ネットや雑誌でこの舞台の評を読むと、小栗くんの演技について辛口のものが少なくなかった(主役が舞台の一切を牽引していく物語だけに良くも悪くも彼に評が集中しがちだった)。
とくに台詞が聞き取りづらいという苦言はあちこちで見かけた覚えがあります。
長台詞を、それも激昂してまくしたてる場面が多いうえに日常生活でまず用いない単語・文法が多々出てくるのである程度仕方ない部分はあるんですが。
(勝地くんも多少台詞が聞き取りにくい場面がたびたびありました。このへんはやはり舞台出身の長谷川・横田・若村さんと歴然と差がついてましたね)
言葉を戦わせる場面の多い芝居なので、言葉の内容が分かりにくいのは難ありとすべきでしょうが、トータルで見れば、小栗くんのカリギュラが「未熟」という印象を与えるのは未熟さがカリギュラの抜きがたい特性である以上むしろ正しいのではないか、小栗くんは一個の悩める若者としてカリギュラを演じていた(それが蜷川さんの演出意図でもある)との評が一番正鵠を射ているように思います(※8)。
蜷川さんはパンフレットのインタビューで、小栗くんには「(かつて彼が演じることが)できなかったハムレットの幻影を背負ってほしい」と話してましたが、確かに「世の中の外れた関節を直すために生まれついた」(※9)と叫ぶハムレットと神々に対抗することで世界を変革しようとするカリギュラは、そのヒロイズムとロマンティストぶり、行動の帰結として壮絶な死を遂げるところまでよく似ている。
ハムレットは苦悩する若者像の代表のように言われていますが、その形容をカリギュラもまぎれもなく背負っている。小栗くんのカリギュラは戯曲のカリギュラの苦悩をより鮮やかに体現して見せていたように思います。
というより、荒々しさ、露悪的な言動とそのくせ下品にならないところ、子供っぽい笑顔と愛嬌、過剰気味のスキンシップ(ト書きの指定よりずっと多い)――インタビューやラジオの語りから私がイメージしている小栗旬という人がそのままカリギュラとして舞台の上にいたような。
役になりきれてないという意味ではなく、もともと肉体的精神的にカリギュラ的特性を備えている彼が「この1年、絶望を乗り越えた瞬間とカリギュラを重ね合わせ」(※10)た結果、役を自分に引き寄せ完全にシンクロしてしまったような感じです。
たとえばカリギュラの台詞で「(絶望は)魂の病だとばかり思っていた。でもそうじゃない。苦しむのは肉体だ。(中略)いちばん恐ろしいのは、口の中のこの味だ。血でも、死でも、熱でもない。その全てだ」というのがありますが、小栗くんも公演中ずっとこの「口の中の嫌な味」を感じていたそう(※11)。
彼は自身の体でもって、カリギュラの苦悩を我が物として感じ取ってさえいた。だから戯曲にあるのと違うことを(演出として)していても特に違和感を感じず「これがカリギュラという人なんだ」と自然と納得できてしまった。カリギュラを「演じている」のではなく彼がカリギュラなのだから。
ただ「非常に頭を使う舞台」(※12)とも語っているので、天然そのままのように見えて実は結構細かく計算された演技だったらしい。
確かに彼は驚くほど戯曲をよく咀嚼してカリギュラの言動の理由を丁寧に分析している。
それは初登場時のカリギュラがなにをつぶやいているのか訳者(岩切正一郎氏)に尋ねてきたというエピソード(※13)、「クライマックス「前方へ跳ねるふりをする」というト書きがありますが、カリギュラは自分の限界を越えたんだと思います。」(※14)とのコメントにも現れています。
そういえばカリギュラが初登場のシーンで、無表情に近い、わずかに戸惑いを宿した表情で頭を掻いたり口元に手をやったりする仕草は何だか自分の体の感触を確かめているみたいに見えますが、ひょっとすると小栗くんはカリギュラを一種の二重人格者として演じているのかとも思えます。
ドリュジラを失い絶望のうちに3日間さ迷い歩く内に真理にたどり着いたカリギュラを、新たに生まれた別人格として捉えているのかも。
