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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(1)-4

2009-03-17 01:57:45 | カリギュラ

小栗くんのカリギュラ

 

公演パンフレットによれば、蜷川さんは「小栗君がやるのに何かないか」と考えて『カリギュラ』を選んだという。それも「わりと早い段階で「『カリギュラ』がある!」と思いついたんだよ」。
作品にあわせて役者を選んだのでなく、最初から小栗くんありきの企画だった。
それは蜷川さんがいかに小栗くんを買っているかということであり、同時にこのカリギュラという役が、戯曲が、小栗くんのためにあるかのように嵌っていると感じたということでもあります。

蜷川さんの初演出作『真情あふるる軽薄さ』は当時の学生運動・全共闘運動の闘争を背景に、行列に並ぶ人々を挑発する若者を描いた物語でした(※1)。必然性のわからない(世界の)ルールに諾々と従う人々への苛立ちと挑戦、暴力による挫折というテーマは、『カリギュラ』に共通するものがある。
その後も小劇団時代の蜷川さんの作品は多く当時の新左翼の運動をメタファーとするものがほとんどです(※2)。『カリギュラ』はそうした蜷川さんの原点に立ち返ったような作品である。

しかし現在の若者たちは70年前後の頃の若者のような、自らの政治的信念に則って日々抗争を繰り広げるような熱さはまず持ち合わせていない。観客の側も、俳優の側も。
蜷川さん曰く「今の若いやつの一番の問題は、恋愛しか事件がないところでしょう。それじゃあ、犬ですね」(※3)
蜷川さんの世代なら素直に納得できたのだろう、カリギュラの不条理に対する戦いが苛烈な暴力に結びつく必然性を、今の若い役者に実感として理解できるものなのか。
カリギュラを不可能へと駆り立てた情念・怒りを内面に持っていること、技術より何よりそれがカリギュラという役を演じるうえでの最大無二の適性なのではないか。

小栗くんはまさにこの「カリギュラ的怒り」を内に抱えた役者だった。
(2007年11月に放映された『情熱大陸・小栗旬』を見ると、近年自分を取り巻く環境への苛立ちを隠そうとしない彼が、間のいいことに?ちょうど『カリギュラ』公演の前後に苛立ちのピークを迎えていたのがわかります)
蜷川さんがカリギュラに小栗くんを選んだ、いや小栗くんの資質に適した役としてカリギュラを選んだのはまずこの点にあったのだと思います。

さらにもう一点。古代ローマの皇帝という役柄上、いかに「革命の闘士」とはいえ、かつてのアングラ演劇の役者さんのような泥臭さは似つかわしくない。
作品に時代を超えた普遍性を持たせるべく「舞台装置はローマ風であってはならない」旨をわざわざ記してある(※4)戯曲ではありますが、カリギュラとして説得力を持つだけの外見的な風格と華が必要となる。
長身で手足が長く綺麗に筋肉のついた小栗くんは、舞台の上で全身から人目を惹き付ける強いオーラを発していた。
手足を乱暴に投げ出してソファに座り込む自堕落な姿は実に絵になっていたし、ヴィーナスや踊り子のすさまじい衣装を身につけてさえ「ある意味」どころか本気で美しかった。
定説に反して、消極的表現ながらもカリギュラを美男子としたカミュの設定ほぼそのままである(※5)

蜷川さんは俳優としてスタートした自分が俳優をやめて演出一本になった理由として、自分が唐十郎さん言うところの「特権的肉体」を持っていないことを挙げている(※6)
そして俳優という職業は「初めから持って生まれた、肉体的な限界を持ってしまうもの」(※7)
舞台の上であれだけの吸引力を発揮しえた小栗くんは、いわばカリギュラとしての「特権的肉体」を持っていたのだと思います。

(つづく)

※1-高橋豊『人間ドキュメント 蜷川幸雄伝説』(河出書房新社、2001年)。「 「真情あふるる軽薄さ」 題名も、内容も、蜷川を興奮させる戯曲だった。 蜷川が大好きな映画アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」(58年)やジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(59年)に通じるものを感じたのだ。 いずれも、社会の体制に順応することを拒否して、主人公は殺されていく。鋭敏な心を持つ彼らの軌跡が、軽やかにかつ滑稽に描かれた。同世代の若者にとって新鮮で、共感を呼んだ。まさに「真情あふるる軽薄」な青春。」

※2-高橋前掲書より蜷川発言。「 「それ(注・浅間山荘事件)まで新左翼の運動にある種の共感をもって演劇に関わってきた。連合赤軍リンチ事件を、自分たちにもあり得たこととして、ちゃんと痛みを背負おうと思った。」

※3-蜷川幸雄+長谷部浩『演出術』(紀伊国屋書店、2002年)。「今の若いやつの一番の問題は、恋愛しか事件がないところでしょう。それじゃあ、犬ですね。つまり、戦争はないわ、極限状況に追い詰められる経済的な問題もなく、何もなかったら恋愛が一番大きな事件でしょう。だからといって恋愛も満足にできない。そういう人間は恋愛を極限まで追い詰めないで、つまみ食いにいって逃げるでしょう。」

※4-『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(岩切正一郎訳、早川書房、2008年)「訳注」。「舞台装置 重要ではない。全てが許されている、ただし「ローマ風」であってはならない。」

※5-岩切前掲書「訳注」。「カリギュラはとても若い男である。一般的にそう思われているほど醜くはない。背は高く、痩せていて、少し猫背ぎみ。顔立ちは子供っぽい」。ちなみに「一般的にそう思われている」外見はというと、「カリグラは背が目立って高く、肌は非常に白く、図体はばかに大きく、首と足は極めて細く、目とこみかめ(原文ママ)は落ちこみ、額は広く陰険で、髪は少なく頭のてっぺんに一本の毛もなく、体のその他の部分は毛深かった。そこで彼が前を横切るとき、高いところから見下したり、理由がどうであれ「牡山羊」の名をあげたりすることは、致命的な罪と考えられていた」(スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。悪逆非道で知られる歴史上の人物がことさらグロテスクに描写されるのはよくあることなので、カミュの書くとおりそこまで「醜くはない」んではないか。個人的には、カリギュラの父であるゲルマニクスは端整な容姿で知られた人だったのでカリギュラもそこそこ美貌だったんじゃないかと思います。ちなみに塩野七生『ローマ人の物語Ⅶ 悪名高き皇帝たち』(新潮社、1998年)はカリギュラを「美しい若者」と書いてます。

※6-蜷川幸雄『蜷川幸雄・闘う劇場』(日本放送出版協会、1999年)。「俳優は、人々の隠された思いや意志までも背負っているかのように見える、普通の人々とは違う錯綜した複雑な身体を持っている必要がある。いわば、観客の記憶というものを喚起し、いくらでも交差させることができる肉体でなければならないのだ。唐の言う「特権的な肉体」である。(中略)「観客の記憶に交差する肉体」とは、その生活や個人史そのものが、見ている人間に強烈に想起できる肉体ということなのだ。」「僕には、唐の劇団にいる役者たちのような、明瞭にある種の痕跡を持っている肉体がない。サラリーマン的でもないし労働者的でもないし、肉体として、それこそ何でもない。言ってみれば、僕には唐の言う「特権的肉体」がない。」

※7-藤岡和賀夫『プロデューサーの前線』(実業之日本社、1998年)収録「蜷川幸雄」。「初めから持って生まれた、肉体的な限界を持ってしまうものを芸術なんて呼ぶな、こんなものはたかだか芸能だと言っているのです。(中略)芸術以外の、あるいは個人の才能以外の要素で成り立つものがたくさんあるわけですから、そんなものは卑しい職業だと言いなさいと私は言います。そういいながら、人をだまくらかして仕返しをすればいいだろうと言うのです。そういうさまざまな屈折というものが、自分たちの欲望をねじらせて舞台の上で輝きを飛ばすんだと思っています。」


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『カリギュラ』人物考(1)-3(注・ネタバレしてます)

2009-03-13 01:52:24 | カリギュラ

かくてカリギュラはその論理にのっとって暴政を振るう。財産の横領、貴族の妻をさらって売春宿で働かせるなどその数々の暴虐のうちで、最も大きな混乱と動揺を引き起こしたのが無差別の処刑である。

カリギュラが自分を遺産相続人に指名させた上で貴族たちを処刑したことについては史書にある通りだが(※4)、カミュの描くカリギュラは単に国庫を潤すためだけでなく、「貴族たちに不条理の原理を教える」という理念のためにそれを行う(※5)
ドリュジラの死とともに情を振り捨て論理の権化となったカリギュラは、死に行く者たちの苦しみを冷然と無視し、あるいはことさら残酷に振る舞って見せる。
理不尽な、そして残酷な死は常日頃神によってもたらされているもので、遅かれ早かれ誰もが死の運命に直面する。カリギュラの言うようにこの世界に生きる者は「全員前もって死刑」を宣告されているのである。彼は神になり代わり処刑を行っているだけだ。

こうした彼の考え方にセゾニアは「あなたは神々と肩を並べたいの。狂気の沙汰だわ。」と異を唱える。
これはカリギュラを除く全ての人々の思いであろう。しかしカリギュラは神の名においてなら皆が諾々と受け入れている死や残酷な運命を、なぜ自分が行ったら非難されねばならないのか理解できない。いや、感情においては理解できるのだろうが、論理に照らせば、執行者が神であろうとカリギュラであろうと死刑囚にとっては同じように悲惨なはずである以上、彼は論理の方に従ったのである。
ローマ皇帝である彼は地上で最高の、それこそ神に迫る権力を持っている。今一歩進んで神と肩を並べる、あるいは神を凌駕することの何が間違っているのか。
そして論理を推し進めてゆけば―自分が発見した真理を皆が理解するようになれば―世界は変わり「人はもう死ぬことはなく、幸福になる」、そうカリギュラは言う。
彼の言動はひたすら論理を追及し非情に徹しているが、その動機は過度なまでのロマンティシズムなのである。

そもそも人一倍のロマンティストでなければ、こんな途方もない企てを思いつきもしないし、よしんば思いついても実行に移したりはしない。
エリコンは言う。「カイユスは理想主義者だ。みんな知ってる。つまりあの人は、まだ何もお分かりじゃないってことだ。(中略)だけど、いったんカイユスが理解し始めたら、おれとは逆に、あの人はあの善良な可愛い心で、何にでも手を出すことができる。ひどく高くつくでしょうね」。
きわめて論理的であると同時にきわめて感傷的で、しかも行動力に満ちている―こうした人間が一番性質が悪いのである。もしこの三要素の一つでも欠けていれば、暴君カリギュラは誕生しなかっただろう。ケレアは言う。「あなたは全員の厄介者です。」 

