第一幕の間、宗矩によってたびたび演じられる新作能『孝行狸』。
二幕になってから続きが語られなくなってしまったこの作品は物語の終盤、正体を明らかにした幽霊たちが成仏する段になって、宗矩が「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と唐突にそのオチを話しだす。
内容は「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は鷺になって、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。
初見では幽霊たちが悲願叶って成仏するという神々しい場面の中に差し挟まれた突然のダジャレネタに笑ってしまったのだが、改めて見返してみて愕然とした。ウサギ→ウ+サギというダジャレのしょうもなさで誤魔化されていたが、子狸はウサギを真っ二つにして斬り殺している。つまり仇討ちは完遂しているのだ。
〈復讐の連鎖を断ち切れ〉〈命を大切にしろ〉という幽霊たちの訴えに剣客二人がついに刀を収めたその時になって、〈親の敵を見事に討ち果たしました〉という小話が得々と語られるとは。しかもダメ押しのように「めでたしめでたし」と締める。ここまでの物語はいったい何だったのか!?
(2)-7で書いた通り『孝行狸』の元ネタは朋誠堂喜三二の黄表紙『親敵討腹鼓』。井上さんにとっては若い頃に自分の心を救ってくれた思い出深い作品である(※49)。
しかしだからといって「復讐の連鎖を断ち切る」がテーマ(であるはず)の『ムサシ』のまさにクライマックスに、仇討ちの成功を描いたこの話を引用するのはあまりに不似合いではないか。
しかも『親敵討腹鼓』は『孝行狸』のように単純に憎い親の敵を討ち果たしてハッピーエンドという話ではない。
『カチカチ山』でタヌキに殺された婆の息子・軽右衛門は主人のため兎の生き肝を欲していたが、母の仇討ちをしてくれた恩人だからとウサギを子狸の手から庇おうとする。
そうと知ったウサギは軽右衛門と子狸、二人の孝心に応え、加えて軽右衛門が出世できるようにと、自ら切腹して軽右衛門に生き肝を取らせたうえで子狸に討たれている。ウサギはむしろ善玉として描かれているのである。
かえって井上ひさし選『児童文学名作全集 1』の浜田義一郎氏による校注(挿絵の解説部分)では「悪い狸」「狸はいかにも敵役らしく」とすっかり子狸が悪者扱いになっている。
泣く泣く生き肝を得た軽右衛門は主人に重用されるようになって老父を引き取り幸せな生涯を送る。
一時ウサギをかくまった江戸の鰻屋「中田屋」は、日照りのため商売物の鰻も泥鰌も手に入らず困っているところへウとサギが飛んできて、大量の鰻と泥鰌を吐き出してくれたおかげで商売繁盛、吐いた鰻の蒲焼だからと当初は「へど前大蒲焼」と看板を出したが、名前が不潔っぽいからと「江戸前」に改名してさらに繁盛したというこれまたダジャレオチ。
この鰻屋の「へど前」→「江戸前」エピソードについては、井上さんも(2)-32であげたエッセイの多くで「ウサギ→ウ&サギ」と合わせて言及してます。
一方で管見の限りエッセイで言及されたことがないのが子狸のその後。
もともと子狸は仇討ちを志したさいに猟師の宇津兵衛を味方につけるべく、宇津兵衛を白狐・むじな・猫又ら化仲間の会合に密かに案内して、狐三匹を撃たせてやった経緯があった。それを恨んだ狐の子が子狸と宇津兵衛の両方を討ち果たすべくまず子狸を買収、子狸に宇津兵衛を穴に誘い込ませたうえでともどもに刺し殺すのである。
親の仇討ちのためとはいえ化仲間を犠牲にし、仇討ちの協力者だった恩人宇津兵衛を売った子狸は自身も親の敵として殺される。子狸の親も仇討ちで命を落としたことを思えば、これこそ「復讐の連鎖」ではないか。
ひるがえって恩あるウサギを庇った軽右衛門、義侠心からウサギを匿った鰻屋は繁栄する。
