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俳優・勝地涼くんのこと。

『空中庭園』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2007-09-23 02:39:20 | 空中庭園
・「家族はいるの?やり直したいとか思う?結婚して家を買って子供作って、自分の・・・」。
この「やり直したいとか思う?」はまだ年若いテヅカに発するには奇妙な問いのように思える。
彼の年齢なら「やり直」さなくても、結婚も家を買うことも子供を作ることもできるはずなのに。いかにも人生の落伍者っぽく見えたのか?
ここで「やり直したい」という言葉が出るあたりに、先に書いた彼女の胎児回帰願望が表れているように思える。
そしてこの「やり直し」という言葉は、のちにさと子が絵里子に人生指南を行う場面で印象的に再登場することになる。

・コートを脱ぎ上半身のタトゥーを晒すテヅカ。「バビロンへようこそ、王女」。
マナが子宮-回帰すべき安全な家として捉えているこの部屋は、安らぎの場などでなく背徳の地である、と宣言しているかのよう。
それはバビロンの空中庭園やバベルの塔を思わせる団地やディスカバもまた「家」ではないということを示唆していて、それが「おまえの家はもうねぇよ」という残酷な囁きにつながっているのでは。

・マナの服を脱がせにかかるテヅカは、マナの「自分でやります!」の言葉を聞くと、彼女から離れて「君は本当に可哀想な人間だ」と言い残し部屋を出て行く。
先にマナと「野猿」へやってきたモッキーも同じことを言われ、結局マナとは寝ずに終わった。「自分でやる」という言葉に表れる、性行為を自分の管理下に置こうとする姿勢が男たちを萎えさせてしまうのか。
モッキーにもテヅカにも「子作り、家庭作り」を口にしてることからすれば、むしろ「生殖」を管理下に置こうとしている、というべきか。かつての絵里子と同じように。
絵里子が母に愛されなかった(と思っている)痛みから逃れるために自分が理想の母たろうとしたように、胎児回帰願望をほの見せている(母親の無条件の愛情と庇護を求めている)マナも、それゆえに自分が母となることに強く惹かれている。
モッキーはマナと「野猿」行き以降疎遠になる(モッキーがマナを避けるようになる)が、マナの関心が自分自身でなく「新しい家庭を与えてくれる男」に向かっていると感じてしまったからじゃないか。

・テヅカはマナの服を脱がせようとする時、「俺のこと好きだよな?」と激しく繰り返す。さっき出会ったばかりの少女に対するには奇妙なまでの執着。
単にそういう粘着質な性格ってだけかもしれませんが、ここまでの展開の中で、彼とモッキーの行動や志向が重ね合わせて描かれていることからすると、この言葉は彼氏と初めて抱き合おうという時に「子供ができたら」という話ばかりするマナに対して、モッキーが叫びたかった言葉を代わりに吐露したものなのかもしれません。

・引き出しを開けると、バースデイベアの代わりに血まみれの胎児様の物が入っている。マナの胎児回帰願望を、グロテスクなものとして彼女自身に突きつけたシーン。
鏡?に血のような赤い文字で書かれた裏返しの「HAPPY BIRTHDAY」がまるで呪いの言葉のように見えてくる。
しかし「引き出しにしまったクマのぬいぐるみが血まみれの胎児に変わる」という超自然的なこの場面は、先の絵里子がサッチンをフォークで襲うシーン、ラストの血の雨のシーン同様にマナの妄想なのではないか。
「あの」絵里子の娘なのだから(とくにここの場面では「絵里子」の名を名乗るほどに母に同化している)。
謎めいた(作品のテーマにかかわるような)台詞ばかり吐く予言者のごときテヅカの存在も非現実的ともいえるし。
後でテヅカに撮られた写真が投稿雑誌に載るので彼の存在自体は幻じゃないんでしょうが、ここで起きたことはどこまで本当なのかわからない。眩暈に似た感覚が残ります。