しかしまさにこの厄介な性格のゆえにカリギュラは奇妙にカリスマ的な魅力を放っている。
シピオンもエリコンもセゾニアも、ケレアや貴族たちでさえ、カリギュラのために困惑し苦しみながら否応なく彼に惹き付けられている。
彼の行動はつまるところ自分にも他人にも妥協を許さない純粋さから出ているのであり、彼が周囲に死を撒き散らしながら疾走し続けるのは彼が真の意味で生きたいと熱望しているからにほかならない(※6)(※7)

それは一言で括るなら「若さ」であり、「あの人に似たものがぼくのなかにあるんです」と語るシピオンだけでなく、多くの若者やかつて若かった人たちには多少なりとも覚えのある感情だろう。
いわばカリギュラは若者の心象を極端化してみせた一種のヒーローなのである。
(ただしカミュはカリギュラ的人物にはむしろ否定的である。より正確には第二次大戦を経験したのち否定的になった(※8)(※9)


ラスト、クーデターに倒れたカリギュラは今際の際に叫ぶ。「おれはまだ生きている!」。
『カリギュラ』の初期構想では芝居の最後にカリギュラが幕を開けて現れ、「いや、カリグラは死んではいない。彼はここにも、あそこにもいる。彼は君たち一人一人の心のうちにいるのだ。もし君たちに力が授けられ、勇気をもち、生を愛するなら、君たちが心のうちに住まわせているその怪物が、あるいはその天使が荒れ狂うのを目にすることになろう。」と独白することになっていたという(※10)
カリギュラは死の瞬間までを力の限り生きぬき、肉体は滅んでもその精神は普遍性を持って現代に生き続けているのである。

 

※4-スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。「首位百人隊長らの遺言状が、ティベリウスの元首政以後に書かれて、ティベリウスもカリグラも遺産相続人の一人に指名していないと、「恩知らず」として、当人の遺志は無効とされた。(中略)こうした処置により、世間は恐慌をきたし、一面識もない人もカリグラを親友とともに、親は子供とともにカリグラを、公然と相続人に指名するようになった。しかし相続人に指名して生き続けるとは、自分を愚弄するもはなはだしいと言って、たくさんの人に毒を盛った御馳走を送りつけた。」

※5-モニック・クロッシュ『カミュと神話の哲学』(大久保敏彦訳、清水弘文堂、1978年)。「緻密な論理に基づく論証によって、カリギュラは貴族たちに不条理の原理を教えるのだが、とりわけ彼は死の等価性と不可避性、およびその任意性を強調している。人間を意識的な存在にするためには、彼らをその麻痺状態から引き出してやらなければならない。それこそ皇帝の能動的な教育が、死刑という否応なしの方法によって目指し、実現することなのだ。」

※6-クロッシュ前掲書。「このときから、この発見(注・「人間は死ぬ。だから人間は幸福でない」)はカリギュラに付き纏い、彼の運命の流れを変えてしまう。というのも、彼は無気力状態に落ち込むような人間ではないからだ。生によせる彼の情熱はことごとく、死と不幸と全宇宙の秩序にたいする反抗にと、彼を駆り立てる。(中略)つまり苦痛が減少し、人間がもはや死ぬことがなくなるような新しい事物の秩序にたいする激しい欲求を表明しているのである。」

※7-高畠正明『アルベール・カミュ』(講談社、1971年)。「月を手に入れようとし、そのために夜も休む間もないカリギュラの渇きには、ニヒリズムとは別な鮮烈な美しさがあります。それこそは《夢に生き、―夢を作用させよう―》とする青春の生きる意志であり、世界の不条理をものともしない純粋さへの渇望です。」

※8-アルベール・カミュ、ジャン・ポール・サルトル他著・佐藤朔訳『革命か反抗か―カミュ=サルトル論争―』(新潮社、1969年)の訳者あとがき。「この書(注・『反抗的人間』)では、マルキシズムの批判に多くのページを費やし、マルキシストたちの革命的手段を攻撃している。 それにはカミュがいつも考えている絶対者の否定と、人間の生命の尊重という観念が、根底にあることは疑えない。十九世紀以来、多くの思想家が行なってきたように、彼ははじめに神という絶対者を否定してその人生論と世界観をつくりあげたが、歴史的に見て神に代る絶対者の出現にも反抗し、これを否定する。そしてマルキシストはイデオロギーを絶対視して、唯物史観をまもって、歴史に奉仕していると見なしている。その結果、彼らは革命的手段を用いて恐怖政治を行い、地上に神の王国を建設しようと目ざし、そこに彼らのいう歴史の目的をおいている。そしてこの目的の達成のためにはどんな犠牲もいとわず、革命によるニヒリズムと恐怖政治を正当化する、といって非難する。(中略)カミュが革命的手段による恐怖政治を非難するのは、「反抗は原則的に死に反対する」(『反抗的人間』)という根本的な態度からきている。彼はいつも自殺、殺人、死刑などという人間を人為的に死にいたらしめるものを原則的に反対するので、戦争、内乱、革命のために、人間が多量に生命を失うことに、当然反対する。だから明日の人類や国家の幸福と平和のために、今日、何万、何十万の人たちの死の犠牲をやむをえないとする全体主義的思想に組することはできない。この点では、コミュニスムでもファシズムでも同じであると考えている。」

※9-高畠正明『若き日のカミュ』(サンリオ山梨シルクセンター出版部、1971年)。「だが、奇妙なことに、ここ(注・「はじめて、『カリギュラ』の構想を書きとめたノート」のこと)ではいかにも肯定的なカリギュラの評価が、のちになると、むしろ否定的な人間像に傾きはじめていたようだ。いまあげたノートから二十年たった一九五八年に、カミュは、この『カリギュラ』に、かなり重要な改訂を試みるとともに、このおなじ年、アメリカのクノップから出版された戯曲集の序文で、『カリギュラ』の最終的な評価を試みている。(中略)ここではカリギュラは、絶対をひたすら論理的に追求したため遂には死に到るあの自己破滅の人間像として評価され、一人の絶対的ニヒリストに列せられてしまっている。」「或る夜、遂に月を手に入れたとエリコンに語るカリギュラは、純潔の化身であり、壮絶なほどまで美しい。この壮絶なまでに美しいカリギュラを二十年後にカミュは、人間の名の下に否定しさっている。(中略)『反抗的人間』では、虚無と破壊と荒廃に落ち込むものとして形而上的反抗を排し、人間の条件や現実への反逆の理想的な在りかたとして芸術をとりあげ、反抗における中庸と節度を称揚している。そのいずれの場合にも、究極にあるのは人間であり、人間の幸福なのだ。」

※10-アルベール・カミュ『カミュの手帖 1935-1959(全)』の「第一ノート」(大久保敏彦訳、新潮社、1992年)


なお、カミュがエッセイ『反抗的人間』で「形而上的反抗者」「ニヒリスト」(文脈からすれば※7の「ニヒリズム」が指すようなすべてに虚無的・否定的な態度の人間ではなく、情熱を持って現状を否定する反抗者のこと)について語った記述は、多分にカリギュラに当てはまる。『カリギュラ』を理解するうえで参考になりそうな部分を以下に抜粋する。

「彼(注・形而上的反抗者)は世界の統一を要求するために、分裂した世界に反抗する。彼の裡にある正義の原則と、世界にはびこっている不正の原則とを対立させる。だから彼はもともと、この矛盾を解決し、できれば正義の一元的支配をうちたてるか、あるいはぎりぎりまで追いつめられて、不正の一元的支配をうちたてることしか望まない。それまでは、矛盾を告発しつづける。人間の条件の不完全な点に対しては、死によって抗議し、不統一な点に対しては、悪によって抗議する形而上的反抗は、生と死の苦悩に対して、幸福な統一を要求する。一般化された死刑が人間の条件を規定しているとすれば、反抗も、ある意味で、それと同時的役割を果す。反抗者は死の条件を拒否すると同時に、この条件で彼を生かしめる権力も認めない。だから形而上的反抗者は、一般に考えられているように、必ずしも無神論者ではなく、必然的に冒涜(原文旧字)者となる。ただ彼は、まず秩序の名において、神を冒涜し、死の父であり、最高の恥さらしであるとして神を告発する。

「善と悪において創造者たらんとする者は、ニーチェによれば、まず破壊者となり、諸価値を打ち破らなければならない。「かくて最高の悪は、最高の善の一部分となるが、最高の善こそ、創造的なのである」。

「法の上に止まっていられない者には、じっさい、他の法か、狂気を見つけなければならない。人間がもはや神も、永生も信じなくなってからは、「生きているすべてのもの、苦悩から生れ、生きる苦しみに捧げられたすべてのものに、責任を持つ」ようになる。結局、秩序と法を見つけるべくもどって行くのは、彼のもと、彼ひとりのもとにである。そのとき、神に見すてられた者の時代が、精根つきるまでの正当化の探索が、目的のない郷愁がはじまる。」

「反抗者から見ると、この世の幸福な瞬間にも、苦悩にも、説明の原理が欠けている。悪に対する反抗は、なによりもまず、統一の要求である。反抗者は、死を宣告された人々の世界に対し、死の条件の不透明性に対し、生と、決定的な透明性への欲求をあくまでも対立させる。彼はモラルか、聖なるものをそれとは知らずに,探し求めている。反抗は、盲目的にせよ、一つの苦行である。だから、反抗者が神聖を涜(注・原文旧字)すのは、新しい神の希望をもっているからである。彼は宗教的衝動の最初の、最も深刻な打撃をうけて動揺するが、それは裏切られた宗教的衝動である。尊いのは、反抗そのものではなくて、獲得されるものが依然として見苦しいものだとしても、反抗の目的なのである。」

「ニヒリストには二通りあるが、どちらも過度に絶対を求める。たしかに死を望む反抗者と、殺人を望む反抗者がある。だが、彼らは同じように、真の生への欲望に燃えながら、存在によって打ちのめされるので、不完全な正義より一般化された不正を好むのである。怒りがこの段階に達すると、理性は狂乱になる。人間感情の本能的反抗が、その最も偉大な意識へと数百年かかって少しずつ進むことがほんとうだとしても、反抗は前述のとおり,盲目的大胆さへと成長し、形而上的殺人によって宇宙的規模の殺人に応ずる決心をきめるほど途方もないことになった。」

(引用はすべて、佐藤朔・白井浩司訳『カミュ全集6 反抗的人間』(新潮社、1973年)

 


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『カリギュラ』人物考(1)-2(注・ネタバレしてます)