恩に報いようとする軽右衛門の心に感じ、軽右衛門と子狸の孝を重んじて自ら命を断ったウサギはウとサギに転生し、転生の後も鰻と泥鰌を鰻屋に届けることで「前生の恩」に報いている。
つまり『親敵討腹鼓』は恩を重んじる者は栄え、恩をないがしろにしたり仇討ちを志す者は滅びるという教訓話なのである。ウサギがウサギとしては死ななくてはならなかったのも、彼が人助けとはいえ仇討ちを行った報いであろう。
しかるになぜ『孝行狸』は原拠の〈復讐否定〉要素をすっぱり切ってしまって単純な復讐譚に仕立てられたのか。
あくまで『ムサシ』という芝居のごく一部にすぎない以上あまり複雑な筋立てにできないのは確かだが、「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマをラストで粉砕するような、そんな物語を何のために入れ込んだのか。
──さんざん頭を悩ませてみたが、〈「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板を素直に信じた観客をあざ笑うため〉以外の理由を思いつけなかった(・・・あとからもう一つ思いついたことがないでもない。これについては後述)。
そう考えると評論家の方々が『親敵討腹鼓』に(『孝行狸』のオチに、と言うべきか。『親敵討腹鼓』との関係に触れなくても復讐否定の物語の最後に復讐肯定の挿話が配置されている違和感は指摘できるはずだから)一言も触れなかったのも頷ける。
『ムサシ』は9.11以降の世界情勢を背景に血で血を洗う報復の連鎖を断ち切ることの重要性を説いた芝居である、として話を綺麗にまとめようとすれば『孝行狸』のオチは夾雑物でしかないだろうから。
(3)-4他で書いたように、井上さんは天皇の戦争責任を語るさいに必ずといっていいほど一般民衆の戦争責任についても言及している。
加えて井上さんは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・」という座右の銘からも、誰にでもわかる平易な言葉で、つまりインテリではなく「フツー人」に向けて物語や思想を綴る(※50)(※51)、庶民の味方というイメージが強いと思うが、一方で民衆のしたたかさ・残酷さを繰り返し描いてきた。
そのキャリアの初期から中期に書かれた「江戸三部作」のうち『雨』(初演1976年)と『小林一茶』(初演1979年)はいずれも自分たちの安寧な暮らしを守るためによそ者をスケープゴートに仕立てて平然としている庶民の残酷さをまざまざと描いている。
「江戸三部作」の残るもう一作『藪原検校』(初演1973年)においては主人公をスケープゴートとして処刑するのは幕府であるが、そこには彼を見せしめとすることで民の綱紀粛正を図ると同時に人々の残酷趣味を満足させてガス抜きをしようとする計算が働いていた。
ほかにも特に初期の井上戯曲において主人公が一種のスケープゴートとして殺害されて終わる作品は『十一ぴきのネコ』(初演1971年)、『珍訳聖書』(初演1973年)など少なくない。
演劇評論家の扇田昭彦氏はこうした主人公たちに「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリスト」の投影を見るが(※52)キリストが自らの意志で民を救済するための犠牲となることを選んだとされるのに対し、井上作品の主人公たちは一応は望まずしてスケープゴートの役を押しつけられる。
(一応としたのは、死が間近に迫ってきたときに自ら望んだわけではないが穏やかにその理不尽さを受け入れたキャラクターもいたからである)
こうした庶民の人間性に対する辛辣な評価は、終戦を境に態度が180度変わってしまった(※53)周囲の人間、とくに大人たちに対する不信感と、早くに亡くなった父親が左翼の活動家だったために幼少期に近隣から「アカの子」扱いされたり(※54)、中学三年から高校三年までカトリックの孤児院で育った井上さんの生育史に関わる部分が大きいと思われる。
