カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第十八主日

2011年07月29日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,
「イエス様の心を抱きながら死ぬことは、どれほど大きな喜びとなるでしょう
このような喜びを生涯熱心に求めるように生きていきましょう。」聖フランシスコ・サレシオ

一年中で暑さが最も厳しく、時々大雨が降り、蒸し暑くなります。「夏の土用」はこの節季にはいります。厳しい暑さの中、セミたちは毎日元気に鳴いています。気象台では、アブラセミの「ジジジジ….」という鳴き声が初めて聞かれた日を観測しています。今年、熊本市では7月13日で平年より2日遅くまた、「カナカナカナ」と鳴くヒグラシの初鳴きも観測しており、熊本市での平年日は8月2日ですがまだ確認しておりません。
キリスト信者は主の日を迎えると心と体が普通より大きく変わり、大きな喜び、信仰の祭りを迎えるために整ってきます。私たちは主の日に普段着を着替えて、綺麗な服を着て、心の中にある希望と喜びを外面的にも表すことにします。このごろミサの朗読では、パウロの「ローマの教会への手紙」を連続で読もうとしています。今日の箇所では私たちの心を強く窺っている言葉が一つあります。それは「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょうか」 さて、イエス様が十字架に死ぬほど愛された者は誰でも、自分の心の中でこのような質問に答えることができます。この答えはとても個人的で、だれも私たちの代わりに答えることができません。聖パウロは私たちのために参考になる答えを見出します。自分の人生による事情を図ってから一つしかない答えを出しました:「私たちはイエス様から引き離されることがないのです」つまり、イエス様ご自身は、私たちの命、私たちの道、私たちの喜びです。キリスト信者は自分の中に生きておられるイエス様と一緒に生き、対話し、模範と理想として人を愛します。
マタイによる福音書 14・13-21
当福音書では何かしようとしているイエス様がとても大切です。その出来事は第一の朗読によると心身で注目するように呼びかけられています。私たちは耳だけではなく目でも神様の言葉を聞いて受け入れるのです。そうです、イエス様はとても重要なことを行おうとしています。それは、洗礼者ヨハネがすでに死んだ時でした。けれどもその時、洗礼者ヨハネの予言した言葉は実現しようとしていました。「後に来るのは私が靴のひもを解く値打ちもないほど、私より大きな力を持つ方だ」と教えました。それに従ってイエス様が病気で悩んでいる民衆に対して、憐み深い心をもって公にモーセと同じように、新しい民族の指導者として力強く大きな愛を示そうとしています。その時、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、つまりエルサレムの方へ行く巡例者のために定められた食べもので、五千人以上の疲れきった人たちを食べさせ満足させました。その時イエス様は、まず弟子たちに向って「あなたがたがこの人達に食べさせなさい」と誘いました。その言葉に含まれた意味はまず、弟子たちに自分自身、自分の人生、自分を全て、悩んでいる人に捧げなさいと、イエス様ご自がなさったように弟子たちに勧めた愛の形でした。そしてイエス様はパンを手にとってから、「それを祝福し、割って、人に与えました。」このようにイエス様がパンと魚を増やして、群衆の心と体を満足させました。このようなしるしによって確かにイエス様が人を食べさせて、力と希望を与えましたが実際にそのしるしによって、もっと重大な出来事の意味を示したかったのです。人がイエス様のパンを、つまりイエス様の体を食べると、弱い時支えられ、失望の時に大きな希望に抱かれて、病気の時に癒され、死んでも生きる命を得ています。つまり人人間がイエスさまの愛によって大きな喜びで満されています.
                                   モヨリ神父
※「くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

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