(3)-1で井上さんが「初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた」と書いたが、井上作品で八月十五日について語られるとき必ずと言ってよい割合で言及されるのが天皇および一般人の戦争責任の問題である。
一般人の戦争責任についてはひとまずおいて、天皇の戦争責任について言及した作品をあげるとすると、その筆頭はいわゆる「東京裁判三部作」(『夢の裂け目』『夢の泪』『夢の痂』)だろう。
『夢の裂け目』(初演2001年5月)は東京裁判が天皇を免責するためにアメリカと日本が共同演出した「仕掛け」であることを暴き、『夢の泪』(初演2003年10月~11月初演)では極東委員会が日本の占領方針として天皇の免責を決めたことが語られ、『夢の痂』(初演2006年6月~7月)では天皇の東北巡幸のさいの宿に決められた家の住人たちがもてなしの予行演習をするうちに熱が入りすぎて天皇役を務めた主人公が戦争責任について国民に詫びて退位を宣言してしまう。後へゆくほど天皇の戦争責任に対する追及がより鋭くなっている感がある。
(やや話が逸れるが、『井上ひさしの劇ことば』は、『夢の裂け目』は成功作だが、イラク戦争の頃に書かれた『夢の泪』とその後の『夢の痂』ではテーマが大きく観念的になりすぎて芝居としての面白みは減じてしまったと指摘している。アメリカ同時多発テロ以前に上演された『夢の裂け目』の時に比べて「あの裁判は一体、何だったのだろう」という問いかけが井上さんの中でより切実になったために、観客との向き合い方もより切迫した余裕のないものになってしまったんじゃないだろうか)(※33)。
また『紙屋町さくらホテル』(初演1997年)と『箱根強羅ホテル』(初演2005年)はともに〈皇室の安泰と国体の護持にこだわって「ご聖断」が遅れたために多くの国民が命を落とした〉ことへの批判を強く打ち出している(※34)(※35)。両方とも新国立劇場中劇場、つまり国立の劇場のため(『紙屋町~』はこけら落とし公演)に書き下ろした作品だというのがまた挑発的ではある(※36)。
それだけ天皇が戦争責任を取っていないことを繰り返し取り上げていながら、井上さんが2004年に文化功労者に選ばれた際にこれを辞退せず天皇主催のお茶会にも出席したこと、さらに2009年には反体制的文学者が多く辞退している芸術院会員にもなったことに対する批判もある(※37)。
井上さんは2001年に上梓された『井上ひさし伝』のインタビューでは過去につい国の賞をもらってしまったことへの後悔を述べていたはずだが(※38)、数年のうちにどんな心境の変化があったものか。
ちなみに同じ2004年に文化功労者に選ばれた蜷川さんは、プロレタリア作家だった父親を戦争で亡くした奥さんに遠慮してお茶会には欠席したという(もっともその後文化勲章の時には行ったそうだ。どうも欠席したことでいろいろ煩わしいことがあったらしく、井上さんはそのへんを察して大人しくお茶会に出席したのかもしれない)(※39)。蜷川さんは「井上さんは、興味があったんじゃないの(笑)。」と書いているが、今上天皇が皇太子時代に現皇后と成婚した「世紀のご成婚」の際のパレードを見物した時のエピソードなど読むと〈要はミーハーなだけなんじゃないの〉という気もしてくる(笑)(※40)。
あるいは戦争責任を問われるべきはあくまで昭和天皇であって今上には責めるべき理由がないと考えたからだろうか。
しかし「天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。(中略)いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。」(※41)「何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない(中略)わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」。」(※42)といった発言からすれば、井上さんが批判するのは昭和天皇個人ばかりではなく─明らかに昭和天皇個人に向けた批判の言葉も少なからず(主として1989年の昭和天皇崩御直後にあちこちに寄せた文章の中に)ある(※43)には違いないが─天皇制というシステムだと見るべきだろう。
(女権拡張論者に噛みつかれて反論した際には、「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある」、天皇制は「日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源」とまで表現している)(※44)。
(3)-1で書いたように、『ムサシ』には終戦を境に日本が軍国主義から民主主義へと転換した現代日本の姿が投影されている。ならば井上さんの多くの戯曲やエッセイで終戦とセットで語られる天皇の戦争責任はどのように扱われているだろうか。
もとより江戸初期を舞台とする『ムサシ』では正面から昭和天皇の戦争責任が取り上げられることはない。しかし物語の中で天皇についてはたびたび言及されている。
具体的には四ヶ所、寺開きの挨拶の中で平心が沢庵のプロフィールを説明しようとする場面、参籠禅二日目に大徳寺住持の選定に幕府が口出ししてきた件について沢庵が宗矩に相談する場面、沢庵が俗世間では三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してよいことになっているらしいと話す場面、そして小次郎が次仁親王のご落胤だったというエピソードである。
最初の沢庵プロフィールは、後に沢庵が大徳寺住持選定の問題を持ち出すにあたってのいわば仕込みだが、平心の挨拶が長くなりがちなのをたびたび「手短かに」と叱る沢庵が、平心が〈大徳寺は大きなお寺すぎて何から話していいか迷う〉と言ったのを受けて「帝じきじきの勅命によって開かれた臨済禅の大本山、というところから始めてはどうか。さもなくば、大徳寺住持を任命できるのは帝だけである、というところからかな。」「こう始めるのもいい。大徳寺とは、あの信長公の御葬儀をとりおこなった寺であるとな。」と自分の寺の自慢を(宗矩・まい・乙女も乗っかって大徳寺の特徴を次々並べ立てたせいもあるが)長々話すあたり、いかに彼が大徳寺とその寺の住持であることに強い自負心を抱いているかを感じさせる。
(平心が「お静かに!」「寺開きの挨拶が終わっておりませんが」と話をぶった切っているが、宝蓮寺に直接関係ない大徳寺褒めが延々続くのにさすがに苛立ったんだろう)
住持選定の件についても「長老たちが、これはと見込んだ僧を新しい住持として選び、それを帝にお認めいただく。これが、後醍醐帝の仰せによってつくられた勅願寺、大徳寺の寺作法」という表現に勅願寺─天皇の傘の下にあることを誇る気持ちがありありと現われている。
だからこそそこに幕府が口出ししてきたのが自分たちやその背後の天皇に対する挑戦と感じられて面白くない。ゆえに友人であり将軍に顔のきく宗矩を抱きこんで、口出しを封じ、これまで通りのスタイルを通そうと画策する。
しかし「大徳寺の寺作法」に差出口をしてきた幕閣内のある人々を「われら大徳寺禅の仏敵」と呼んで敵意を明らかにしている沢庵は、三毒のうち「怒ること」(「欲張ること」も?)を持っていることにならないか。翌晩まいの生んだ子供・蝉丸が現天皇のイトコチガイになるとわかったとき、まだ小次郎=蝉丸だと明かされていない(〈ご落胤〉が目の前にいるとは知らない)のにふらふらと倒れかかったりしているのも、いかに彼にとって天皇家が絶対的な権威であるかを示していて、三種の神器を持つ=天皇の権威を帯びているか否かで正義の行方が決まることを「滑稽な理屈」だと言っておきながらのその反応は、三毒のうちの「愚かなこと」に該当しそうだ。