「フツー人」を優しく啓蒙しようとする一方で滲み出してくる「フツー人」への悪意──それがフツー人を主とする観客に向けられるのはごく自然なことなのではないか(※Ⅱ)。
※49-余談だが井上さんの直木賞受賞作『手鎖心中』(文春文庫(新装版)、2009年。初版1975年)には、ヘボ戯作者の栄次郎が書いたという設定で『吝嗇吝嗇山後日哀譚』なる『カチカチ山』の後日談が登場する。内容は悪狸を退治したウサギがカチカチ山一帯に善政を敷くが、節約好きが高じていろいろ下らないうえ有害なお触れを出す。ついに民衆の非難の声が殺到して兎を退位させるが、後を引き継いだ六人の老兎は凡愚でその隙にカチカチ山は悪狸の遺子たちに攻めとられるというもので、狸は田沼意次、兎は松平定信の見立てとなっている。『カチカチ山』の後日談を劇中劇めいた形ながら自身でも書いてみるあたり、『親敵討腹鼓』に対する井上さんの思い入れを改めて感じる。
※50-「戦後の新メディアであるテレビは「一億総白痴化」(大宅壮一)と非難されもしたが、しかし常に大衆と向き合っていたことだけは確かだ。放送界に身を置くことで、戦後本格化する大衆社会の進展を直に感じ取った井上ひさしは、観客に対して知的で開かれた演劇形式の必要性を強く意識したのだろう。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)
※51-「「井上ひさしは、はるか遠くからもどかしげに手招きして導くたぐいの啓蒙家ではなかった。同じく社会変革の理想をかかげながらも、戦後的知識人の多くとことなるのはこの点である。保守革新、右派左派を問わず傲岸な権威はもちろん無意識の権力もからかい、笑いのめすと同時に、笑うみずからをも痛烈に笑った。困難な状況にあっては、安定した特権的なポジションは誰にも許されていないことを、井上ひさしはみずからを笑って示した。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)
※52-「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリストこそ、ある意味ではもっとも典型的にして聖なる道化なのだ」(扇田昭彦「神ある道化──井上ひさし論」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録。初出は『國文学 解釈と教材の研究』1974年12月臨時増刊号「野坂昭如と井上ひさし」。その後改訂加筆して『書下し劇作家論集Ⅰ』(レクラム社、1975年)に収録。
※53-たとえば『夢の痂』(初演2006年)には「八月十五日を境に、わたしたちの考え方がすっかり変わってしまいましたね。(中略)百年戦争だ、最後の一人になるまで戦うぞ、みんなでそう絶叫していました。でも占領軍がやってくると、とたんにウエルカムでギブミーチョコレートでしょう。わたしたち、いったいどうしてしまったのだろう」「変わり方のうまいのが、たしかに、わたしのまわりにもいた。次の作戦でかならずマッカーサーを地獄に叩き落としてやる!作戦会議のたびにそう息巻いていた連中が、いまはそっくりマッカーサーに雇い上げられている。そればかりじゃありませんぞ。連中はマッカーサーに「ねえ、あいつは戦争犯罪人です」「あいつもそうですよ」と入れ知恵している。情けない話だ」という会話が出てくる。
