初登場シーンからいきなり立派組の石松を刺し殺す、それも後ろからという卑怯なまでの容赦なさを見せ付けてくれる天晴。しかもここで暴れ出す理由が「シャモになる夢を見た」「だからすこぶる機嫌が悪い」といういたって身勝手なもの。鬱屈とその反動による狂暴さが背中合わせになった、机龍之介を思わせる破滅型のニヒルなヒーロー。
とにかく暇さえあれば酒を飲み続け、流石先生の見立てでは五臓が弱りきってる、三年五年のうちには死ぬ、とのこと。その生き方はあたかも緩慢な自殺といった風情がある。それは25年前の事件と無関係ではないだろう。
事件以前の天晴がどんな性格だったかはわからない。しかし沢谷村の一揆を鎮圧した後になってから闇太郎=久太郎に「可哀想だがおまえ仕官なんかできねえぞ。うそだと思うならろまん街へ行ってみな」と告げたこと――彼の母親がどんな目にあってるか知りながら、手遅れになってから久太郎にそれを知らせる、しかも挑発するような口調で―というあたり、とうてい性格がいいとはいいがたい。
しかしお泪の両親を手にかけながら知らん顔して彼女を女房にすることがどうしてもできなかったところに彼なりの倫理観が感じとれる。もちろんお泪に手をつけてなかったとは思えない、お泪の天晴に対する態度からも二人が過去形だとしても男女の関係だったことは間違いないだろうが、女房にまですることにはどうにも抵抗があった。
すぐ近くで姉が年がら年中結婚したり離婚したりするのを目の当たりにしているのに、存外お固い一面を持っているのだ。つまりはそれだけお泪に本気だったということではないか。
にもかかわらず、彼は闇太郎の正体を早々と察しながら、お泪と彼が一緒になるのを後押ししている。闇太郎―久太郎もまたお泪にとっては両親の仇である。幼馴染の男と信じて親の仇と一緒になる―極めて悲劇的な状況を、なぜか愛する女に背負わせようとした・・・その心理は屈折しすぎていてにわかには理解しがたい。しかし根底にあるのは第一に闇太郎―久太郎への憎しみのように思える。そしてお泪への、愛ゆえのサディスティックな衝動。
天晴も久太郎もともに沢谷村の一揆鎮圧に関わったお泪の仇でありながら、久太郎は一切の記憶を失ってしまった。天晴がずっとお泪に対して抱かざるをえなかった罪悪感(もしかすれば罪もない百姓たちを殺したことへの罪悪感もあったかもしれない)を久太郎は全く感じていない。素直に彼女が幼馴染の恋人と信じ素直に彼女を愛した。お泪の方も、天晴との不幸な結びつきに陥る前の、無邪気だった少女時代を懐かしむ気持ちを闇太郎への愛着に転化させていった。
自分同様の罪を犯しながら自分には叶わない暖かな愛情を彼女との間に通わせていること、それが天晴には許しがたかった。
ゆえに代官を斬ればお泪と添わせるという、闇太郎―久太郎とお泪双方にとっての残酷な提案を持ちかけてみれば、闇太郎はあっさりそれに乗っかってお泪と夫婦になった。最初は人殺しの上に成り立った結婚だけに釈然としない様子だったお泪も、しばらく闇太郎と暮らすうちに天晴に対しても平気でのろけるようになってしまう。
不毛な愛であろうと確かに自分を想っていたはずのお泪が、天晴がけしかけた結果とはいえ本気で闇太郎を愛するようになっている――その様子に天晴は憎しみと倒錯した喜びを同時に感じていたのではないか。
おそらく天晴は25年の間、ずっと自分を熱くしてくれるものを求めていた。故郷の街は死に体で、愛しても自身の罪悪感ゆえ結ばれえないお泪との関係に疲弊し、しかし自ら死を選ぶだけのきっかけもなく・・・憂さを酒でまぎらわしながらだらだらと生き続ける日々。
そこに松枝久太郎が現れた。自分を超えるほどの剣の技量を持ち、父親の仇でもある男。しかも記憶を一切―都合の悪い思い出を全て―忘れ果てているという。どれをとっても天晴の神経を逆撫でせずにはいない存在。久太郎―闇太郎を利用して、彼を踏み台に今度こそ武士に成り上がってやろう。その思いつきは天晴をさぞ喜ばせただろう。
今さら武士階級に執着しているというよりあの久太郎を踏み台にするということが(25年前にも踏み台にしようとしてとんでもないしっぺ返しを食っただけに)天晴には痛快に思えたのではないか。闇太郎への憎しみ、彼を苦しめることが長く人生に倦んでいた天晴にとっての生き甲斐になったかのごとくである。
本物のやみ太郎の闖入によって闇太郎が偽者だと発覚し計画は頓挫したものの、天晴としては闇太郎を苦しめられれば正直何だってよかったのでは。松枝久太郎が何をしたか、彼の身に何が起こったかをなるべく劇的に闇太郎に暴露し、最終的に彼との死闘を演じるに至った。
