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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(4)-3(注・ネタバレしてます)

2009-04-27 01:38:35 | カリギュラ
カリギュラが「死」をテーマとする詩を十四人の詩人に競作させたとき、シピオンの詩には「かけがえのない野蛮な宴、希望なきわが錯乱!」と、以前カリギュラと詩を詠み合った時とは異質な一文が入っている。
あの時カリギュラに欠けているといわれた血の匂いがそこには漂っている。

この詩を聞いて「まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている」と褒めたカリギュラに、シピオンは「まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました」と答える。
「まだ若い」と言われたのをわざわざ「若かった」という過去形で受け(※2)、いつもの「ぼく」でなく「わたし」という口調は彼らしくもなく妙に老成している。
カリギュラに心から立ち向かってゆき、彼の苦悩をわが身の痛みとして理解したシピオンは、死の教訓を知ってしまった。かつて父を失った傷を癒してくれた大自然も彼の中で死の気配と血の匂いを絶えず漂わせるものへと変貌し、もはや彼の心の傷を埋めてくれはしない。

彼はカリギュラに「あなたにも、あなたとそっくりのぼくにも、もう出口はありません」と言い、「あいつはきみの父親を殺した!」と言うケレアに「そこがすべての始まりです。でもそこは、すべての終わりでもあるんです」と答える。
父親を殺したカリギュラを憎みつつも愛し、愛しながらもまた憎しみへと心が返ってゆく。この円環の中でシピオンの魂もまた疲れ果ててゆく。ケレアは言う。「あいつはきみを絶望させた」。

セゾニアが言った「たった一つの決定的な革命」は半分は成し遂げられた(シピオンがカリギュラを憎みながら愛することは実現したが、それがカリギュラの魂を救うには至っていない)が、それはカリギュラと同じように深い苦悩を背負った青年を一人増やしただけだった。
「若さ」がそのままキャラクターの影響力の強さを示しているようなこの戯曲の中で、繰り返しその若さに言及されてきたシピオン。自分の若さを過去のこととして語ったとき、彼はその神通力を失ったのである。

そしてカリギュラの死が近いと知った(そしてカリギュラ自身も自分の死期をわかっていて、そうなることを「すでに選んでい」ると知った)、しかしカリギュラを救うにはあまりに無力なシピオンは「このことすべての理由を探しに」「遠くへ出発」する。
「あなたとそっくりのぼく」と言いつつも、彼はカリギュラのように世界を変革するために他人の命を捧げることなどはしないし出来ない(「なにか或るものをむりにけがさなくても、否定でき」るのが彼とカリギュラの違いである)。
彼は誰を傷つけることもなく彼やカリギュラの苦しみを解いてくれる(くれた)はずの何かを求めてさまよい続けるのだろうか。

ただしこの別れの場面にはかすかな希望が残されている。ケレアが「時は来た」といい、シピオンがカリギュラの方へ行こうとするときのト書きには「若いシピオン」とあるのだ。
ト書きに「若いシピオン」という表現が出てくるのは第二幕のほかはこの場面のみ。これは、自分はもはや若くない―無力な存在だと感じつつ果てのない旅に赴こうとするシピオンに対する、作者の精一杯の餞ではなかったろうか。
そしてカリギュラに愛憎双方の感情を抱きながらも、シピオンが最後に口にしたのは彼への愛だった。シピオンはいつか再び「大地の調和」に心癒される日々を見出せるのかもしれない。憎しみと愛情の拮抗の中でぎりぎり「愛」を選びとったことが、彼自身を最後の一線で救ったのである。


 

※2-翻訳に際して父の死に時制を合わせ過去形にした可能性もあるかと、該当部分の原文にあたってみた(原著が見つからなかったため、※1の論文に引用されていたもので確認)。「Tu es bien jeune pour connaître les vrais leçons de la mort.」(まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている)、「J'e tais bien jeune pour perdre mon père.」(まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました)。原文も父の死の時制に関係なく「若かった」と過去形(=もう自分は若くはない)だった。

 

追記-現在発売中の少女マンガ雑誌『プリンセスGOLD』5月号に、『蜉蝣峠』に関連して勝地涼くん・木村了くん・高田聖子さんの鼎談というかインタビュー記事が出ています。例によってフォスターさんの公式に載っていないので一応お知らせ。

 


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『カリギュラ』人物考(4)-2(注・ネタバレしてます)

2009-04-23 01:40:08 | カリギュラ
シピオンと詩を詠み合った時、カリギュラはシピオンに「(自分がシピオンの詩の内容を察することができるのは)きみとおれがおなじ真実を愛しているからだろう。」と言う。
愛を否定したはずのカリギュラがかつて愛したローマの風物を詠み、自分のうちに愛という感情がなお存在することを告白している。
「ぼくのなかでなにもかもが愛の姿になっている!」と叫ぶシピオンに「広い心にそなわる美徳だ、シピオン。せめてきみのように澄みとおる心を持つことができたらな!」と、セゾニアに対したようにはシピオンの語る愛を否定せず、(カリギュラのために)絶望を経験しながらもなお「自然に満足し」「善のなかで(中略)純粋」な彼を羨んでさえいる。

さらに彼らが語り合う詩の内容は「夕暮れが連れてくる、束の間の、呆然とするような鎮もり」「なおも金色にみちた空が、にわかによろめくと、一瞬のうちに面差しを変え・・・」。
移ろいゆくものの一瞬の輝き、束の間に過ぎ去ってしまうからこその切ないような美しさにカリギュラは心を捉えられている。ラスト近くでカリギュラは「苦悩もまた永続しない(中略)苦悩ですら、意味を奪われている」と移ろうもの、つまりは地上の全てのものへの嫌悪を露にしているが、永続しない=無意味ではないはずだ。
かつてのカリギュラは永続しない、移ろっていくがゆえの美しさを理解し愛していた。シピオンに対するとき、彼の心は当時の愛を取り戻せるのだ。