※54-「当時(注・戦時中)、子どもにとっての最高のおやつといえばアイスキャンディーでしたが、いつも僕はイチゴのキャンディーしか買えませんでした。まわりから「おまえはアカの子どもだから」と言われ、それしか買うことを許されなかったのです。「おまえはアカの子だから、赤いキャンディーでいいんだ、白いのとかあずきが入ったのはとんでもない」というのです。それは、いじめというより、当時の大人の常識で測ったものの見方でした。国の方針に従わないのは非国民と言われ、ちょっとでもずれると全部非国民として扱われるのが普通だったのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年)、「近所にアイスキャンディーを買いにいっても『お前は赤いの食ってればいいんだ』と言って、イチゴのアイスキャンディーしか売ってくれないんです。ぼくだって小豆やミルクのアイスキャンディーが食べたいのに、いつもイチゴですよ。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年))。ただ『井上ひさし伝』は少し後で「アイスキャンディー?覚えないな。何から何まで物資がなかったときに、甘いもんなんかあったかね?ひさし君は、本当のことはいわないで、茶化してしまって書いていることが多いからね。茶化さないではいられない心の屈折したところを汲み取ってあげればいいのにな、と思いますね」という五つ上の兄・井上滋の発言を記している。この本は井上さんの生前に上梓された、事前に当人に許可を取りインタビューも行っているにもかかわらず、井上さんの発言の矛盾を明らかにするような箇所がたびたびあって(「一九四五(昭和二十)年八月十五日のことを、ひさしは自筆年譜にこう記している。 〈近くの山で、松根油にする松の根を掘っていると、老教師が泣きながら走ってきて、「日本は戦さに負けた」と告げた。それを聞いてわたしたちは思わず歓声をあげたが、これは松の根掘りが相当の重労働だったせいで、他意はない〉 川西町町民記念講演会では、同じ日のことをこう話した。 「八月十五日は、長井の軍需工場で淡谷のり子の慰問ショーがあるというので、なんとか見ようと朝から出かけてそこに潜り込んでいましたね。淡谷のり子は、音程がはずれていてうまくないと思いました。玉音放送も全然知らないで帰ってきたら、戦争に負けたらしい、と聞いたのです。(後略)」とか)著者の公正さを感じる。
※Ⅱ-「私は自分の忙しさを棚に上げ、世間が慌ただしく井上ひさしを「ヒューマニストの作家」のように乱暴に片づける姿が耐えられない。 井上さんは「悪意の作家」だ。それもやすっぽい偽悪作家ではなく、手間暇かけて磨き上げた「悪意」がいつも作品に込められていたように思う。それが私の誤読だというのであれば、恐らく私は、井上さんの本の「悪意」に見えるところが好きだった。そして、それを言葉だけで目の前に立ちあがらせる井上さんの劇作家としての腕力は、私のようにせっかちにモノを書く人間からすると、本当にうらやましい限りだった。」(野田秀樹「叶わなくなったコトバ」、『悲劇喜劇 2010年7月号』(早川書房、2010年)
二幕になってから続きが語られなくなってしまったこの作品は物語の終盤、正体を明らかにした幽霊たちが成仏する段になって、宗矩が「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と唐突にそのオチを話しだす。
内容は「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は鷺になって、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。
初見では幽霊たちが悲願叶って成仏するという神々しい場面の中に差し挟まれた突然のダジャレネタに笑ってしまったのだが、改めて見返してみて愕然とした。ウサギ→ウ+サギというダジャレのしょうもなさで誤魔化されていたが、子狸はウサギを真っ二つにして斬り殺している。つまり仇討ちは完遂しているのだ。
〈復讐の連鎖を断ち切れ〉〈命を大切にしろ〉という幽霊たちの訴えに剣客二人がついに刀を収めたその時になって、〈親の敵を見事に討ち果たしました〉という小話が得々と語られるとは。しかもダメ押しのように「めでたしめでたし」と締める。ここまでの物語はいったい何だったのか!?