名高い高僧沢庵からしてこうも三毒にまみれているとは。まあこの沢庵は本物ではないし、〈心に三毒を持たないものなど(自分自身を含めて)いない〉と言っているのだから矛盾してるわけではないんだが。
そして三種の神器の話。これは言うまでもなく神話の時代から天皇家に伝わる、いわば天皇の象徴である。「武蔵が三種の神器を持っているとせよ。そうすると、武蔵は官軍、賊軍の小次郎を殺してもよいという資格を備えることになる。」「では、小次郎どのが三種の神器を持っていなさると、あべこべに?」という沢庵とまいの会話は、この翌晩の小次郎ご落胤騒ぎへと繋がっていく。
思えば自分は皇位継承順位第十八位だと吹き込まれた小次郎は、〈自分はいわば官軍であり、武蔵を殺してもよいという資格を備えている〉と唱えてさらに居丈高に武蔵に挑んでもおかしくなかったのである。頭に血がのぼって気絶してくれたからよかったが、乙女たちの目論見は逆効果になりかねなかったわけだ。
ここで上でも書いた「三種の神器の行方によって、正義の行方が決まる」ことの馬鹿馬鹿しさを指摘しておいて、いよいよここまでの流れで強調してきた「天皇の権威」を、武蔵と小次郎の決闘をやめさせるための仕掛けとして投入してくる。曰く、小次郎と戦うことは帝に刃を向けることに等しいのだ、と。
これら天皇に関わる話題に共通するキーワードは「権威」ということである。勅願寺や親王のご落胤など天皇の権威を帯びたものに手をかけることがあってはならない、それは天皇自身を汚すことに通ずる、天皇の権威の象徴である三種の神器を持つものが官軍となるのもそれゆえであり・・・・・・それは滑稽な理屈であると。
要するにこれら一連のエピソードは天皇の権威を有難がる者、その威を借りて自身のために利用する者たちを揶揄しているのだ。
『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)には明治期の陸軍参謀児玉源太郎が山県有朋中将に「(乃木が連隊旗を喪失した事件については)陛下から乃木連隊長に「決して自決はしてならぬ。乃木の命はしばらく朕が預かっておく」という御言葉を下しおかれるべきである、と。つまり、そうすることによって、陛下は将校ならびに兵隊の生命を自由になさることができるのだ、と国民に教え込むわけです。人間の生命を自由にお扱いになる・・・・・・、こんなことができるのは神だけです。ということは、天皇陛下は神になられる・・・・・・。」「天皇陛下をすべての拠り所として国民が打って一丸となる。そうでないとこの日本は列強の餌場になるのほかありませぬ。」(※45)と話す場面がある。
幕府が倒れ、日本が天皇家を頂点に戴く近代国家となったことで、近世以前から脈々と流れてきた天皇尊崇の念、天皇の権威に対する絶対的信仰をさらに強化すべきだと考えた者たちが、天皇を現人神に祭り上げるプロセスがここでは描かれている。そして神である天皇を奉じた官軍─皇軍として、日本は昭和二十年八月十五日まで軍国主義国家としての道をひた走ることになるのだ。
また『人間合格』(初演1989年)では津島修治(太宰治)が戦後実家の番頭格である中北を「あんたたちはみんな古狸だよ。(中略)まんまと化けやがって。それじゃああんまり天皇陛下が哀れじゃないか。(中略)天皇、天皇と、うるさく奉っておいて、マッカーサーが来りゃポイだ。あんまりかわいそうじゃないか。あれほど信じていたのなら、世の中が変ろうが変るまいが、あの御方を大切にしつづけろ。今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」(※46)と激しく責めている。
さらに『太鼓たたいて笛ふいて』(初演2002年)では林芙美子が「こうなったのは軍部が悪い。天皇さまに責任がある。戦を煽った新聞とラジオがいけない。・・・・・・責任をほかへなすりつけようとする人たちが、この村にも大勢いるわ。(中略)でも、ウソッパチな物語を信じ込んでいたことではみんな同じ愚か者よ。そんな物語をつくりだしたやつ、そんな物語を読みたがったやつ、だれもかれもみんな救いようもない愚か者だったのよ」(※47)と訴える──。
冒頭で書いたように、井上さんが八月十五日について語るとき必ずと言ってよいほど言及するのが、天皇および一般人の戦争責任の問題である。上では「一般人の戦争責任についてはひとまずおいて」おくとしたが、実のところ井上作品では天皇より以上に一般人の戦争責任の方が大きく扱われているのである。
天皇の戦争責任を扱った作品の代表格である“東京裁判三部作”にしても一般人の戦争責任もセットで語られている。すぐ上で引いた『人間合格』など権威として担がれ放り出された天皇にむしろ同情し、担いだ側の民衆をなじっている(もっとも「今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」という修治の台詞は井上さんの創作ではなく、本当に太宰がそう主張していたそうだが)(※48)。
直接には十五年戦争を描かない『ムサシ』も、天皇の権威に対する揶揄的な態度を見るに、同様のスタンスなのではないだろうか。つまり『ムサシ』が示唆するものは、天皇自身の戦争責任ではなく、天皇を権威として祭り上げ利用した者たち─国の上層部の責任であり、その権威を素直に有難がり信じたフツー人たちの責任ではないだろうか。
※33-「『夢の泪』は、二〇〇三~〇四年にかけて上演されました。その当時、世界の動きで大きな出来事はイラク戦争の開戦でした。この問題はテーマのうえで重要なかかわりをもってきます。井上はこう述べています。 「ただひとつ確かなことは、アメリカがあの裁判で日本を裁いたことによって、逆にアメリカも、それを守らなければならなくなったことです。ところが、今度のイラク戦争を見ていますと、アメリカは国連の決議を得られないと単独でやる。イギリスと手を組み、イラクを攻撃し、日本もそのあとにくっつく。とすると、あの裁判は一体、何だったのだろうと。もっと厳しい言い方をすれば、アメリカはあの裁判を行ったことで、自分たちは絶対に「人道」と「平和」に対する、「罪」は犯さないと誓いをたてたのに、自分たちの作ったルールを自分で破っている。そんな無責任な行為は許されるものではない。 果たして、アメリカは「人道」と「平和」に対する「罪」を犯していないかどうか、あの東京裁判によって、世界の人たちがアメリカを裁くことができるようになった。そこが、書きたいんです」 井上の問題意識はよく分かります。が、芝居の具体的テーマが集中せずに、ことばもインテリ的、観念的になったきらいがあります。」「『夢の裂け目』は庶民の目ですが、『夢の泪』『夢の痂』の中心はインテリの議論になっています。そこでは、相手(観客)に東京裁判とはこうなんだと「教示する」演説ことばになっていて、「開示する」劇ことばになっていないと思います。そうなると芝居としては面白くなくなります。」「『夢の裂け目』が成功作であったのに、『夢の泪』『夢の痂』では芝居としての面白みが減じていったのは、やはりそのテーマが大きく観念的になっていき、観客の生活する世界との接点となる人物(たとえば紙芝居屋・田中留吉)が登場しなくなったからでしょう。田中留吉は、予行演習をやりながら東京裁判の実体について「発見」をしていきます。おそらく井上ひさしも発見していったでしょうし、観客も発見していくのです。だから劇的なのです。 ところが「痂」の場合「瑕」とよばれたテーマ(天皇の免罪と国民の(管理人注・国民による東京裁判の)無視)は最初から結論が分かっていて、新しい発見がない。だから観客にとっても教えられたことを受け止めるだけで、受け入れたものをふくらましてはいかない、劇的ではないのです。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)
