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俳優・勝地涼くんのこと。

『空中庭園』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2007-09-17 00:09:05 | 空中庭園
・ヒロイン・絵里子(小泉今日子さん)によるナレーション。
一見普通な、その実いびつな家族のあり方についての原作の描写の中から、根幹の部分をしごくシンプルに切り取っている。
黒塗りの背景も含めて無駄のないシャープな作り。

・世界七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」をモチーフとした柔らかなタッチの絵(背景にはバベルの塔も聳えている)のアップを、カメラが舐めるようにして映してゆき、それが実はランプシェードの模様だった、という形で京橋家のダイニングの情景へと移る。
『空中庭園』というタイトルからの連想であろうが、映画では原作がとりたてて描写していない「背徳の都市・バビロン」のイメージをくり返し強調している。
冒頭から「空中庭園」の絵が出てくること、それが京橋ファミリーの団欒を見下ろす位置にあるランプシェードの模様だというのが象徴的。

・テーブルの中央にぽつんと置かれた一輪挿しの赤い花。これから絵里子が妄想の世界で流し浴びることになる大量の血のイメージ。
ラストで登場する白い花との対比にもなっている。

・「あたし、どこで仕込まれたの?」 朝の食卓に似つかわしからぬ赤裸々な会話で、この友達家族のいびつさがわかりやすく提示されている。

・マナ(鈴木杏ちゃん)とボーイフレンドの森崎くん=モッキーの会話。
「そのクマ、クマって(困って)ねえ?」というモッキーの台詞は勝地くんのアドリブ、というか「アドリブでなんかダジャレを言ってくれ」と監督に言われて、焦りつつとっさに捻り出した台詞なのだそう。
たしかに「は?」という感じの唐突な台詞ですが、このキーホルダーのクマがのちのち結構なキーアイテムになってくることを思えば、伏線としての役割を果たしているかも。

・ベランダ一面の庭に水をやる絵里子がふと空を見上げる。冒頭のシェードの場面以来、「見下ろす」構図が多かったのが、初めて「見上げる」構図が登場する。
そしてカメラはそのまま空の大写しから次第に下へ向かい、赤い紐で吊り下げた植木鉢がゆらゆらと揺れる。
軽い失墜感と眩暈をもたらす動きは、絵里子の精神の不安定さをそのまま示している。

・家族三人、みんな同じバスに乗っているのに、ボーイフレンドが一緒のマナはともかく、父の貴史(板尾創路さん)も弟のコウ(広田雅裕くん)もばらばらに座っている。
マナも含め三人ともが不機嫌と無気力を思わせる無表情。家を一歩出た途端に「幸せ家族」の虚構は崩れている。

・振り子のように大きく揺れ続ける画面。
この「揺らぎ」が京橋家内部の描写のみならず、バスが走ってゆく街中の風景にまで及んでいるのが、絵里子が造り上げた(と後に明かされる)人工の楽園・京橋家だけでなく、少年による凶悪犯罪などに際してしばしば問題にされる「特有の人工性とそれにともなう密閉感」に満ちたニュータウンの不安定さをも表しているように思いました
(このやたら揺れる画面はなかなかに評判が悪かったようです。たしかに演出意図はよくわかるものの、劇場の大画面で見ていたら酔っちゃったかも)。
美しいけれど単調なメロディーをひたすら繰り返し続けるBGMも、いつ果てるとも知れず淡々と続いてゆく生活が孕んでいる閉塞感と一種病的な雰囲気をより強めています。

・京橋家の庭に「ERIKO’S GARDEN」のプレート。
「KYOBASHI’S」でなく「ERIKO’S」であるところに、この庭もこの家庭も自分が作ったものなのだ、という絵里子の強烈な自負心が伺える気がします。

・次第に寄ってくるカメラに気づいたかのように強張った顔を向ける絵里子。自分を見つめる外(観客)からの視線を認識してしまったかのような印象があります。
のちに彼女が造り上げた幸せ家族の虚構が家庭外の人間であるミーナ(ソニンさん)によって「学芸会」と喝破されたことでもわかるように、「外からの視線」は絵里子にとっては自分の幻想を破りにくる敵のようなもの。
顔を振り向けたときの絵里子の表情には「外」に対する不安と敵意の兆しがあった気がします。
そこで一気にカメラが引くのも、彼女の幻想が外からの視線に晒された一瞬に色褪せたことを思わせる。