(2)-7で書いた通り『孝行狸』の元ネタは朋誠堂喜三二の黄表紙『親敵討腹鼓』。井上さんにとっては若い頃に自分の心を救ってくれた思い出深い作品である(※49)。
しかしだからといって「復讐の連鎖を断ち切る」がテーマ(であるはず)の『ムサシ』のまさにクライマックスに、仇討ちの成功を描いたこの話を引用するのはあまりに不似合いではないか。
しかも『親敵討腹鼓』は『孝行狸』のように単純に憎い親の敵を討ち果たしてハッピーエンドという話ではない。
『カチカチ山』でタヌキに殺された婆の息子・軽右衛門は主人のため兎の生き肝を欲していたが、母の仇討ちをしてくれた恩人だからとウサギを子狸の手から庇おうとする。
そうと知ったウサギは軽右衛門と子狸、二人の孝心に応え、加えて軽右衛門が出世できるようにと、自ら切腹して軽右衛門に生き肝を取らせたうえで子狸に討たれている。ウサギはむしろ善玉として描かれているのである。
かえって井上ひさし選『児童文学名作全集 1』の浜田義一郎氏による校注(挿絵の解説部分)では「悪い狸」「狸はいかにも敵役らしく」とすっかり子狸が悪者扱いになっている。
泣く泣く生き肝を得た軽右衛門は主人に重用されるようになって老父を引き取り幸せな生涯を送る。
一時ウサギをかくまった江戸の鰻屋「中田屋」は、日照りのため商売物の鰻も泥鰌も手に入らず困っているところへウとサギが飛んできて、大量の鰻と泥鰌を吐き出してくれたおかげで商売繁盛、吐いた鰻の蒲焼だからと当初は「へど前大蒲焼」と看板を出したが、名前が不潔っぽいからと「江戸前」に改名してさらに繁盛したというこれまたダジャレオチ。
この鰻屋の「へど前」→「江戸前」エピソードについては、井上さんも(2)-32であげたエッセイの多くで「ウサギ→ウ&サギ」と合わせて言及してます。
一方で管見の限りエッセイで言及されたことがないのが子狸のその後。
もともと子狸は仇討ちを志したさいに猟師の宇津兵衛を味方につけるべく、宇津兵衛を白狐・むじな・猫又ら化仲間の会合に密かに案内して、狐三匹を撃たせてやった経緯があった。それを恨んだ狐の子が子狸と宇津兵衛の両方を討ち果たすべくまず子狸を買収、子狸に宇津兵衛を穴に誘い込ませたうえでともどもに刺し殺すのである。
親の仇討ちのためとはいえ化仲間を犠牲にし、仇討ちの協力者だった恩人宇津兵衛を売った子狸は自身も親の敵として殺される。子狸の親も仇討ちで命を落としたことを思えば、これこそ「復讐の連鎖」ではないか。
ひるがえって恩あるウサギを庇った軽右衛門、義侠心からウサギを匿った鰻屋は繁栄する。
恩に報いようとする軽右衛門の心に感じ、軽右衛門と子狸の孝を重んじて自ら命を断ったウサギはウとサギに転生し、転生の後も鰻と泥鰌を鰻屋に届けることで「前生の恩」に報いている。
つまり『親敵討腹鼓』は恩を重んじる者は栄え、恩をないがしろにしたり仇討ちを志す者は滅びるという教訓話なのである。ウサギがウサギとしては死ななくてはならなかったのも、彼が人助けとはいえ仇討ちを行った報いであろう。
しかるになぜ『孝行狸』は原拠の〈復讐否定〉要素をすっぱり切ってしまって単純な復讐譚に仕立てられたのか。
あくまで『ムサシ』という芝居のごく一部にすぎない以上あまり複雑な筋立てにできないのは確かだが、「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマをラストで粉砕するような、そんな物語を何のために入れ込んだのか。
──さんざん頭を悩ませてみたが、〈「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板を素直に信じた観客をあざ笑うため〉以外の理由を思いつけなかった(・・・あとからもう一つ思いついたことがないでもない。これについては後述)。
そう考えると評論家の方々が『親敵討腹鼓』に(『孝行狸』のオチに、と言うべきか。『親敵討腹鼓』との関係に触れなくても復讐否定の物語の最後に復讐肯定の挿話が配置されている違和感は指摘できるはずだから)一言も触れなかったのも頷ける。
『ムサシ』は9.11以降の世界情勢を背景に血で血を洗う報復の連鎖を断ち切ることの重要性を説いた芝居である、として話を綺麗にまとめようとすれば『孝行狸』のオチは夾雑物でしかないだろうから。
(3)-4他で書いたように、井上さんは天皇の戦争責任を語るさいに必ずといっていいほど一般民衆の戦争責任についても言及している。