2009-03-09 01:09:52 | カリギュラ

しかしドリュジラの死に対する悲しみゆえにカリギュラが狂気に陥ったとするのは当たらない。
カリギュラは「何日か前、愛していた女が死んだのは覚えている。だが、愛とは何だ?取るに足りないものだ。」「誰がドリュジラといった。男は愛とは別の理由で泣く。(中略)ものごとがあるべき姿ではないから、泣くんだ。」と、ドリュジラの死そのものは大した問題ではないのだと繰り返す。
(本当は大した問題であったはずだが、カリギュラは認めようとしないだろう。論理の信奉者であるカリギュラにとって、自分が世俗的な愛に精神の在り様を左右されるなどという非論理的なことは受け入れ難い。繰り返し彼女の死は取るに足らないことと強調するところにそれがうかがえる)
問題はドリュジラの死をきっかけに発見してしまった真理にある。「人は死ぬ、そして人は幸福ではない」(※1)(※2)

どんな幸せも死によって瞬時に断ち切られる。それは死んでゆく者にとっても残される者にとっても耐え難い不幸である。
しかしカリギュラを激昂させるのはおそらく人が必ず死ぬという事実そのものではない。死に代表されるいわゆる運命というやつ、生殺与奪の権利が神に委ねられていて人間自身にはどうにもならないことに対して彼は苛立っているのである。
カリギュラは「人は死ぬ~」と言った後にこう続ける。「おれは人が真実のなかで生きることを望む!」「みんなは知識を奪われている。」 
自分の命が自分の思い通りにならないという理不尽さ―不条理を、世の常として平然と受け入れて暮らす人々の無神経さ・愚かしさが彼には我慢ならない。彼は世界の真実を見出した先駆者として、彼らの上に立つ皇帝として、人々を啓蒙しようとする。
彼は言う。「おれがおまえたちを憎むのは、お前たちが自由ではないからだ。よろこべ。ついにおまえたちのもとに、自由を教えてくれる皇帝がやってきた」。
やり方こそ非情かつ残酷だが、その裏には彼なりの正義感と責任感があったのである(※3)

カリギュラは不可能を可能にすることで人々を啓蒙し救済しようと試み、非情かつ残酷にその計画を推し進めてゆく。
問題はこの「非情」という部分にある。肝心の救済すべき対象―(無差別に処刑される)貴族たちや(食糧保管庫の閉鎖によって人工的飢饉に見舞われた)ローマ市民に対する「愛」がないのだ。

ドリュジラの死後、彼は意識的に愛を否定する。「愛だと、セゾニア!愛などとるにたりない。(中略)生きるとはな、セゾニア、愛することの対極だ。」「愛があるだけでは充分ではない。当時おれが理解したのはそのこと。」 
しかし愛を否定する人間に他人が救えるものなのか。たしかに非情に徹しなければ彼の不可能への挑戦、神に対する革命は行えなかったろう。けれど大目的のために他人を―救う対象であるべき相手を―容赦なく切り捨ててゆくのでは本末転倒ではないのか。

その意味で彼の試みは最初から破綻していた。かつて彼はドリュジラを愛し、ケレアの言うように「文学を愛しすぎ」ていた。シピオンと詠みあった詩に表れるような、ローマの自然を愛していた。エリコンやセゾニアやシピオンのこともそれぞれに愛していたはずである。
しかし彼は愛に対する失望(自分には生涯かけて一人の人間を愛することはできない)からそれらの愛を切り捨ててしまった。
カリギュラは最後になって言う。「もし愛だけで充分だったら、すべては変わっているだろう」。結局彼が求めるべきは愛だったのではないか。

(つづく)

※1-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年5月)。「カリギュラは(中略)二度にわたって、ドリュジラの死の重要性を否定している。彼を絶望に陥れたのは、ひとりの女の死ではなく、人はみな死すべき存在であるという人間の条件なのであり、以降、第4幕第13場のカエゾニア(注・セゾニアのこと。彼女の名は「カエゾニア」「カエソニア」と訳されることが多い)殺害の場面まで、ドリュジラの名が口にされることは一度もない。」

※2-白井浩司『アルベール・カミュ その光と影』(講談社、1977年)。「ドルーシルラ(注・ドリュジラのこと)を彼は愛してはいたのだが、愛も、ドルーシルラの死もいまは取るに足りなく、ただその死が、一つの真理のしるしとなったことを彼は認めるのである。その真理となにか。カリグラは(中略)いう、「人間はすべて死ぬ、だから人間は幸福でない」と。」

※3-P.H.シモン著、調佳智雄訳『カミュ論』(冬樹社、1969年)。「彼は決して理性を失った人間ではなく、それどころか、世界の不条理性を認めることができたほど理性的で明晰な人間なのだ。「人間たちはすべて死ぬ、だから彼らは幸福ではない。(中略)人間たちは物事があるべき状態ではないということで涙を流すのだ。」このような問題提起と運命に服従することの拒否によって、彼は英知に至る戸口に到達し、蝿を追い払うオレストのように人間たちに奉仕する。」

 


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『カリギュラ』人物考(1)-1(注・ネタバレしてます)

2009-03-05 01:50:02 | カリギュラ
カリギュラ(カイユス)

 

暴君として歴史上に名を残すローマの若き皇帝。

カリギュラの心理というのは実は結構掴みやすいのではないかと思う。
論理を信奉し、物事は全て論理的合理的に動くべきだと思っている。それこそが正しい世界の形であると考える。
ゆえに非論理的・非合理的な世の中や人間のあり方に絶えず苛立つ。白黒で割り切れぬ曖昧な物事の在り様を許すことができない(彼が「善の中で純粋な」全き〝白〟であるシピオンを気に入っているのはそのためだ)。
これは理屈っぽく一種正義感の強い若者が抱きがちな、国や時代を越えた普遍的な心情ではないか。

ただ多くの若者と違いカリギュラがローマ中を恐怖に陥れる暴君と化したのは、ひとえに彼が絶大な権力を有していたことにある。加えて、愛する者を失ったこと、その別離が彼がまだ青臭い若者であるうちに起こったこと。
世界が自分の望む姿と掛け離れているという認識は、必然的にその人間に周囲からの孤立感・疎外感を与える。そうした時、彼と世界を繋ぐのは愛する者(もしくは物)の存在であろう。
純粋論理の世界を夢見るカリギュラとしてはごく世俗的な感情が、彼をこの世界に引き留める役割を果たしていた。ドリュジラの生前は、彼はシピオンに向かって「人生は楽ではない」が「人には宗教や、芸術や、愛がある」などと語りさえしていたのだ。ドリュジラの存在が、彼が不合理な世界を直視せずに済むよう覆いをかけていた。

そのドリュジラの死によってカリギュラにとって現世は「たえられない代物」と変じた。普通なら愛する者を失って世界が精彩を失ったと解するだろうこの現象を、彼はむしろ些細な愛情によって曇らされていた視界が晴れた、「蒙を啓かれた」と受け止めた。三日の放浪の末帰還したカリギュラがエリコンに「今までになく頭がはっきりしているくらいだ」と語るのはそういう意味であろう。
もしドリュジラの死が数年先のことであれば状況はまた違っていたかもしれない。
一般的に見て、青年期に抱いていた社会への憤懣は、年を重ね経験を積むことで次第に薄らぎ、かつては軽蔑していたはずの大人たちとも普通に付き合えるようになってゆく。それを「堕落」と感じる尖った感性もまた磨耗してゆく。エリコン風に言えば「折り合いをつけ」るのだ。
そして身内の死という悲劇に対しても、当初は身も世もなく嘆きに沈んだとしても、第一の貴族のようにやがては「忘れる」ことができるようになる。
しかしそうした処世術、図太さを持つにはカリギュラはまだ若く、純粋でありすぎた。
かくてドリュジラの死はカリギュラの行動を一変させる。人が変わったのではなく、カリギュラがもともと内包していた物が抑えを失って外面に出てきたのである。

(つづく)

 


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『カリギュラ』(2)-9(注・ネタバレしてます)

2009-03-01 01:46:49 | カリギュラ
・「死」をテーマにした即興の詩作コンテストでの褒美と罰について、「それほどひどい罰ではありませんよ」と言いながらセゾニアはシピオンに近付き彼の前髪を軽くいじる。
なぜここでシピオンに触れる必要があったのだろう。彼が罰せられる―へぼ詩を作る―可能性は皆無だろうに(逆に優れているがうんと攻撃的な内容の詩でカリギュラを怒らせる可能性もなくはないが、その場合相手がシピオンだけに無罪放免か逆に厳罰かのどっちかになる気がする)。
むしろカリギュラがまた他人に死を与えること危惧するシピオンに「(敗者の命は)心配しなくても大丈夫」と暗に告げているのかなと思います。

・カリギュラが入ってくる。肩を落とし、ふらふらと歩く病人のような有様は、ドリュジラの死後三日して宮殿に戻ってきた初登場の時を思わせる。
憔悴の中で「月を手に入れる」野望を語った彼は、三年を経ても月が手に入らぬまま同じように憔悴しきっている。虚しさと哀しさが込み上げてくるシーンです。

・「このテーマの作品なら、ずっと前にもう作ってある。」「わたしなりのやり方で、毎日朗唱している。」とカリギュラは答える。
これは第二幕でセゾニアが言及していた「大論文」同様、日々処刑と言う形で実践しているということですね。してみるとやはり毎日のように無差別の処刑は行われてるのか。
このときケレアが「あなたも歌合わせに」とカリギュラを促すような台詞をいうのは、テーマが「死」であるだけに「死を語ることに参加しろ」=「死ね」という仄めかしなのかと思います。

・カリギュラはケレアに「おれの作品はこれひとつだ」と言うときに自分の胸を押さえる。
戯曲ではこの動作が指定されてないので「おれの作品」は上述の「無差別処刑を通して実現しようとしている不可能が可能になる世界」だけを指してるのでしょうが、蜷川舞台ではカリギュラ自身が「おれの作品」というように読み取れる。「不可能が可能になる世界」だけでなく「その世界を作る自分」をも「作品」に含んでいるわけですね。
「演技者」カリギュラの発言として、その方がより彼らしい気がします。手の位置一つで作品の深みが増す。お芝居の醍醐味ですね。

・次々失格の笛を鳴らされる詩人たち。
第四の詩人が「朗々と読もうとするポーズ」だけで笛を鳴らされるのは笑いどころですが(実際客席から笑いが起きている)、この一連のシーンにカリギュラとシピオンの死に対する見解が匂わされているわけで(※12)、そう思うと奥の深いシーンです。

