旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

矢澤信明先生ご逝去 半農半医の生き方

2014-08-21 05:11:44 | 交友
楢戸健次郎先生から武田伸二先生経由で訃報が入りました。

尊敬する大学の先輩であり、北海道開拓医療の先駆者である矢澤信明先生が、8月18日(月)お昼にご帰天されたとのことです。


矢澤先生は
長野県生まれ。新潟医科大学卒業。北海道にて半農半医23年を送られ、新冠町立病院院長、手稲ルカ病院院長他を歴任され、現在特別養護老人ホーム「十字の園」(御殿場市)診療所長を歴任された。

先生に初めてお会いしたのは、ぼくがまだ自治医科大学に勤めていた頃か、涌谷町に移った後かは定かでありません。いや、よく考えてみると自治医大で地域医療学教室に移って、間もないころだったように思います。1970年代後半。

楢戸先生の紹介で新冠町のご自宅を訪ねました。当時矢澤先生は新冠町立病院長を務めておられました。ご自宅は白い壁の洋館風でした。庭は緑でいっぱいでしたが、ふきが北海道らしく巨大だったのを思い出します。

昔、馬に乗って往診されたお話を伺いました。帰りに先生は眠ってしまうのですが、馬はちゃんと自宅まで戻ってくれるというのです。忠犬ならぬ忠馬がいたのですね。

町中は畑も多かったのです。案内散歩の途中、勝手に野菜をもぎとって、「もらってくぞー」と大きな声を出して、確認もしないでいるので、令子夫人が「あなたったら…」と、後でお詫びに行くようなそぶりでした。

そのような光景は、先生と令子奥様の著書『北海道開拓の思い出-半農半医23年』に描かれています。

また、新冠町のHPには次のような記載があります。

昔、緑丘はウンネップと呼ばれていましたが、戦後に御料牧場が解放され、多くの開拓者が入植しまし
た。昭和24年、矢澤信明医師はこの緑丘に入植し、開拓者とともに農業を行いながら医療活動も行い、
付近住民の健康の維持に努めてきました。開拓者は、貧しい生活をしていたことから、医療費をとらずに
農業を一緒にすることで、その代わりとしたこともあったようです。物資も不足しており、馬で往診をする
などして懸命な医療活動を行っていました。昭和47年には、矢澤医師が医学勉強のために転出されま
したが、付近住民は今でもこのご恩を忘れずにいる方が大変多いです。

昭和47年に一度町を去られたので、ぼくは二度目の病院長のときに会いに行ったのでしょう。

先生はプライマリ‐ケア学会によく参加してくださいました。いつも笑顔で励ましていただきました。

あるとき、高名な先生の発案で設置されたホスピスに勤められたことがあります。「やー、すぐ辞めたよ。部屋代が一日3万円。ぼくには金持ちの世話はできない」先生らしいエピソードです。

同じく大学の先輩 故渡辺悌三先生が札幌に移って来られた時、北海道で活躍した先輩たちを調べられました。矢澤先生のお仕事に注目され、お二人の親交が始まりました。

92年の生涯。先生のそばにはいつも農民や馬がいたように思います。信仰と愛とともに。

 


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