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俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-2(注・ネタバレしてます)

2016-11-06 23:50:17 | ムサシ
・・・などと願望を書きつらねてみたが、実際には二人は別々の道を行き、どうやら剣術自体を封印してしまった。そのきっかけはもちろん幽霊たちに懇願されて刀を収めたことにあるわけだが、そもそもなぜここで彼らは刀を引いたのだろうか。
(2)の※8で引いたように『ムサシ』は「成仏できないで迷っている誰かの言うことを聞いてあげたら、その誰かは成仏でき」るという能の基本形式を根本に持っている。
『井上ひさしと能の関係』は〈生死の境に命の高鳴りを見出すような剣客に正面から人が人を殺すのは許されるかを問いかけても相手は面食らうだけ、その点夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が修羅道に落ちた苦しみを語り回向を頼む「修羅物」というジャンルがある〉と書く(※9)。『ムサシ』が修羅能の形式を取り入れているのは「最上は、井上ひさしの新作」も指摘するところだ(※10)
つまり修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型を井上さんが利用して、武蔵と小次郎がこのまま行けば我が身に降りかかるはずの修羅道の苦しみに思いを致して生き方を改めた、刀を捨てたという筋を作ったと示唆しているわけだが、『ムサシ』に登場する幽霊たちに武士は一人もいない。
偽宗矩の一族は関ヶ原で戦死しているものの、流れ弾にあたって早々に命を落としたという説明からすれば彼ら自身は一人も殺してはいないはずだ。戦場とは無縁の場所で死んだ沢庵、まい、乙女は言うまでもなく、この幽霊たちのうち一人でも修羅道に落ちたものはいないだろう。
成仏できずに苦しんでいるには違いないが、それは当人たちの言う通り、自分の命を軽く扱い、下らないと言っていい死に方をしたために成仏できないのである。
そんな彼らの〈命を大切に〉というメッセージが、周囲には命を無駄にしていると見えても当人視点では命ぎりぎりのところで限りなく充実した生を噛みしめている、ある意味極めて〈命を大切に〉使っている武蔵や小次郎の心を動かすものだろうか?そして修羅能の形式を利用しつつあえてずらしてみせた井上さんの意図したところは何なのか。

おそらく二人は幽霊たちの語るメッセージに胸を打たれたわけではないのだ。(2)-7でも書いたが、はっきり言ってしまえば「成仏を~成仏を~」と懇願する彼らの泣き落としに負けた。死力を尽くして最高のライバルと戦いたいという自分たちの欲望を(小次郎などは六年越しの悲願を)、幽霊たちの願いを叶えてやるために諦めた。
自分たちの都合(成仏)のために他人の命がけの悲願を邪魔したのだからエゴイズム丸出しだが、武蔵も小次郎も〈聞いてやる義理はない〉と突っぱねたりはしなかった。苦しみを訴える幽霊たちを見捨ててライバルと戦いたいという望みを果たすこともまたエゴイズムであるからだ。
(2)-4でちょっと触れた武蔵の求道的生き方の問題点の二つ目がこれである。日々の生活の中で自身を鍛えるのも剣術のみならず茶の湯や仏像彫りや水墨画を究めたのもみんな〈己の人格を磨き上げて全き人間となるため〉。武蔵の脳裏にあるのは常に自分を鍛えること、自分のことだけなのだ。
寺の作事など本来なら至って利他的な行動だと思うのだが、おそらくそれも武蔵にとっては己を鍛える一環として行ったに過ぎないだろう。他人のために何かをしようという視点が武蔵には見事に欠けているのである。

そして武蔵もそのことにまんざら無自覚ではなかった。旅立ちに際し、これからどうするのかと問われて「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」と答えた武蔵は「もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と続ける。
自己完結した世界から出て他人、それも権力者などではない普通の人々のために何かをするべきではないのか。いつからか武蔵の中にそうした思いが生まれはじめていた。その思い─求道者としては迷い─が心の底にわだかまっていたからこそ、自分のエゴと他人のエゴがぶつかった時に自分の方が引いたのではないか。
その瞬間、武蔵はもはや「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く」自己本位の世界に留まることができなくなってしまった。結果、武蔵はこれまでの求道者としての生き方を、ひいては剣術を捨てざるを得なくなったのではなかったか。