・「まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている。」と褒めるカリギュラに、シピオンは「まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました。」と答える。
直前の詩を詠むシーンでは、シピオンは一語一語ゆっくりと言葉を紡ぎだし、カリギュラは目を閉じてうっとりするような苦しいような表情でそれを聞いている。シピオンの詩を通してカリギュラがいつにない優しさでシピオンに接し二人の心が触れ合う(シピオンは他の詩人たちと違い、カリギュラのごく近くにまで寄って詩を詠んでいる。詩の朗読大会?の一参加者としての立場を逸脱した行動に、この詩がカリギュラに向けての「私信」だったのが表れています)というシチュエーションは第二幕の終盤を思わせますが、今回二人の穏やかな時間を破る言葉を発したのはシピオンの方だった。
上記のシピオンの台詞を聞いたカリギュラは、急に表情を変えて立ち上がると詩人たちに退場を命じる。このときカリギュラは「きみたちを同盟者にしておこうと考えてきた」「わたしを守護する最後の部隊になってくれるだろう、と思うことさえあった。」と口にするが、カリギュラが詩人たちになぜそこまで思い入れしているかの背景がとくに描写されていないので唐突の感を覚えます。
詩人のシピオンと親しかったのだから他の詩人たちとも個人的付き合いがあったのかもしれないし、詩人たちの感性なら自分の苦しみを理解してくれるかもと期待する気持ちがあったとも考えられますが、やはりこれはレピデュスに語った「可哀想な皇帝」の話同様、詩人一般に仮託してシピオン個人に対する気持ちを述べているのでは。
「詩人はわたしの敵だ。もう会うことはない」。おまえは父の仇なのだと突きつけるようなシピオンの言葉を受けての、この台詞はカリギュラからの決別宣言だったのではないでしょうか。
それでも詩人たちにタブレットを舐めて文字を消すよう命じる、つまりタブレットを使わなかったシピオンには辱めが及ばないような罰を選んでいるところに、シピオンへの愛情がうかがえる気がします。

・詩人たちが退場したところで、ケレアは第一の貴族を引きとめ「時は来た」とカリギュラを討つ決意を告げる。
なぜこのタイミングなのか。確かにカリギュラのパフォーマンスに呼びつけられたとき、貴族一同も、ケレアでさえも一瞬処刑を覚悟したくらいなので、命を脅かされ神経をすり減らすのはもう限界と判断したのか。
しかしそれ以上に、カリギュラが詩人たち、正確にはシピオンと決別したのが直接のきっかけだったように思います。第二幕第二場で貴族たちの軽挙をたしなめた時ケレアは「やがてやって来るだろう、死人と、死人の縁者でいっぱいの帝国を前に、やつのたったひとりになる日が。」と言っていますが、シピオンを去らせた今がカリギュラの「たったひとりになる日」と判断したのでしょう。
エリコンやセゾニアはまだカリギュラの側にいますが、先に「この殺しには尊敬できる保証人が要る」とシピオンを求めたケレアは、シピオンの存在をカリギュラ殺しのシンボルと捉えていた節があるので、その彼がカリギュラの側を離れることをもって「カリギュラは天命を失った」と考えるに至ったのでは。カリギュラを討つさいにシピオンを巻き添えにする心配もなくなるわけですし。

・ケレアの意図を知ってカリギュラに何か言おうとするシピオンに、カリギュラは「そっとしておいてくれないか」「ほっといてくれ」と重ねて突き放す言葉を口にする。
彼はケレアがいよいよ計画を実行に移そうとしていることも、シピオンがそれに気づいて自分を案じていることもおそらく知っている。シピオンもカリギュラがそれを知っていることを知っている。
もしカリギュラが遮らなければシピオンはカリギュラに何を言ったのか。もしかするとそのままカリギュラのもとに留まったのだろうか。
あえて先にシピオンが口にした父親のことを持ち出してシピオンを遠ざけるのは、これから起こることにシピオンを巻き込まないため、そして「友情にかたをつける」―愛する者を切り離すことで来るべき死への準備、身辺整理を行うため。
カリギュラの言葉と行動の裏には自分への愛情がある。シピオンはそれを見抜いているから最後にカリギュラへの「愛」を口にする。多くの思いを胸に秘めたままの別れのシーンが実に切なく美しいです。

・「ぼくはあなたを理解したような気がするんです」。
第四幕の頭ではケレアと苦しい思いをぶつけあい、先の詩を詠む場面では疲れ果てた様子で詠み終えるなり膝から崩れおちたシピオンが、この時はごく少年らしい明朗な声音で笑顔さえ浮かべている。第一幕でセゾニアにカリギュラのことを「好きです」と言い切ったときのように。
「もう出口はありません」という絶望的な内容にもかかわらず彼の言葉が妙に明るく響くのは、カリギュラも自分自身も救えないと悟ったシピオンが全て吹っ切れてしまったからのように思えます。それゆえに澄んだ笑顔が、かえって哀しく感じられます。

・シピオンが出て行ったとき、カリギュラは思わず後を追おうとし、苦しみもがく。
戯曲には「とある身振り」とだけあってどうにでも解釈できるシーンですが、小栗くんは半身を引き裂かれるような苦しみを表現した。
エリコンやセゾニアのような「身内」ではなく、カリギュラに異を唱え続けながらもカリギュラを愛した、限りなく自分に近しい「他人」であるシピオンの存在を切り離すことは、カリギュラにとっては彼が否定しつづけながら未練を引きずってきたこの世界への最後通牒のようなものであり、その事態の大きさに懊悩せざるをえない。
そんなカリギュラの心がこの一連の動作によって突きつけられます。

・シピオンが去ったのちセゾニアへの殺意をほのめかしながら「それがわが生涯の仕上げかもしれないな」と笑うカリギュラ。黒目がほとんど消えた目の表情が恐ろしい。

・「おれはおれが殺した死者たちのあいだでしか安らげない!」
背中を丸めて歩くカリギュラ。その老人のような動作に彼が心身とも疲れ切っているのが体現されている。

・自分への殺意を語るカリギュラに「横になって、頭を膝にのせて」と大きく手を広げて待つセゾニア。殺すといいながら大人しくそれに従うカリギュラ。
この二人の関係はまさに甘えん坊の駄々っ子とそれを包み込む母親のごとくです。

・うっとりと我が身を抱きしめるセゾニアを後ろから抱きしめるカリギュラ。
「肉の快楽は鋭く、心の悦びはなかった」などと、彼女を愛してなかったというに等しいひどい発言をしながらなのに、その仕草は嘘のように優しい。この後絞め殺したセゾニアをソファに横たえる仕草も優しい。
カリギュラの愛妾として彼の悪事をともにしたセゾニアはカリギュラが討たれたさいに助命されるとは思えないから(実際史実では幼い娘ともども殺されている(※13)(※14))、ここで彼女を手にかけるのが彼の優しさだったともいえる(※15)

・鏡を前に一人独白を続けるカリギュラ。「ちくしょう」と絞りだす声はかすれ、「まあいい」と調子を立て直す。
感情の激しい揺らぎは鏡の中の自分を前にしているだけに複数のカリギュラがせめぎあっているように見える。

・「エリコン!エリコン!」と叫ぶ声の悲痛さ。
激しい孤独と不安の中でただエリコンその人を求めているのではなく、「月を持ってきてくれるエリコン」、不可能の克服を象徴する存在を切望しているように響きます。

・そのエリコンが表れ、死の淵で「用心してください」と繰り返し告げるのに、カリギュラは床にうずくまったまま。
一度顔をあげようとするもののまた力なく丸くなってしまう。その表情が頑是無い子供のようです。

・怒号がせまる中やっとカリギュラは起き上がる。そして鏡の前で何度も強く何かを振り払うような仕草をする。
彼には外から聞こえる声が自分につきまとう死者たちの声のように聞こえているのか。それとも武器を携えた「罪なき者たち」の声を恐れているのか。

・カリギュラが椅子を投げて鏡―自分自身の鏡像を砕くとざわめきが一瞬途絶え、貴族たちがいっせいに押し寄せてくる。
ここのシーンからラストまで奏でられる荘重なBGMはカリギュラの台詞「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ、歴史のなかに」の通りに、彼の生き様が一つの神話になろうとしているのを示しているかのよう。

・カリギュラがケレアたち叛徒に四方八方から斬りつけられるさまを長々と見せる。
このシーンの不自然なまでの長さが、ここに至るまでにカリギュラが負ってきた憎しみ、それほどまでにカリギュラが大勢の人を傷つけてきたその過程の重みを感じさせる。

・カリギュラにとどめの一撃を加えたのはやはり彼と一番関わりの深いケレアだった。
戯曲同様台詞はないものの、カリギュラをどこか痛ましげに見つめる表情が戯曲にはない強い印象を与え、今も彼がカリギュラを憎むだけでなく同情してもいることを示している。
対するカリギュラも不敵な笑いを浮かべながらケレアの頬に自分の血をなすりつける。ケレアの手もカリギュラ同様血に汚れたのだと知らしめるように。
ケレアの肩に頭をもたせかけるような立ち位置からくる唇が触れそうなほどの顔の近さとケレアの頬に触れる動作が何だか艶めいて見えますが、血をなすりつける事で殺し殺される二人の関係性を強くアピールしている点では、一種のラブシーンと言ってもよいのかも。

・「おれはまだ生きている!」と力強く叫んだ後、カリギュラはすがるように、そして泣き出しそうな(狂気を滲ませた)笑顔を浮かべ上方に手を伸ばす。
最期の瞬間に彼の目は捜し求めた月を見つけたのだ。力尽き床に倒れたカリギュラの顔に丸いライトの光―満月の明かりが静かに落ちる。
戯曲よりもカリギュラが月を見つけたことがよりわかりやすくなっていて、救いを感じさせるラストシーンになっています。

 

※12-調前掲論文。「詩人たちはなぜ呼び子に中断されることになったのか。彼らに共通することはいずれも、「直接的」な死を歌っていることだ。しかも、死をまるで特別なものであるかのごとく、美辞麗句を並べ立てている。はなはだしきは、思い入れよろしく、おおげさに身構える。カリギュラにとって、死はそんなおおげさなものではない。もっとありふれた、どこにでも転がっているようなものなのだ。(中略)若くして父を失ったシピオン少年は日常的な幸福の情景を歌ってカリギュラの心を捉えている。両者とも死が身近なところに、幸福のすぐ傍に、あるいは幸福そのもののなかに巣くっていることを知っているからだ。」

※13-スエトニウス前掲書。「妻カエソニア(注・セゾニア)も娘もいっしょに死ぬ、妻は百人隊長に剣で突かれ、娘は壁にむかって投げつけられて。」

※14-フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳『ユダヤ古代誌 6』(筑摩書房、2000年)。「カイソニア(注・セゾニア)はルフェスが近づいて来るのを見ると、涙を浮かべて嘆きながらも、もっと近よるようにと言ってガイオス(注・カリギュラ)の死体を彼に指し示した。そして、ルフォスが固く決意を定め、不快な行為をしようとしている素振りはつゆ見せずに、自分に向かって来るのを見ると、彼女はようやく彼のやって来た目的を悟った。すると彼女は首を差し出し、生きる望みが断たれることが明白となったときにはだれもが発すると思われる恐怖の叫び声を上げ、ついで、王家滅亡のために書かれた芝居の幕引きを引き延ばしたりはせず即刻、斬首してくれるよう彼に懇願した。 こうして、彼女はルフェスの手の中で勇気に満ちたその最期を迎え、彼女の年若い娘がそれにつづいた。」