加えて井上さんは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・」という座右の銘からも、誰にでもわかる平易な言葉で、つまりインテリではなく「フツー人」に向けて物語や思想を綴る(※50)(※51)、庶民の味方というイメージが強いと思うが、一方で民衆のしたたかさ・残酷さを繰り返し描いてきた。
そのキャリアの初期から中期に書かれた「江戸三部作」のうち『雨』(初演1976年)と『小林一茶』(初演1979年)はいずれも自分たちの安寧な暮らしを守るためによそ者をスケープゴートに仕立てて平然としている庶民の残酷さをまざまざと描いている。
「江戸三部作」の残るもう一作『藪原検校』(初演1973年)においては主人公をスケープゴートとして処刑するのは幕府であるが、そこには彼を見せしめとすることで民の綱紀粛正を図ると同時に人々の残酷趣味を満足させてガス抜きをしようとする計算が働いていた。
ほかにも特に初期の井上戯曲において主人公が一種のスケープゴートとして殺害されて終わる作品は『十一ぴきのネコ』(初演1971年)、『珍訳聖書』(初演1973年)など少なくない。
演劇評論家の扇田昭彦氏はこうした主人公たちに「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリスト」の投影を見るが(※52)キリストが自らの意志で民を救済するための犠牲となることを選んだとされるのに対し、井上作品の主人公たちは一応は望まずしてスケープゴートの役を押しつけられる。
(一応としたのは、死が間近に迫ってきたときに自ら望んだわけではないが穏やかにその理不尽さを受け入れたキャラクターもいたからである)
こうした庶民の人間性に対する辛辣な評価は、終戦を境に態度が180度変わってしまった(※53)周囲の人間、とくに大人たちに対する不信感と、早くに亡くなった父親が左翼の活動家だったために幼少期に近隣から「アカの子」扱いされたり(※54)、中学三年から高校三年までカトリックの孤児院で育った井上さんの生育史に関わる部分が大きいと思われる。
「フツー人」を優しく啓蒙しようとする一方で滲み出してくる「フツー人」への悪意──それがフツー人を主とする観客に向けられるのはごく自然なことなのではないか(※Ⅱ)。
※49-余談だが井上さんの直木賞受賞作『手鎖心中』(文春文庫(新装版)、2009年。初版1975年)には、ヘボ戯作者の栄次郎が書いたという設定で『吝嗇吝嗇山後日哀譚』なる『カチカチ山』の後日談が登場する。内容は悪狸を退治したウサギがカチカチ山一帯に善政を敷くが、節約好きが高じていろいろ下らないうえ有害なお触れを出す。ついに民衆の非難の声が殺到して兎を退位させるが、後を引き継いだ六人の老兎は凡愚でその隙にカチカチ山は悪狸の遺子たちに攻めとられるというもので、狸は田沼意次、兎は松平定信の見立てとなっている。『カチカチ山』の後日談を劇中劇めいた形ながら自身でも書いてみるあたり、『親敵討腹鼓』に対する井上さんの思い入れを改めて感じる。
※50-「戦後の新メディアであるテレビは「一億総白痴化」(大宅壮一)と非難されもしたが、しかし常に大衆と向き合っていたことだけは確かだ。放送界に身を置くことで、戦後本格化する大衆社会の進展を直に感じ取った井上ひさしは、観客に対して知的で開かれた演劇形式の必要性を強く意識したのだろう。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)
※51-「「井上ひさしは、はるか遠くからもどかしげに手招きして導くたぐいの啓蒙家ではなかった。同じく社会変革の理想をかかげながらも、戦後的知識人の多くとことなるのはこの点である。保守革新、右派左派を問わず傲岸な権威はもちろん無意識の権力もからかい、笑いのめすと同時に、笑うみずからをも痛烈に笑った。困難な状況にあっては、安定した特権的なポジションは誰にも許されていないことを、井上ひさしはみずからを笑って示した。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)