井上さんはエッセイで、少年時代一時期カトリックの孤児院で過ごしたさいに洗礼を受けようと思ったのは聖書やキリストを信じたからではなく、泥まみれになりながら孤児たちのために尽くす神父や修道士を信じたからであり、その後上京して出会った大都会の聖職者の学者然とした在り方と清潔な手に失望したことをたびたび述べている(※11)
己を高めるべく日々研鑽を積むことよりも、その時間と労力を他人、弱者や市井の人々のために捧げることこそ尊い。自身の経験を通じて井上さんは切にそう感じていたのではないか。
それは『泣き虫なまいき石川啄木』(初演1986年)でキャラクターの一人に「ほんたうにアチラのお坊さまは大したものよねえ。見ず知らずの国へやつてきなさつて、見ず知らずの人たちのために親身になつて尽しておいでだもの。そこへ行くと日本のお坊さまは何を考へてござるのやら。やれ悟つたたの、やれこの世は無常だだのと、わけのわからないことを云つて乙に澄してゐるだけでせうが」という台詞を言わせていることからも察せられる(※12)
「人を殺して築き上げた人格などというものには三文の値打ちも」ないという理由ばかりでなく、他人を自分の生活から締め出して自己本位に生きていることにおいても武蔵は批判されているのだ。(※13)
井上さんによれば、史実の武蔵は最晩年、剣一筋だった自身の生き方を間違いだったと感じていたという(※14)。武蔵は刀を捨てることを通して自己本位の生き方をも捨てて他人のために生きることを選んだ。
そして武蔵(と小次郎)を相手に泣き落としを武器に自分のエゴを押し通すのは、ドラマティックな死を遂げた英雄ではなく平凡かつしょうもない死に方をした普通の人間(井上さん流に書くと「フツー人」)の亡霊であってこそできることだった。修羅能の型を用いつつ、幽霊たちを武士でなく庶民にしたのはそのためだろう(※15)
人は他人のために、他人との関係性の中で生きるべき──これが、〈現代日本人は平和憲法を遵守して(刀を捨てて)生きていくべき〉と並ぶ『ムサシ』のテーマだったのではないだろうか。


そして修羅能の形式をあえてずらして見せたのにはもう一つ理由があったと思われる。
引っかかってるのは「こんどこそは、うらめしやなんて古くさいやり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」という、乙女をはじめとする幽霊たちの言葉だ。
これまでは「まこと」─ただ〈生きている〉ということがどれほど素晴らしいことか─をごくストレートなやり方で伝えようとしてきたが、今回彼女らはそのような「古くさいやり方」はやめて「お芝居仕立て」で、手を替え品を替え武蔵と小次郎に戦いを放棄させようと謀った。しかし結果はどうだったか。
彼女たちの筋書きはことごとく不発に終わり、「皇位継承順位第十八位」でやっと小次郎を引っかけたものの武蔵にあっさりからくりを見抜かれてしまった。結局二人に刀を引かせたのは戦いをやめることで自分たちを成仏させてくれという哀訴─彼女らがいったんは拒絶したはずのどストレートな「古くさいやり方」だったのだ。
武蔵に結界を破られたために予定していた「総仕上げ」が使えなくなった節はあるものの、最終的には一切の計略を捨てて真っ正面から窮状を訴え懇願したことで彼女らは長年の悲願を叶えることができた。
変に小細工などせず、まっすぐ正直に相手にぶつかっていってこそ思いは届く、という教訓なのだろうか。しかしそれでは、物語を通してより鮮明にメッセージを伝えることを旨とする(※16)」作家として、敗北宣言に等しいではないか。
「虚構は現実を救うというのは、わたしのたった一つの主題(※17)と書いていた井上さんが晩年に至って辿りついた結論がそれだとは、「今年書いた『ムサシ』も『組曲虐殺』も、よい出来だった。この二つが最後なら満足だよ。」(※18)と語っていたほどの作品(※19)に秘められたものが〈作り物の無力さ〉だったとは考えたくない。

そこで思い出されるのが(2)-6で書いた、まいが武蔵の仕掛けた罠にあっさり嵌まったことへの疑問である。
幽霊になる前も白拍子だった、台詞を覚えるのは大得意であろうまいが少し前に口にしたばかりの台詞を本当に忘れるものなのか?実は彼女はわざと罠に嵌まってみせたのではないか。
武蔵が小次郎が貴種だと信じて、あるいは信じずとも小次郎の方に戦意がなくなった以上もはや戦いは無意味と決闘を諦めてくれればそれでよし、しかし乙女の筋書きを見破ったうえでそれを引っくり返してなおも小次郎と戦おうとするようなら、その次の計画を発動させる。その計画が彼女たちの最終行動─幽霊の正体を明らかにしての泣き落としだったのではないか。
沢庵はたまたま結界が破られたために沢庵たちに化けていられなくなり本性をさらすしかなかったように説明しているが、これは正体を明かしたうえでの〈説得〉に移行するための名目に過ぎなかったのだとすれば、「大界外相」の石─寺本来の結界が破れるとなぜ偽沢庵による結界まで破れるのかの疑問も説明がつく。
幽霊による結界が破れたというのは自然な形で正体を明かすための嘘で、小次郎がこの地に足を踏み入れた時からラスト、成仏した幽霊たちが去ってゆくまで結界は健在のままだった(大界外相の石による寺本来の結界は最初から幽霊たちには無効だった)のだ。
となれば結界が破れたために「総仕上げ」のプランが台無しになったというのも当たらない。むしろ結界が破れたことにして本来の(幽霊の)姿に戻って泣き落としにかかるというのが「総仕上げ」のプランだったのではないのか。
そう考えると修羅能の形式を用いながら、幽霊たちをあえて武士や戦没者にしなかったのも納得できる。幽霊の正体を明かした後の彼らは修羅能、「修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型」を演じているのだ。