※15-内田前掲論文はこの一連の場面についてセゾニアとカリギュラの間の擬似母子関係を指摘し、「天からなにか降ってきます。あの人たちは、あなたに手をかける前に、焼け死んでしまいます」「わたしはあなたが治るのを見たいだけ。あなたはまだ子供だもの」というセゾニアの二つの発言を取り上げて、「セゾニアは最後になって母と子以外の第三者(それは父以外の何ものでもない)の介入を訴求する。」「天(ciel)からの介入による子の救い。セゾニアは土壇場になって双数関係から三項関係への事態の「正常化」による収拾を企てる。」「このとき、カリギュラはセゾニアの眼には「治癒されるべき」異型、「成熟すべき」幼児として映っている。「まだ」(encore)という副詞一つの挿入によって彼女は父と通じ、子供を去勢することに同意を与えてしまう。この言葉を耳にしたカリギュラが「お前は私のそばに長くいすぎた。」と呟いてセゾニアの殺害を決意するのは、この裏切りに対する当然の応報なのだ。」との解釈を加えている。

 


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『カリギュラ』(2)-8(注・ネタバレしてます)

2009-02-25 02:05:30 | カリギュラ
・第四幕第四場。陰謀が露見したと言って脅える第一の貴族と老貴族。
対照的にケレアは落ち着き払ってますが、疑いようのない証拠を手にしてがら自分を見逃した、そうする理由をもっているカリギュラが、今さら自分たちを処刑することはまずないと踏んでいるからでしょう。
一方老貴族はもともと自分から密告しようとしたくせに(そしてやはりカリギュラに見逃してもらったのに)「陰謀が露見した」と慌てている。
ケレアと違ってカリギュラが彼を処罰しなかった意図を理解していない、単なる気まぐれ程度に思っているから今度は気まぐれで自分たちを殺すことにしたのだと判断したんでしょうね。

・奴隷が武器を持って入ってきたのを見たケレアの声が(戯曲のト書きによると)少し変わる。
さすがに自分たちを処刑しようとしてる状況証拠が揃いすぎて、自分の判断(カリギュラはむしろ討たれることを望んでいるゆえに自分たちを処罰しない)への自信がぐらついているのがわかります。
ところでこのシーンの流れなんですが、ケレアは奴隷が入ってきたのに気づかず「あの男は否定しがたい影響を及ぼしている」うんぬんと語り続ける→先に気づいた老貴族らがおろおろとそちらを指差す→気づかずなおも語りつづける→老貴族に「見ろ」と言われて初めてそちらに目をやりケレア焦る、という運び。
何かケレアがちょっと間抜けっぽいです。才に溺れて自分の足元が見えてない感じで。「ケレアー、うしろうしろ!」みたいな(笑)。
カリギュラがまともに自分の身を守る気になってたら、完全に理論倒れで終わってたろうなこの人。

・踊り子の衣装でパフォーマンスするカリギュラ。ごく短いシーンだけにいかにも唐突でカリギュラの道化っぷり、彼の頽廃ぶりもいよいよ末期にきていることを際立たせている。
ミニスカートとカラフルな鬘、花飾りという服装で足を上げたりする動きは背景のネオンとあいまって場末のキャバレーのショーのような、いかにも安手で俗悪な感じを醸し出している。
この衣装やパフォーマンスがほとんど原作戯曲のままだというのに驚きます。

・第六場。エリコンとケレアの会話。「あれはほんとに偉大な芸術だったのか」と聞かれて「ある意味では、そうだ」と答えるケレアにエリコンは「(ケレアは)誠実さの面ではニセモノだ。だが、強さは本物だ。」と返す。
「ある意味では」という表現は便利なもので、まさかと思うような内容の発言にももっともらしい響きを与え、また「偉大な芸術だ」と断言せずに一歩引いておくことで逃げ道を残し、全面的に迎合していない点でプライドを保つこともできる。
ある意味では、ストレートに追従する貴族たちより狡いとも言える。

・いつも飄々とふざけた態度のエリコンが初めて真っ直ぐにケレアに感情をぶつける。
自分は他の貴族たちとは違うと強く自負しているケレアですが、エリコンにとってはそんなのどうでもいい程度の差異でしかない。貴族階級、カリギュラの敵ということで所詮貴族たちと同列の存在なのですよね(他の貴族よりは多少話し甲斐があると思っているようではありますが)。
彼の余裕のなさ(ラストの「長く夫婦を~」のくだりはいつものエリコンらしいですが)とケレアの余裕とが巧みなコントラストになっている。大人の男同士の会話という感じで、思わずひきつけられる場面です。

・上記の場面でエリコンは再び玉葱を齧っている。蜷川さんいわく「玉葱を生で齧るのは下層階級のやること。エリコンは玉葱を齧ることで自分を見下す貴族たちを逆に皮肉ってみせてる」(こちら参照)なので、ケレアに正面から宣戦布告するに等しいこの場面にはふさわしいアイテム。
ことさら目の前で玉葱臭い息を吹きかけてますし。ケレア役長谷川さんは相当目にツンと来たらしいです。

・ケレアの襟をつかんで乱暴に引き寄せ、顔を至近距離に近づけて話すエリコン。
戯曲のイメージよりはるかに乱暴なエリコンの行動には、ケレアにに「良い召使い」と言われたのに対する反発、身分は低かろうとそんなことに関わりなく(実際カリギュラの恐怖政治が吹き荒れる現在、身分差など何ほどのものでもない)、カリギュラを守るため真正面からケレアに戦いを挑むという意志が感じられます。
そして「これであんたは、敵の顔を見た」と、さらに顔を近づけ、何とケレアの頬(唇の斜め下くらい)にキスをする。これは戯曲には指定のない、舞台独自の演出。
年若いシピオンがあれこれスキンシップされるのは違和感ないんですが、大人の男なこの二人の、実に大人の男らしい会話の締めくくりがこれというのがすごい。
もちろん親愛の情などではなく、直前にわざわざ玉葱を齧っていることからしても、宣戦布告―手袋を投げつける代わりのキスと言ったところでしょう(エリコンが去ったあとにケレアが険しい、ちょっとうんざりしたような表情でキスされた後を手で拭っているので、彼はエリコンの意図を正確に理解したものと思われます)。
ただ睨みつけるだけでなく、指を突きつけるとかでもなく、キスという形を取ったことで、エリコンの皮肉っぽい人柄を表し、かつこの二人の関係に存するエロティックなニュアンス(敵意とは相手に強く関わろうとする意志なわけで、それ自体エロス的)を表面化させる効果をあげています。

・第一の貴族はカリギュラのダンスを美しいと言ったことについて、ここは「嘘の臭い」がすると「悲しげに」言う。
カリギュラが、つい少し前にはエリコンが、平気で嘘を並べ立てる貴族たちへの反感を露にしていますが、この台詞を聞くと皆が嘘に不感症というわけでもないらしい。
しかしそれを受けて老貴族は「ある意味、美しかった。」とあの発言は満更嘘ではなかったと主張する。これはケレアのような心にもないレトリックではなく結構本気でそう思っているんでは。
ダンスを美しいと思ったか訊かれたときも第一の貴族は答えるのを(嘘をつくのを)しばしためらったのに、彼は「感謝にあふれ」第一の貴族の発言を肯定していた。口に出す事で自己暗示をかけてしまい、嘘が本当になってしまうタイプの人間のように思えます。ケレア言うところの「嘘といわれても、そうと知らずについている」状態なのではなかろうか。
これだと嘘をついたことへの良心の咎めもないわけで、第一の貴族やケレアの態度と比較すると、年を取っているほどによりたちの悪い嘘吐きに、より狡猾になっていってるということなのでは。

・第三の貴族の処刑を命じたカリギュラは、「そなたが充分に人生を愛していたなら、これほど不用意にそれを賭けたりはしなかったであろうに」と言う。これはカリギュラが人生を愛していればこその台詞なんではないか。
この後まもなくカリギュラはケレアたちに討たれるので、第三の貴族は運が良ければ命拾いできたかも。

・セゾニアに自分が血を吐いたの死んだのと嘘を言わせて貴族たちの反応をうかがうカリギュラ。
第四幕に入ってからのカリギュラは、(ヴィーナスと比べても)安っぽいパフォーマンスといい、この貴族たちを試す態度といい、ささやかないたずらを仕掛けて喜ぶ子供のようです。「静かにしろ。ケレアが来た。」と言って姿を隠すあたりや「ふん!失敗だ!」という台詞などは特に。
論理の追求を目指したカリギュラの気力がここ最近で急激に崩れてきている。上でケレアを「理論倒れ」と書きましたが、カリギュラのやってる事も壮大な理論倒れですからねえ。

・「カリギュラが死んだわ!」とハンカチを顔にあて大げさに泣き崩れるセゾニア。
いかにもお芝居くさい仕草や声に逆に笑いを誘われてしまいます。いきなりすぎて説得力ないしなあ。

・カリギュラが死んだと聞いた第一の貴族は呆然と「あり得ない、さっきまで踊っていたのに」。それを受けたセゾニアが「そうなのよ。それが命取りだったの」。
踊りの内容がアレなだけに何だか笑ってしまいます。

・カリギュラが出て行ったあと、セゾニアはケレアや老貴族にカリギュラの苦しみを激しい口調で語る。さっきまでカリギュラに頼まれてしょうもない芝居を演じていただけに、この態度の変化は唐突に見える。
それは先に珍しく感情的にケレアに迫ったエリコン同様、カリギュラの死が着実に目の前に迫っていること、カリギュラ自身がケレアたちを煽ってその時期を早めているように見えることへの不安と苛立ちなんじゃないからくるものかと思います。

・「魂をこれっぱかりも持っていない連中はみんなそうだけど、あんたたちは、魂のありすぎる人に我慢できない。魂がありすぎる!それが厄介なのよ。」とセゾニアはケレアや貴族たちをなじる。
ここでいう「魂」とは傷つき悩み苦しみ続ける繊細さとその苦しみの源を憎み立ち向かおうとする情熱を合わせ持つ精神を意味している。
魂のある人間はその繊細さ純粋さのゆえにもろもろの不合理に「折り合いをつけ」ることができない。「折り合いをつける」とはよく言えば賢くなったということだが、悪く言うならそれだけ精神が鈍って不純になったということでもある。
貴族たちがカリギュラを抹殺しようとはかるのは、カリギュラが物理的に彼らの命を脅かすからばかりでなく、自分たちとは別の理に生きるカリギュラが異質であるゆえ―そして世の不条理に妥協した自分たちの卑小さを突きつけてくるがゆえ―である。
それがこのセゾニアの台詞から見て取れる。

 

(つづく)

 


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『カリギュラ』(2)-7(注・ネタバレしてます)

