで理解することが出来ました。しかし「私が言う」という表現に、イエス様の新しい心のメッセージや教えの権威もすべて含まれています。イエス様はファリザイ派の人たちと違って、言葉の数に頼らず、自分自身の中に権威を定められたことを示しました。実際に皆がイエス様の権威のある教えに対して驚きました。なぜなら、旧約聖書で教えられたことを遥かに超えていたからです。当福音書では四つのテーマ(殺意,姦淫、離婚、誓い)について旧約聖書の細かい教えを述べながら、「しかし私が言う」とそれを乗り越えた新しく素晴らしいメッセージを述べています。イエス様は、預言と法律を完成する為にこの世に来られたことを宣言しました。「完成」の具体的な意味は、完全に守ること、完成すること、実現することだと示しています、しかしよく見てみれば完全に守ることは、おそらく、イエス様の思いに含まれていないことでした。実際に福音書では、イエス様が安息日の法を守らない時があったり、弟子たちと断食を守らないで、弟子たちにもそうするように教えたり、清めのしきたりをも守らないようにしました。だから旧約聖書を完成するには、イエス様にとって、言葉通り完全に守ることではなく、イエス様の心の教えの通り、その言葉を新たにみられるようにするのです。イエス様がこの世に来られたのは、預言者たちが希望したことを満たすためです。つまり、それは愛の法を教えながら、新しい法、石の上に書いたものではなく、神様につながる法であり、人間の心の中に置かれた法なのです。                    モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用


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