あの泣き落としは芝居を放棄した結果ではなく、芝居は依然として続いていた。小次郎の名誉欲に弱い性格を見抜いて出自に関する詐欺を仕掛けたように、自己完結してるがゆえに世俗的な欲では動かせない、けれどそうした〈自己完結している自分〉の在り方に疑問を抱きつつあった武蔵の心を乙女たちは見事に突いてきた。
乙女の仇討ち騒ぎの時に「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」と〈苦しんでいる人、弱い者を見捨てるべきではない〉という考えを武蔵は口にしている。これは武蔵の心が自己完結した世界から外の人間に向かいはじめていた証拠であろう。
小次郎もまた「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」と武蔵と同意見だった。
困っている人を放っておけない、放っておいてはいけない。そう言い切った彼らであれば「剣を持つ者」の誇りにかけて、成仏を願いすがりつく自分たちを無視することはできない。そう踏んでの最後の大芝居によってついに彼女たちは本願を達したのである。



">※9-「剣客とは「どっちが上か,おのれか,それとも相手か…ただそれだけをたしかめようと,二つとない命をすてたがる者」(井上2010: 583)である。剣客は試合で相手と向き合うと一瞬のうちに身体が動いて刀を抜き,武蔵に言わせると 「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」(井上2010:582)を味わいたくて「五分と五分との 命のやりとり」(井上2010:614)を続けている。 己が倒すか倒されるかは結果でしかない。このような剣客に向かって,人が人を殺すのは許されるのかと真正面から問うても当人は面食らうだけあろう(ママ)。 剣客に自らの意志で剣を抜かないことを選択させるには何か特別な手法がいる。その点,夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が人間界にあらわれて 修羅道に堕ちた苦しみを語り,回向を頼むという内容の「修羅物」というジャンルがある。内乱が続く中世日本で生まれた能では殺生を生業とする武芸者の生と死は重要な関心事の一つなので,井上も注目したであろう。『ムサシ』では亡霊たちが武蔵と小次郎の前にあらわれ,人を殺すなと必死で伝えるだけでなく謡や舞まで演じて,一見,夢幻能に倣って書かれているように見える理由はここにある。」(坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)
※10-「例えば三修羅と呼ばれ広く知られる重い曲も思い出せる。戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむというそれらに代表される修羅物のパターンが「ムサシ」にも活かされていた。」「(まいと乙女が演じる舞狂言「蛸」は)能の修羅物に通じており、またこの場面からは老女が月明りに舞う「姥捨」も想起することができるはずである。「ムサシ」という劇の仕掛けがあらかじめ舞狂言「蛸」に準備されていたことは、井上ひさし自身の解説がある。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇』、2010年3月号)。ちなみに「井上ひさし自身の解説がある」とは「『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」のことだろう((2)の※8参照)。


※11-「わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当った修道服で通した修道士たちだった。(中略)三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。聖職者たちは高級な学問でポケットをふくらませ、とっかえひっかえそれらを〓(掴)み出し、魔術師よろしく、あの説とこの説をつなぎ合せたり、甲論と乙論をかけ合せたりして、天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだしてくれたが、その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。」「大都会の聖職者たちは学問をする宗教者、あるいは布教をする宗教者のように身受けられたが、あの師父たちは生活をする宗教者、一挙一動が愛の実践だったように思われる。」(「道元の洗面」、井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)

※12-『泣き虫なまいき石川啄木』(『井上ひさし全芝居 その4』、新潮社、1994年)

※13-『ロンドン・NYバージョン』では削られたが、戯曲には武蔵がお通をはじめお甲・朱實・吉野太夫ら彼に想いを寄せた女性を拒んだことを小次郎が「愚かな冷血漢」と詰る場面がある。