闇太郎となら本気で力を尽くして戦うことができる。天晴は自分を熱くしてくれる男・闇太郎との戦いを自らの死に所に定めたのだ。おそらく闇太郎が久太郎だと気付いた時点でいずれこうなると悟っていたのかもしれない。
お泪を闇太郎に彼の素性を知らせぬまま自分の持ち物のごとく(実際お泪は天晴に金で買われた身であるが)投げ与えるように添わせたのも、闇太郎を愛しつつあるお泪への一種の復讐というだけでなく、闇太郎との対決・自分の死を前に彼女との関係にケリをつけておきたかった心理もあったのではないか。
もちろん天晴とて腕には覚えがあり闇太郎に負ける、死ぬと決まったわけではないのだが、25年の倦怠の末に訪れた大イベント―闇太郎を利用しての謀略、その果てにある闇太郎との死闘に嬉々として臨む天晴を見ていると、彼が生き残ってふたたび以前にも勝る倦怠に沈んでゆく姿が想像できない。
おそらく天晴自身も生き残った自分を想像できないし想像する必要も感じてなかった、そこから先の人生はもうないものと思い切っていたように見えるのである。それが彼にとってはもっとも幸福な幕切れであるのかもしれない。
何ともデスペレートな人間ではあるが、その生き方が天晴に倒錯的な、妖しいほどの男の色気を与えている。お泪が天晴を怖れながら彼を愛さずにいられなかったのも頷ける。ひとえに演じ手である堤さんの技量と資質あってのことだろう。ほれぼれ。
ところで天晴について気になるのは例の「シャモリ」である。『蜉蝣峠』(3)で書いたように、あの軍鶏は天晴の抑圧された一面、密かな願望が具現化した姿であると思われる。
鳥というと空を自在に翔ける自由の象徴のように感じるが、軍鶏は鳥といっても飛べない鳥である。闘鶏に使われる好戦的な鳥という点で天晴にはふさわしいともいえるが、飛べない鳥を夢想したということは天晴が軍鶏の姿に仮託したものは「自由」ではない。
ほかにこの軍鶏の特徴といえば、産卵シーンで明らかになったように意外にもメスだということだ。こう言うと銀之助やサルキジなどジェンダーの不安定なキャラクターも多い作品だけに、天晴が密かに女性化願望を抱いているように思ってしまいそうだが、おそらく肝は「産卵」の方にある。新しい命を産み落とす、またその卵を与えることで飢えた人の命を救うという行為。
日頃「虫の居所が悪い」というだけの理由で刀を振り回し平気で他人を殺す天晴だが、心のどこかで命を奪うばかりの自分に鬱屈していて、命を生み出す・救う側になりたいと願っていたのではないか。そう考えると死神のような、歪んだ生き方を貫いて死んでいった天晴が、何とも哀れに思えるのである。
とにかく暇さえあれば酒を飲み続け、流石先生の見立てでは五臓が弱りきってる、三年五年のうちには死ぬ、とのこと。その生き方はあたかも緩慢な自殺といった風情がある。それは25年前の事件と無関係ではないだろう。
事件以前の天晴がどんな性格だったかはわからない。しかし沢谷村の一揆を鎮圧した後になってから闇太郎=久太郎に「可哀想だがおまえ仕官なんかできねえぞ。うそだと思うならろまん街へ行ってみな」と告げたこと――彼の母親がどんな目にあってるか知りながら、手遅れになってから久太郎にそれを知らせる、しかも挑発するような口調で―というあたり、とうてい性格がいいとはいいがたい。
しかしお泪の両親を手にかけながら知らん顔して彼女を女房にすることがどうしてもできなかったところに彼なりの倫理観が感じとれる。もちろんお泪に手をつけてなかったとは思えない、お泪の天晴に対する態度からも二人が過去形だとしても男女の関係だったことは間違いないだろうが、女房にまですることにはどうにも抵抗があった。
すぐ近くで姉が年がら年中結婚したり離婚したりするのを目の当たりにしているのに、存外お固い一面を持っているのだ。つまりはそれだけお泪に本気だったということではないか。
にもかかわらず、彼は闇太郎の正体を早々と察しながら、お泪と彼が一緒になるのを後押ししている。闇太郎―久太郎もまたお泪にとっては両親の仇である。幼馴染の男と信じて親の仇と一緒になる―極めて悲劇的な状況を、なぜか愛する女に背負わせようとした・・・その心理は屈折しすぎていてにわかには理解しがたい。しかし根底にあるのは第一に闇太郎―久太郎への憎しみのように思える。そしてお泪への、愛ゆえのサディスティックな衝動。
天晴も久太郎もともに沢谷村の一揆鎮圧に関わったお泪の仇でありながら、久太郎は一切の記憶を失ってしまった。天晴がずっとお泪に対して抱かざるをえなかった罪悪感(もしかすれば罪もない百姓たちを殺したことへの罪悪感もあったかもしれない)を久太郎は全く感じていない。素直に彼女が幼馴染の恋人と信じ素直に彼女を愛した。お泪の方も、天晴との不幸な結びつきに陥る前の、無邪気だった少女時代を懐かしむ気持ちを闇太郎への愛着に転化させていった。