ただカリギュラにとって彼が発見した真理はあまりにも重いために(「おれは、人生にたいする自分の情念の力を知りすぎている」)、愛の復活は一瞬に過ぎ去ってしまう(ゆえにこの場面はまさに「束の間に過ぎ去ってしまうからこその切ないような美しさ」に満ちている)。
今のカリギュラにとって心の慰め、どんな人も人生の中に持っている「ひとつの優しさ」と言えるものは「軽蔑」なのだから。

この詩を詠み合う場面に先立って、シピオンがセゾニアから「あの人を理解しようとしてほしいの」と言われて困惑する場面がある。
この言葉を告げるにあたってセゾニアは「この世でたった一つの決定的な革命を完成させる言葉よ」と前置きし、シピオンに父親が処刑された時のむごたらしい様をわざと思い出させる。なぜわざわざカリギュラへの憎しみを喚起する必要があるのか。

シピオンはカリギュラと詩を詠み合ううちに、彼に対する憎しみが押し流され、自分の心が愛で満たされてゆくのを感じるが、おそらくそれではダメなのだ。セゾニアは、シピオンが「カリギュラへの憎しみを保ったまま彼を受け入れる」ことを望んだのである。
それというのも、妹の死以来消えることのない神の不条理への憎しみに憑かれているカリギュラの苦しみを真に理解するのは、父を奪ったカリギュラの不条理に対する憎しみがあってこそ可能だからだ。
憎みながらなおかつそれ以上の愛をもって相手を理解する、それは心が二つに引き裂かれるような痛みを伴うだろう。
にもかかわらずそれを成就できたなら、カリギュラへの理解と愛がカリギュラを感化し再び彼を「愛」に引き戻せたなら、それこそ「決定的な革命」に違いない。
セゾニアはその詩情と憎しみゆえに唯一カリギュラを理解できる可能性があったシピオンを、途轍もない苦悩の道へと押し出したのである。

「きみの詩には(中略)血が欠けている」と言われたシピオンは自分が偽物の甘い夢を見せられたと思ってカリギュラを激しく罵るが、孤独を語り疲れきったカリギュラの姿に、彼の本質は昔と変わらぬナイーブな青年であること、それゆえの苦悩が彼の言動を歪めているのだと気づく。
シピオンは躊躇しながらも自分からカリギュラに近付きその肩に手を乗せる。カリギュラの変貌以来カリギュラを憎み心を閉ざしてきた彼は、この時からカリギュラを理解しようと努める。かつて「自分に良くしてくれた」からカリギュラを愛するようになったシピオンが、父を殺されるという最大限にひどい仕打ちを受けてなお彼を愛そうとする。
「あの人のことばのいくつかは、今でもそらんじることができます」と言うほどにカリギュラに多く影響を受けてきたシピオンにとって、心を閉ざすことを止めさえすれば、カリギュラを理解するのは難しいことではない。
父の死以来(たぶん)、他人行儀に「陛下」と呼んでいたのが「カイユス」という呼びかけに変わり、他の貴族たちが諾々とカリギュラの演出する茶番劇に付き合う中、「ぼくはカイユスに真実をいおうと決めたんです」と一人正面切って強気に意見する。

第三幕の第二場は詩人―論理より感性の人であるシピオンがカリギュラと論戦を繰り広げる珍しい場面だが、シピオンの語調の激しさにもかかわらず、のちのカリギュラ・ケレアの論理合戦に比べて張り詰めたものがない。むしろ意気軒昂な弟子を師匠が優しく教え導いているように聞こえる。
「ぼくをばかにしていますね、カイユス」という台詞など、痴話喧嘩めいたどこか甘ったるい響きがあって、カリギュラが自分にはひどい真似はしないという無意識の自信が裏にあるようにさえ思えてくるほどだ。

(つづく)


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『カリギュラ』人物考(4)-1(注・ネタバレしてます)

2009-04-19 02:01:21 | カリギュラ

シピオン


詩人の青年。カリギュラの年少の友。

もしカリギュラを救える人物がいたとしたら、それはシピオンだっただろう。ドリュジラ亡きあと、彼だけにその可能性があった。
カリギュラとの絆の強さをいうならばエリコンやセゾニアの方が上かもしれない。彼らはカリギュラを無条件に絶対的に愛し、カリギュラも彼らを無条件に信じ甘えていた。
しかしそれは彼らは自分に付いてきて当然という従者に対するような感情であり、対等の関係とはいえない。一方のエリコンとセゾニアもカリギュラを愛すべき子供として労わるように大事にしていて、やはり対等とはいえない。どちらもそれぞれに上から目線なのである。
カリギュラと彼らの間には愛情と信頼はあるが尊敬という感情は存在していないように思える。

カリギュラが尊敬の念を抱いているのはケレアとシピオンに対してだ。ケレアとはおそらく個人的な交誼はなかったように思うが、シピオンとは親しく友情を結んでいた。
シピオンは大分年少だし、彼の言葉からするとカリギュラがシピオンを教え導いていた感じだから完全に対等とは言い難いのだが、カリギュラが彼の人間性を尊重し、敬意を払っていたのは疑いない。
暴君と変じた後も、シピオンに対するときだけは、しばしば彼の口調は穏やかになる。カリギュラが正面から「きみ」と呼びかけるのはシピオンくらいだ。

初登場した頃のシピオンは無邪気にカリギュラへの好意を語る少年だった。彼は言う。「(カリギュラは)ぼくに優しくしてくれました。励ましてくれました」。
このあとカリギュラの人柄がうかがえるような言行についても語るのだが、彼を好きな理由として真っ先に、相手の人間性ではなくて「自分に良くしてくれた」ことをあげているのだ。
人情として自然なことかもしれないが、この発言に彼の子供っぽさ、愛するよりまず愛されたいと願う性格が表れているように思える。
この、愛情に包まれそれを当たり前のようにしてきた少年の世界を一変させたのが敬愛するカリギュラの変貌と彼によってもたらされた父の死だった。

