カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 主の昇天の主日

2010年05月15日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「更衣」(ころもかえ)といえば、陰暦四月一日から冬着を夏着に変えることで、秋の更衣とは区別されています。平安時代に宮中儀式として始まり、江戸時代に制度化されて、やがて庶民の生活習慣として定着し継続してきた行事で、近年までは五月中旬ごろに一斉に夏服にかわったものでした。昨今では、一斉に「更衣」が実施されているのは制服着用の学校や官公庁がほとんどです。さて、この頃森や草原で「カッコウ、カッコウ」とのどかに鳴く鳴き声がそのまま名前となった「郭公」(かっこう)鳥は、日本では「閑古鳥」と呼ばれ、古くから歌に詠まれてきました。五月ごろ南からやってきて、十月ごろ帰って行く渡り鳥で、鳩ぐらいの大きさです。ほととぎすと同じく宅卵で、ほおじろ、百舌などの巣に卵を産みつけ、自らは子育てをしないのです。
本題に入って、最近五月に教会よりもキリスト信者の家庭でロザリオを唱える習慣がひろがりつつあります。日常生活の喜びと苦しみの場である家庭で、いつも見守ってくださるマリア様に祈る事はとてもふさわしいことです。皆の家庭はいつもマリア様に守られて、神様にとりなしてくださるマリア様から支えられています。次に主の昇天の祝日を迎えながら、昇るという言葉を検討してみましょう。まずお日様が高いところに昇ることを表しています。高い立場、その位置も示しています。さてイエス様はお日様のように天の高いところ、全ての上に昇って地球を照らし、温めて、命を育てています。お日様が昇ったところは大変高いところで、人間には簡単に行けませんから、神様がおられるところを示しています。しかしお日様は自分の日差しによって、人間の心を照らしあたためて、命の成長を守っています。天に昇られて神様になったイエス様も全く同じことです。
ルカによる福音書 24・46-53
使徒たちの宣教による主の昇天の物語とルカの福音書の主の昇天の物語は、同じ著者で書かれているのに微妙な違いがあります。使徒たちの宣教には歴史の流れに注目しながら、イエス様が復活されてから四十日後、弟子たちの目の前で天に昇られました、一方ルカの福音書によるとイエス様が復活された後、すぐにその晩、天国に上げられました。このような違いがあり矛盾することもありますが、神様の目には時間のことは一瞬でも、何日後かであっても人間との出会い、人間とのかかわりはいつも時間的なことは論外に見られています。さて現在の時代に復活されたイエス様は皆の目の前から消えてしまわれても、私たちの間におられて時間が霊的に流れることのない時代が始まりました。私たちの救いと喜びと栄光の時代です。イエス様の教会の成長に注目する使徒たちの宣教は歴史の中で歩み続ける出来事を語り、時間の中で神様の働きを述べています。実際に新しい教会を生み出した人たちは復活されたイエス様の神秘を理解するため、完全に受け入れる為に時間がかかりました。イスラエルの古典では、「先生の教えを覚えるために弟子は40日間かかります」と。イエス様の死と復活の神秘を覚えるため、その心を受け入れる為にこのようにしばらくの時が必要でした。聖書の物語によると、確かに初代教会にとって、旧約聖書の流れに入るため、イエス様の言葉、イエス様の神秘的な存在を受け入れるのは簡単なことではなかったのです。その時、初代教会は成長の苦しさを感じながら、厳しい時間のながれを体験しました。上記のような矛盾を理解しながら、イエス様の発言に関して、もうひとつ、理解をもとめる矛盾的な言葉があります。イエス様が「これからずっとあなた方と共にいる」と約束しながら、天に昇って弟子たちの目の前から消えられたことです。しかし、イエス様はご自分の人間的な姿が消えても、ご自分の言葉、共同体、秘跡、貧しい人、の中にいつも別の形で私たちと一緒におられるのです。
                                 
モヨリ神父

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