自分同様の罪を犯しながら自分には叶わない暖かな愛情を彼女との間に通わせていること、それが天晴には許しがたかった。
ゆえに代官を斬ればお泪と添わせるという、闇太郎―久太郎とお泪双方にとっての残酷な提案を持ちかけてみれば、闇太郎はあっさりそれに乗っかってお泪と夫婦になった。最初は人殺しの上に成り立った結婚だけに釈然としない様子だったお泪も、しばらく闇太郎と暮らすうちに天晴に対しても平気でのろけるようになってしまう。
不毛な愛であろうと確かに自分を想っていたはずのお泪が、天晴がけしかけた結果とはいえ本気で闇太郎を愛するようになっている――その様子に天晴は憎しみと倒錯した喜びを同時に感じていたのではないか。
おそらく天晴は25年の間、ずっと自分を熱くしてくれるものを求めていた。故郷の街は死に体で、愛しても自身の罪悪感ゆえ結ばれえないお泪との関係に疲弊し、しかし自ら死を選ぶだけのきっかけもなく・・・憂さを酒でまぎらわしながらだらだらと生き続ける日々。
そこに松枝久太郎が現れた。自分を超えるほどの剣の技量を持ち、父親の仇でもある男。しかも記憶を一切―都合の悪い思い出を全て―忘れ果てているという。どれをとっても天晴の神経を逆撫でせずにはいない存在。久太郎―闇太郎を利用して、彼を踏み台に今度こそ武士に成り上がってやろう。その思いつきは天晴をさぞ喜ばせただろう。
今さら武士階級に執着しているというよりあの久太郎を踏み台にするということが(25年前にも踏み台にしようとしてとんでもないしっぺ返しを食っただけに)天晴には痛快に思えたのではないか。闇太郎への憎しみ、彼を苦しめることが長く人生に倦んでいた天晴にとっての生き甲斐になったかのごとくである。
本物のやみ太郎の闖入によって闇太郎が偽者だと発覚し計画は頓挫したものの、天晴としては闇太郎を苦しめられれば正直何だってよかったのでは。松枝久太郎が何をしたか、彼の身に何が起こったかをなるべく劇的に闇太郎に暴露し、最終的に彼との死闘を演じるに至った。
闇太郎となら本気で力を尽くして戦うことができる。天晴は自分を熱くしてくれる男・闇太郎との戦いを自らの死に所に定めたのだ。おそらく闇太郎が久太郎だと気付いた時点でいずれこうなると悟っていたのかもしれない。
お泪を闇太郎に彼の素性を知らせぬまま自分の持ち物のごとく(実際お泪は天晴に金で買われた身であるが)投げ与えるように添わせたのも、闇太郎を愛しつつあるお泪への一種の復讐というだけでなく、闇太郎との対決・自分の死を前に彼女との関係にケリをつけておきたかった心理もあったのではないか。
もちろん天晴とて腕には覚えがあり闇太郎に負ける、死ぬと決まったわけではないのだが、25年の倦怠の末に訪れた大イベント―闇太郎を利用しての謀略、その果てにある闇太郎との死闘に嬉々として臨む天晴を見ていると、彼が生き残ってふたたび以前にも勝る倦怠に沈んでゆく姿が想像できない。
おそらく天晴自身も生き残った自分を想像できないし想像する必要も感じてなかった、そこから先の人生はもうないものと思い切っていたように見えるのである。それが彼にとってはもっとも幸福な幕切れであるのかもしれない。
何ともデスペレートな人間ではあるが、その生き方が天晴に倒錯的な、妖しいほどの男の色気を与えている。お泪が天晴を怖れながら彼を愛さずにいられなかったのも頷ける。ひとえに演じ手である堤さんの技量と資質あってのことだろう。ほれぼれ。
ところで天晴について気になるのは例の「シャモリ」である。『蜉蝣峠』(3)で書いたように、あの軍鶏は天晴の抑圧された一面、密かな願望が具現化した姿であると思われる。
鳥というと空を自在に翔ける自由の象徴のように感じるが、軍鶏は鳥といっても飛べない鳥である。闘鶏に使われる好戦的な鳥という点で天晴にはふさわしいともいえるが、飛べない鳥を夢想したということは天晴が軍鶏の姿に仮託したものは「自由」ではない。
ほかにこの軍鶏の特徴といえば、産卵シーンで明らかになったように意外にもメスだということだ。こう言うと銀之助やサルキジなどジェンダーの不安定なキャラクターも多い作品だけに、天晴が密かに女性化願望を抱いているように思ってしまいそうだが、おそらく肝は「産卵」の方にある。新しい命を産み落とす、またその卵を与えることで飢えた人の命を救うという行為。
日頃「虫の居所が悪い」というだけの理由で刀を振り回し平気で他人を殺す天晴だが、心のどこかで命を奪うばかりの自分に鬱屈していて、命を生み出す・救う側になりたいと願っていたのではないか。そう考えると死神のような、歪んだ生き方を貫いて死んでいった天晴が、何とも哀れに思えるのである。