※34-「大日本帝国憲法第一条にこだわっているあいだに、なにが起こったか。(中略)沖縄の守備隊が全滅した。連日の空襲と艦砲射撃によって、わが国の都会の三分の一が壊滅した。そして、広島があった・・・・・・。(中略)さらに長崎があった。その上、ソ連が攻めてきた。そのあいだに、いったい何百万の同胞の生が断ち切られたと思うのか。(中略)戦の本質は喧嘩である。喧嘩であるから、わが国にも、アメリカ、イギリスにも、それぞれ理があり、非がある。立場がちがうのだから、どちらが良くて、どちらが悪いということはできない。したがって、陛下は連合国にたいしてどんな責任もお持ちになる必要はない。(中略)しかし、和平を結ぶという基本方針をお決めになってからの陛下には、国民にたいして責任がある。御決断の、あのはなはだしい遅れはなにか。あれほど遅れて、なにが御聖断か。」(『紙屋町さくらホテル』、『井上ひさし全芝居 その六』、新潮社、2010年)
※35-ソ連を仲立ちとしてアメリカと和平を結ぶことを目指していた外務参事官の加藤は、箱根強羅ホテルでの二日間の体験を通してそれが甘い期待に過ぎないと悟り、局長に「最良の和平ルート」として「陛下が御自らラジオのマイクの前にお立ちになること」を進言する。「「陛下が全世界に向けてひとこと、『朕はやめたい。もう負けました』とおっしゃれば、和平はいますぐ成就いたします」・・・・・」「加藤さんの進言がもし容られていたら、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、ソ連の満州侵攻・・・・・・どれも起きていませんでした。」(『箱根強羅ホテル』、『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年)
※36-『井上ひさし全芝居 その六』巻末の扇田昭彦「解説」は、「国が建設した新国立劇場」のこけら落としに新作(『紙屋町さくらホテル』)を書くにあたり井上さんが留意した点の一つとして、「戦前と戦時中に新劇を厳しく弾圧し、戦争で多くの国民を死に追いやった日本の国家指導者たちの責任を浮き彫りにすることを通して、これからの国と演劇の新しい関係を探ること。」を挙げている。
※37-「比較文学者の小谷野敦氏はこう言う。「彼の戯曲『化粧』(82年)と『紙屋町さくらホテル』(97年)は高く評価できます。特に『紙屋町さくらホテル』は、天皇の側近が戦争について詰られる場面があり、その展開はすばらしかった。しかし、その後、井上氏は天皇のお茶会に出たり、藝術院会員になったりしています」」(「追悼 井上ひさし氏が遺した「遅筆」の伝説」、『週刊新潮』2010年4月22日号)
※38-「ひさしが「うかうか三十、ちょろちょろ四十」で芸術祭脚本激励賞に入選したのは一九五八年十一月のことであった。ひさしは、直木賞受賞直前の一九七二年三月には「道元の冒険」で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している。 「お上からの賞はもらわないことに決めていたのに、あのころはついもらっちゃったんですね。新人賞も断わるべきでした。賞をもらってからしばらくは、新年の歌会始めとか園遊会とかの招待がきていた時期があったんですよ。モーニングか羽織袴でこい、と書いてあったからモーニングがないからなどと言って断わっていたんですが、だんだんと、こいつは含むところがあるのだろうということなのか、そのうちまったくこなくなりましたね。天皇の戦争責任のことを書いて、お上のやることに逆らうことばかり書いているのですから、本当はもらわなければよかったのですが・・・・・・」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)
※39-「井上さんと一緒に文化功労者になった。授与式のあとに、宮中でお茶の会があった。それで、ぼくは行かないで、女房と一緒に帰ってきた。「井上さん、じゃあ失礼しまーす」と言ったら、井上さんは「え、蜷川さん行かないんですか?あの、ぼくはちょっと中が見たいんで行ってきます」って、井上さんは興味があったんじゃないの(笑)。ぼくは行かなかった。(中略)うちの女房のお父さんは『文藝春秋』の記者で、プロレタリア小説を書くようになった生江健次という作家だったんです。軍報道班員としてフィリピンへ赴き、女房が一歳か二歳ぐらいのときに戦死している。(中略)ぼくの家族には戦死者はいないんですけども、女房にはそういうことがあったから、女房を連れて天皇陛下とお茶なんか飲めないなあと思って。それで「帰ろう帰ろう」って。(中略)「お前の気持ち、そうだよね、そんな赤紙一枚で命を落としたのでしょう」そう思って、行かなかった。(中略)そのあと文化勲章で行きましたけどね(笑)。それはもういいやと思った。来ない、来たっていうのは、あっちではたいへんな話なんだよね。そしたら、文化勲章のとき、天皇は覚えてるんだよ。文化功労者のときはいらっしゃっていただけなかったんですけど、お会いできてよかったですって。すごいよね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』、2013年1月号)
※40-「見物人がどっと歓声をあげたのは六頭立ての馬車が目の前を通りすぎてからである。目の底に丸顔の美人と顎骨の張った青年の笑顔が残った。馬車の後部に向って見物人が手を振ってバンザイを叫び、それに釣られて、日頃は天皇制がどうのこうのとナマな口を叩いていた筆者も、思わず右手を二度三度と振っていた。そしてその日一日、手を振ってよかったのかどうか、かなり深刻に思い悩んだことを憶えている。」(井上ひさし「論文の書き方 昭和三十四年」、『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)。もっとも井上さんは読者を楽しませるために露悪的偽悪的な方向に話を盛ることが多いので鵜呑みにはできないが。
※41-「天皇の戦争責任もあります。がしかし、天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。つまり万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治するのですから、つまり「過去」が天皇の拠りどころ、権威伝統の源であるわけで、天皇の責任を裁くことは「過去」を裁くということになる。いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。ひっくるめていえば、日本人が開発してきた政治システムは、「責任の所在を明らかに示さない制度」だったのです。変な云い方ですが、これはじつに巧妙なシステムですね。」(井上ひさし「昭和庶民三部作を書き終えて」、『悪党と幽霊』(中公文庫、1994年)収録。初出1988年)
※42-「(尊皇攘夷を掲げていた薩摩侍が体制側に立つや鹿鳴館文化に狂い、西洋人を手本としていたはずが突然「鬼畜米英」を叫んだかと思えば終戦を境に彼らを民主主義の手本と仰ぐようになった)体制側のやり口のこの脈絡のなさ、支離滅裂ぶりを支えているのは「悠々不変の天皇制」であることは言うまでもないが、何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない。体制は国民の生命と国体の護持をはかりにかけ、結局連中は国体の護持のほうを撰択したのだ。下卑た言い方をすれば、わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」(井上ひさし「われわれの専売特許はいつまでも「呆然自失」か」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)収録、初出1975年)