2009-02-21 02:56:32 | カリギュラ
・ケレアが現れた直後、カリギュラは衛兵に命じて松明に火をともさせる。
この炎によって舞台装置の雰囲気が代わり、実際の炎(のように見える)が赤々と燃えていることで、観客に新たに緊張感を抱かせる効果をあげている。

・「ぶしつけなことをしたな」とカリギュラはごくすなおにケレアに詫びる。これまで何かとケレアを侮辱するような態度を取ってきたカリギュラが、ここから始まる会話においてケレアを敬意を持って遇することの前振り。

・「少し話をしたい」といいながら、カリギュラはヴィーナスの鬘を取りスカートを脱ぐ。素のままにケレアと向き合おうとする気持ちを外見から示す。

・カリギュラはこれまでになくまともな態度でケレアに向かい、「同じ魂と誇り高さを持っているふたりの男が、生きているうちに少なくとも一度、心の底から話をするのは、可能だと思うか」と言う。
立場は敵対していても人間として尊敬している相手に言われたなら胸が震えるような名台詞ですが、カリギュラの態度にはケレアへの敬意が感じられるのに(衛兵に彼を呼ばせるにあたって「手荒な真似はするな」と注意を与えたところからしてすでにそう)、ケレアのカリギュラへの対応は率直ではあっても敬意は感じ取れない。
ケレアにしてみれば自分や多くの人間が割り切ってきた部分を割り切れず、割り切ろうともせずに抵抗を続け周囲に害を及ぼしているカリギュラは「手に負えない破れかぶれの子供」(※11)であり彼ら皆に恐怖を与えている暴君なのだから、尊敬の念は起こらなくて当然か。

・二人は階段の同じ段に腰掛けて話す。対等の目の高さで、でもはっきり正面から向きあうのでもない微妙な位置関係は、精神的に近しくも緊張感をはらんでいる二人の距離に似つかわしい。

・なぜ命を危険にさらすような発言をするのかと尋ねられたケレアは、「嘘がきらいなんです」と答える。
すでに反乱の証拠を握られたと気づいて覚悟を決めているとはいえ、実に率直な物言いは、第一幕第十場でのカリギュラの発言「おれは物書きは嫌いだ。連中の嘘にはがまんできん。」「偽りの認証をたてるやつらは嫌いだ。」への返答といえます。

・ケレアたちの反乱の証拠のタブレットを燃やすカリギュラ。それに先立って彼は「自己矛盾もしてみたい」「たまには矛盾するのも気持がいい」と言い、さらに「息抜きになる。おれには休息が必要なんだ、ケレア」と続ける。
この「自己矛盾」とはもちろん、その最高の権力をもって人の命を無差別に奪ってきたカリギュラが今さら反乱の証拠などを気にする、「おまえたちを証拠なしには殺せない、そう思ってみたい」などと言い出すことを指していますが、「どこまでも論理を追ってゆけ」と自らに言い聞かせたばかりのカリギュラがここでケレアを見逃し、さらには自分を殺すよう示唆さえすることをも意味しているように思えます。ここで殺されてしまえば結局月は手に入らぬままになってしまうのだから。
結局カリギュラは自分の論理に追いたてられて他人を傷つけ自分も傷つけ続けることにすっかり倦み疲れてしまったのでしょうね。三年前にはエリコンやセゾニアが休むように眠るようにと言うのを拒否したカリギュラが自ら「休息が必要なんだ」と言い出すのですから。

・「おまえの皇帝は休息を待っている」と言われたケレアは、驚いた顔になるが、崩れるようにカリギュラの足元に跪く。まるで「拝命に従います」とでも言うように。
戯曲だと「なにか仕草をしかけ」とだけあるので、見逃してもらったことへの屈辱を強く感じたのですが、この舞台では屈辱を感じつつもカリギュラの「自殺」幇助をすることを受け入れているように思えました。

・「この殺しには尊敬できる保証人がいる」からと、カリギュラ暗殺計画に参加するようシピオンを口説くケレア。
「保証人」という言い方からすると、彼はシピオンを立会人として欲していて実際に手を下させはしないつもりなのかもしれない。年若く純粋なシピオンを大事にしているのが感じ取れます。

・「今度ばかりはきみが要るんだ!」「きみにとどまってほしい」といつになく激しい調子でシピオンに迫り、彼の両肩をつかむケレア。
誰に対しても一定の距離を置くケレアが唯一他人の身体に触れる場面で、シピオンへの思い入れの強さを感じさせる。

・「それがぼくの不幸です」とケレアに背を向け手で顔を覆うシピオン。後姿が少しよろめくのに、彼の精神的な憔悴がよく表れています。

・静かながら思いつめたようにケレアはシピオンを見つめ、「あいつのせいできみはそうなった」と言う。
この台詞、どことなくエロティックに響きます。彼は現在のシピオンの精神状態をいびつな、痛ましいものと感じている。
ケレアがシピオンを見つめる視線には労わりと(彼を変えたカリギュラに対する)怒りがある。あたかも羽根をもがれ飛べなくなった天使をでも見るような。彼の視線と「そうなった」という言葉が、シピオンが精神的に「陵辱された」ことを突きつけてくる。
しかもその天使は自分の羽根を奪った男を憎みながらも愛することを止められず、ためにケレアの元を去っていこうとしている。
ケレアはそのことに動揺し、カリギュラへの怒りと嫉妬を隠そうともせずシピオンを繋ぎとめようとする。いわば一種の三角関係。
この三角関係を捉えているのはこの第四幕第一場が唯一であり、それがこの場面に他にはない艶っぽさをもたらしています。

・「ええ、あの人から教わりました、なにもかも要求することを」。言いながらシピオンは嘲るような、挑発的な表情をする。
言葉の内容と表情が、彼の「堕ちた天使」感をより強める。

 

(つづく)

※11-岩切正一郎訳『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(早川書房、2008年)「訳者あとがき」。

 


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『カリギュラ』(2)-6(注・ネタバレしてます)

2009-02-17 02:28:35 | カリギュラ
・第三幕。第二幕の地味なセットとは打ってかわって、ネオンを中心に派手派手しく軽佻浮薄なムードを醸し出す。
やがて登場するカリギュラヴィーナスとセゾニア・エリコンの香具師めいた口上を考えると、見世物小屋のイメージなのでしょうね。

・月川悠貴さん演じる歌手がBGM代わりにスキャット?を聞かせる。
カストラートを思わせる高く線の細い歌声と男装の麗人めいた外見が、倒錯的退廃的な雰囲気を煽っています。

・樽を転がした裏方の男に、エリコンが「えーっ!?」とツッコミを入れる。声の裏返し方がなんか可愛いですエリコン。

・銀髪の鬘と裾の広がったミニスカートでヴィーナスにふんしたカリギュラが登場。「ヴィーーーナスです」というここぞとばかり間延びした挨拶が面白い。
一人シピオンが心底あきれ果てたような顔をしてるのも笑える。

・セゾニアの口上が、貴族たちに復唱させながらどんどん早口になっていく。この舞台の中でわかりやすく観客の笑いを取っていた数少ない箇所。

・皆の前でヴィーナスを演じてみせるカリギュラ。
カミュが作家として沈黙していた時期も戯曲の翻案・上演に積極的だったのは、演劇は戯曲家だけでなく俳優や演出家のものでもあるので「戯曲家は孤独ではない」ゆえでないかと言われていますが(※10)、このヴィーナスも第四幕でのマイムも作・演出・主演すべてカリギュラ自身によるもの(明言されてないがそうとしか思えない)。
演劇に「同志的連帯」「友情」「集団的冒険」を求めたカミュが演技的人間であるカリギュラをこの3点をすべて否定した人物として設定した。そのことがカリギュラの孤独をより浮き彫りにしています。

・カリギュラが後ろ姿を客席に向けると、なんと衣装の尻の部分に二つ大きな穴が開けてあり、ほとんど丸見え状態になっている。
戯曲には「グロテスクなヴィーナスの扮装」とだけありますが、確かにこのうえなく戯曲の指定に叶った衣装ではある。
こんな衣装でも変に恥ずかしがったりせず、思い切りよく、というより当たり前のように演じている小栗くんは本当に適任ですね。

・「きみは神々を信じているのか」とカリギュラに問われ、「いや」と即答するシピオン。シピオンは普通に神々を信じてそうなイメージだったのでちょっと驚いた。
カリギュラのいう通り、神を信じないといいながら「冒涜」という表現を使うのには違和感があるが、神を冒涜しようとする一連の行為によってむしろ人間性を冒涜していることを責めているのでしょう。
そしてわざわざ神に対抗しようとすることで、逆説的にカリギュラは神をそれだけの値打ちのあるもの、本来不可侵なものと認めていることになる。神を否定したいならシピオンのように、無視するというのがもっとも効果的で誰も傷つけずに済む方法なのだが、カリギュラは「謙遜という感情」を持てないゆえにそうできない。
「権力と自由の道をまた少し前進した」と言いながら、彼は冒涜を働けるだけの権力があるために、軽やかな身の処し方が出来ずにかえって自身を不自由にしているように思えます。

・「世の中の敵意のバランスをとる(唯一の)方法は」「貧しさです」とシピオンは言う。この貧しさとは単純に貧乏を指すのでなく、訳注によれば「キリスト教における「清貧」」を意味するとのこと。
後にシピオンがケレアに「あの人から教わりました、なにもかも要求することを」と語ったのがこの「貧しさ」との対比になっていると考えれば、彼の言う貧しさとは無闇と求めないこと、いわゆる「足るを知る」ことなんではないかと思います。皆が今あるものをそこそこ満足して受け入れられれば、心の平安を保つことができる。
しかしカリギュラが「じゃあ、それも試してみようか」というのにシピオンはいい顔をしない。カリギュラが皆からさまざまの物を根こそぎ取り上げたうえで、「現状に満足しろ」と言い出すのは目に見えていたからでしょう。
そういえば3年前にカリギュラが制定した法律によってシピオンの父の遺産(シピオンが貴族階級なのか詩の才によってカリギュラに取り立てられた市井の青年なのかははっきり書かれてませんが、普通に貴族たちと同席していること、第一の貴族がシピオンに「きみの御父上」と父親にも敬意を払った表現を用いていることからして、詩才のある貴族の子弟なんでしょう)は全部カリギュラのものになっているはず。単純な意味でもシピオン貧乏かも。

