カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第二十七主日

2010年10月01日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「神を心から愛しているあなたなら、心の中でたびたび神様に語りかけていることがあるでしょう。」
聖フランシスコ・サレシオ

旧暦八月十五夜の中秋の満月を特に名月と言うのは、この時期の大気が澄明で月光がひときわ冴えるからです。明月、望月、良夜、十五夜などと、また曇って月が出ないと無月、雨の場合は雨月などと言って昔から俳句などにうたわれてきました。芋名月とも言いますが、これはこの日が初穂祭に当たることに由来しており、農耕や信仰と深く関係していることを物語っています。
さて、キリスト信者も自分の人生の間に良いことをするように努めていますが、それによって救いが得られるわけではありません。良いことをし、一所懸命に生き、立派な行ないをしながら、輝いている自分の役割を果たす目標は、まず神様に感謝するためです。神様からいただい命、恵み、喜びは数知れないほどありますから、それに感謝の心をもって、いろんな方法で恩を返すように生きています。そして神様の僕(しもべ)として、神様から任せられた役目を積極的に果たすように努めています。キリスト信者はその目標を果たす為に一所懸命に生きるのです。それでキリスト信者は良いことを沢山したからと言って、神様から特別な、評価、報い、名誉などが得られるのではなく、忠実な僕として自分に任せられた義務を果たさなければならないと思い、神様に人生の一瞬々をささげているのです。そしてその後に、イエス様が勧められたように「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うのです。
ルカによる福音書 17・5-10
当福音書は人の信仰に注目しています。イエス様は自分の言葉を実行するために信仰を持って生きるように勧めます。ほんの少しの信仰さえあれば、根の生えた木さえ海に行かせることができるとイエス様が強調します。それに従ってイエス様がこのように行いよりも信仰に注目されます。イエス様から語られた例えは比較的な話で、聞き手は自分の心の中で結論をひきだすように勧められています。僕らしく生きてきた僕は、自分がしなければならないことをしたのですから、特別な賞を得られるはずはありません。むしろ自分らしく生きてきたといって満足するべきだとイエス様がおっしゃいます。僕にとってまず自分の主人を信じて、それに忠実にするのは一番ですが、次にその役目の通りに生きるのは当たり前なのだと考えています。キリスト信者は神様に対して同じような心をもっています。良い、忠実な僕のように感謝の心で、神様に昼も夜も使えています。その後「取るに足りない僕だ」という表現は、上記のような心を示しています。信仰を持った人は神様を主人のように愛し忠実に生き、しなければならないことを果たして、謙虚に努めています。自分の行いの善さを通して神様の報いを得るのではなく、神様に対する愛や忠実な生き方で、神様の報いが得られます。神様ご自身がわたし達のことを思い、大きな愛情で包んでくださり、願ったこと以上に報いてくださいます。良い僕は給料を得るためではなく、主人を喜ばせるために努めています。キリスト信者は同じように神様の心を信じて神様の思い通りに、神様に心をあわせて忠実に生きています。
                                   モヨリ神父

※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社、2007~)より一部引用。