※43-「一人の人間の生死によって、時間に「明治」だの、「大正」だの、「昭和」だのといった枠をはめられるのはいやだ。そんなものでわれわれのかけがえのない時間を勝手に区切られたくない。そう考えているので、昭和が終ろうが、平成が始まろうが、なにひとつ特別な感慨がない。」(井上ひさし「作曲家ハッター氏のこと」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『テアトロ』1989年5月)、「昭和天皇がこの世から身を退かれたことをロンドンの宿のテレビで知って、覚えず、しまったと呟いた。昭和を五十四年間も生きてきたのに、昭和最後の日に立ち会うことができないとは、まったくドジな話ではないか。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「天皇にも戦争責任があるというのが筆者の基本的態度である。むろん重臣たちにも責任があり、さらに丸山真男氏の指摘する第一類型の中間層(筆者流にいえば、在郷軍人会や愛国婦人会や国防婦人会の、各地の中核部分)には多大の責任がある。そしてこれら第一類中間層の燃料になったきは当時のマスコミだったから、そのあたりの方々にも責任を痛感してもらわなければならない。がしかし何にもまして天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(大日本帝国憲法第四条)「陸海軍を総帥」(同第一一条)し給うておられたお方である。大元帥陛下として「総帥の頂点に立ち、すべての命令を裁可してきた天皇」(藤原彰氏)に責任がないなどと、どうしていえようか。たしかに私人としては誠実で、真面目な方であったろう。天皇の記者会見をすべて読む機会があったが、その印象を一言にしてつくせば「邪気なきお人柄」と拝察される。私的には「よき人」であられたようだ。しかし天皇は公人の中の公人でもあった。(中略)物事の進行や集団などを一定の方向に導くリーダーとして、天皇にも責任があったといっているつもりだ。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「開戦前の御前会議で天皇が、明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引用されたり、近衛首相や杉山参謀総長に、戦争準備よりも平和的な外交を先行させるようにと仰せ出されたことを知ってい。しかし同時に私たちは帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」や第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」を暗誦したし、「統帥系統がかかわる軍のすべての行動は、天皇の裁可した大命によるものであった」(藤原彰)ことも知っている。 私人としてはよいお人柄のお方だろうと拝察申し上げるが、公人としてはどうか。はっきりと責任をお認めになれば、それこそ内に醇風を育て、外に信頼をかちとられたのではないか。かつて少年飛行兵になって大君の辺にこそ死なめと決意したこともあった私としてはそれが口惜しくてならぬ。この口惜しさがおさまらぬうちは私の昭和は決して終わらない。」(井上ひさし「心の内 昭和は続く」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『読売新聞』1989年1月13日)、「大人になってあのころのことを調べたり先学の書物に学んだりして改めて振り返れば、昭和時代の病患は、せいぜい餓鬼大将の論理をふりかざすのが関の山の、大義名分の欠落にあったのではないかと思い当る。米英との開戦を決定した御前会議の三日前、すなわち昭和十六年十一月二日、東条首相は天皇から、「(開戦の)大義名分を如何に考うるや」と問われた。そのときの東条首相の返答は、あの大戦争の空しさあやしさをみごとに浮き彫りにしているのではないだろうか。東条首相はこう答えたのだ。 「目下研究中でありまして何れ奏上致します」 三日後の御前会議で開戦が決定した。しかし戦争をなぜ仕掛けなければならないのか、その名目(口実でもいいのだが)が決まらない。決まったのは、さらに六日後の連絡会議においてである。「自存自衛」が開戦の名目だった。 当時の支配層の考え方の筋目のなさは、これより少しさかのぼって、同年夏、対米英との戦争の第一原因となった南部仏印進駐の際の、天皇御裁可のお言葉にさえうかがわれる。 「国際信義上ドウカト思フガマア宣イ」 宣くないのです、陛下。筋目を立て、それを堂々と世界に問うて、それから行動をとるべきでありました。」(井上ひさし「餓鬼大将の論理」、『餓鬼大将の論理』、(中公文庫、1998年)収録、初出『文藝春秋』1989年3月)。読み比べるとあっちとこっちで言ってることが違ってたりするが、媒体に合わせて表現を変えた+全く同じ内容を繰り返すのがためらわれたという、よく言えばサービス精神の表れなのだろう。そのまま一冊のエッセイ集に(読み比べるとあちらとこちらで矛盾してるのがあらわなのに)収録したあたり潔いというべきか。
※44-「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある。(中略)天皇は自分から「わたしは神ではない。人間である」と宣言された。したがって、『人間天皇』という位を「男系の男子が、これを継承する」のは、重大な女性差別ではないのか。(中略)「天皇は別よ」と、おっしゃるなら、それはすでにあなたがたが、天皇を人間として認めていないということであり、これまた天皇を差別することになるのではないか。(中略)天皇はなぜ天皇だろう。むろん、天皇だからである。そこに特別の理由はない。すくなくとも日本人には答えられない。この考え方の極にあるのは、に対する差別、女性に対する差別だろう。民は、そしてなぜ女性はなぜ普通人や男性より劣った、低いものと見なされなければならないのか。むろんこの理由もない。つまり、天皇を天皇である、とあがめたてまつる気持と、「民は」、「女性というものは」、と見下す気持とは、見事な対になっているのだ。したがって『女たちの会』の世話人方や『中ピ連』の幹部連が、本気で女性差別と闘うつもりがおありなら、その闘いは、まず、この日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源へ向わねばならない。」(「怪電話の怪婦人に与う」、『ブラウン監獄の四季』(講談社、1977年)収録。初出1976年頃)
※45-『しみじみ日本・乃木大将』(『井上ひさし全芝居 その三』(新潮社、1984年)収録)
※46-『人間合格』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)
※47-『太鼓たたいて笛ふいて』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)
※48-「若い頃の彼がなぜ社会主義運動にのめり込んで行ったか、そして敗戦直後、人びとが天皇を「天ちゃん」などと言い始めたまさにそのときに、なぜ「いまこそ天皇陛下バンザイ!ぶべきだと息まいたのか、この劇はその謎を解くためのものでもありました。」(井上ひさし「人間合格──再演にあたって」、『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1992年)。この「天皇陛下バンザイ!」という主張は1946年に発表された回想記『十五年間』(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1570.html)、2009年)の終盤に登場する。正確には当時仙台新聞に連載中だった長篇小説『パンドラの匣』の一節を引用した中に登場するのであって、小説中のキャラクターの主張が作家本人の主張とイコールとは限らないが、あえて回想記のラストにこの箇所を引用したことと『十五年間』全編に横溢する一種の潔癖さからいって、「闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。(中略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」という台詞は太宰本人の思いであると見ていいだろう。