このシピオンの父の処刑は純粋に「でまかせに作ったリストに従」った結果なのか、それとも「シピオンの父親だから」処刑したのか。後者だとすればシピオンとの交誼を断ち切るためやった、ということになるだろう。
第二幕第五場で、カリギュラはレピデュスに「昔々、誰にも愛してもらえない可哀想な皇帝がおりました。皇帝は、レピデュスを愛していました。自分の心からこの愛を取り去るために、彼はレピデュスの末っ子を殺しました」と話しかけるが、この前後でカリギュラとレピデュスが特に仲が良かったという描写がないので、これは暗にシピオンを意識して語っていると思われる。
彼を傷つけ自分に幻滅させることで距離を取る。裏を返せばこんな強行手段で遠ざけねばならないほどに彼はシピオンを愛していたのだ(※1)。

同時にそこには近親者の理不尽な死という、自分と同じ苦痛をシピオンにも味わわせることで、自分の苦しみを理解してほしいという心理も働いていただろう。
純粋であるほどに絶望はその魂を黒く染め上げる。カリギュラがそうであったように。その結果三年後のシピオンはカリギュラへの憎しみを隠そうともせず、暗く心を閉ざしてしまっているように見える。

しかし彼は変わらず詩を書いている。変わらず自然を愛し、その自然が父親を殺された心の傷を治してくれたとさえ言う。
もちろん傷が完全に消えていないからこそ彼はカリギュラを憎んでいるのだが、彼はローマの自然によって、自然に対する変わらぬ愛によって、心の慰めを見出すことが出来たのだ。これはカリギュラが持ち得なかったたぐいの強さである。
カリギュラがドリュジラを失ったときの絶望からそれまで愛していたものを否定して非情の論理に走ったのとは対照的に、シピオンは神に代わりカリギュラが不条理を振りまいている現在の世界でもなお愛を語り、その善なる純粋さを保っている。

(つづく)

※1-横川久「カミュの『カリギュラ』を読む-シピオンの父親殺し-」(『藝文研究』XXVI、京都大学フランス語学フランス文学研究会、1995年)。「この「哀れな皇帝の物語」も、カリギュラの内的真実を物語るものではないかと推測することができる。(中略)要するに、カリギュラはシピオンに対する愛情を断念するために、その父親を殺すことによって詩人の憎悪を買い、愛情を成立する可能性を自ら潰そうとしたのだと、この物語を解読できるだろう。」

 


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『カリギュラ』人物考(3)-3

2009-04-15 01:42:51 | カリギュラ

 

若村麻由美さんのセゾニア

セゾニアはたびたび自分がもう年を取ってしまった、「もうおばあさんの愛人」だと口にする。
初期設定ではセゾニアは35歳。当時の感覚では大年増なんでしょうが、若村さん演じるセゾニアは「おばあさん」呼ばわりが違和感があるほどに若く美しい。
もちろんミスキャストという意味ではないです。口では年を取ったといいながらもいまだ褥すべりをせず、十分すぎるほどにその輝きを留めている、けれどそれもあとほんの数年のこと――という盛りを過ぎた花の物悲しい美しさを体現しているのがセゾニアというキャラクターだと思うので。
見た目より実年齢は上であるだけに、若々しい華やぎではなくしっとりした大人の女の色香をそなえた若村さんはまさにそのものという感じでした。

また仮にもローマ皇帝の愛人である以上、宮廷の礼儀に通じた優雅さ・上品さをその挙措で感じさせなくてはいけない。さらに第二幕での毒婦然たる態度、第三幕で香具師のような口上を述べる場面の歯切れ良さなど、以外と育ちが良くなさそうな一面もセゾニアは備えている。
「カリギュラに見初められて宮廷に入り、相応の作法を身につけはしたものの、何かの折にはお里が知れる」感じとでもいいましょうか(史実のセゾニアもそう身分は高くなかった感じですし)。

加えてカリギュラとのやりとり(とくに抱擁シーン)に表れる母性的な愛情。カリギュラの頭を膝の上に乗せて包み込むようにする仕草とその時の哀しみを含んだ美しい表情は、ミケランジェロの『ピエタ』を思わせます。このあたりの演じ分けもお見事でした。
パンフレットのインタビューでの受け答え、とくに欲しいものに対するコメントは、ご本人も仰ってた通り『カリギュラ』のテーマを彷彿とさせるもので、若村さんの知性と感性の豊かさを感じたものです。

 


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『カリギュラ』人物考(3)-2(注・ネタバレしてます)

2009-04-11 01:05:56 | カリギュラ

もう一人彼女の嫉妬の対象となっているのがドリュジラだ。
「あの人が(ドリュジラを)愛していたのは、ほんとよ。つらいわね、きのうまで抱きしめていた人が、今日は死んでいくのを見るって」という口調はどこか素っ気無い。
この時セゾニアはカリギュラの失踪そのもの以上に、カリギュラがドリュジラの死にこうもショックを受けている、そこまで彼女を愛していた事実の方により傷ついているように見える。
「そりゃ、あなたはドリュジラを愛していた、でもわたしやほかの女を愛しながらだったわ。」という、カリギュラのドリュジラに対する愛情を低く見積もろうとする表現にも、ドリュジラへの嫉妬心がありありと感じ取れる。

自身の肉体だけが神だった(「神だった」とセゾニアはすでに過去形で語る)セゾニアにとって、年を取りその肉体が衰えることは非常な恐怖であろう。
彼女のカリギュラへの対し方はエリコンとよく似ているが、彼女がカリギュラの側近くに仕えていられるのは、その肉体の魅力による部分が大きいだろう点で異なっている。
史実のセゾニア(カエソニア)はカリギュラの正妻(四度目の妻)だった(※1)(※2)が、戯曲『カリギュラ』の彼女は正式の妻ではなく情婦という設定になっているのも、女としての魅力を失えば地位を失いかねない不安定さを彼女に与えている。

