旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

家庭医ということばの歩み

2012-04-09 23:57:52 | 学会活動

医事新報に書こうとしましたが今まだ思いとどまっている事柄です。書き方が暗くなりまして、書き直しします。消してしまう可能性が大きいので個人ブログに書きます。

 家庭医がわが国の医療界で話題にのぼったのは、1985年当時厚労省による家庭医に関する懇談会がスタートしてからである。その数年前、旧家庭医療学会の前身である家庭医療研究会が発足した。当時の議論を紹介しておくと、家庭医療は米国のfamily practice、家庭医はfamily physicianを訳したものである。家族医療、家族医とすべきという意見もあったが、家庭医療、家庭医としたのは、いくつかの理由がある。
 そのひとつは「家庭医」がわが国では古くから一般の人も使っていたことによる。「ホームドクター」に近い使い方で、家族全員が共通して持つかかりつけ医という意味である。自分たちのことをよく知っていてくれて全面的な信頼を寄せている意味合いを持つ。
 もうひとつは個人ー家庭ー地域というつながりの中で「生活の場」を意識して使い方である。
 他にfamiliarな医師で家庭医の方が親しみやすいとの判断もあった。
 しかし、この言葉が逆に当時日本医師会幹部の反感を買った。なぜか米国に倣った家庭医という言葉が英国のgeneral practitionerと結びつけられたのだ。人頭割、フリーアクセスの阻害、診療報酬制度の改悪と結び付けて考えられた。
 厚生省の勇み足もあった。ある雑誌に掲載された厚生省職員の論文には家庭医の診療報酬を一般の診療所医師と別枠として医療費の抑制を図る旨が述べられていたからだ。これは官僚統制だとの声も強くなった。
 かくして日本医師会の反対により、わが国から家庭医という言葉が消え去りかかった。
 しかし、旧日本プライマリ-ケア学会はその言葉の持つあいまいさから、なかなか若い層の医師の会員が増加しなかった。一方、家庭医療研究会は長い間低迷が続いたが、若い医師層や学生に対し、家庭医像を示すことに成功し、会員が急増し学会へ発展する時代を迎えた。

これから表現を替えますので、ここだけの悲劇、暗い歴史です。雑誌では歴史をやめて概念のみを綴ります。


小菅清君の先見力

2012-04-09 00:00:58 | 交友

高校2年生の時の読書では、もう1冊からも影響を受けました。

塩瀬信子『生命(いのち)ある日に』です。当時結核療養中の兄が勧めてくれて読んだのでした。医者の仕事がいかに患者さんの人生と隣り合わせであるかをこの本から学びました。

兄の病気、小菅君の病気なども医学部進学に影響していたように思います。

小菅君はぼくがあまり好まないタイプ(真面目過ぎる)でした。高校1年の時、同じクラスでしたが、まったくノートを取りません。後に校長にもなった社会科の遠藤先生が注意すると「ぼくは聴いて覚えます。ノートには書きません」と反応する人でした。

2年生では別クラス。ほっとしていると夕方毎日のように家に訪ねてくるではありませんか。確か、伊奈村出身の彼はぼくの家の近くに下宿したのでした。

副鼻腔炎で手術をしたのですが、快復がままならずノイローゼ状態でした。

彼がなんともしつこくぼくに医学部へ行けと進めたのです。

どういう思いだったのか、一度聞いてみたいですが、高校卒業してまったく会っていません。

彼は弁護士になる夢破れ、学校の教師を経て、今はNPOをしているらしいです。

ぼくのカウンセラー的才能を見抜いていたのでしょうか?