一般人の戦争責任についてはひとまずおいて、天皇の戦争責任について言及した作品をあげるとすると、その筆頭はいわゆる「東京裁判三部作」(『夢の裂け目』『夢の泪』『夢の痂』)だろう。
『夢の裂け目』(初演2001年5月)は東京裁判が天皇を免責するためにアメリカと日本が共同演出した「仕掛け」であることを暴き、『夢の泪』(初演2003年10月~11月初演)では極東委員会が日本の占領方針として天皇の免責を決めたことが語られ、『夢の痂』(初演2006年6月~7月)では天皇の東北巡幸のさいの宿に決められた家の住人たちがもてなしの予行演習をするうちに熱が入りすぎて天皇役を務めた主人公が戦争責任について国民に詫びて退位を宣言してしまう。後へゆくほど天皇の戦争責任に対する追及がより鋭くなっている感がある。
(やや話が逸れるが、『井上ひさしの劇ことば』は、『夢の裂け目』は成功作だが、イラク戦争の頃に書かれた『夢の泪』とその後の『夢の痂』ではテーマが大きく観念的になりすぎて芝居としての面白みは減じてしまったと指摘している。アメリカ同時多発テロ以前に上演された『夢の裂け目』の時に比べて「あの裁判は一体、何だったのだろう」という問いかけが井上さんの中でより切実になったために、観客との向き合い方もより切迫した余裕のないものになってしまったんじゃないだろうか)(※33)。
また『紙屋町さくらホテル』(初演1997年)と『箱根強羅ホテル』(初演2005年)はともに〈皇室の安泰と国体の護持にこだわって「ご聖断」が遅れたために多くの国民が命を落とした〉ことへの批判を強く打ち出している(※34)(※35)。両方とも新国立劇場中劇場、つまり国立の劇場のため(『紙屋町~』はこけら落とし公演)に書き下ろした作品だというのがまた挑発的ではある(※36)。
それだけ天皇が戦争責任を取っていないことを繰り返し取り上げていながら、井上さんが2004年に文化功労者に選ばれた際にこれを辞退せず天皇主催のお茶会にも出席したこと、さらに2009年には反体制的文学者が多く辞退している芸術院会員にもなったことに対する批判もある(※37)。
井上さんは2001年に上梓された『井上ひさし伝』のインタビューでは過去につい国の賞をもらってしまったことへの後悔を述べていたはずだが(※38)、数年のうちにどんな心境の変化があったものか。
ちなみに同じ2004年に文化功労者に選ばれた蜷川さんは、プロレタリア作家だった父親を戦争で亡くした奥さんに遠慮してお茶会には欠席したという(もっともその後文化勲章の時には行ったそうだ。どうも欠席したことでいろいろ煩わしいことがあったらしく、井上さんはそのへんを察して大人しくお茶会に出席したのかもしれない)(※39)。蜷川さんは「井上さんは、興味があったんじゃないの(笑)。」と書いているが、今上天皇が皇太子時代に現皇后と成婚した「世紀のご成婚」の際のパレードを見物した時のエピソードなど読むと〈要はミーハーなだけなんじゃないの〉という気もしてくる(笑)(※40)。
あるいは戦争責任を問われるべきはあくまで昭和天皇であって今上には責めるべき理由がないと考えたからだろうか。
しかし「天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。(中略)いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。」(※41)「何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない(中略)わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」。」(※42)といった発言からすれば、井上さんが批判するのは昭和天皇個人ばかりではなく─明らかに昭和天皇個人に向けた批判の言葉も少なからず(主として1989年の昭和天皇崩御直後にあちこちに寄せた文章の中に)ある(※43)には違いないが─天皇制というシステムだと見るべきだろう。
(女権拡張論者に噛みつかれて反論した際には、「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある」、天皇制は「日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源」とまで表現している)(※44)。
(3)-1で書いたように、『ムサシ』には終戦を境に日本が軍国主義から民主主義へと転換した現代日本の姿が投影されている。ならば井上さんの多くの戯曲やエッセイで終戦とセットで語られる天皇の戦争責任はどのように扱われているだろうか。
もとより江戸初期を舞台とする『ムサシ』では正面から昭和天皇の戦争責任が取り上げられることはない。しかし物語の中で天皇についてはたびたび言及されている。
具体的には四ヶ所、寺開きの挨拶の中で平心が沢庵のプロフィールを説明しようとする場面、参籠禅二日目に大徳寺住持の選定に幕府が口出ししてきた件について沢庵が宗矩に相談する場面、沢庵が俗世間では三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してよいことになっているらしいと話す場面、そして小次郎が次仁親王のご落胤だったというエピソードである。
最初の沢庵プロフィールは、後に沢庵が大徳寺住持選定の問題を持ち出すにあたってのいわば仕込みだが、平心の挨拶が長くなりがちなのをたびたび「手短かに」と叱る沢庵が、平心が〈大徳寺は大きなお寺すぎて何から話していいか迷う〉と言ったのを受けて「帝じきじきの勅命によって開かれた臨済禅の大本山、というところから始めてはどうか。さもなくば、大徳寺住持を任命できるのは帝だけである、というところからかな。」「こう始めるのもいい。大徳寺とは、あの信長公の御葬儀をとりおこなった寺であるとな。」と自分の寺の自慢を(宗矩・まい・乙女も乗っかって大徳寺の特徴を次々並べ立てたせいもあるが)長々話すあたり、いかに彼が大徳寺とその寺の住持であることに強い自負心を抱いているかを感じさせる。
(平心が「お静かに!」「寺開きの挨拶が終わっておりませんが」と話をぶった切っているが、宝蓮寺に直接関係ない大徳寺褒めが延々続くのにさすがに苛立ったんだろう)
住持選定の件についても「長老たちが、これはと見込んだ僧を新しい住持として選び、それを帝にお認めいただく。これが、後醍醐帝の仰せによってつくられた勅願寺、大徳寺の寺作法」という表現に勅願寺─天皇の傘の下にあることを誇る気持ちがありありと現われている。
だからこそそこに幕府が口出ししてきたのが自分たちやその背後の天皇に対する挑戦と感じられて面白くない。ゆえに友人であり将軍に顔のきく宗矩を抱きこんで、口出しを封じ、これまで通りのスタイルを通そうと画策する。
しかし「大徳寺の寺作法」に差出口をしてきた幕閣内のある人々を「われら大徳寺禅の仏敵」と呼んで敵意を明らかにしている沢庵は、三毒のうち「怒ること」(「欲張ること」も?)を持っていることにならないか。翌晩まいの生んだ子供・蝉丸が現天皇のイトコチガイになるとわかったとき、まだ小次郎=蝉丸だと明かされていない(〈ご落胤〉が目の前にいるとは知らない)のにふらふらと倒れかかったりしているのも、いかに彼にとって天皇家が絶対的な権威であるかを示していて、三種の神器を持つ=天皇の権威を帯びているか否かで正義の行方が決まることを「滑稽な理屈」だと言っておきながらのその反応は、三毒のうちの「愚かなこと」に該当しそうだ。
名高い高僧沢庵からしてこうも三毒にまみれているとは。まあこの沢庵は本物ではないし、〈心に三毒を持たないものなど(自分自身を含めて)いない〉と言っているのだから矛盾してるわけではないんだが。