しかしそのために皇帝の機嫌を取ろうと彼女は「冷酷で非情な女に」なったわけではない。あくまでもカリギュラを愛し彼の心を守りたい気持ちがそうさせたのだ。
思えばカリギュラはずいぶんひどい男ではある。ローマ全体に振るった暴政とは別の次元で、女に対して、少なくともセゾニアに対しては実に、ひどい。
ドリュジラ死後の「変心」にともなってそうなったのか、それとも元からそうなのか(たぶん後者)、「おまえはなぜここにいるんだろう」「あなたの気に入っているからよ」「ちがう」という会話など実ににべもない。
「肉の快楽は鋭く、心の悦びはなかった」も愛していないと言っているに等しい。カリギュラは彼女に要求するばかりで自分からは優しい言葉一つ与えない。

しかし「ほっといてくれ、セゾニア」と突き放したそばから「そばにいてくれ」と弱々しく懇願するようなその子供っぽい身勝手さには、何とも母性本能を刺激する危なっかしい魅力がある。
セゾニアはカリギュラに何も要求しない。「あなたが愛してくれなくても、そんなことはもうどうでもいいの」。
この我が儘で気まぐれな暴君を、彼女は子供にでも対するように、無制限の愛情をもって愛したのである。カリギュラを甘やかす彼女やエリコンのやり方が彼の暴虐の被害をより拡大したのかもしれないが―。

そんなカリギュラが唯一セゾニアに優しさを見せるのが第四幕第十三場である。
この時彼は「本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ」「何一つ永続しない!」と語る。
「人はもう死ぬことはなく、幸福になる」世界、不変を求めるカリギュラにとって、物事が移ろい衰えてゆくのは耐え難いことである。苦悩も愛もそして若さも。
なかでもはっきりと目に見てとれる若さ、肉体の衰えはとりわけ憎むべきものだったろう。
カリギュラは言う。「ひとりの人間を愛する、それは一緒に年を取っていくのを受け入れること。おれはこの愛ができない。年老いたドリュジラは、死んだドリュジラよりも悪い」。上で引いた「肉の快楽は鋭く、心の悦びはなかった」もセゾニアの価値は肉体にのみあると言っているようでもある。

セゾニアは自分でも繰り返し口にするように若さを失いつつある。カリギュラも彼女がそれを気に病んでると知りつつ、年老いた女は愛せないときっぱり言い切る。
最大級のひどい発言だが、それに続けて「一種の恥ずかしい優しさを、心ならずも覚えてしまう。」と語る。
それは彼女が老いて醜くなる前に彼女を殺してやろうという温情、恥ずかしいというよりすさまじい優しさである。
しかしセゾニアは「嬉しいわ、あなたが言ってくれたこと」とカリギュラの殺意さえも受け入れてしまう。自身の肉体を唯一神と呼んだ彼女は、若さと美しさに見放されつつある今、まだしもそれらを留めているうちに死んでゆくことを無意識に―あるいは意識的に―願っていたのだろうか。

だとすれば恋しい男の腕の中で、その男の激情を受け止めて息絶えることは、彼女にとっては最高の死に方だったにちがいない。それは病で(戯曲中でははっきり死因は書かれていないが状況からして急病による死だろう)亡くなったドリュジラ―セゾニアの嫉妬心を刺激し続けたドリュジラが得られなかった死に場所である。
しかもカリギュラは彼女を絞め殺しながら初めて「愛しいセゾニア!」と彼女への愛を口にしている。最後の最後でドリュジラに勝利した、セゾニアはそんな満足感を抱いて死に赴いたのかもしれない。

 


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『カリギュラ』人物考(3)-1(注・ネタバレしてます)

2009-04-07 02:24:35 | カリギュラ

セゾニア

セゾニアというキャラクターに特徴的なのは、カリギュラに向ける情熱的な愛とすでに若さの盛りを過ぎたことへのコンプレックスである。
愛と老化、このどちらも密接に肉体と結びついている(西洋で言う愛は日本語の「愛」よりも性的な意味合いが強い、らしい)。
セゾニアははっきり言っている。「あたしにはこのからだ以外に神はいなかったわ」。

彼女はエリコン同様実際的な人間である。論理や詩情のような曖昧な目に見えないものに彼女は興味を持たない。
エリコンはこれらを机上の空論と思っているから近付かないが、セゾニアははなから関心を払っていない。
こうしたセゾニアの造型には古来からの女性に対するイメージが働いているように思う。世俗的で、高邁な理想も深遠な哲学も理解しない、男や子供への愛、家庭を維持することに汲々としている精神的には劣等な存在、という。
自分の肉体だけを拠り所とし、愛する男に行動の基準を置くセゾニアは、ゆえにカリギュラの暴虐にあえて従う。
(ちなみにカリギュラが行動の基準になっているのはエリコンも同じである。またシピオンもカリギュラを愛してはいるが、彼は芸術に精神の足場を置いているため、彼女らのようにカリギュラが規範とはならない)

セゾニアは決して馬鹿な女ではなく、カリギュラの暴政にたびたび意見もしている。彼女はエリコンと比べてもカリギュラの行動に異を唱える場面が多い。
ただその反対意見はあくまでカリギュラの精神状態を気遣ってのものだ。彼女もエリコンと同じように、カリギュラさえ良ければそれ以外の他人の苦しみは基本的に二の次なのである。

しかしまさにカリギュラが行動の基準であるゆえに、彼への愛情がすべてで、カリギュラの精神を占めている論理への情熱や詩情を理解することができない。それは彼女の内側にないものだからだ。
(カリギュラに殺される直前に「わたしはあなたが治るのを見たいだけ」と言うのも、彼女が結局は神に対するカリギュラの哲学的戦いを、絶望がもたらした病の産物として片付けているのを示している)
彼を深く愛しながらもその彼の理念には共感しようもない。それはカリギュラの方もわかっていて「おまえには分かりっこない」とあっさり流す。
だからセゾニアはシピオンに言う。「あの人を理解しようとしてほしいの。」 