・絵里子の不安のピークを示すように団地の遠景が(もはや揺れるなんてもんじゃなく)一回転する。
この団地の外見はブリューゲルが描いた「バベルの塔」によく似ている。冒頭のシェードの絵にバベルの塔が登場している(バビロンの空中庭園からはバベルの塔が望めたと言われている)ことからしても、この団地はバベルの塔に見立てられてるのではないか
(パンフレット収録の映画評(「エクソダスの物語」は「この団地はバビロンの空中庭園を模している」(概要)と指摘している)。
「バベルの塔」からは、「言葉が通じなくなる=コミュニケーション不全」や「崩壊」(バベルの塔に関する伝承の出典である『旧約聖書』では建設途中で放棄されただけだが、絵画のモチーフとしては崩壊の姿が描かれることもある)といったイメージが喚起され、京橋家の今後に不安を投げかける。
しかし一回転して元の位置に戻るという動きは、激しい動揺を経たのちにこの一家がしかるべき位置に収まることを表しているようでもあります。

・ディスカバリーセンター(ディスカバ)は階段に水を流してある。
その光景は冒頭のダイニングのランプシェードに描かれた空中庭園を思わせる。団地がバベルの塔の見立てであると同様、ディスカバは空中庭園の見立てなのだろう。
バベルの塔も空中庭園も「背徳の都市」バビロンの中心であり、自然-重力に反して垂直に伸びる人工物の極みである。
モッキーは「ここ爆破してえ」とディスカバへの嫌悪感を露にしていますが、それは「浮ついてない」「地に足がついてる」農家の少年・モッキーがディスカバとそれに代表されるニュータウンの人工性・虚構性を本能的に感じ取っているがゆえなのでしょう。
対するマナは「ディスカバリーセンターなしじゃ死ぬね」。「野猿」行きの後二人が疎遠になってゆく根がここにあります。

・ポケットから取り出した煙草を吸うモッキー。
服装なども特別不良っぽいわけじゃないのだけど適度にだらしなくて、その口調なども合わせ「ちょいワル」な印象。未成年のくせに煙草を吸う仕草が堂に入ってます。
勝地くんはデビュー直後(『永遠の仔』)から、喫煙シーンのある役が妙に多いような。

・煙草つながりでスムーズにさと子(大楠道代さん)のストーリーへと場面転換。
病院のベッドの上で煙草を吸っているというシチュエーション、ハの字に開いた足を脛まで出しているあたり、原作以上にファンキーで傍若無人なさと子のキャラが数秒で観客に伝わるよう配慮されている。

・さと子がベッドの下に置いていた5円玉入りの缶を蹴倒してしまった絵里子は、床に這いつくばるようにして5円玉を拾い集める。
見舞いの青年?の差し入れに無邪気に喜ぶさと子とのコントラストに、絵里子が母親の前で常に感じている圧迫感、みじめさが凝縮されている。

・絵里子を「ナヨコ」と呼ぶサッチン(今宿麻美さん)。
絵里子の隠している過去を(間接的に)知っていて、彼女を嘘つき呼ばわりするサッチンは、絵里子の世界を揺るがす最初の「他人」である。
いやむしろ、サッチンに先立って登場する母こそが最初の他人だろうか。この段階ではまだ匂わされてるだけだが、今後さと子は絵里子にとって最大の「敵」としての姿を露にしてゆくことになるのだから。
中盤の「野猿」の場面で、コウがさと子を「さっちゃん」と呼んでいますが、この映画独自の愛称も、絵里子に忘れたい過去を突きつけてくる存在としてのサッチンとさと子の共通性を示唆するもののように思えます。

・店長にサッチンがクラミジアを患ってると告げ口をする絵里子。「クラミ・・・アジ?」などと笑顔でカマトトぶってみせるのも含めなかなかにタチが悪い。
にっこり笑いながら邪魔者を排除しようとする絵里子の怖さがわかりやすく出ている。

・マナに「野猿」に連れ込まれるモッキーの腰の引けっぷり、声の裏がえりっぷりが見事。
勝地くんいわく「彼女とエッチすることばかり考えてる普通の男の子」なモッキーは、悪ぶってる一面結構ウブな部分もあって、本当等身大の男の子な感じ。
部屋に入ってからも、妙に躁状態だったかと思えば、いきなり真顔で彼女に迫ったり、性急に押し倒して服を脱がせにかかったり、「自分で脱ぐよ」と言われるとあっさり「ごめん」と引っ込んじゃったり・・・。
初心な男の子の感情の流れがリアルに伝わってきて、勝地くんの力量を感じたものです。

(つづく)

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