そして三種の神器の話。これは言うまでもなく神話の時代から天皇家に伝わる、いわば天皇の象徴である。「武蔵が三種の神器を持っているとせよ。そうすると、武蔵は官軍、賊軍の小次郎を殺してもよいという資格を備えることになる。」「では、小次郎どのが三種の神器を持っていなさると、あべこべに?」という沢庵とまいの会話は、この翌晩の小次郎ご落胤騒ぎへと繋がっていく。
思えば自分は皇位継承順位第十八位だと吹き込まれた小次郎は、〈自分はいわば官軍であり、武蔵を殺してもよいという資格を備えている〉と唱えてさらに居丈高に武蔵に挑んでもおかしくなかったのである。頭に血がのぼって気絶してくれたからよかったが、乙女たちの目論見は逆効果になりかねなかったわけだ。
ここで上でも書いた「三種の神器の行方によって、正義の行方が決まる」ことの馬鹿馬鹿しさを指摘しておいて、いよいよここまでの流れで強調してきた「天皇の権威」を、武蔵と小次郎の決闘をやめさせるための仕掛けとして投入してくる。曰く、小次郎と戦うことは帝に刃を向けることに等しいのだ、と。
これら天皇に関わる話題に共通するキーワードは「権威」ということである。勅願寺や親王のご落胤など天皇の権威を帯びたものに手をかけることがあってはならない、それは天皇自身を汚すことに通ずる、天皇の権威の象徴である三種の神器を持つものが官軍となるのもそれゆえであり・・・・・・それは滑稽な理屈であると。
要するにこれら一連のエピソードは天皇の権威を有難がる者、その威を借りて自身のために利用する者たちを揶揄しているのだ。
『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)には明治期の陸軍参謀児玉源太郎が山県有朋中将に「(乃木が連隊旗を喪失した事件については)陛下から乃木連隊長に「決して自決はしてならぬ。乃木の命はしばらく朕が預かっておく」という御言葉を下しおかれるべきである、と。つまり、そうすることによって、陛下は将校ならびに兵隊の生命を自由になさることができるのだ、と国民に教え込むわけです。人間の生命を自由にお扱いになる・・・・・・、こんなことができるのは神だけです。ということは、天皇陛下は神になられる・・・・・・。」「天皇陛下をすべての拠り所として国民が打って一丸となる。そうでないとこの日本は列強の餌場になるのほかありませぬ。」(※45)と話す場面がある。
幕府が倒れ、日本が天皇家を頂点に戴く近代国家となったことで、近世以前から脈々と流れてきた天皇尊崇の念、天皇の権威に対する絶対的信仰をさらに強化すべきだと考えた者たちが、天皇を現人神に祭り上げるプロセスがここでは描かれている。そして神である天皇を奉じた官軍─皇軍として、日本は昭和二十年八月十五日まで軍国主義国家としての道をひた走ることになるのだ。
また『人間合格』(初演1989年)では津島修治(太宰治)が戦後実家の番頭格である中北を「あんたたちはみんな古狸だよ。(中略)まんまと化けやがって。それじゃああんまり天皇陛下が哀れじゃないか。(中略)天皇、天皇と、うるさく奉っておいて、マッカーサーが来りゃポイだ。あんまりかわいそうじゃないか。あれほど信じていたのなら、世の中が変ろうが変るまいが、あの御方を大切にしつづけろ。今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」(※46)と激しく責めている。
さらに『太鼓たたいて笛ふいて』(初演2002年)では林芙美子が「こうなったのは軍部が悪い。天皇さまに責任がある。戦を煽った新聞とラジオがいけない。・・・・・・責任をほかへなすりつけようとする人たちが、この村にも大勢いるわ。(中略)でも、ウソッパチな物語を信じ込んでいたことではみんな同じ愚か者よ。そんな物語をつくりだしたやつ、そんな物語を読みたがったやつ、だれもかれもみんな救いようもない愚か者だったのよ」(※47)と訴える──。
冒頭で書いたように、井上さんが八月十五日について語るとき必ずと言ってよいほど言及するのが、天皇および一般人の戦争責任の問題である。上では「一般人の戦争責任についてはひとまずおいて」おくとしたが、実のところ井上作品では天皇より以上に一般人の戦争責任の方が大きく扱われているのである。
天皇の戦争責任を扱った作品の代表格である“東京裁判三部作”にしても一般人の戦争責任もセットで語られている。すぐ上で引いた『人間合格』など権威として担がれ放り出された天皇にむしろ同情し、担いだ側の民衆をなじっている(もっとも「今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」という修治の台詞は井上さんの創作ではなく、本当に太宰がそう主張していたそうだが)(※48)。
直接には十五年戦争を描かない『ムサシ』も、天皇の権威に対する揶揄的な態度を見るに、同様のスタンスなのではないだろうか。つまり『ムサシ』が示唆するものは、天皇自身の戦争責任ではなく、天皇を権威として祭り上げ利用した者たち─国の上層部の責任であり、その権威を素直に有難がり信じたフツー人たちの責任ではないだろうか。
※33-「『夢の泪』は、二〇〇三~〇四年にかけて上演されました。その当時、世界の動きで大きな出来事はイラク戦争の開戦でした。この問題はテーマのうえで重要なかかわりをもってきます。井上はこう述べています。 「ただひとつ確かなことは、アメリカがあの裁判で日本を裁いたことによって、逆にアメリカも、それを守らなければならなくなったことです。ところが、今度のイラク戦争を見ていますと、アメリカは国連の決議を得られないと単独でやる。イギリスと手を組み、イラクを攻撃し、日本もそのあとにくっつく。とすると、あの裁判は一体、何だったのだろうと。もっと厳しい言い方をすれば、アメリカはあの裁判を行ったことで、自分たちは絶対に「人道」と「平和」に対する、「罪」は犯さないと誓いをたてたのに、自分たちの作ったルールを自分で破っている。そんな無責任な行為は許されるものではない。 果たして、アメリカは「人道」と「平和」に対する「罪」を犯していないかどうか、あの東京裁判によって、世界の人たちがアメリカを裁くことができるようになった。そこが、書きたいんです」 井上の問題意識はよく分かります。が、芝居の具体的テーマが集中せずに、ことばもインテリ的、観念的になったきらいがあります。」「『夢の裂け目』は庶民の目ですが、『夢の泪』『夢の痂』の中心はインテリの議論になっています。そこでは、相手(観客)に東京裁判とはこうなんだと「教示する」演説ことばになっていて、「開示する」劇ことばになっていないと思います。そうなると芝居としては面白くなくなります。」「『夢の裂け目』が成功作であったのに、『夢の泪』『夢の痂』では芝居としての面白みが減じていったのは、やはりそのテーマが大きく観念的になっていき、観客の生活する世界との接点となる人物(たとえば紙芝居屋・田中留吉)が登場しなくなったからでしょう。田中留吉は、予行演習をやりながら東京裁判の実体について「発見」をしていきます。おそらく井上ひさしも発見していったでしょうし、観客も発見していくのです。だから劇的なのです。 ところが「痂」の場合「瑕」とよばれたテーマ(天皇の免罪と国民の(管理人注・国民による東京裁判の)無視)は最初から結論が分かっていて、新しい発見がない。だから観客にとっても教えられたことを受け止めるだけで、受け入れたものをふくらましてはいかない、劇的ではないのです。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)