シピオンはセゾニアやエリコンと違い芸術に精神的基盤を置いている。彼は「自分を持っている」ゆえにカリギュラを愛しながらも彼のやり方に反発し従おうとしない。
しかし同時にカリギュラ同様豊かな詩情を持っているゆえに、カリギュラに献身しない代わり彼を理解することができる。
カリギュラも最初からシピオンには「手伝ってほしい」とも「おれに従え」とも言わない。むしろ恐怖政治の断行にあたって彼を遠ざけようとする。
カリギュラにとってエリコンやセゾニアは一種自分の付属物のような存在である(だからカリギュラは彼らには最初から自分を理解することではなく無制限に受け入れてくれることを望んでいる)が、シピオンのことは一個の独立した人間として尊重しているのだ。

セゾニアは自分には不可能な類の絆をカリギュラと結びうるシピオンにおそらくは嫉妬めいた感情を抱いていただろう。そしてシピオンの若さと美しさにも。
(シピオンは「若いシピオン」とあるだけで容姿については特に言及がないが、カリギュラと詩を詠みあうシーンなど読むと少年の面影を色濃く留めた線の細い若者の姿が浮かび上がってくる。勝地くんはそのものですね)
 シピオンに向かって言う「あたしは、もうおばあさんの愛人」という言葉にも、彼の若さに対するコンプレックスが強くうかがえる気がする。

(セゾニアがことさら自分がもう年を取ったと繰り返すのは、ただ自分の容貌、肉体的な衰えを嘆いているだけではないだろう。
いや、セゾニアとしてはそれだけの意図かもしれないが、作者であるカミュはセゾニアが「年を取っている」ゆえに「子供」なカリギュラの理論を理解できないということを匂わせているのではないか。
とくに「若い」シピオンに対してその手の発言が多いのも、詩的感受性のみならず若さ・未熟さにおいても共通しているゆえにシピオンがカリギュラと心を通じ合えるということを、セゾニアとの比較の中で浮かび上がらせるためではないだろうか)


(つづく)


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『カリギュラ』人物考(2)-3

2009-04-03 02:24:24 | カリギュラ
横田栄司さんのエリコン

 

『カリギュラ』のキャストがまだ小栗くん、勝地くんしか発表されてなかった(役名もわからなかった)頃、原作を読んだ方がブログで「勝地くんはシピオンかエリコンのどちらかだろう」と書いていたのを目にしたことがありました。
横田さんのエリコンを見たあとだとイメージしにくいですが、確かに30歳という年齢設定を気にせずに(この設定も古いバージョンにあったもので、カミュが戯曲に手を入れたさいに削られたので絶対的ではない)、「大勢に反して暴走する皇帝に最後まで尽くした腹心」というキャラクターとして捉えれば、勝地くんが演じておかしくないかもしれない。もっと生真面目な性格のエリコンになっていたでしょうが。

以前イギリスで『カリギュラ』が上演されたさいには、エリコンはもっと道化た、ゆえに敵も含め皆に愛される笑いに満ちたキャラクターとして演出されていたという(※1)
そう言われてみればエリコンの露悪的な皮肉っぽさと時々妙に饒舌な自分語りを始めるところは、確かに道化めいているかもしれない。
しかし横田さんのエリコンはその露悪的な皮肉な態度を滑稽に見せるのでなく、世知に長けた野性的な大人の男として見せていた。下品な台詞もいやらしさも不快ではなく、匂うような男の色気を漂わせている。

これは声による部分も大きかったかもしれない。横田エリコンの声がいいとの前評判は聞いていたので、最初もっと太い朗々とした声を想像していたのですが、実際に舞台を(テレビで)見てみると、よく通り、聞き取りやすいものの、思ったよりも高めのずっとソフトな響きの声でした。
貴族たちに対するときは笑いを含み少し節をつけたような台詞まわしが、真剣な顔を覗かせるときには静かで穏やかな、深みのある声音に変わる。
とくに第一幕第四場で三日の放浪から立ち戻ったカリギュラに対するときの「こんにちは、カイユス。」に始まる会話中の口調は本当に優しくて、彼がこの青年をいかに愛し労わっているかが伝わってきます。

魅力的な男性が揃った舞台でしたが、「青年」ではない「大人の男」だったのは彼一人(ケレアも「男」と表現するにはまだ少し青い感じ。「青年」という表現のほうがしっくりきます)。戯曲の描写を越えた魅力を十二分に放っていました。
公演のポスターになぜ横田エリコンが入ってなかったのかが今さらながらに不思議です。

 

※1-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年5月)。「カミュのテキストでは、エリコンは、貴族を軽蔑し、カリギュラに従うシニカルな人物とされているが、ディアズ・フロリアンは大胆な改変を行い、この人物を女々しくて滑稽な道化的人物に仕立て上げた。鼻を赤く塗ったこのエリコンは、カリギュラからも、貴族たちからも、馬鹿にされながら愛される人物であり、始終他の登場人物の前に跪いては、子犬かなにかのように頭を撫でられており、皇帝の使い走りをするのが嬉しくて仕方がない様子だった。」

 


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『カリギュラ』人物考(2)-2(注・ネタバレしてます)

2009-03-29 01:16:30 | カリギュラ

エリコンに、カリギュラの気まぐれに合わせて貴族たちを無差別に処刑したり蹂躙したりすることに対する逡巡が全くなかったとは思わないが、第四幕第六場でケレアに、
「あんたたちは卑しい顔をしていて、においも貧相なにおいだってことがな。苦しんだことも、危険を冒したことも一度としてない人間に特有の、うすっぺらにおいだ。」
と吐き出すように、彼は元々貴族たちを憎み嫌ってきた。
(こうした台詞をぶつける分ケレアのことは、敵とみなしつつ人間性をある程度買ってたのだろう)

