カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 C年 年間第二十八主日

2010年10月08日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「いつも親切と愛情をもって隣人と付き合うようにしなさい。」聖フランシスコ・サレシオ

10月8日は「寒露」、秋の山野に宿る露の意味で朝夕に寒気を感じ始めます。五穀の収穫もたけなわで、雁が渡り、菊が咲きます。また薄(すすき)は山野に自生するイネ科の多年草で、秋の七草の一つです。古い名はカヤで、この葉や茎が茅葺き屋根の材料となっています。秋、茎先に花穂を出すがこれを尾花といいます、それが光りなびく様は荘観です。
さてキリスト信者はいつも欠かせない大きな感謝の心を味わいながら過ごしています。神様に対して、また神様の姿を示す周囲にいる人に対してもいつも大きな感謝をもっています。それを表す方法は様々で、感謝の心はいくつもの理由から発生します。まず神様からいただいた命、この心と体、そして大きな喜びのため、それは神秘的に洗礼の儀式に認められた信仰を下さったことのためです。このような贈り物によってキリスト信者の人生は豊になって大きな感謝の心を持っています。それに従って、その感謝の心は大きな喜び、心の平和で明確にされています。神様にどのような恩返しをすればよいかキリスト信者が考えるよりもまず、大きな贈り物を与えてくださった方に賛美を、そしてその贈り物を受け入れながら大切にし、自分の身を小さくして深く頭を下れるしかありません。そしてキリスト信者は自分の毎日の務め、良い行いを重ねることによっても神様に普遍的な感謝の心を表します。
ルカによる福音書17・11-19
人間にとって神様に感謝の心を表すのは大変限られた経験です。たとえば聖書の詩編の中でも、嘆きの詩編、願いの詩編は感謝を表す詩編より多いのです。だから当日曜日の典礼が強調しているのは神様が今の命と普遍的な命の泉であり、わたし達のありのままの与え主であるということです。当福音書では癒された皮膚病を患って癒していただいた十人の中で、一人だけが感謝を表しに戻ってきましたが、他の九人は定められた法律によって癒されたと思い、イエス様に感謝の心を表しませんでした。当福音書の物語の形を良く見てみると、まず大きな背景から=サマリアとガリラヤを出発し、その後、ある村の中で、次に皮膚病を患っている十人、最後にその中の一人が感謝を表したサマリア人です=だから当福音書は決意をもって自分の使命を果たそうとエルサレムに進んでいるイエス様が、このような感謝を表すサマリア人を伴っています。ギリシャ語では(救い)も(癒し)も同じ単語で表現されています。だからイエス様が人類の救いにエルサレムへ向かおうとしているのも具体的にそのためで、癒されたサマリア人がその救いの為に感謝を表していす。イエス様の勧めを通して祭司たちの所に行った他の九人の病人も癒されました。実は苦痛や病気も人を平等にします。しかし、その中でイエス様の時代にサマリア人は明らかに差別を受けた者で、皮膚病によって汚れた者、死に定められた者でした。イエス様がその病人を祭司のところに行かせて癒すことによって命を与え蘇らせています。そのサマリア人の中の一人だけがイエス様の元の救いであり、イエス様の言葉と働きによって癒されて信じた一人だけが、イエス様の力、その心を信じた一人だけが、大きな喜びの中で感謝し、その喜びを表しました。
                                 モヨリ神父

※『新 熊本歳時記 編集委員会編』(熊本日日新聞社 2007~)より一部引用