※34-「大日本帝国憲法第一条にこだわっているあいだに、なにが起こったか。(中略)沖縄の守備隊が全滅した。連日の空襲と艦砲射撃によって、わが国の都会の三分の一が壊滅した。そして、広島があった・・・・・・。(中略)さらに長崎があった。その上、ソ連が攻めてきた。そのあいだに、いったい何百万の同胞の生が断ち切られたと思うのか。(中略)戦の本質は喧嘩である。喧嘩であるから、わが国にも、アメリカ、イギリスにも、それぞれ理があり、非がある。立場がちがうのだから、どちらが良くて、どちらが悪いということはできない。したがって、陛下は連合国にたいしてどんな責任もお持ちになる必要はない。(中略)しかし、和平を結ぶという基本方針をお決めになってからの陛下には、国民にたいして責任がある。御決断の、あのはなはだしい遅れはなにか。あれほど遅れて、なにが御聖断か。」(『紙屋町さくらホテル』、『井上ひさし全芝居 その六』、新潮社、2010年)
※35-ソ連を仲立ちとしてアメリカと和平を結ぶことを目指していた外務参事官の加藤は、箱根強羅ホテルでの二日間の体験を通してそれが甘い期待に過ぎないと悟り、局長に「最良の和平ルート」として「陛下が御自らラジオのマイクの前にお立ちになること」を進言する。「「陛下が全世界に向けてひとこと、『朕はやめたい。もう負けました』とおっしゃれば、和平はいますぐ成就いたします」・・・・・」「加藤さんの進言がもし容られていたら、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、ソ連の満州侵攻・・・・・・どれも起きていませんでした。」(『箱根強羅ホテル』、『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年)
※36-『井上ひさし全芝居 その六』巻末の扇田昭彦「解説」は、「国が建設した新国立劇場」のこけら落としに新作(『紙屋町さくらホテル』)を書くにあたり井上さんが留意した点の一つとして、「戦前と戦時中に新劇を厳しく弾圧し、戦争で多くの国民を死に追いやった日本の国家指導者たちの責任を浮き彫りにすることを通して、これからの国と演劇の新しい関係を探ること。」を挙げている。
※37-「比較文学者の小谷野敦氏はこう言う。「彼の戯曲『化粧』(82年)と『紙屋町さくらホテル』(97年)は高く評価できます。特に『紙屋町さくらホテル』は、天皇の側近が戦争について詰られる場面があり、その展開はすばらしかった。しかし、その後、井上氏は天皇のお茶会に出たり、藝術院会員になったりしています」」(「追悼 井上ひさし氏が遺した「遅筆」の伝説」、『週刊新潮』2010年4月22日号)
※38-「ひさしが「うかうか三十、ちょろちょろ四十」で芸術祭脚本激励賞に入選したのは一九五八年十一月のことであった。ひさしは、直木賞受賞直前の一九七二年三月には「道元の冒険」で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している。 「お上からの賞はもらわないことに決めていたのに、あのころはついもらっちゃったんですね。新人賞も断わるべきでした。賞をもらってからしばらくは、新年の歌会始めとか園遊会とかの招待がきていた時期があったんですよ。モーニングか羽織袴でこい、と書いてあったからモーニングがないからなどと言って断わっていたんですが、だんだんと、こいつは含むところがあるのだろうということなのか、そのうちまったくこなくなりましたね。天皇の戦争責任のことを書いて、お上のやることに逆らうことばかり書いているのですから、本当はもらわなければよかったのですが・・・・・・」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)
※39-「井上さんと一緒に文化功労者になった。授与式のあとに、宮中でお茶の会があった。それで、ぼくは行かないで、女房と一緒に帰ってきた。「井上さん、じゃあ失礼しまーす」と言ったら、井上さんは「え、蜷川さん行かないんですか?あの、ぼくはちょっと中が見たいんで行ってきます」って、井上さんは興味があったんじゃないの(笑)。ぼくは行かなかった。(中略)うちの女房のお父さんは『文藝春秋』の記者で、プロレタリア小説を書くようになった生江健次という作家だったんです。軍報道班員としてフィリピンへ赴き、女房が一歳か二歳ぐらいのときに戦死している。(中略)ぼくの家族には戦死者はいないんですけども、女房にはそういうことがあったから、女房を連れて天皇陛下とお茶なんか飲めないなあと思って。それで「帰ろう帰ろう」って。(中略)「お前の気持ち、そうだよね、そんな赤紙一枚で命を落としたのでしょう」そう思って、行かなかった。(中略)そのあと文化勲章で行きましたけどね(笑)。それはもういいやと思った。来ない、来たっていうのは、あっちではたいへんな話なんだよね。そしたら、文化勲章のとき、天皇は覚えてるんだよ。文化功労者のときはいらっしゃっていただけなかったんですけど、お会いできてよかったですって。すごいよね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』、2013年1月号)
※40-「見物人がどっと歓声をあげたのは六頭立ての馬車が目の前を通りすぎてからである。目の底に丸顔の美人と顎骨の張った青年の笑顔が残った。馬車の後部に向って見物人が手を振ってバンザイを叫び、それに釣られて、日頃は天皇制がどうのこうのとナマな口を叩いていた筆者も、思わず右手を二度三度と振っていた。そしてその日一日、手を振ってよかったのかどうか、かなり深刻に思い悩んだことを憶えている。」(井上ひさし「論文の書き方 昭和三十四年」、『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)。もっとも井上さんは読者を楽しませるために露悪的偽悪的な方向に話を盛ることが多いので鵜呑みにはできないが。
※41-「天皇の戦争責任もあります。がしかし、天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。つまり万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治するのですから、つまり「過去」が天皇の拠りどころ、権威伝統の源であるわけで、天皇の責任を裁くことは「過去」を裁くということになる。いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。ひっくるめていえば、日本人が開発してきた政治システムは、「責任の所在を明らかに示さない制度」だったのです。変な云い方ですが、これはじつに巧妙なシステムですね。」(井上ひさし「昭和庶民三部作を書き終えて」、『悪党と幽霊』(中公文庫、1994年)収録。初出1988年)
※42-「(尊皇攘夷を掲げていた薩摩侍が体制側に立つや鹿鳴館文化に狂い、西洋人を手本としていたはずが突然「鬼畜米英」を叫んだかと思えば終戦を境に彼らを民主主義の手本と仰ぐようになった)体制側のやり口のこの脈絡のなさ、支離滅裂ぶりを支えているのは「悠々不変の天皇制」であることは言うまでもないが、何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない。体制は国民の生命と国体の護持をはかりにかけ、結局連中は国体の護持のほうを撰択したのだ。下卑た言い方をすれば、わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」(井上ひさし「われわれの専売特許はいつまでも「呆然自失」か」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)収録、初出1975年)