※52-「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリストこそ、ある意味ではもっとも典型的にして聖なる道化なのだ」(扇田昭彦「神ある道化──井上ひさし論」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録。初出は『國文学 解釈と教材の研究』1974年12月臨時増刊号「野坂昭如と井上ひさし」。その後改訂加筆して『書下し劇作家論集Ⅰ』(レクラム社、1975年)に収録。
※53-たとえば『夢の痂』(初演2006年)には「八月十五日を境に、わたしたちの考え方がすっかり変わってしまいましたね。(中略)百年戦争だ、最後の一人になるまで戦うぞ、みんなでそう絶叫していました。でも占領軍がやってくると、とたんにウエルカムでギブミーチョコレートでしょう。わたしたち、いったいどうしてしまったのだろう」「変わり方のうまいのが、たしかに、わたしのまわりにもいた。次の作戦でかならずマッカーサーを地獄に叩き落としてやる!作戦会議のたびにそう息巻いていた連中が、いまはそっくりマッカーサーに雇い上げられている。そればかりじゃありませんぞ。連中はマッカーサーに「ねえ、あいつは戦争犯罪人です」「あいつもそうですよ」と入れ知恵している。情けない話だ」という会話が出てくる。
※54-「当時(注・戦時中)、子どもにとっての最高のおやつといえばアイスキャンディーでしたが、いつも僕はイチゴのキャンディーしか買えませんでした。まわりから「おまえはアカの子どもだから」と言われ、それしか買うことを許されなかったのです。「おまえはアカの子だから、赤いキャンディーでいいんだ、白いのとかあずきが入ったのはとんでもない」というのです。それは、いじめというより、当時の大人の常識で測ったものの見方でした。国の方針に従わないのは非国民と言われ、ちょっとでもずれると全部非国民として扱われるのが普通だったのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年)、「近所にアイスキャンディーを買いにいっても『お前は赤いの食ってればいいんだ』と言って、イチゴのアイスキャンディーしか売ってくれないんです。ぼくだって小豆やミルクのアイスキャンディーが食べたいのに、いつもイチゴですよ。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年))。ただ『井上ひさし伝』は少し後で「アイスキャンディー?覚えないな。何から何まで物資がなかったときに、甘いもんなんかあったかね?ひさし君は、本当のことはいわないで、茶化してしまって書いていることが多いからね。茶化さないではいられない心の屈折したところを汲み取ってあげればいいのにな、と思いますね」という五つ上の兄・井上滋の発言を記している。この本は井上さんの生前に上梓された、事前に当人に許可を取りインタビューも行っているにもかかわらず、井上さんの発言の矛盾を明らかにするような箇所がたびたびあって(「一九四五(昭和二十)年八月十五日のことを、ひさしは自筆年譜にこう記している。 〈近くの山で、松根油にする松の根を掘っていると、老教師が泣きながら走ってきて、「日本は戦さに負けた」と告げた。それを聞いてわたしたちは思わず歓声をあげたが、これは松の根掘りが相当の重労働だったせいで、他意はない〉 川西町町民記念講演会では、同じ日のことをこう話した。 「八月十五日は、長井の軍需工場で淡谷のり子の慰問ショーがあるというので、なんとか見ようと朝から出かけてそこに潜り込んでいましたね。淡谷のり子は、音程がはずれていてうまくないと思いました。玉音放送も全然知らないで帰ってきたら、戦争に負けたらしい、と聞いたのです。(後略)」とか)著者の公正さを感じる。
※Ⅱ-「私は自分の忙しさを棚に上げ、世間が慌ただしく井上ひさしを「ヒューマニストの作家」のように乱暴に片づける姿が耐えられない。 井上さんは「悪意の作家」だ。それもやすっぽい偽悪作家ではなく、手間暇かけて磨き上げた「悪意」がいつも作品に込められていたように思う。それが私の誤読だというのであれば、恐らく私は、井上さんの本の「悪意」に見えるところが好きだった。そして、それを言葉だけで目の前に立ちあがらせる井上さんの劇作家としての腕力は、私のようにせっかちにモノを書く人間からすると、本当にうらやましい限りだった。」(野田秀樹「叶わなくなったコトバ」、『悲劇喜劇 2010年7月号』(早川書房、2010年)