※14-「武蔵には剣の限界がわかっていたと思います。剣で得た人間観や世界観を、政治に生かしたかった。だから法典ヶ原を開拓した。(中略)最晩年の武蔵は、「自分は骨皮髄まで兵法の病にかかっていた」と言っています。敵に勝とうとか、強くなろうという病気にかかっていた。わたしの人生は虚しい燃焼だった。これが武蔵自身による生涯の総括です。 「真の兵法の病に成申候」 とても深い言葉です。百姓の子から太閤関白にまでなった秀吉を目の前に見ていた武蔵が、その出世に憧れて修行に修行を重ねて、人生の終局で、自分の生き方が間違いであったと総括する。 昭和の日本の歴史がそっくり、宮本武蔵という一人の人間の中に入っているような感慨を覚えます。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)、「(柳生宗矩はじめ名だたる剣客が剣を抜くことをできるだけ避けようとしているなかで)宮本武蔵の『五輪書』はいささか異色である。そこにはどうしたら敵を倒せるか、そのときの構え、目の付けどころ、足の運び、呼吸の仕方、刀の振り下ろし方、決闘の場からの立ち去り方などが克明に、それこそ微に入り細にわたって書いてある。 だが、その武蔵にしても、生涯最後の手紙に〈真の兵法の病になり申し候〉、つまりわたしの一生は剣術病にかかっていたようなものだと書いているのには胸を打たれた。」(井上ひさし「無刀流について」、『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)。ちなみにこの武蔵最後の手紙は、武蔵の死後に二天一流を学んだ豊田景英が祖父・正剛、父・正修の残した資料を元に著した武蔵の伝記『二天記』(『二刀一流剣道秘要』(武徳誌発行所、1909年)収録)で読むことができる。個人的には本気で自分の生き方を後悔してるのではなく、〈オレってバカだよなあ〉と自嘲しつつもまんざら悪い人生じゃなかったと思っているようなニュアンスを受けました。

※15-井上さんは二人の勝負を止めるのを亡霊にした理由を、「宮沢賢治みたいに「つまらないからやめなさい」という説得では武蔵も小次郎も耳を傾けようとしないでしょうし、だいたい観客席が納得しない。もっと違うレベルで戦いをやめさせないといけないと考えていた時に、ああ、これは亡霊に説得させるしかないなと思いました。すばらしいことに、亡霊役にぴったりの大女優にして怪女優の白石加代子さんもおいでになる(笑)。それで、成仏できない亡霊たちが、再決闘しようとする二人を止めるという筋書きになりました。」「ユンケルの箱でつくった三角錐に役者さんの顔写真を貼った紙人形を、毎日、朝から晩まで眺めて、ああでもない、こうでもないとやっているうちに、自然に、ああ、決闘を止めるには超自然の力でないとダメだなとアイデアが出てくるわけです。」と語っている(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)。制作発表記者会見の段階ではまだ構想がまるでできてなかった(「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」)とも話していて、昔〈テーマより趣向がまず大事〉だと書いていた井上さんですが、その趣向(亡霊が決闘の止め役を努める)が記者会見の時点でまだ決まってなかったというのに驚きます。

※16-『キネマの天地』(初演1986年)に「お題目をただ正面から堂々と、そして素直に云っただけではだれも感動しないのだよ。そのお題目をひとの心に刻みつけ、ひとを感動させるには、心中物語というウソッパチを仕掛けなきゃならない。」という映画監督の言葉が出てくる。これは井上さん自身の思いでもあると見てよかろう。

※17-井上ひさし「「時間」は作者」(『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)

※18-井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」(『文藝春秋』2010年7月号)

※19-「死を覚悟した井上ひさしが、『ムサシ』と『組曲虐殺』という戯曲をならべて、「この二つが最後なら満足」と語るのは、いったいなぜか。 『ムサシ』と『組曲虐殺』には、井上ひさしの作品に最初期からずっと見え隠れしていた「希望」が─社会と人間関係の現況に苦しみ絶望する者の、その絶望ゆえに新たな社会と人間関係の変更をねがう「希望」が、あざやかにあらわれているからだと、わたしは思う。 しかも「希望」はここで、一人の「希望」から、つぎの人へ、つぎの多くの人々へと手渡される「希望」へと転じている。 『ムサシ』では、フツーの亡霊たちの「生きたい」という「希望」が、「戦う」ことを捨てフツーの人にもどった武蔵と小次郎に手渡される。『組曲虐殺』でそれは、わずか五カ月後に「虐殺」という悲劇的な死をむかえる小林多喜二が歌う「信じて走れ」に、はっきりとよみこまれている。(中略)井上ひさしは、厖大な数の歌をつくったが、「あとにつづくものを 信じて走れ」のくりかえされるこの歌ほど、ヒロイックなまでに苛烈な希望の歌は、ほかにない。」 (高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)





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