大切なカリギュラのためなら彼らを踏みにじることはエリコンにとっては大した問題ではない。カリギュラの行動にとりたてて正当性を感じなくとも、被害者である貴族たちもカリギュラを裁けるほどに立派な人間だとは思えない。
このケレアへの台詞を見ると、彼一流の皮肉でおどけたような態度を取っ払ってしまえば、エリコンが本来至って情の深い熱い人間であるのがわかる。
カリギュラやケレアが論理で武装するところを彼は皮肉と諧謔で武装する。

だがそれもケレアを筆頭とするクーデター計画の具体的証拠を押さえたあたりから次第に地金が見え始める。
悪意敵意を通り越した殺意からカリギュラを守ろうとするエリコンは明らかに余裕を失ってゆく。
カリギュラの月談義に相槌を打つのもそこそこに「いつになったら聞いてもらえるんでしょうか」「こんな芝居はやめましょう」(エリコンが本来カリギュラの幸福論に何ら共感をもっていないのが改めてよくわかる台詞である)というエリコンは、カリギュラの精神的苦痛をやわらげるための遊戯に付き合うよりも、差し迫った命の危険から彼を守ることに必死である。
ごく実際的な人間である彼は、カリギュラの絶対的味方ではあるが、理解者とはなりえなかったしなる必要もなかった。
(カリギュラの思想を理解できたシピオンにも結局カリギュラは救えなかったし、彼は味方にさえなることはできなかったのだから) 

しかしもしかしたら最期の瞬間、エリコンはカリギュラの魂を「救った」のかもしれない。
それまで自身の論理をひた走ってきたカリギュラは、セゾニアを手にかけ一人になったところで、はじめて「おれには月が手に入らない」「おれは行くべき道を行かなかった。おれは何物にも到達しない。おれの自由はよい自由ではない」とこれまでの行動を全て否定するような台詞を吐く。
死に行くセゾニアに彼は「法外な幸福を完成した」と語ったばかりだというのに。

そして繰り返しエリコンの名を叫ぶ。「エリコンはもう来ない。おれたちは永遠に罪人だ」。 
彼は「月をもってこないうちは、姿を見せるな」とエリコンに告げた。エリコンの帰還はすなわち月が手に入ったことを意味する。エリコンが来れば月が手に入る。カリギュラは彼が追い求めた幸福に到達できる。
そしてエリコンは戻ってきた。エリコンはカリギュラのロマンティシズムなど知ったことではない、ただ彼を物理的な死の危険から守るためにやって来たにすぎないが、エリコンを待ち望んだカリギュラには彼の思惑がどうだろうとエリコンが来たことが奇跡だったに違いない。
そして彼はこれまで不可能を求める自分の前に常に立ち塞がった影―鏡の中の自分の像を破壊する。ぎりぎりで不可能を手にしたカリギュラは「笑い、あえぎつつ」勝利の雄叫びを上げる。
「おれはまだ生きている!」。

エリコンは『カリギュラ』第一稿の時点では存在せず第二稿から追加されたキャラクターで(※3)、しかもラストでカリギュラを守ろうとするくだりは58年版で付け加えられたという(※4)
セゾニアともども変心したカリギュラをどこまでも支え、カリギュラが死の際でついに月を手にしたことを存在そのもので暗示するエリコン。彼の存在は、カミュが悲劇の青年カリギュラにかけた温情の象徴なのではないか。

 

※3-平田重和「カミュの「不条理戯曲」『カリギュラ』」(『文学論集』第56巻第3号、関西大学、2007年1月)。「解放奴隷のエリコンが現れるのは第二稿からである。」

※4-渡辺守章訳『カリギュラ』訳注(『カリギュラ・誤解』(新潮文庫、1971年)に収録)。「最終景におけるエリコンのくだりは、五八年晩で付け加えられた」。

 


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『カリギュラ』人物考(2)-1(注・ネタバレしてます)

2009-03-25 01:39:09 | カリギュラ


エリコン

解放奴隷の出で身分の低いエリコンはカリギュラを取り巻く人々の中でも異彩を放っている。玉葱を齧りながらの初登場シーンでわかるように、その態度は粗野で口も悪い。
ただしこれらは多分に露悪的なポーズであろう。おそらくはその身分の低さから彼を見下してかかる貴族たちに向けて、わざと彼らが望むような―いかにも奴隷あがり然とした無教養で下品な人格を演じてみせているのだ。そうすることで、彼は逆に貴族たちを侮蔑している。

彼はカリギュラやケレアのような意味での教養はないかもしれないが、苦労しているだけに生活の知恵と機知に富んでいる。
だからエリコンはカリギュラに最後まで従いながらも、不可能を求める彼の幸福論には全く共鳴していない。
カリギュラに「おれは考えたりなんかしません。頭がよすぎて、そんなことをする気にはならないんです」と言った通り、カリギュラやケレアの論理など、彼にはただ言葉を弄んでいるだけの机上の空論としか思えないだろう。
エリコンと同じ年のケレアは若いカリギュラよりはまだ実際的な頭を持っているが、エリコンよりはずっと空想的な世界に生きている(論理を愛する人間は総じてロマンティストだ)。
それは貴族階級であるケレアが本来「静かに書物にいそしんでいる」余裕のある環境にいるからだ。カリギュラを素直な若造と侮り軽んじる貴族たちから守ってやらねばならないエリコンには「論理的」である暇などないのである。そんなことを悩む間に飯を食え。これがエリコンの生活哲学である。

にもかかわらず、彼はカリギュラの、彼からは茶番劇としか思えないはずの愚行に延々と付き合ってやる。カリギュラに向けられる人々の憎悪をともに背負い、手を血に濡らしながら。
それはひとえに彼がカリギュラを深く愛していたゆえだ。第四幕第三場のケレアとの会話の中で彼は「あの人はおれを奴隷の身から解放してくれ、宮廷に迎えてくれた」と語っている。かつてカリギュラに救われたことが彼への献身的愛情の動機になったのだ。
(単純に助けられて感謝しているというだけでなく、彼が元奴隷で弱い立場であることが、彼を「子供たち」―カリギュラ、シピオン―と結び付けているとの説もある(※1)