※43-「一人の人間の生死によって、時間に「明治」だの、「大正」だの、「昭和」だのといった枠をはめられるのはいやだ。そんなものでわれわれのかけがえのない時間を勝手に区切られたくない。そう考えているので、昭和が終ろうが、平成が始まろうが、なにひとつ特別な感慨がない。」(井上ひさし「作曲家ハッター氏のこと」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『テアトロ』1989年5月)、「昭和天皇がこの世から身を退かれたことをロンドンの宿のテレビで知って、覚えず、しまったと呟いた。昭和を五十四年間も生きてきたのに、昭和最後の日に立ち会うことができないとは、まったくドジな話ではないか。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「天皇にも戦争責任があるというのが筆者の基本的態度である。むろん重臣たちにも責任があり、さらに丸山真男氏の指摘する第一類型の中間層(筆者流にいえば、在郷軍人会や愛国婦人会や国防婦人会の、各地の中核部分)には多大の責任がある。そしてこれら第一類中間層の燃料になったきは当時のマスコミだったから、そのあたりの方々にも責任を痛感してもらわなければならない。がしかし何にもまして天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(大日本帝国憲法第四条)「陸海軍を総帥」(同第一一条)し給うておられたお方である。大元帥陛下として「総帥の頂点に立ち、すべての命令を裁可してきた天皇」(藤原彰氏)に責任がないなどと、どうしていえようか。たしかに私人としては誠実で、真面目な方であったろう。天皇の記者会見をすべて読む機会があったが、その印象を一言にしてつくせば「邪気なきお人柄」と拝察される。私的には「よき人」であられたようだ。しかし天皇は公人の中の公人でもあった。(中略)物事の進行や集団などを一定の方向に導くリーダーとして、天皇にも責任があったといっているつもりだ。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「開戦前の御前会議で天皇が、明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引用されたり、近衛首相や杉山参謀総長に、戦争準備よりも平和的な外交を先行させるようにと仰せ出されたことを知ってい。しかし同時に私たちは帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」や第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」を暗誦したし、「統帥系統がかかわる軍のすべての行動は、天皇の裁可した大命によるものであった」(藤原彰)ことも知っている。 私人としてはよいお人柄のお方だろうと拝察申し上げるが、公人としてはどうか。はっきりと責任をお認めになれば、それこそ内に醇風を育て、外に信頼をかちとられたのではないか。かつて少年飛行兵になって大君の辺にこそ死なめと決意したこともあった私としてはそれが口惜しくてならぬ。この口惜しさがおさまらぬうちは私の昭和は決して終わらない。」(井上ひさし「心の内 昭和は続く」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『読売新聞』1989年1月13日)、「大人になってあのころのことを調べたり先学の書物に学んだりして改めて振り返れば、昭和時代の病患は、せいぜい餓鬼大将の論理をふりかざすのが関の山の、大義名分の欠落にあったのではないかと思い当る。米英との開戦を決定した御前会議の三日前、すなわち昭和十六年十一月二日、東条首相は天皇から、「(開戦の)大義名分を如何に考うるや」と問われた。そのときの東条首相の返答は、あの大戦争の空しさあやしさをみごとに浮き彫りにしているのではないだろうか。東条首相はこう答えたのだ。 「目下研究中でありまして何れ奏上致します」 三日後の御前会議で開戦が決定した。しかし戦争をなぜ仕掛けなければならないのか、その名目(口実でもいいのだが)が決まらない。決まったのは、さらに六日後の連絡会議においてである。「自存自衛」が開戦の名目だった。 当時の支配層の考え方の筋目のなさは、これより少しさかのぼって、同年夏、対米英との戦争の第一原因となった南部仏印進駐の際の、天皇御裁可のお言葉にさえうかがわれる。 「国際信義上ドウカト思フガマア宣イ」 宣くないのです、陛下。筋目を立て、それを堂々と世界に問うて、それから行動をとるべきでありました。」(井上ひさし「餓鬼大将の論理」、『餓鬼大将の論理』、(中公文庫、1998年)収録、初出『文藝春秋』1989年3月)。読み比べるとあっちとこっちで言ってることが違ってたりするが、媒体に合わせて表現を変えた+全く同じ内容を繰り返すのがためらわれたという、よく言えばサービス精神の表れなのだろう。そのまま一冊のエッセイ集に(読み比べるとあちらとこちらで矛盾してるのがあらわなのに)収録したあたり潔いというべきか。
※44-「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある。(中略)天皇は自分から「わたしは神ではない。人間である」と宣言された。したがって、『人間天皇』という位を「男系の男子が、これを継承する」のは、重大な女性差別ではないのか。(中略)「天皇は別よ」と、おっしゃるなら、それはすでにあなたがたが、天皇を人間として認めていないということであり、これまた天皇を差別することになるのではないか。(中略)天皇はなぜ天皇だろう。むろん、天皇だからである。そこに特別の理由はない。すくなくとも日本人には答えられない。この考え方の極にあるのは、に対する差別、女性に対する差別だろう。民は、そしてなぜ女性はなぜ普通人や男性より劣った、低いものと見なされなければならないのか。むろんこの理由もない。つまり、天皇を天皇である、とあがめたてまつる気持と、「民は」、「女性というものは」、と見下す気持とは、見事な対になっているのだ。したがって『女たちの会』の世話人方や『中ピ連』の幹部連が、本気で女性差別と闘うつもりがおありなら、その闘いは、まず、この日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源へ向わねばならない。」(「怪電話の怪婦人に与う」、『ブラウン監獄の四季』(講談社、1977年)収録。初出1976年頃)
※45-『しみじみ日本・乃木大将』(『井上ひさし全芝居 その三』(新潮社、1984年)収録)
※46-『人間合格』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)
※47-『太鼓たたいて笛ふいて』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)
※48-「若い頃の彼がなぜ社会主義運動にのめり込んで行ったか、そして敗戦直後、人びとが天皇を「天ちゃん」などと言い始めたまさにそのときに、なぜ「いまこそ天皇陛下バンザイ!ぶべきだと息まいたのか、この劇はその謎を解くためのものでもありました。」(井上ひさし「人間合格──再演にあたって」、『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1992年)。この「天皇陛下バンザイ!」という主張は1946年に発表された回想記『十五年間』(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1570.html)、2009年)の終盤に登場する。正確には当時仙台新聞に連載中だった長篇小説『パンドラの匣』の一節を引用した中に登場するのであって、小説中のキャラクターの主張が作家本人の主張とイコールとは限らないが、あえて回想記のラストにこの箇所を引用したことと『十五年間』全編に横溢する一種の潔癖さからいって、「闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。(中略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」という台詞は太宰本人の思いであると見ていいだろう。