・家に帰ってきたら愛人が息子の家庭教師として上がりこんでいた――これ相当怖いシチュエーションですね(笑)。
ビールをついでもらう手の震えに、貴史の脅えがわかりやすく表れています。
そして「外」の人間であるミーナを家の中に入れてしまったところから、急激に京橋家の虚構の幸せは崩壊に向かうことになる。

・絵里子が年頃の息子と若い女家庭教師が二人きりでいるのに抵抗を感じるのは理解できるんですが、なぜ彼女があっさりミーナを家庭教師として受け入れてしまったのか、それが不思議です。

・絵里子の実家は数時間で往復できる程度の距離にある。
あれだけ家を出て行きたいと願い、近所には自分をいじめた連中も住んでいる(だから当時のいじめっ子の娘であるサッチンとパート先で出会ったりもする)というのに、なぜか絵里子は実家から程遠からぬ距離に居を構えた。
結局彼女は母の影に囚われているのじゃあないか。

・絵里子の回想。階段の手すり?を爪で掻く動作、天井の隙間から漏る水滴、不安定に揺らぎながら階段の下へと向かってゆく(絵里子の)視界。
行き詰まるような演出に、外の嵐同様に、当時の彼女の心も荒れ狂っているのが伝わってくる。

・さと子の「産むんじゃなかった!」は直接本人に言ったのではないとはいえ、かなりの暴言。
ストーリーをたどってゆくと、さと子は決して絵里子を嫌っていないはずなのに、この発言はなんなのだろう。
先生の同情を引いて絵里子の出席日数に手心を加えてもらおうという算段だったのか(それにしてはやりすぎで却って先生に引かれている)、女手一つで子供を育て、その一人が登校拒否という状況に当時のさと子の精神も病みかけていたのか。
障子を開けたらさと子が哄笑した場面以降は、ぐるぐる回る視界(精神の不安定さ)からいっても絵里子の幻想だろうと思うので、さと子が心労から発した失言を、絵里子がショックのあまり実際より悪い方向に記憶を塗り替えてしまったというのが正解じゃないでしょうか。
まあ世間の親子の多くは、こうした決定的な失言に発するわだかまりを心の底に沈めて親子をやってるような気もしますが。

・赤い薔薇が散っている嵐の庭の光景は、ラスト近くの団地の庭と対比的に描かれる。
前者はいわば絵里子の心とさと子との母子関係が壊れた場所であり、後者はその両方が再生する場所という意味合いなのでは。

・再び絵里子の回想。ぐるぐる回転する画面は絵里子にとって当時の記憶がどれだけ不安感をもたらすものなのかを示している。
団地への引越し以降も画面の回転が続くのは、それが結局虚偽の幸せだと絵里子が心の底では思っているゆえなのでしょう。

・憎んでるはずの母と映した幼い頃の写真を持ち帰ってきてしまう絵里子。
ラスト付近でこの写真が家族写真と並んで飾られていたのを思うと、絵里子が心の奥底で母を求めていることを示しているのでしょう。

・貴史の人柄について、「そういう男なんだろうと思ったけど、そんなことは私の計算にあまり関係なかった。」。
絵里子は最初から自分の望む家庭を作るための「種馬」としてしか彼を見ていない。その愛のなさには慄然とする。
貴史の浮気癖は、基本的には生来のものなんでしょうが、妻の冷たさに起因してる部分も多少あるのかも。
けれど家庭の形を保つことだけが大事なら、浮気に気づいても何食わぬ顔で夫婦を続けていられるはずなのに、5年前に彼の浮気を知って以来セックスを拒絶している(セックス拒否の理由が彼の浮気にあったことは映画では匂わす程度)のは、彼を男として愛する気持ちが多少はある証のようにも思えます。

(つづく)

P.S. 余談ですが、9月21日発売の『Kindai』11月号に、「かっち&ジョーのクロスロード番外編」として勝地くんと北条隆博くんの対談が(なぜか目次には出ていませんが120ページあたりに)載っています。内容は二人が初共演した映画『阿波DANCE』について。フォスターさん公式の情報が更新されてないので、一応お知らせをば。

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