カリギュラが奴隷時代のエリコンと(彼を解放しようと思うほど)親しかったということは、つまりエリコンはカリギュラの家の奴隷だったということか。
二人の関係性を見ていると何だか大人と子供のようだが、実は1~5歳程度しか離れていない。古代ローマでは奴隷が主人と一緒に育てられることが多かったそうだが(※2)、この二人も兄弟のように育てられたのかもしれない。
それだけの濃密な繋がりがあればこそ、三日間失踪していたカリギュラが戻ってきて、エリコンには狂気の沙汰しか思えない理論をぶち上げたとき、そして彼を変心させることは無理だと悟ったとき、エリコンは徹底してカリギュラの味方であることを決心したのだろう。

そしてこういうエリコンをカリギュラも誰より信頼し、無条件の甘えを見せていた。
放浪ののち都に戻ってきたカリギュラが真っ先に顔を合わせ、「月が欲しい」と打ち明けた相手はエリコンだった。そしてカリギュラの最期の場に駆けつけ、彼を守ろうとしてわずかに先立ったのもエリコンである。
さらに「今後は、おれを手伝ってほしい。」とカリギュラが自分から協力を求めたのはエリコンに対してだけだ(セゾニアにも協力を求めてはいるが、「おまえはおれに従え。いつでもおれを助けろ」とはるかに支配的な調子である)。

カリギュラは自分の論理をエリコンが理解できない―知性の問題ではなくその実際的な性格のゆえに―ことを知っている(だからこそ「この男は狂っている、そう考えているだろう」とエリコンが思っているだろうことを先取りする)。
そして、にもかかわらずエリコンは自分に無条件に助力してくれるに違いないことも知っている。
事実エリコンは「知ってるでしょう。おれは考えたりなんかしません。」「おれはものをたくさん知ってはいても、興味をもつことはほとんどありません。」と返事をする。
これはカリギュラが狂っていようといまいとどうでもいい、自分は無条件に彼の味方だ、というエリコンの意思表明だ。それも一応意思表明をしてるものの「知ってるでしょう」と切り出すように、改めて誓いを立てるまでもなくカリギュラが自分を無条件に味方と見なしていることを彼はわかっている。
二人が物語中で初めて会話する第一幕第四場には二人の揺ぎ無い信頼関係が短い中に徹底的に描きこまれている。

(カリギュラは第三幕第三場の時点で「月をもってこないうちは、姿を見せるなよ」と彼を遠ざけている。
この前後でエリコンがクーデターの計画をカリギュラに注進しているのを思えば、カリギュラはエリコンの命を救うために彼を突き放そうとしたのだろうか。あるいはエリコンに「高度な自殺」の邪魔をされることを恐れたのだろうか)

(つづく)

※1-内田樹「鏡像破壊―『カリギュラ』のラカン的読解」(『神戸女学院大学論集』第39巻第2号、神戸女学院大学研究所、1992年)。「興味深いのは、幼児性が一つの共通属性となって登場人物の類別を可能にするということである。」「エリコンは老獪な人物だが、奴隷の出身という弱さのゆえに「子供」たちに連帯を感じている。」「エリコンは奴隷であっただけに、暴力的な教化の経験を有している。」

※2-塩野七生『ローマ人の物語4 ユリウス・カエサル ルビコン以前』(新潮社、1995年)。「ローマの重要人物と最後まで運命をともにする者には奴隷が多いが、それも、幼少の頃よりともに学びともに育ち、生涯の苦楽もすべて共有してきた仲だからであろう。ローマ人は、ヒューマンな観点からではなく現実的な必要性から、自家の奴隷の子たちにも同等の教育を与えたのである。」

 


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『カリギュラ』人物考(1)-5(注・ネタバレしてます)

2009-03-21 02:02:15 | カリギュラ

ネットや雑誌でこの舞台の評を読むと、小栗くんの演技について辛口のものが少なくなかった(主役が舞台の一切を牽引していく物語だけに良くも悪くも彼に評が集中しがちだった)。
とくに台詞が聞き取りづらいという苦言はあちこちで見かけた覚えがあります。
長台詞を、それも激昂してまくしたてる場面が多いうえに日常生活でまず用いない単語・文法が多々出てくるのである程度仕方ない部分はあるんですが。
(勝地くんも多少台詞が聞き取りにくい場面がたびたびありました。このへんはやはり舞台出身の長谷川・横田・若村さんと歴然と差がついてましたね)

言葉を戦わせる場面の多い芝居なので、言葉の内容が分かりにくいのは難ありとすべきでしょうが、トータルで見れば、小栗くんのカリギュラが「未熟」という印象を与えるのは未熟さがカリギュラの抜きがたい特性である以上むしろ正しいのではないか、小栗くんは一個の悩める若者としてカリギュラを演じていた(それが蜷川さんの演出意図でもある)との評が一番正鵠を射ているように思います(※8)

蜷川さんはパンフレットのインタビューで、小栗くんには「(かつて彼が演じることが)できなかったハムレットの幻影を背負ってほしい」と話してましたが、確かに「世の中の外れた関節を直すために生まれついた」(※9)と叫ぶハムレットと神々に対抗することで世界を変革しようとするカリギュラは、そのヒロイズムとロマンティストぶり、行動の帰結として壮絶な死を遂げるところまでよく似ている。
ハムレットは苦悩する若者像の代表のように言われていますが、その形容をカリギュラもまぎれもなく背負っている。小栗くんのカリギュラは戯曲のカリギュラの苦悩をより鮮やかに体現して見せていたように思います。