もちろん記憶も連続しているし明確に人格が切り替わったというわけではないのですが、カリギュラが過去の自分と決別するために別人格を自分の中に作り出した―別人格然と振る舞うことを選んだ―という解釈のもとで演じているんじゃないでしょうか。
だから新たに生まれたばかりのもう一人のカリギュラはまだ自分の体に馴染んでないような身振りをするし、スプレーをかけた鏡を指差す場面で指が瘧のように震えるのは、今まさに完全に捨て去ろうとしているかつてのカリギュラと現在のカリギュラ二つの人格がせめぎあっているがゆえ。
メレイアを殺して間もなくシピオンに(メレイア殺害直前に会っているにもかかわらず)「久しぶりだな」と挨拶するのも昔のカリギュラの人格が表に出てきたからと解することができるので、戯曲を読んだとき以上に台詞の意味がスムーズに納得できる。
カリギュラとしての「特権的」肉体と精神、役を分析し膨らすことのできる想像力―小栗くんだからこそこれだけ魅力的なカリギュラが演じられたのだと思います。
※8-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年)。「(1987年パリ郊外で上演された『カリギュラ』の喜劇的演出と比較して)小栗=カリギュラは狂ってなどいない。ハムレット同様、周りの反応を試すため、あるいは現実から逃れるために、狂気を演じているだけであり、仮面の下にあるのは、自分に自信のない憂鬱な若者の姿なのである。セルジュ・ポンスレのカリギュラが、狂気の中に入り込み、自らに酔い、狂気を楽しむ人物であるのに対し、小栗のカリギュラは、自らの行動を醒めた眼でみつめ、狂気と正気のはざまで葛藤し苦悩する人物であったと言えよう。」
※9-シェイクスピア『ハムレット』(野島秀勝訳、岩波書店、2002年)。「世の中の関節は外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生れついたとは!」
※10-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。
※11-『小栗旬のオールナイトニッポン』2007年12月12日放送分。「『カリギュラ』昨日終わって帰ってきたの俺大阪から。台詞である言葉ですけど、ほんっと口の中にあの嫌な血の味がしなくなったね。食べるものが何でも美味しいと今日から・・・昨日の夜から感じるようになりましたほんとに。」
※12-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。
※13-岩切前掲書「訳者あとがき」。「カリギュラが最初に登場するとき、ト書きには「不明瞭なことばをつぶやき」と書いてある。小栗さんに、「何をつぶやいているんでしょうか」とぼくはきかれた。正直な話、そこでなにをつぶやくかまで、ぼくは考えていなかった。思案するうちに、この問いはじつに重要なポイントを突いていると思えてきた。」
※14-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。ちなみに内田樹「鏡像破壊―『カリギュラ』のラカン的読解」(『神戸女学院大学論集』第39巻第2号、神戸女学院大学研究所、1992年)は、カリギュラがこの前方に跳ぶシーンについて「退行のプロセスを駆け下るカリギュラは、分身の対称的動作のうちに「私」の「私」への繋縛性のあかしを見て、憎悪の感情を覚える。彼は「前に一歩跳ぶふりをして」鏡像を出し抜こうとする。けれども、鏡像を出し抜くことは「私」にはできない。なぜなら、鏡像の方が「私」の起源であり、鏡像の呪縛から逃れるためには、「私」であることを止める他ないからだ。カリギュラに残された選択はもう一つしかない。鏡像を破壊し、「私」の機能を解体し、鏡像段階以前の原身体への退行を完了することである。」と分析する。「前に一歩跳ぶ」→「鏡を破壊する」ことでカリギュラは原身体への退行を完了、つまりは人であることを止めた=人間の限界を超えた。小栗くんの感性の鋭さに驚きます。これは炯眼だ。