延命治療が命を縮めていることもたくさんあります。その点に謙虚になれない医師・看護師の存在は曰く言い難しです。
石飛幸三先生が「『平穏死』のすすめ 口から食べられなくなったどうしますか」(講談社)を世にあらわしたのは2010年2月。その心は特別養護老人ホームだけでなく、高齢者を多く対象とする医療施設でも学ぶことがたくさんあるはずなのに、相変わらず旧態然とした延命治療が医療機関の使命であるかのごとくふるまわれています。
延命治療と言いながら、患者さんが苦しむ期間を長くしているだけの医療も多く見かけます。
「もう、これ以上迷惑をかけたくない。わたしは食べることをやめます」
という患者さんの声なき声を聴いているのはぼくの幻聴でしょうか?
アウシュビッツを生き延び、人生における「意味のたいせつさ」を訴えつづけたフランクルは書いています。
ただ単に生き続けることは、最高の価値ではあり得ないということです。人間であるということは、自分自身でない何かに向かって方向づけられ、秩序づけられているということです。人間の現存在がもはや自分自身を超えて外へと指し向かうことがなくなるならば、その途端に生きながらえることは無意味になる。いやそれどころか、不可能にさえなります。
VEフランクル「意味への意志」(春秋社)
エンドオブライフケアで一番大切なことは、その人の人生史・物語、家族など周囲の思い、何よりもその人が生きてきたことの意味をしっかりと受けとめ、総合的な判断をすることです。これらに対する熟慮なく、医療行為が優先されるようであってはなりません。(救急救命の場面ではまた状況倫理は異なるでしょうが)
石飛幸三先生が「『平穏死』のすすめ 口から食べられなくなったどうしますか」(講談社)を世にあらわしたのは2010年2月。その心は特別養護老人ホームだけでなく、高齢者を多く対象とする医療施設でも学ぶことがたくさんあるはずなのに、相変わらず旧態然とした延命治療が医療機関の使命であるかのごとくふるまわれています。
延命治療と言いながら、患者さんが苦しむ期間を長くしているだけの医療も多く見かけます。
「もう、これ以上迷惑をかけたくない。わたしは食べることをやめます」
という患者さんの声なき声を聴いているのはぼくの幻聴でしょうか?
アウシュビッツを生き延び、人生における「意味のたいせつさ」を訴えつづけたフランクルは書いています。
ただ単に生き続けることは、最高の価値ではあり得ないということです。人間であるということは、自分自身でない何かに向かって方向づけられ、秩序づけられているということです。人間の現存在がもはや自分自身を超えて外へと指し向かうことがなくなるならば、その途端に生きながらえることは無意味になる。いやそれどころか、不可能にさえなります。
VEフランクル「意味への意志」(春秋社)
エンドオブライフケアで一番大切なことは、その人の人生史・物語、家族など周囲の思い、何よりもその人が生きてきたことの意味をしっかりと受けとめ、総合的な判断をすることです。これらに対する熟慮なく、医療行為が優先されるようであってはなりません。(救急救命の場面ではまた状況倫理は異なるでしょうが)