カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 主の洗礼の主日

2011年01月06日 | 神父様からメッセージ(A年)
神様を愛される皆様へ、
「天国と同じような神様の喜びを探し求めるなら、
       この世の惨めさと天国のことも同様に愛すべきなのです。」 聖フランシスコ・サレジオ

筆始めは、書き初め、吉書、試書とも言い、新年になって初めて書や絵をかくこと。多く二日に行う。念頭に自信の大切な言葉を家族に表明する恥ずかしさとうれしさが正月を寿ぐ。筆の穂は、人の神経系を束ねたように繊細微妙な変化を見せ、書く人の呼吸に裏打ちされた一回性の美を描く。そして白い紙は、優しく黒(自我、人為)を包み込む。そういえば、昭和の時代まで「ふで」という名前の女性が多くいた。
さて、書き初めで初めて年の頭に字が書かれたことと考え合わせて、31日のミサの中で詠まれたヨハネの福音書が心に浮かんできます。「始めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 この言は実際に年が明けると書かれるようになります。とても素晴らしい出来事ではないでしょうか。神である言は皆の心に宿りながら、白い平面の上に浮かんできて美しく読めるようになります。神様である言は人の指導、人の道、人の喜びでありながら、人に筆だけではなく、人生に心で書かれています。人に神様の素晴らしさを語ってくれるどんな言も神様です。日本の文化自体にキリスト教との接点が沢山あります。それを発見する時に感動を覚え、大きな喜びを感じます。また、新年になって最初に炉に掛けられることから「初釜」は、茶の湯の重要な行事で、儀式化された美を作り出し、改めて縁を思い、生を省みる場にすると言います。お茶も心と心が触れ合う場として、大自然の実りで持て成すものです。それをいただく人は神様の愛情をたとえながら大自然の香りに包まれて、とても素晴らしい一年を歩み始めます。

マタイによる福音書 3・13-17 イエス洗礼を受ける
当福音書のエピソードは、洗礼者ヨハネによるイエス様の洗礼と、イエス様が神様の愛された子であるというお告げを語っています。典礼は、祈りを通してもこのような神秘を自分の人生でも深めるように勧めています。さて、福音書は三つの場面に分けられています。一番目はイエス様がヨルダン川で洗礼を受ける、二番目はイエス様と洗礼者ヨハネとの不思議な対話、三番目は聖霊が降りてきて、イエス様は神の子であることを告げ知らせています。 二番目の場面の中で、洗礼者ヨハネはイエス様が自分より偉い方だと認めていますが、実際にはイエス様はそれを無視し、洗礼者ヨハネの前で頭を下げて、洗礼や祝福を求めています。イエス様はこのように、神様から約束された通り、僕としてこの世に使わされて人類の罪を背負って、人を神様のところに連れていく決心を示されています。このようにイエス様は、皆の僕として、皆に使えて神様の約束されたことばを実現されています。三番目の場面は、当福音書の中で基本的なところであり、神様のお告げです。まず鳩のような形で、つまり象徴的な形ですが、聖霊がイエス様の上に降ります。聖霊はイエス様の中にいつも存在し、その力によってイエス様が自分の使命を果たし続けています。そして、イエス様がこの世で自分の使命を全うされた後、同じ聖霊を自分の教会に移します。つぎに神様のお告げは、聖霊が降ってから神様のお声がイエス様の真実の姿を知らせます。イエス様の真実の姿は二つの預言的な表現で明らかにされています。「これは私の愛する子」。このようなことばでイエス様がメシアであり、王であることも昔のイスラエルの王達のように神様に任命されています。「私の心にかなうもの」このことばによって神様は人類に、イエス様がメシアであり神様の愛の計画を自分の人生を尽くして全うされ実現された僕であると告げられています。                            モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」 (熊本日日新聞社)より一部引用

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