小冊子が送られてきました。また後輩たちの寄付集めと思いきや、文集でした。
小冊子の題名は『きずな』。昔からそうだったようです。13年ぶりの発刊で第7号。
パラパラとめくっただけでも思い出がよみがえってきます。
まずは強打者田山満男先輩。わが母校土浦一高の先輩でもあります。大学は4年先輩でした。
お父上様が土浦市の郊外で開業しておられました。ぼくは入学前に一度だけお訪ねしました。民家のような診療所でお仕事をされてました。昔ながらの村医者を貫かれました。
ぼくが新潟大学に入学したとき、田山さんは主将、エースで4番でした。中学時代の野球にはあまりいい思い出がなかったので、サッカー部に入ろうかと考えたのですが、結局野球の方が早くレギュラーになれるかなと思い野球をすることに。でも準硬式のボールに慣れるのは時間がかかりました。
田山さんがバッティングピッチャーをしてくれたときのボールは剛速球で、あててもバットを持つ手がすごくしびれました。それもけっこう長い間。
田山さんの打球はライナー性で遠くへ飛びます。先輩の同級生小澤武文さんの文章によると打球のスピードは桁外れに早かったそうです。田山神話と題されているくらいです。
ぼくが2年生になった春の合宿で柔軟体操で先輩の背中を押してびっくり。身体が硬いのです。それがヒントで、さらに身体の硬いぼくは田山さんのサイドスローの投球をまねて、フォームを替えたら東医体でも通用する投球ができるようになったのでした。
その夏、調子が出なかった先輩のリリーフで東京医大戦に投げさせてもらいました。乱調でフォアボール6、三振6という投球でしたが、勝利投手となりました。先輩に少し恩返しができたのですが、その後は首のヘルニア傾向が生じ、活躍できませんでした。
一度、自治医大に勤めていた時、後輩の松本君が水戸済生会病院に勤めたいと言い出したので、当時副院長であった田山先輩に採用のお願いに行ったのがお会いする最後となりました。
ぼくが北大に移るとき、先輩は膵臓がんのため入院中でした。病院まで挨拶に行ったのですが、すでに相当悪化し面会謝絶とのことで直接見舞うことができませんでした。北大教授になれたのは、野球部で先輩から鍛えてもらったおかげと感謝の祈りをささげながら、病院を後にしました。16年前のことです。
田山先輩の誠実な生き方は今でも胸に響いてきます。