・自分は「人の命を尊ぶから」三つもの戦争を断り、「理性的な暴君がおこすどんな小さな戦争でも、おれの酔狂な気まぐれより千倍も高くつくことが分かるだろう」と言うカリギュラ。
確かにどんな大義名分があろうと戦争による被害(とくに人的被害)は、カリギュラの虐殺の比ではない。カリギュラが時々口にする完全に反論の余地のない論理の一つ。
そういえば実際にカリギュラが殺した人間はどれほどいるのだろうか。確実なのは作中で手にかけているメレイアと第二幕第一場で言及されているシピオンの父とレピデュスの息子くらいか。
少なくともあのときケレア邸に集まった貴族たちの中で身内を殺されたことが話題に上るのがシピオンとレピデュスだけなので、実はカリギュラの言うとおり「ごく僅か」なのかも。
人数の多寡ではなく意味なく殺されることが問題なのだ、というなら戦争だってあれこれ理由をつけてはいるが大して意味のあるものじゃない(意味のある死なんてない)というのがカリギュラの言いたいところでしょう。

・カリギュラと二人になったエリコンは、しばし周囲をうろうろしてからカリギュラに声をかける。
いつも飄々としてさっきも香具師の真似事などしてたエリコンらしからぬ暗い態度は、カリギュラに対する陰謀の証拠を押さえたため。なのに内心死を望んでるかのようなカリギュラはまともに話を聞こうとしない。
「月を探しに」と一言言って部屋を出てゆくエリコンの声と表情に形容したがい悲しさが表れている。

・保身のため仲間を密告に来た老貴族を、三段論法めいた理屈を並べてカリギュラは退ける。
「裏切り者を生かしておくなど我慢できない」カリギュラが結局老貴族を無罪放免にしているのに驚いた。カリギュラの理屈に照らせば陰謀はなくしたがって彼は裏切り者ではない=殺す理由がない、という事になるのは確かだが、そもそも神に代わって理由なく人を殺すのがカリギュラのやり方ではないのか。
そういえばメレイアの時も冤罪で殺してしまったことに動揺していた。処刑を行うにはカリギュラなりの理由づけが必要なものらしい。このカリギュラ流の筋の通し方は続くシーンでケレアを処刑しなかったことでより強く表れてきます。

・衛兵にケレアを呼ぶよう命じたあとで、一人になったカリギュラは鏡の前で不安な内心を吐露する。
先にシピオンに「多くの人があなたのまわりで死んでいきます」と言われて「ごく僅かだ」と返していたのが「死人が多すぎる、死人が多すぎる」と憑かれたようにつぶやいている。自分の暗殺計画が進んでいる、自分に向けられた人々の憎悪をはっきり感じて弱気になったものか。
初めてエリコンに月の話をした時は「もしおれが眠ったら、誰がおれに月をくれる?」と自分自身の手で月を手に入れるつもりだったのが、少し前ではエリコンに「月を持ってくるまでは~」と言い、ここでも「だれかがおまえ(注・鏡の中のカリギュラ自身のこと)に月をもってきてくれたら~」と他力本願になっていますし。

(つづく)

 

※10-内田樹「アルベール・カミュと演劇」(岩切正一郎訳『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(早川書房、2008年)の解説)。「アルベール・カミュは一九五八年のインタビューで、彼がどうして演劇にこだわるのか、その理由についてこう語っている。 『私にとって忘れがたいものがいくつか存在します。例えば、レジスタンスや〈コンパ〉に見られた同志的連帯がそうです。それはもうずいぶん昔の話になってしまいました。けれども、演劇にはその友情と、集団的な冒険がいまだに残っています。私はそれが必要です。それが、人が孤独ではなく生きることのできるもっとも心暖まる方法の一つだからです。』 」


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『カリギュラ』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2009-02-13 01:47:08 | カリギュラ
・セゾニアの問いに対して三回「ええ」とだけ答えるシピオン。これは非常に難しい場面。ほんの一言だけの台詞を、三回全部ニュアンスを違えて発声しなくてはならないし(そうしないとごく単調になってしまう)。
勝地くんは問われてから答えるまでの間のとり方で、そのニュアンスの違いを何とか工夫していたように思います。

・セゾニアに対して「それにあなたはぼくを裏切らないし」というシピオン。
何をもって「裏切」ったことになるのかはっきりしないが(状況からすればカリギュラへの殺意をセゾニアが告げ口することのように聞こえるが、彼は「誰もこわくない」と言い切っているし事実カリギュラ本人に「おまえが憎い!」と叫んだりしてるので、告げ口されても平気なはずである)、セゾニアに対するシピオンのこの自信は何だろう。
セゾニアは今や父の仇であるカリギュラの従順な愛人であり、彼にはいわば敵方の人間だ。しかもセゾニアは言動のはしばしに、シピオンの若さやカリギュラと詩情を介して理解し合えることに嫉妬を抱いているのが感じられるし。彼女が自分の肩を持つだろうと何を根拠に思えるのか。
セゾニアがシピオンを側近くに呼びつけ、彼の顎をつかんで持ち上げ目を覗き込む場面があるだけに、ともすればこの二人の関係を邪推してしまいそうです(「いらっしゃい、ここに。」「どうして」「そばに来て」なんて会話もなにやら艶っぽい)。
たぶんシピオンのこの態度は、カリギュラやエリコンにも無意識に見せている、「回りから当然のように愛されることに慣れている者の驕慢さ」ゆえかと思いますが。

・「こんどはカリギュラを思い浮かべて」と言われて再び「ええ」と答えるシピオンの目に憎しみの炎が浮かぶが、「あの人を理解しようとしてほしいの」と言われると、それが悲しげな光に転じる。ここの箇所の目のお芝居はさすがの上手さ。

・シピオンに「カリギュラがお戻りだ。食事にでも行ったらどうだ」と声をかけるエリコン。
これはカリギュラと顔をあわせるとお互いきつい思いをするだろうと思ってシピオンをこの場から遠ざけようとしたんでしょう。その口実に「食事」を持ち出すのがエリコンらしい。シピオンは一応ついさっきカリギュラと一緒に食事を取っているのだが。

・いきなり何の前置きもなく「エリコン!助けてくれ。」「助けてくれるだろう。なんでも知ってるじゃないか」と言い出すシピオン。セゾニアとの会話の内容を知らないエリコンにしてみれば何のことやらさっぱりのはず。
思うにシピオン自身も自分が何に悩んでいるのかわかっていないのでは。セゾニアの言葉にすっかり混乱してしまい、わけもわからず胸に渦巻く情念をその場に現れたエリコンにぶつけてしまったというか。
多分普段からその時々の感情を何の計算もなしに口に出しまくってるんじゃないでしょうか。そうした素直な感情の吐露をレトリックで飾ればそのまま一片の詩が完成する。だからこそシピオンは詩人と呼ばれているのでは。
こういうシピオンの態度にエリコンも慣れているので、何から助けてほしいのか尋ねるでもなく「あぶないね、小鳩ちゃん(考えなしにぱっと頭に浮かんだことを口にするのやめとけよ)」「おれには詩のことはわからん(また詩人さんの詩作本能が暴走しちゃったよ)」と答えてるように思えます。

・カリギュラが入ってくるのと入れ替わりにエリコンは退場する。
最初はカリギュラとシピオンを二人きりにしないためにシピオンを追いやろうとしていたようなのに。しかもカリギュラを恨んでいるシピオンにカリギュラ殺害を唆すような台詞まで口にした上で。
彼の態度が変化した原因は状況からしてシピオンの混乱ぶりを見たことにあるとしか思えませんが、具体的にはシピオンの何がエリコンの気を変えさせたのだろう。
もしこの三年、シピオンが父の仇となったカリギュラの腹心であるエリコンにも憎しみを見せるか距離を置くかしてたとすれば、その彼が以前のように(このシーンの様子から見てかつては親しかったのでしょう)すがってきたことに、カリギュラに対する憎しみが揺らぎつつあると感じて、「カリギュラを殺せる」ほどカリギュラに対して影響力を持つシピオンがカリギュラを救ってくれることを(セゾニア同様に)期待したのだろうか。

・なぜか急ぎ足で部屋に入ってくるカリギュラ。何も急ぐ用事はないだろうと思うのだが。
その後の台詞が間のつまった早口なのもあわせて、彼の余裕のなさ、気持ちの落ち着かなさがうかがえる。原因はやはりメレイアを死なせてしまったこと、でしょうね。

・カリギュラは登場そうそうにシピオンに向かって、「やあ!きみか」「久しぶりだな」と挨拶する。ついさっき食事の席にシピオンはいたというのに。
この時のカリギュラの態度はさっきとは打って変わって、ドリュジラ生前のカリギュラはこうだったのでは、と思われる優しさをもってシピオンに対している。普段は心の底に封じ込められている繊細で詩人肌のカリギュラがメレイアの死に関するショックで蘇ってきたかのような(ゆえに「この」カリギュラからシピオンへの挨拶が「久しぶりだな」になる)台詞は、このあとの情感ある会話の伏線となっている。

・カリギュラとシピオンの会話は最初ぎこちなく、特にシピオンの言葉には毒が含まれているだけに静かな緊迫感がつのる。
二人の会話からカリギュラが椅子を二つ用意するあたりまではゆっくりした動きだったのが、二つめの椅子を投げ出すように置いたかと思うとにわかにシピオンの目前に迫り強引に手を引いて床に放り出すように座らせる。
静から動へのダイナミックな動きの転換が観客の注意をそらさない。このあたりの緩急のつけ方は見事だと思います。

・「きみの詩を聞かせてくれ」と言われたシピオンは「持ち合わせていません」と返事する。急に言われても携行していないのは当然ですが、※5(こちら参照)の指摘を思うと、これも「字を書かない」一貫なのではと思えてきます。

・唇が触れそうなほど顔を近づけ、一語一語をいとおしむようにして詩を詠みあううちに自然に寄り添い固く抱き合う二人。
パンフレットや観劇した方の感想を読むほどに、一番見るのを楽しみにしていたシーンがここでした。二人の身長差といい、カリギュラもシピオンも柔らかなウェーブのかかった髪形で、カリギュラの髪は黒、シピオンの髪は茶というコントラストといい、実に絵になる。
抱擁のシーンはカリギュラがシピオンの服の中に手を入れるバージョン、服の外から抱きしめるバージョンがあったそうで、WOWOWでの放映分(11月21日の舞台)は前者でした。カリギュラはシピオンの頭を抱き寄せ、シピオンはカリギュラの肩口に頬を擦り付ける。ラブシーンのように濃厚に触れあっていながら、ホモくさくならない清潔感と透明感が感じられたのはこの二人ならではでしょうか。
よく男同士、というか友達同士(もともと草野球のチームメイトなので、役者仲間というより地元の友達という感覚の方が強そう)でこんな場面を照れずに演じられるなあと最初は思いましたが、逆に同性でかつ気心が知れているからこそ、遠慮なくこうも密着できるのでしょう。小栗くんもセゾニア若村さんとのラブシーンにはやはりちょっと遠慮してるように感じられましたから。
ちなみに小栗くんと勝地くんは、毎年恒例の野球チームの忘年会2007年版で、この一連のシーンを演じてみせたらしい。舞台衣装もなしにそれこそ地元の友達の前(勝地くんの場合お兄さんもチームの一員なので家族の前でもある)でこれを演じるというのはかなりな度胸がいるかも。さぞ大うけだったでしょうけど。

