カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第三十二主日

2011年11月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,
「黙想する恵みは、精神の努力によって得るよりも、柔和で愛情深い謙遜によって得られます。」
                               聖フランシスコ・サレシオ

11月8日頃は冬の季節に入る最初の節季で、日差しも弱くなり、冬の気配が増します。朝晩冷え込み、大地が凍り始めます。「春の霞」に「秋の霧」は春秋の季節感を表す重要な季語です。霧はさまざまな形で生活にかかわり、人間の情緒に深い影響を与えています。晩秋、木の葉がしきりに落ちるように、人の髪も目立っておちるようになります。すなわち「木の葉髪」です。櫛の歯についた髪の毛が思いのほか多いのを見るのはわびしいものです。俗に「10月の木の葉髪」といい、人生の寂しさを伴った作例が多いのです。このような自然現象はより深い意味で全く同じように旧約聖書の中に取り上げられています。それは人間の心の中に神様の神秘的な言葉の働きを示し、人生は神様だけに属すものだと示します。それだけではなく、人生の短さをも明らかにされています。枯葉の上に落ちた霜のように、人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命はとても短いものです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。天の方に目を向ければ私たちの人生も豊かになり、神様の思い通りに日々を送ることが出来ます。秋に木の枝にぶら下がっている枯葉のように、私たちの人生は神様の手に大切にされています。
マタイ福音書 25・1-13
当福音書の例えを通してイエス様が神様と人間との出会いを語られています。この出会いはお互い知らない者の出会いではなく、お互いによく知る人の出会いです。神様が盛大な祭りに人間を誘われて、人間はその誘いを受け取りました。神様に誘われた人は心を開き、授けられた知恵を通して目を覚まして、神様の存在や思いや働きに注意深くなり気付き、生きています。福音書の中に出てくる灯火用の油は心の知恵、そして心の期待感を例えています。この頃の典礼全体もイエス様が再び来られることとその時に人間との再会に注目されています。このような背景の中で、イエス様が語られた例えばなしを読みとらなければなりません。初代キリスト信者の共同体では、イエス様の再臨を心から期待していましたが、しかし使徒パウロは「2テサロニケの人々への手紙2・1-2」の中で、イエス様がすぐに来られるのではなく、今はふさわしくお会いする為に心の準備をして期待するのが欠かせないことだと述べています。一所懸命期待するのは大切であり、その期待は簡単なことではありません。だからペトロでも、キリスト信者と支え合いながらイエス様が来られるのを期待するように勧めています。なぜなら、期待する間は神様の慈しみと憐れみを受ける時です。つまり、救いの時です。その時にキリスト信者は回心ができる期間を実感しながら、自分の生き方を改善します。福音書の中に出て来る乙女たちは、おそらく普通に誘われた若い女性ですが、実際にはマタイの福音記者がこの例え話を書く時に、乙女たちことは象徴的な姿にして、当時の共同体のことを示しています。使徒パウロは当時コリントの共同体を「清い乙女」とよんでいます。だから、福音書に出てくる乙女たちはキ
リスト信者の共同体であり、彼女らが持っている灯火は信仰から生まれた良い行いです。花婿はイエス様です。                                  モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

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