というより、荒々しさ、露悪的な言動とそのくせ下品にならないところ、子供っぽい笑顔と愛嬌、過剰気味のスキンシップ(ト書きの指定よりずっと多い)――インタビューやラジオの語りから私がイメージしている小栗旬という人がそのままカリギュラとして舞台の上にいたような。
役になりきれてないという意味ではなく、もともと肉体的精神的にカリギュラ的特性を備えている彼が「この1年、絶望を乗り越えた瞬間とカリギュラを重ね合わせ」(※10)た結果、役を自分に引き寄せ完全にシンクロしてしまったような感じです。
たとえばカリギュラの台詞で「(絶望は)魂の病だとばかり思っていた。でもそうじゃない。苦しむのは肉体だ。(中略)いちばん恐ろしいのは、口の中のこの味だ。血でも、死でも、熱でもない。その全てだ」というのがありますが、小栗くんも公演中ずっとこの「口の中の嫌な味」を感じていたそう(※11)
彼は自身の体でもって、カリギュラの苦悩を我が物として感じ取ってさえいた。だから戯曲にあるのと違うことを(演出として)していても特に違和感を感じず「これがカリギュラという人なんだ」と自然と納得できてしまった。カリギュラを「演じている」のではなく彼がカリギュラなのだから。

ただ「非常に頭を使う舞台」(※12)とも語っているので、天然そのままのように見えて実は結構細かく計算された演技だったらしい。
確かに彼は驚くほど戯曲をよく咀嚼してカリギュラの言動の理由を丁寧に分析している。
それは初登場時のカリギュラがなにをつぶやいているのか訳者(岩切正一郎氏)に尋ねてきたというエピソード(※13)、「クライマックス「前方へ跳ねるふりをする」というト書きがありますが、カリギュラは自分の限界を越えたんだと思います。」(※14)とのコメントにも現れています。

そういえばカリギュラが初登場のシーンで、無表情に近い、わずかに戸惑いを宿した表情で頭を掻いたり口元に手をやったりする仕草は何だか自分の体の感触を確かめているみたいに見えますが、ひょっとすると小栗くんはカリギュラを一種の二重人格者として演じているのかとも思えます。
ドリュジラを失い絶望のうちに3日間さ迷い歩く内に真理にたどり着いたカリギュラを、新たに生まれた別人格として捉えているのかも。
もちろん記憶も連続しているし明確に人格が切り替わったというわけではないのですが、カリギュラが過去の自分と決別するために別人格を自分の中に作り出した―別人格然と振る舞うことを選んだ―という解釈のもとで演じているんじゃないでしょうか。
だから新たに生まれたばかりのもう一人のカリギュラはまだ自分の体に馴染んでないような身振りをするし、スプレーをかけた鏡を指差す場面で指が瘧のように震えるのは、今まさに完全に捨て去ろうとしているかつてのカリギュラと現在のカリギュラ二つの人格がせめぎあっているがゆえ。
メレイアを殺して間もなくシピオンに(メレイア殺害直前に会っているにもかかわらず)「久しぶりだな」と挨拶するのも昔のカリギュラの人格が表に出てきたからと解することができるので、戯曲を読んだとき以上に台詞の意味がスムーズに納得できる。

カリギュラとしての「特権的」肉体と精神、役を分析し膨らすことのできる想像力―小栗くんだからこそこれだけ魅力的なカリギュラが演じられたのだと思います。

 

※8-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年)。「(1987年パリ郊外で上演された『カリギュラ』の喜劇的演出と比較して)小栗=カリギュラは狂ってなどいない。ハムレット同様、周りの反応を試すため、あるいは現実から逃れるために、狂気を演じているだけであり、仮面の下にあるのは、自分に自信のない憂鬱な若者の姿なのである。セルジュ・ポンスレのカリギュラが、狂気の中に入り込み、自らに酔い、狂気を楽しむ人物であるのに対し、小栗のカリギュラは、自らの行動を醒めた眼でみつめ、狂気と正気のはざまで葛藤し苦悩する人物であったと言えよう。」

※9-シェイクスピア『ハムレット』(野島秀勝訳、岩波書店、2002年)。「世の中の関節は外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生れついたとは!」

※10-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。

※11-『小栗旬のオールナイトニッポン』2007年12月12日放送分。「『カリギュラ』昨日終わって帰ってきたの俺大阪から。台詞である言葉ですけど、ほんっと口の中にあの嫌な血の味がしなくなったね。食べるものが何でも美味しいと今日から・・・昨日の夜から感じるようになりましたほんとに。」

※12-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。

※13-岩切前掲書「訳者あとがき」。「カリギュラが最初に登場するとき、ト書きには「不明瞭なことばをつぶやき」と書いてある。小栗さんに、「何をつぶやいているんでしょうか」とぼくはきかれた。正直な話、そこでなにをつぶやくかまで、ぼくは考えていなかった。思案するうちに、この問いはじつに重要なポイントを突いていると思えてきた。」

※14-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。ちなみに内田樹「鏡像破壊―『カリギュラ』のラカン的読解」(『神戸女学院大学論集』第39巻第2号、神戸女学院大学研究所、1992年)は、カリギュラがこの前方に跳ぶシーンについて「退行のプロセスを駆け下るカリギュラは、分身の対称的動作のうちに「私」の「私」への繋縛性のあかしを見て、憎悪の感情を覚える。彼は「前に一歩跳ぶふりをして」鏡像を出し抜こうとする。けれども、鏡像を出し抜くことは「私」にはできない。なぜなら、鏡像の方が「私」の起源であり、鏡像の呪縛から逃れるためには、「私」であることを止める他ないからだ。カリギュラに残された選択はもう一つしかない。鏡像を破壊し、「私」の機能を解体し、鏡像段階以前の原身体への退行を完了することである。」と分析する。「前に一歩跳ぶ」→「鏡を破壊する」ことでカリギュラは原身体への退行を完了、つまりは人であることを止めた=人間の限界を超えた。小栗くんの感性の鋭さに驚きます。これは炯眼だ。

 


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