・「(シピオンの詩には)血が欠けている」と言われたとき、はっと顔を上げたシピオンは、カリギュラを突きのける前の数瞬間、とても傷ついた目をしている。
泣き出す直前の子供のような寄る辺なさを感じさせる表情に、思わず胸が痛くなります。

・悲痛なカリギュラの告白を聞いたシピオンは、自分の方が泣きそうな顔をしながら、ゆっくりカリギュラに近付きためらいながらもそっとその肩に手をかけ、カリギュラはその手に自分の手を乗せる。二人の和解を手の触れあいを通じて視覚的に示している。
第二幕のラスト「軽蔑だ」と言われたシピオンがはっと手を引くという演出は戯曲にはないですが、せっかく和解しかかった二人の距離がまた開いてしまったような切なさを覚えます。
例の幕間の曲の引き裂かれるようなシャウト?も、シピオンが受けた衝撃を暗示しているように思えてしまう。

 

(つづく)


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『カリギュラ』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2009-02-09 00:45:53 | カリギュラ
・カリギュラ登場。貴族たちに次々ちょっかいを出してまわる。
皆が緊張して声も立てずなされるままになっているその重い沈黙を、貴族の一人が一瞬脅えた声を上げることで破る。この一声がだんまりの続く場面にメリハリをつけつつ、さらなる緊迫感をもたらしている。

・テーブルに飛び乗って額に手を当て、遠い前方を見つめてみせるカリギュラ。おどけたようなパフォーマンスが、彼の子供っぽい演技者ぶりを示しています。

・周囲の惨状を指してセゾニアが「喧嘩?」と尋ねる声が、第一幕とは別人のようにドスが効いている。
カリギュラに付き従い悪女として生きることを決めた彼女の三年間での変化、覚悟のほどがこの声音に滲み出ている。

・倒れたテーブルを直す貴族たちを壁ぎわに立って眺めるカリギュラとセゾニア。
カリギュラの立ち姿も二人の表情も実に悪そう。悪の華と言いたい美しさを持ったカップルです。

・奴隷の一部を解放し、自分の世話は貴族たちに頼むと言い出すカリギュラ。
テーブルの準備にもたつく貴族たちを、エリコンは「叩いたり指図したりする以外の腕は持っていないんです」「元老院議員をひとりつくるには一日で足ります。けれど、労働者をひとり仕込むには、十年かかるんです」と評する。
生来の既得権によって当たり前のように人の上に立っている連中の無能さをあばく痛烈な言葉は、解放奴隷であるエリコンの台詞だけに重みがある。
先にケレアに行動を止められた第一の貴族が「今はまだ、民衆もわれわれの味方ではないだろう」と言ってましたが、日頃ふんぞり返っている貴族たちを虚仮にして平民と同じ地平にまで引きずり降ろすカリギュラのやり方に、一般民衆はむしろ快哉を叫んでいるのかも。
売春宿に通うと勲章がもらえる=勲章という権威あるものを侮辱する新法律もウケが良さそうだし、奴隷を解放するというのもポイント高い(解放される=「路頭に迷う」な可能性もありますが)。
ただそれもこのあと食糧庫を封鎖して人工的に飢饉を作り出したりした時点で、決定的に民衆の支持を失ったものと思われる。ケレアは「悪意に行くところまで行かせ、論理が錯乱するのを待とう」としばしカリギュラを泳がせる作戦を打ち出しますが、さっそくに自分から(全てわかったうえで)首を締めるような真似をはじめています。

・「怠け者の罰は」と言いながら、カリギュラはケレアの肩に肘をつく。プライドの高いケレアに対するあからさまな挑発ですが、ケレアは顔をそむけて無視。
カリギュラの行動は相手を辱めているというより構ってほしがっている子供のようでもあります。

・「実を言うと、もともと腕がありません」とやや引っくり返り気味の声で語るエリコン。
第一幕でも貴族たちの前では多分に露悪的(つまり演技的)だったエリコンですが、第二幕以降の台詞は一段と芝居がかっている。
セゾニアともどもカリギュラの行動―神々と人民とに対するパフォーマンス―にとことんまで付き合おうと決めたがゆえでしょう。

・黙々と食事を取る一同。ただ食器のかちゃかちゃいう音だけが響いているのと、静かだけど緊迫感のあるBGMがかえって沈黙の重さを強めています。
カリギュラの席がシピオンのちょうど向かいなのは、シピオンへの親しみゆえでしょうかね。

・ことさら行儀悪い食べ方をするカリギュラ。しかし歩きながら口に詰め込んだパンをポロポロこぼしたりしているのに、不思議と汚い下品な印象にならないのは皇帝であるカリギュラの育ちの良さのせいでしょう。
その育ちの良さをごく自然に出せる小栗くんも大したもの。あと自由自在にげっぷを出してみせるのにもびっくりしました。

・カリギュラは自分が息子を殺したレピデュスを相手に、童話めいた口調で「昔々、誰にも愛してもらえない可哀想な皇帝がおりました。」と語りだす。
目を閉じてうっとりしたような口調で、かと思えば最後「殺しましたー!」のくだりではフォークとナイフでけたたましく皿を突き刺す。このあたりの行動は今でいうサイコパスめいています。
この時の皿がシピオンのもののように見えるんですが、この物語が暗に(自分が父親を殺した)シピオンを意識して語っていることを暗示しているのかも。

・カリギュラに笑うよう命じられていっせいに大笑いする一同。シピオンとケレアの目が笑ってなくて怖い。
この時点ではシピオンもまだ唯々諾々とカリギュラに従ってますね。

・「やむにやまれぬ自然の欲望~」と話しながら股間に手をやるカリギュラ。さらにミュシュスの妻の首すじを舐めあげる。
嫌らしさ全開の行動ですが、それだけ色悪的魅力を強烈に放っています。

・ミュシュスの妻を隣室へ連れ込むカリギュラ。思わず立ち上がろうとするミュシュスにセゾニアが「愛想良く」お酌を頼んで彼を引き止める。
ミュシュスは妻を寝取られようとしているわけですが、思えばセゾニアも彼と同じ立場である。
同じ立場の者としてミュシュスの身を案じて止めたのか、カリギュラの行動がどんな残酷なものであれ付いていくと決めた自分を鼓舞するために、あえてカリギュラの不倫を援護したのか。

・セゾニアの質問をケレアは「われわれはね、詩歌というものは殺人的であるべきか否か、それを議論していたんです。」と「冷たく」はぐらかす。
この台詞はカリギュラの暴虐-不可能への挑戦が彼の詩的ロマンティシズムに基づいていることを皮肉るもの(それはカリギュラの「大論文」に関して「詩歌の殺人的な力をあつかったもの」と推測を述べる場面にも表れている)。
同時にカリギュラがシピオンに言う「(君の詩には)血が欠けている」という言葉、詩歌には血の匂いが感じられるべきという主張をあらかじめ否定するものでもある。
「女のわたしにはさっぱりわからないわ」と返すセゾニアは、具体的な意味までは捉えてないとしても、それが皮肉であることは抜け目なく勘付いていることでしょう。

・カリギュラが現在執筆中の大論文のタイトルは「剣」だという。訳注によればこの「剣」という名前は、史実のカリギュラ帝が亡くなった後に発見された帳面(殺される予定の人々のリスト)の一つに冠せられた表題だと言う。
しかしおそらく戯曲中のカリギュラは本当に論文を執筆しているわけではない。その生きざま、彼の神への反抗それ自体を「論文」と暗喩したのではないか。
セゾニアが一言「剣」と言った瞬間にガタンと大きな効果音が鳴るのも、この「剣」が戯曲全体に持つ大きな影響力を指しているのでは。

・食糧保管庫の閉鎖を指示するカリギュラは「自分は自由だと証明する手段をわたしはそれほど持っていない」と言う。
指示の内容はまぎれもなく無惨で、それを「強くきっぱりと」宣言しているのにもかかわらず、結局神に戦いを挑むにあたってこのような手段しか取ることのできない自分の無力さを彼が嘆いているように響く台詞です。

・「さあ、諸君、さがってよい。ケレアはもうきみたちに用はない。」と貴族たちに命ずるカリギュラ。
ケレアの気持ちを勝手に代弁してるのも可笑しいが、家主であるケレアの方に「どこかへ行ってくれ」とか言ってた貴族たちよりは一応正しいような気がしてこれまた笑える。

・公営売春宿の運営について、売春宿に通うと勲章が授与され、一年後に勲章をもらっていない市民は国外追放または死刑にするあらたな財政プランがセゾニアから発表される。そうするとケレアやシピオンもせっせと通うことになるのかなあ・・・。

・メレイアが激しく咳き込み、薬の瓶を口にあてがう。この咳き込む様子と瓶の見せ方が上手い。

・カリギュラは食器を蹴倒しながらテーブルの上を歩いてメレイアの元へゆく。この食器の薙ぎ倒し方に見事にためらいがなくて、いかにも金を湯水のごとくに使える身分らしい一種の傲慢さを示している。
このときメレイアを言葉で追いつめる一方で頭を撫でたりさらには抱きしめたりと友好的スキンシップを連発しているのが、そのギャップゆえにかえって恐ろしい。

・カリギュラは、メレイアが絶命してからセゾニアに薬が解毒剤かを確かめ、喘息の薬だと言われて動揺する。次の台詞を口にするまでのいささか長い間の取り方に、彼の動揺の深さが表れています。
自分でも言う通り死ぬのが「少し早いか、少し遅いか」だけの話なのに今さら動揺するのは、そして手遅れになってから本当は何の薬だったのかを確認しようとするのは(セゾニアは見ただけで何の薬かわかるほど薬物に詳しいんだろうか?)、自らの手にかけて惨い死に様をもろに目の当たりにしたゆえか。あるいは冤罪で死なせた(つまりカリギュラの失態ということになる)がゆえか。
そして今さら薬の種類を確かめようとする態度にカリギュラの動揺を察していただろうセゾニアは、ごくあっさりと「喘息の薬」だと断言する。
あれが喘息の薬なら、メレイアには何の罪もなかったことになり、さらにメレイアを責め立てたカリギュラの論理は所詮穴だらけのものに過ぎなかったことになる。事実はどうあろうと解毒剤だと言うか誤魔化すかした方がカリギュラを傷つけなかったのでは?
この時セゾニアはどうも意地悪な気分になっていたように思う。すぐ後に「無様もいいとこ!」と吐き捨てた調子からしても。原因は・・・カリギュラがミュシュスの妻を抱いたため。平静を装っていてもセゾニアは内心嫉妬に苛まれていて、それがこの場面で噴き出したんではないだろうか。

(つづく)


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